(3)
病院を出たところで携帯電話の電源を入れ直すと、やけに多くのメールが届いていた。案の定、和人、和人、和人、和人と、同じ名前が並んでいる。
「もしもし?」
ちまちま返事を打つより早いだろうと電話をかけると、呼び出し音が鳴ったと思うまもなく繋がった。
『広瀬くん? なんかあったの?』
明らかな風邪ひき声の合間にぐすぐすとすすり上げながら、和人が言う。
「なんにもないよ。メールしてきたの、そっちだろ。具合どう? なんか欲しいものでもある?」
『ないよ、そんなの。てゆーか広瀬くん、いまどこ』
「病院の外。見舞いの帰りだよ」
『澤田くんの様子、どうだった?』
広瀬からの連絡を待ちかまえていたに違いなく、和人はかぶせるように問うてくる。
いつまでも二十歳そこそこにしか見えないが、和人だってもう二四なのだし、本人もイヤがるから口にはしないが、このわかりやすさがかわいいんだよなぁと口元が弛む。すなおで、情が深くて、誰にでも惜しみなく善意を注ぐ。和人の美点だ。
「どうってこともないよ。しばらくいたけど、機嫌が悪くなってきたから出てきたんだ」
敢えて素っ気なく、からかい半分で言ったところ、思った以上に深刻な声が帰ってきた。
『ねえ、それはさ、機嫌じゃなくて具合が悪くなったんじゃない? やっぱり俺、澤田くんに風邪うつしちゃったんじゃ……』
「違う違う。ごめん、疲れさせるといけないと思って、早めに帰っただけだよ」
急いで言い添えるも、和人は疑わしそうに問いを重ねる。
『本当に? 熱とか出してなかった?』
「ぜんぜん。変わりないって」
『それって、澤田くんが言ってただけじゃなくって? ダメだよあの人、ナニがあっても「大丈夫」しか言わないんだから』
「ちゃんと看護師に確認した。容態は安定しているのでご心配なく、だってさ」
『よかったぁ』
よっぽど気にしていたのだろう、安堵の溜息が電話越しに聞こえてくる。
ほんと、わかりやすい。まあ、それは和人にかぎったことではないのだけれど。わかりやすい人間の集まりのようなものだ、自分たちは。
そんな気持ちが、するりと言葉を押し出した。
「和人こそどうなんだよ。熱は下がった? こっちは気にせず、ゆっくり休めって言ってたよ」
『澤田くんが?』
うん、と頷くと、電話の向こうで和人が黙した。すんすんと鼻を啜る気配だけが伝わってくる。
やっぱり、言わない方がよかっただろうか。広瀬が長すぎる沈黙に再び口を開きかけたところで、和人が言った。
『バカだな』
怒ったような、拗ねたような、甘えたような、すべてが詰まったぶっきらぼうさが、いかにも和人らしい。
『他人のこと言ってる場合かってーの。ほんと、相変わらずなんだから』
誰がなんと言おうと、澤田はぜんぜん変わっていない。頑なに「わからない」と言い張るあの男は、彼らの知る澤田が言うであろうことを言い、考えそうなことを思考をしている。澤田本人なのだから、当然だ。
たったそれだけのことなのに。こんなにも簡単なことなのに、それがどうしてこんなにも難しくなってしまうのだろう。
広瀬は再び「うん」と頷いてから、すっとモードを切り替えた。
「それじゃ、これから仕事だから。何か困ったことがあったら連絡して」
ひとり暮らしの病人ほど哀れなものはない。和人は事務所とそれほど離れていないアパートに住んでいるから、仕事帰りに立ち寄るのはたいした手間ではないし、いざとなれば事務所にいる誰かに頼んでもいい。
『ああ、うん。ありがと』
すん、と鼻を啜りながら応える和人に、「じゃあね」と電話を切ろうと耳から離しかけたところに、「広瀬くん」と呼びかけられた。
「なに?」
もう一度電話を耳に当てて促すと、「うん」とか「すん」とか、本当にそんな音だか声だかが聞こえてくる。
