(7)
「あ゛ー! 澤田くん?!」
「……ん?」
「母」への挨拶と報告を終え、携帯電話をポケットにしまったところで、バスルームと思しき窓から身を乗り出している和人と目が合った。
「ちょっと、そんなところでナニしてんの?!」
「いや、その」
「電話してって言ったじゃん! なんで連絡くれないんだよ!」
「というか、気づいたら、もう着いてたんだ」
「なんだよソレ?! ったくもー!」
ごめんごめん、悪かったと謝りながら、駐車場を横切り玄関にまわる。
なんの変哲もない、ごくありふれたマンションのドアを前にして、ふっと肩から力が抜けた。緊張はしていないつもりだったのだが、やはり、身構えていたところはあったようだ。
ようやく、ここに戻ってきた。
「なんでも屋」の事務所であり、「澤田くん」の住居でもある、彼らの「ホーム」。基本的に鍵は開けっぱなしな上に、それぞれが合い鍵を持っているから、いつでもだれでも出入り自由。プライベートはないようでいて、適度な距離感が保たれているのは、各自が互いの領域に不用意に踏み込まないだけの繊細さを持ち合わせているからだ。
その根底にあるのは、「信頼感」なのだろう。
彼らが築き上げたそれに、自分が割り込むべきではない。そういう意識は今も消えずに残っているが、しかし、こんな自分がいてもなお、彼らの関係性に揺るぎはない。それもまた事実であることを、彼らはなんの気負いもなく、日々の暮らしの中で証明してくれている。
それまで否定してしまうのは、あるいは不遜なのではあるまいか。
これまで幾度もそうしてきたように、ゆっくりとドアノブをまわして引き開けると、そこでも和人に迎えられた。まだプンプンしている様子だが、それでも黙って荷物を受け取り、靴を脱いで部屋に上がる間、もしも万が一ふらついたときにはいつでも支えられるように、半歩後ろで見守っている。もう大丈夫だといくら言っても、和人はそうすることをやめようとしない。
「澤田くん、ひとり? おうちの人にも上がってもらえばよかったのに」
「俺もそう言ったんだけど、またにするって。お前たちに、よろしくってさ」
「ふーん」
「それ、みやげだって。開けてみろよ」
「うん」
そんな他愛もないやり取りをしつつ、けっこうな嵩のある箱の入った袋を提げた和人とともにリビングへと足を向けると、入り口の影から、小柄な猫がそっと顔を覗かせた。
「水無月」
名を呼ぶと、ひたと向けられた大きな眸が、みるみるうちに潤んでいく。
「おいで」
じっと動こうとしない猫に腕を差し伸べると、感極まったかのような面持ちをして、しずしずと歩み寄り、淑やかに澤田の両腕に身を委ねた。
「俺も逢いたかったよ、水無月」
「みゃう」
幸せそうな溜め息とともに、猫が鳴く。
艶やかな毛並みと、心地よい温もり。
しばらく撫でてやってから、形のよい小豆色の耳に、そっと優しく囁いた。
「ただいま」
「…………っ」
息を飲んだような気配に目を転じると、和人がまん丸い目をしてこちらを見ている。
ちょうどリビングに入ったところで、それぞれ適当に散らばり思い思いに寛いでいたらしい四人の顔を見まわすと、虚を突かれたような顔つきの広瀬と、呻くような声を漏らした将の後ろで、馨がぽかんと口を開けていた。
「どうした、みんな揃って」
今日は日曜、平日働いて土日が休み、というわけではないから、事務所に誰かがいたところで驚かないが、全員が顔を出しているというのは珍しい。
「なんかあったのか? 水無月」
「お、おかえりなさい!」
上擦ったようなおかしな声で早口に言う和人に、猫を抱いた澤田が、そっと笑った。そうして、あの、深みのある低い声で、頷くようにして言ったのだ。
「ああ。ただいま」
和人はキュッと唇をひき結んで、背中を向けた。
澤田くんは、たぶん、きっと、気づいてない。あの事故があってから、澤田くんが「ただいま」って言葉を口にしたのは、これがはじめてだってこと。「おかえりなさい」って声かけても、「ああ」とか「うん」とか言うだけで、絶対に「ただいま」って言おうとしなかった。それがたまたまではない証拠に、澤田くんが「おかえり」って言ってくれたことも一度もない。
ここは自分の帰る場所じゃないし、自分は迎え入れる立場にもない。
そういうスタンスを崩そうとしない澤田くんだったから、もしかしたら、もう帰ってこないのかもしれないって、どうしてもそう考えずにはいられなかった。実家に行って、家族と逢って、やっぱりここが居場所だ、いるべきなのはここなんだって、そういう風に心が傾いたのかもしれないって。
誰にもそれは止められないし、俺たちはただ、受け入れるしかない。
澤田くんが実家に行くってことになったとき、誰もなんにも言わなかったけど、同じような不安を感じたのはなんかわかった。
澤田くんは、もう帰ってこないかもしれない。
