(2)
入院生活が長くなると、いつのまにか人の足音を聞き分けられるようになる。覚えようと思ったわけでもないのに不思議なものだが、今のように自由に頭を動かすこともできない状態では、廊下を歩く音から誰が来たのか推察することができるのは、便利でもある。
「こんにちは」
「こんにちはー」
病室の入口のあたりで通りすがりの医療スタッフと爽やかな挨拶が交わされて、その名残の笑みを漂わせつつ優しげな風貌の男があらわれたときには、心の準備はできていた。
「どう?」
素っ気ない問いとともに、和やかであったろう表情が失われていく。
視線をはずし、「うん」と軽く頷くと、向こうも「そう」とだけ応じて、視線を逸らした。そのまま、いかにも居心地悪そうにベッドの足下に佇んでいる。
ほかの連中と連れ立ってやってくるときはそれほどでもないが、ひとりであらわれると、この男はいつも不機嫌だ。どこかイライラとして、しかしそれをこちらにぶつけるでもなく、やり場のない感情を持て余しているように見える。自分でもそういった鬱屈を隠し切れていないのがわかっているのだろう、滅多に顔を見せることはなかった。
それが、珍しいなと思っていると、ふわりとやわらかな声とは不似合いな愛想のなさで、男が言った。
「和人に頼まれたんだ」
黙ってつづきを待っていると、さらに男の機嫌が悪くなる。
「熱出して、寝込んでるんだよ。うつすといけないから見舞いに行けない、でも、急に顔出さなくなったから心配してるんじゃないかって、気にしてるんだ。大丈夫だっていっくら言ってもきかないし、もしかしたらもううつしちゃってるかもしれないから、様子を見てこいって、しつこくて」
「ああ」
そうだったのか、と思っていると、剣呑な眼差しを向けられた。
「もしかして、和人が来てないこと、気づいてなかった?」
「いや」
さすがにそれはない。それまで二日と開けずにあらわれていたのに、ふっつりと来なくなってしまったから、担当の理学療法士も「風邪でも引いたのかな」と気にしていた。
これまでの生活のリズムに病人の見舞いが加わって、疲労が重なり体調を崩したというのなら、それは困るし心配だ。だが、そうではなくて、終わりの見えない病院通いが日常となり、当初の緊迫感や義務感が薄れていって、自然とこちらには足が向かなくなったというのであれば、いいことだろうと思うのだ。彼らには彼らの人生があり、生活がある。負担になるのは本意ではない。
だから、特に気にはしていなかった。いや、気にしないようにしていた、と言った方が近いかもしれない。
そういうようなことを説明したかったのだが、うまく伝えられる自信がなく、けっきょく言葉にできたのはこれだけだった。
「具合は、どうなんだ」
男は疑わしそうな目つきをしたまま、それでもどうにか答えてはくれた。
「典型的な風邪の症状が、きれいに出揃ってる。なかなか熱が下がらないのが気になるけど、まあ、心配ないよ。念のため、平熱に戻ってからも、一週間はここには来させないつもりだけど」
そうか、と頷いてから、
「気にしないで、ゆっくり休むように伝えてくれ」
と言い足すと、苦笑にも似た笑みが男の頬のあたりをさっと掠めた。「お前が言うな」とでも言いたいところなんだろうな、と察しがついて、自分でも同じような苦い笑いに囚われる。
今の自分は、あまりにも無力だ。病人を労る資格さえない。
「俺は、本当に、大丈夫だから」
そう言ったところで一笑に付されるだけなのはわかっているが、それでも、口にせずにはいられなかった。
そんなに気遣ってくれなくていい。責任を感じる必要なんてどこにもない。放っておいてくれてかまわないんだ。
実際に口にしたら、この男は怒るだろう。なぜか、それがわかる。だから言葉にすることはできないが、考えていることは、たぶん、伝わっている。そんな気がする。だからこそ、正確に言葉を選ぶ必要があった。
「本当なら、もっと、苦しいんだと思うんだ」
自分のことが何もわからないという、この状況。自分についての情報を何ひとつ思い出せず、赤の他人に囲まれて、ベッドに縛り付けられているという、この現実。
医者は、「様子を見ましょう」と言う。時間が経てば、記憶が戻る可能性はおおいにある。今はまだ怪我も癒えていないし、事故のショックもあるのでしょう。気長に待つのが一番です、と。
だが、治るという保証はどこにもない。この先ずっと、過去を失ったまま生きることになるのかもしれないのだ。
ふつうは、焦燥感や苛立ち、絶望や無気力といった負の感情に、押し潰されるものなのではないだろうか。実際、かなり早いうちから心療内科の医師も派遣されてきて、「心のケア」とやらが定期的に行われている。
しかし、その必要を感じないほど、心のうちは穏やかだった。もっと荒れていてしかるべきだと思うのに、感情は凪いで、落ち着いている。