『あの、ごめんね、広瀬くん』
「え?」
言葉というよりは、声の響きに虚を突かれた。
『いや、その。ほら、あれだよ。それじゃなくても人手が足りないときに、休んじゃって』
本当に言いたかったのは、もっと別のことなのだろう。慌てて言い繕う様子にそれが滲んでいたが、広瀬は気づかなかったことにした。
「そうだな。戻ってきたら、しばらくは和人中心のシフトを組ませてもらうから、覚悟しといて。楽しみに待ってるよ」
『う゛ーん』
そんなうなり声のような返事が聞こえて、通話が切れた。
『あの、ごめんね、広瀬くん』
和人は何を謝ろうとしたのだろう。
風邪で仕事を休んでいることなどではないはずだ。それはもう了承済みの事項だし、特に気に病むようなことでもない。
それなら、やはり、自分を使い立てしたことか。
しかし、ただそれだけのことならば、今日にかぎったことではない。ついでに買い物を頼まれたり伝言を任されたり、そんなのは日常茶飯事、お互い様だ。年齢差はあるものの、自営業というか、自由業というか、気ままにやっている気楽さもあって、上下関係は至って緩い。なにしろ「君付け」で呼ばれているくらいなのだ。
だとしたら、考えられる理由はただひとつ。広瀬を澤田のもとに向かわせた、そのことについて謝ったのだろう。
「まいったな」
駅への道を歩きながら、ひとり呟く。
気づかれていない、つもりだった。いや、薄々感づかれていることは察していたが、見て見ぬ振りで通せるものだと過信していた。
どうしても、澤田のもとに足が向かない。
好きで事故に遭ったわけではないのはわかっている。澤田は被害者なのだし、責められる謂われはまったくなく、責めるつもりも毛頭ない。
それなのに、こみ上げる腹立たしさを抑えられなかった。何に対して憤っているのか、自分でもうまく理解できないのがなおさら腹立たしい。そんな自分にイライラとして、それをうまく覆い隠せないことにさらに気持ちが波立ってしまう。
だから、澤田のところには極力行かない。
大人げないことはわかっている。普通に見舞えばいいことも。
だがしかし、どうしてもそういう気持ちになれないのだ。
「はい、みんな、お手てつないでー。車に気をつけて、横断歩道、渡ろうねー」
「はあーい!」
エプロン姿の保育士に導かれ、すぐ目の前を、クラスごとに色分けされた帽子をかぶった園児たちが、きゃっきゃとはしゃぎながら通り過ぎる。
津村の運転する車が事故に遭ったという連絡が届いたのは、春まだ遠い、底冷えのする季節だった。それが、いつのまにか花が咲き、散ったと思うまもなく葉桜となって、陽射しは早くも夏の予感をはらんでいる。
あの日、病院に駆けつけると、手術室の前に津村がいた。奇跡的に怪我はないとのことだったが、ショック状態でひどく取り乱し、どうしよう、どうしようとくり返すばかりだった。
手術室の中にいるのが澤田だということはわかったが、詳しい説明があったのは、澤田の両親も到着した、翌朝近くになってからだ。
折れたり切れたり外れたり、全身傷だらけではあるけれど、幸い、内蔵に大きな損傷はない。ただ、頭を打っていて呼びかけにも応答がなく、予断は許さない状況だ。今はとにかく、意識が戻るのを待つしかない。
それから丸三日、待ちつづけた。
はじめは、声に反応してか、目が開いた。しかしこちらの言うことがわかっているのかいないのか、またすぐに瞼が落ちて昏睡状態に陥ってしまう。そんな状況が数日つづいて、ようやく、問いかけに応じて答えようとするかのように、唇が動いた。きちんと声が出せるようになったのは、さらに数日後のこと。それも掠れて聞き取りにくいものではあったけれど、言おうとしていることはわかった。
交通事故に遭ったんですよ。ここは病院です。わかりますか?
