(4)
「なんだ。ぜんぜん減ってないじゃん」
小柄な青年――そう、和人だ――はあらわれたかと思うと、勝手に冷蔵庫のドアを開けて、不服そうな顔をした。
「ちゃんと食べなきゃ、元気になんないよ」
「ああ」
軽く顎を引いて頷いて見せると、和人も幼さの残る顔を引き締めて、もっともらしく頷き返す。
「いろいろ買ってあるんだからね。ゼリーとか、プリンとか、アイスとか。水もお茶も入ってるし、今日はバナナとリンゴも持ってきた」
「うん」
はじめは唇を湿らせてもらう程度だったのが、吸い口で水を与えられるようになり、流動食へと変わってきた。しかし、飲み込むことはなんとかできても、カラダが受け付けずに戻してしまうことも少なくない。そのせいもあって元々なかった食欲はさらに減り、出される食事の大半を残してしまうのを知った和人は、せっせと差し入れの品を運んでくるようになった。
「ワガママはよくないけどさ、病院のご飯って見るからに不味そうだもんね。体調が悪いときにあんなの食べられないってのは、よくわかるよ」
そんな軽口を、和人の姿を見かけて顔を覗かせた女医に聞き咎められた。
「お言葉ですけど、ウチの食事はおいしいって評判なのよ?」
腰に手を当て、わざとらしく和人を睨む。
「それはさ、病院にしてはってことでしょ? 言っとくけど、ウチの澤田くんは、料理の腕も一流なんだよ? 常日頃ウマいもん食べ慣れてるんだから、これで妥協しろって言う方がムリだよ」
「イケメンの上に料理上手って! どんだけハイ・スペックなんですか!」
「ちょっと、澤田くん口説くのはいいけど、その前に外科医の旦那と別れてきてよね。二股禁止!」
「それはもちろん。前向きに善処します」
「前向きなんだ」
和人は愛嬌のある眸をくるんとまわし、肩を竦めておどけてみせる。風邪が治り、二週間ぶりにやって来るようになった和人はパワー・アップして、これまで以上によく喋り、よく笑う。
「それじゃ、さっそく協議に行ってきます!」
白衣の女医も調子を合わせて、二人にひらひらと手を振ると、笑顔で病室をあとにした。
和人は「やれやれ」とでもいうような表情をこちらに向けて、相変わらず会話に加わるでもなくやり取りを眺めているだけの男に歩み寄る。
「ベッド起こすよ。いい?」
「ああ。少しだけ、な」
「わかってる」
真剣な顔付きになって頷いた和人がリモコンのボタンに軽く触れると、かすかな機械音とともに静かにベッドの頭部が上がっていく。傍らに立ってそれを見守る目にはまだたいして動いたようにも見えないうちに、男は「ストップ」と囁いた。
「苦しい?」
「いや。これくらいなら、大丈夫」
安心させるつもりなのか、男が唇の端にうっすらと浮かべた笑みがあまりに弱々しくて、和人はキュッと眉根を寄せる。
「ほら、ヨーグルト! イロイロ試してみたけど、コレが一番ウマかったんだ。澤田くん、甘いのダメだろ? 砂糖ぬきでなおかつウマいのって、あんまりないんだよ」
今日もまた、朝昼どちらも出されたうちの半分も食べられなかったことは確認済み。看護師の許可だってちゃんと取り付け、準備は万端ととのえた。
和人が持参のエコバッグから買ってきた品物を取り出して、引き出しからスプーンとタオルも用意して、カップ入りヨーグルトを押しつけようと、シーツの上に力なく置かれた右手に目を向けると、軽く握られた手のうちに、何かがある。
「これって……」
ヨーグルトをサイドテーブルに一度置き、男の指を開かせると、中から胡桃が二つ、あらわれた。
「澤田くんの部屋に、あったヤツ?」
と言ってから、慌てて付け加える。
「ごめん、勝手に入った。あのほら、タオルとか着替えとか探さなくちゃいけなかったからさ。でも、余計なものは触ったりしてないからね? ちゃんとそのままにしてあるから」
2LDKの事務所の一室が、澤田の私室だ。鍵はかかっていなくても、そこには無断で立ち入らないのが彼らのルール。本人がいるときだって、プライバシーを尊重し、やたらと踏み込まないようにしていたのだ。留守中の今もそれを破るつもりはもちろんないが、身の回りのものを持ち出したり、主が不在だからこそ代わりに掃除機をかけたりして、それぞれ「ごめんなさい」だの「お邪魔します」だの、答える人がいないのは百も承知で声をかけつつ出入りしている。
そうした折りに、見かけたのだ。殺風景な室内の数少ないインテリア、ソファ・ベッドの脇に置かれた丸テーブルに、胡桃が二つ、乗っているのを。
「誰か、持ってきたの?」
「いや……」
何気なく尋ねてから、口ごもる男の様子にピンときた。
これは、澤田の自室にあったのとは別のものなのだ。だとしたら、これを彼に渡したのは。
「お母さん?」
すっと眼差しを伏せたさまは、頷いたようでもあった。