もしかすると、これも頭を強く打った影響の一部で、感性が麻痺してしまっているということなのかもしれない。だとすれば手放しで喜ぶわけにはいかないが、たいていの時間をぼんやりと過ごしていることが、苦痛ではなかった。そうしていると、それぞれ癖のある若者たちが入れ替わり立ち替わりあらわれて、好き放題なことを言って帰って行く。一方的に自分のことを知っていると主張し、古くからの知己であるかのように振る舞う彼らを、もっと警戒してもいいはずだった。何もかもが壮大なペテンで、すべてが悪質なイタズラである可能性を、疑ってみるべきだろう。
しかし、気づいたときには、彼らを半ば、受け入れてしまっていた。
自分が彼らの言う「澤田くん」だという自覚はまったくない。
だから、彼らの世話になる謂われはないし、本来ならば拒むべきなのだと理性が告げる。縁もゆかりもない、見ず知らずの若者たちに、こんな風に頼っていいはずがない。他人の善意に甘えるにも、程度というものがある。
それなのに、「よう」とあらわれる彼らに、「ああ」と応える自分がいる。心待ちにしている、とまでは言わない。けれど、彼らの訪れに抱くべき違和感が、日に日に薄れているのも確かだ。積極的に看護を担おうとするのは和人くらいなもので、あとはただふらりと顔を覗かせて、適当に時間を潰して去って行く。ただそれだけのことなのに、顔を見、声を聞いていると、いつしか自然に寛いでいる。こうして穏やかな精神状態でいられるのも、彼らの存在と無縁ではない、のかもしれない。
何をしてくれるからとか、どうして欲しいからとか、そんなことではない。
ただ、彼らがいる。それだけのことなのに。
だから。
「おかしいと思われるかもしれないけど、なんというか、その……」
そんなに、悲壮感はないというか。打ちひしがれてもいないし、絶望もしていない。「平気でいる」というわけではもちろんないが、それでも、傍で思うよりはずっと、落ち着いている。
そういう趣旨のことを言わんとして言葉に窮していると、ふっと男の表情が和らいだ。
「なんか、らしいな」
声からも固さが取れていて、本来のやわらかさを取り戻している。
「見かけによらず、案外、のん気なところがあるから」
「そうか」
そうなのか、と思う。自分はもとから、こういう性格だったのか。
カラダの力がすっと抜けて、すなおに納得する自分に少し驚く。誰に何を言われても頷くことはできなかったのに、なぜ今は、すとんと受け入れることができたのだろう。
広瀬はベッドの脇に歩み寄ると、置いてあったパイプ椅子に腰を下ろした。何がどう変わったというわけでもないのに、刺々しさが薄らいでいる。
そのあとは、どちらもほとんど喋らなかった。広瀬が彼らの過ごす日常について少し話して、それに相槌を打っていただけ。そうして彼の話に耳を傾けながら、しみじみと思った。
――本当は、随分と優しい顔をして笑うのだな、この男は。
何も覚えていないくせに、胸を締め付けられるような感慨に囚われ視線を落とす。
救急病棟の集中治療室から一般病棟に移ってよかったことのひとつは、部屋に窓があることだ。ゆっくりと、慎重にしさえすれば、そちらに顔を向けられるようになったのも、大いなる前進であり、救いでもある。
そういえば、この部屋は何階にあるのだろう。
雲の浮かぶ青空のほかは、木々の先っぽがわずかに見えるだけのところをみると、かなり上層階なのかもしれない。
「外は、いい天気だよ」
窓に向かって座っている広瀬が、おもむろに言う。
そちらは振り返らずに、「ああ」とだけ応えた。
いつのまにか、緑の風吹く季節となっていた。
いつからこうしていたのか、いつまでこうしているのか、それすらも判然としない。
自分が誰であろうとなかろうと、時間は過ぎて、季節は変わる。
「それじゃあ、また来るよ」
「ああ」
窓の方を向いたまま、静かに立ち上がる広瀬に頷いた。
広瀬はしばらくそのまま動かずにいたが、やがて、耳に馴染んだ足音が戸口に向かい、聞こえなくなった。
また、ひとりになった。
外の明るさに疲労を覚え、目を閉じる。
快復が進んだことによって、新たに生じた問題がひとつ。
そう簡単に意識が途切れず、終わりのない物思いからなかなか解放されないということだ。
自分はいったい、何を失ったのだろうか。それすらもわからないくせに、喪失感だけは疼くというのも皮肉なものだ。
自分はこれまで、どんな人生を歩んできたのだろう。どうしてそれを、手放すことになったのか。
考えても仕方がない。思い煩ったところでどうにもならない。それでも、ひとりになるとどうしても考えてしまう。
いつでも当たり前にあったはずの時間の流れを、取り戻すことはできるのだろうか。
いつか必ず、帰ってくる。
そう信じてくれている人々に、応えられる日は来るのだろうか。
わからない。どうしても。どうやっても。
答えの出ない問いの重さが、日に日に膨らみ、増していく。