そういった問いに、「はい」と答える。表情もしっかりし、質問者の顔をまっすぐに見た。しかし、「お名前は?」と尋ねられると、黙ってしまう。「ほら、お母さんですよ」と看護師に示されても、表情がまったく動かない。
はじめは、疲れたのだろうということにされた。それでぼんやりしてしまったのかもしれません。もっと体力がつけば、大丈夫。
実際、澤田は一日の大半を眠っていて、意識があるのはわずかな時間だけだった。その貴重な時間を見計らって、意識レベルが確認される。
カードに描いた絵を見せ名前を言うよう指示すると、みかんでもリンゴでも犬でも猫でも、正しく答える。声は相変わらず掠れていたが、言葉自体は明瞭だった。
それなのに、「お名前は?」になると黙してしまう。年齢や職業といった個人的な事柄になると、答えられなくなってしまう。その場にいる家族や自分たちのことも、取り囲む医療機器を眺めるのと同じような目をして見るだけで、「わかりません」とくり返す。
ここでもやはり、「様子をみましょう」ということになった。言葉は話せるのだし、理解力もある。指を動かすこともでき、足の感覚だってちゃんとある。ほかの機能の快復とともに、これから改善していく余地は充分にある。「とにかく待つしかありません」と。
それから今に至るまで、待っている。ずっと待ちつづけて今に至る。
しかし、ただ待っているだけというわけにはもちろんいかず、広瀬は自分にできることをした。
まずは、これは本当に単なる事故なのか、それとも故意に津村と澤田を狙った事件なのか、その確認。独立して「なんでも屋」になってからは、ペットの散歩代行や独居老人の話し相手、家出娘の捜索といった依頼がほとんどだが、中には配偶者の浮気や婚約者の素行調査といったものもあり、こちらからすると自業自得だとしか言いようがないものの、逆恨みされかねない結果に終わったものもないではない。
そこで、逆走してきた車の運転手が関係する案件がなかったか、ひとつひとつ確かめていった。依頼人のリストに名前があるかないかはすぐにわかるし、離婚や破談の憂き目にあった当事者、現場を押さえられたストーカー本人であるかどうかも簡単に確認できる。しかし、そういった自称被害者の家族や友人だったりすると、簡易検索だけでは漏れてしまう恐れがあり、一件一件ファイルを読み直す必要があった。
さらに厄介なのが、独立前の仕事がらみだった場合だ。
まさか、とは思う。
あの車を運転していたのは、新卒一年目の二三歳。実質的に業務内容を今のような内容にシフトチェンジしたのは五年前のことだから、それ以前となると、中学生か高校生だったはずだ。そんな子供と関わった覚えはないし、学歴や職歴からも、自分たちとの関連は浮かんでこない。
ただ、関係者の家族だという可能性はある。その場合、幼かったからこそ恨みを募らせ、まっすぐに怒りをぶつけてきたということもあり得るのではないか。親の敵。そんな風に長年憎しみを増幅しつづけ、ようやく自分たちの存在を突き止めたのだとしたら。そうして、あの事故を起こしたのだとしたら。
だって、あまりにも似すぎているのだ。
こんな偶然があるとは思えない。
だから、確認しないわけにはいかなかった。どんなに確率は低いとしても、確かめておかなければならなかった。それができるのは広瀬だけで、「なんでも屋」の仕事の合間に、誰にも気づかれないようにひとり密かに作業をつづけている。
取り越し苦労であればいい。被害妄想に囚われているだけならそれでいい。あれはもう済んだこと、終わったこと、今更どうこう言うことではない。
もう、誰かの笑顔を失うのはたくさんだ。
空を仰ぐと、初々しい若葉が目映い光を弾いて揺れている。幼子たちの明るく無邪気な笑い声が、遠くかすかに消えていった。