「そっか。よかった、このところあんまり来てないみたいだったから、気になってたんだ。もしかして、俺たちがうるさくするせいで来にくくなっちゃったのかなぁってさ」
「……いや」
「母」が見舞いに来なくなったのは、「息子」の友人たちではなく、「息子」本人のせいだ。「母」とどう向き合ったらいいのかわからず、気詰まりなのが伝わるのだろう。「息子」の態度にかかわらず、「母」は明るく朗らかにしていてくれるが、それが余計に心苦しく、どうしても気が沈んでしまう。最低限の礼儀は守っていたつもりだが、愛想笑いのひとつもできず、相槌を打つことすらろくにできない。そうしてとうとう、「母」は疲れた顔をして言ったのだ。
「お父さんに、しばらくそっとしておいてやりなさいって、言われちゃった」
そうやってせっつくように顔を出していたら、智行の負担になるだけだ。医者もなるべくストレスをかけないようにと言ってただろう。まだまだ本調子にはほど遠いんだから、焦らずのんびり休ませた方がいい。
「仕事仕事で、子供のことなんて私に任せっきりだったくせに、急にそんなお説教するのよ」
いやよねぇ、と淋しそうに笑ってから、ギブスの先っぽから覗く右の掌に、胡桃を二つ、乗せられた。
「懐かしいでしょ? そろそろ、じっとしていられなくなる頃だと思って。はじめは、プロ野球選手になるんだって言って、鍛えてたのよね。中学にあがって野球をやめてからも、ずっと制服のポケットに入れていて。リハビリに使えるんじゃないかと思って、持ってきたの」
「母」の声を聞きながら、指を折り曲げ、胡桃を軽く握ってみた。かろうじて落とさずにいられる程度にしか力は入らないが、それでも、その感触は悪くなかった。
「ありがとうございます」
目を合わせることはできなかったが、自然とそう口にしていた。「母」は黙って頷いて、右手を包み込むようにそっと握った。
それ以来、できるかぎりこうして胡桃を手にしている。それで記憶が甦るということもなく、罪滅ぼしになるわけでもないのだが。
「ふーん」
和人は胡桃と男の顔とを交互に見やり、思案するように首を傾げた。そうして男の手から胡桃を取り上げると、ごく自然にギュッと握る。
「こうやって、握力を鍛えるの?」
「ああ」
和人の手のうちで、二つの胡桃がこり、こりっと音を立てる。
「こんなんでほんとに筋トレになるのかなぁ」
和人には物足りないほどのその動きが、今の自分にはできないのだ。指に力を入れて握り締める。たったそれだけのことなのに。
男が浮かべた自嘲の笑みを見咎めて、和人はきゅっと眉を寄せた。
誰に対しても「嘲る」なんてしない人なんだから、自分にだってしないで欲しい。そんな澤田くんは見たくない。そんなの澤田くんに失礼だ。ああでも澤田くんは誰よりも自分に厳しい人だから、もしかしたらすっごく「らしい」のかもしれないけど、それでもイヤだ。今の澤田くんを、澤田くん自身にだって責められたくない。
和人は胡桃をテーブルに置くと、決然とヨーグルトを差し出した。
「はい!」
やっぱり、早く元気になってもらわなきゃ。栄養を取って、体力を付けて、少しずつでも確実に、ぐんぐんよくなってもらうんだ。
男は押しつけられたヨーグルトのカップに視線を落としたまま、困ったように「ごめん」と言った。
「ちょっと、今はムリみたいだ。後でもらう」
「ダメダメ、そんなことばっか言ってるから冷蔵庫がいっぱいなんだよ! ちょっとくらいムリしてでも食べなくちゃ!」
「わかってるけど、胃が受けつけないんだ。ごめんな?」
本当に申し訳なさそうな顔をしてそんなことを言われると、それ以上は無理強いできなくなる。もともと痩せぎすで、食の細い人だった。大量のチャーハンやらパスタやらはいつでもほかの誰かのためのもので、作った本人は味見程度にしか口にしない。それがあれだけの怪我をして、ようやくここまで快復したのだ。焦っちゃいけない。無茶しちゃいけない。和人は自分に言い聞かせ、再び買い物袋をのぞき込んだ。
「それじゃあ、スポーツドリンクは? これならいいでしょ?」
「うん」
男がホッとしたように頷いたので、ペットボトルの蓋を開けてストローをさした。うまく力が入らないらしい手からヨーグルトを取り戻し、ペットボトルをしっかり持たせる。腕をわずかに持ち上げて、肘を曲げるのにも手を貸した。とにかく苦情を言ってくれない人なので、痛みや違和感がないか、表情から推察しなければならない。つい先日も、ギブスの端がアキレス腱に当たって擦れ、傷となって血が滲んでいるのを看護師に指摘されるまで黙っていたのが発覚した。これは痛いですよねぇ、と慌てて医師を呼び、処置をはじめる看護師たちの傍らで、和人はキレた。
「なんで言わないんだよ! なんのために俺が来てると思ってんの? これじゃあバカみたいじゃん!」
病人にキレるなんて間違ってるし、恥ずかしい。でも、どうしても言わずにはいられなかった。
「我慢強いのにも限度があるんだよ。こんなんだと、痛覚が麻痺してるとかの問題があったとしても、誰にもわからないじゃないか!」
癇癪を起こしたついでに涙まじりになってしまったのは不覚だったが、理学療法士、作業療法士、言語聴覚士からなるリハビリチームの面々が揃ってうんうん頷いていたので、言ってることは間違ってなかったはずだ。痛いときには痛いと言う。そんなの当たり前のことだろう。
和人の剣幕に押されてか、男は以後気をつけると約束したが、そう簡単にもって生まれた気性が変わるわけもなく、相変わらずちっとも弱音を吐いてくれない。おかげでこちらの気苦労は増えるばかりだ。
男が危なっかしい様子でそれでもなんとかストローを咥えるのを見守ると、和人は傍らのパイプ椅子に腰をおろした。
「うまいな、これ」
気を使っているのだろうか、たいして飲んでもいないくせしてそんなことを言う。そうして、事実ほんとにウマそうな飲み方をした。
「なんか、ビールでも飲んでるみたいだね」
和人が笑って言うと、男の頬にも、うっすら笑みらしきものが刻まれた。
「いつか、奢ってくれるんだったな?」
「……うん!」
自分が言ったことを、ちゃんと覚えてくれてたんだ。ただそれだけのことが嬉しくて、和人は身を乗り出すようにして話し出す。
「退院したら、お祝いに庭でバーベキューやろうよ! 広瀬くんに任せておけば、完璧に準備してくれるから安心して。津村くんは酔っぱらうといつも以上に賑やかでさ、ギター持ち出してきて騒ぐんだ。俺たちみんな、ムリヤリ歌わされて大迷惑。将はいっつもうまく逃げるんだけど、馨は最後まで相手させられた挙げ句にしつこく絡まれて、ぜんぜん酔えないってボヤくんだ」
和人が話すのを、男は静かに聞いていた。
そう。それもまた、いつもどおりの光景だった。この人は、いつでも大騒ぎする自分たちを半歩外から眺めていて、そっと静かに笑っている。ビールを片手に、網の上の焼き加減に気を配りつつ、ときには広瀬と言葉を交わして。少し外から、はしゃいでいる自分たちを見守っている。
この人はなんにも変わっていないのに、自分はお前の知っている男ではないと言う。なんなんだろう、これは。どうしてこんなことになっているのか。
和人は病室の入口を潜るたび、カーテンの隙間から覗くたび、「今日こそは」と思うのだ。
どこがどう違うというわけでもないのに、見た瞬間に、きっとわかる。
ああ、ぜんぶ思い出してくれたんだ。
ちゃんと伝わったことが向こうにもわかって、照れくさそうに視線をはずす。
なんで? どうして? と尋ねても、男は何も言わずに首を振る。
理由も、キッカケも、特にはない。ただ、わかった。みんな思い出した。それでいいじゃないか。
もちろんだ。もちろんだよ。よかった、ほんとよかった、よかったなぁ。
和人があんまり盛大に喜ぶから、男は困ったような笑みを浮かべ、顔を背ける。だけど、すっごく嬉しそうだ。静かに、深く、もとの自分に戻れたことを喜んでいる。
今日がそういう日なんだって、今日こそはそういう日になるんだって、和人は毎日毎日祈るようにして通っている。少しでも早く取り戻さねばとせき立つ思いと、焦るな落ち着けと制する気持ちと、二つの間を行きつ戻りつ、ジタバタしながら。
そうしてもがいているうちに、一日が終わる。また、今日という一日が過ぎ去ってしまう。
「どうした?」
ゆったりとした低い声が、静かに問う。
いつでもそうしていたように。これまでと少しも変わらずに。
でも、それとこれとは同じではない。こんなにも似通っているのに、本当にはぜんぜんまったく違うのだ。
「なんでもない」
窓の外には真っ白い雲がぷかりとのどかに浮かんでいて、それに見惚れている振りをして誤魔化すと、男もゆっくり、慎重に、窓の方に顔を向けた。
急に動くと、ひどい目眩に襲われるのだという。横たわっているのに目がまわって、ぐるぐる回転しているような錯覚にとらわれて、ほとんど空っぽの胃の中味が逆流する。それを何度となく経験して、ようやく学んだ。ゆっくり動け。慎重に、様子をみながら。ほんの少し、顔を横に傾けるというだけのことなのに、細心の注意が必要だ。
そうして男が向こうをむくと、げっそりと削げた顎のラインと首筋が剥き出しになる。もともと痩せてる人だけど、今はもう、骨に皮が張り付いてるみたいだ。
やっぱり、ちゃんと食べさせなきゃ。
少しでも早く。でも、慎重に。
梢の先で震える若葉が、気づけば日毎に色濃くなるように。
目には見えないくらいのスピードで、着実に成果を出せばいい。
二つを同時に叶えることは、不可能ではない。
取り戻すって、決めたんだから。必ずそうしてみせるって、誓ったんだから。
細く開いた窓から吹き込む風が、和人を励ますように、ふわりと優しく通り過ぎた。