なんとはなく不安で、なんとはなく集まってきて、昨日も今日も、ここでダラダラしてた。なかなか連絡はなくて、来たと思ったら夕飯を食べてくとかで、だったら俺たちはピザでも食べよう、澤田くんがいると脂っこいの食べられないからさ!ってことになって、それにしても遅い、遅すぎる、と思ってたら、案の定。
澤田くんは、帰ってこなかった。里心がつくように送りつけてやった水無月の写真にも、返事はなかった。なんかもう、しょんぼりを通り越して打ちひしがれた水無月を見ていたら、絶望的な気分になった。
だけど、澤田くんは帰ってきた。
「ただいま」って言葉とともに、ここへ、この場所へ、俺たちのところへ。
「津村」
澤田はゆっくりとした足取りで、ひとりこちらに背を向けソファの端でちんまり丸まっている津村のもとに歩み寄った。
「寝不足か? また朝までゲームでもやってたんだろう」
「うん」
「向こう行って、いっしょに昼飯食おう」
「うん」
「なんでそっち向くんだよ。こっち向け」
「うん」
こくこく頷くわりには頑なで、ますます顔を背けて蹲ってしまう津村を見下ろし、澤田が笑う。
「しょうがないヤツだな。いい加減、起きろって」
すらりと伸びた長い指が、津村の髪をクシャリと撫でた。
「――――っ」
ノドの奥から引きずり出されたような細い嗚咽が、リビングの空気を震わせた。
「津村? どうした、津村」
静かに問う澤田の声がひどく優しくて、唐突に込み上げてきた感情をどうしても抑えることができなくて、津村は小さな子供のようにしゃくりあげた。
「うわ、見て見て、いなり寿司だよ! 澤田くんのお母さんのお手製だ」
ダイニング・テーブルのあたりから、不自然にはしゃぐ和人の声がした。澤田と津村だけを残して、他の三人もリビングを離れる。
「うまそうだな、早く食べよう。将、そこの皿とって。馨はお茶の用意」
「うん」
「はいよ」
広瀬の指示で動きながら、それぞれがそれぞれに背中を向けて、自分の作業に没頭している振りをする。
「なあ、津村」
水無月を抱いたまま、澤田は津村の隣りに腰を下ろした。ひっくひっくと震える背中をさすりながら、ああ、やっとここまでたどり着いたと、あの真っ白い病室の片隅で泣きじゃくっていた津村の声を重ね合わせながら、話しかける。
「ビール、飲まないか。和人に奢ってもらう約束なんだ」
退院したら、という話だったが、アルコールを摂取できる体調ではなく、そういう気分ともほど遠かったため、ずっとそのままになっていた。
それが今、ふっと、そんな気分になったのだ。
「俺、用意してあるよ!」
和人はダイニングから声を張り上げると、一度キッチンへと姿を消し、両手に瓶を抱えて戻ってきた。
「ほら!」
得意げに掲げて見せてから、ハッと一端目を見開いて、いかにも困ったように眉を下げる。
「ああでも、冷やしてないんだ」
「ギネスか」
黒っぽい瓶とラベルから察しをつけると、澤田は唇の端に笑みを浮かべた。
「問題ない。アイルランドでは、ビールは常温で飲むらしいぞ」
「ほんと?!」
「ああ。俺も聞いただけだけどな」
穏やかな笑みを浮かべ、「な?」と猫に同意を求める澤田に、広瀬が静かに問いかけた。
「誰に聞いたの?」
いつもの優しげな声ではあるが、そこには何か、聞き流すことのできない響きも含まれている。
澤田はふっと笑みを収めると、広瀬を見た。
アイルランドの、パブの話。自分は、いつ、誰と、したんだろうか。
「ともだち?」
黙ってしまった澤田に、広瀬は表情を変えることなく、ごく自然に問いを重ねた。
「……ああ。うん。たぶん、そうだと思う」
――いつか、いっしょに行って、確かめてみよう。
そんな話もしたのだから、きっと、親しい友人だったのだろう。そうでなければ、こうして水無月を抱いているときそのままの、やわらかな気持ちで満たされたりはしないはずだ。
そう、と頷いただけで、広瀬はダイニング・テーブルを整える作業に戻った。箸を並べ、棚からグラスを取り出す様子は、特に何が違うわけでもなかったが、どこか深いところで満ち足りているような、安堵と充足が押さえようもなく滲み出しているような、そんな風に、澤田の目には映って見えた。
「そのグラス、冷蔵庫に入れておくね」
馨はグラスをトレーに載せて、和人からビールを受け取った。
「常温で飲むのは、ビールじゃなくて、エールなんだよ」
言いながら、キッチンへと戻っていく。
「気休めかもしれないけど、少しは冷えるでしょ」
「ほんと、馨ってヘンなこと知ってるよね」
「ヘンじゃないよ、別に」
エメラルドの島。あるいは、妖精と魔法と伝説の国。
そんな風に呼ばれるあの国は、それだけでも充分に魅力的で、関連する書籍その他には自然と引き寄せられてしまう。だから、雑学めいたものが自ずと蓄積されたとしても、少しも「ヘン」なんかではない。
馨は自分に言い聞かせ、うん、と頷く。
彼女が愛した国であるとか、彼女を送り出した国であるとか。「遅すぎた初恋」だとか、「むごたらしい失恋」だとか。
たとえ、いまだ消えない痛みがあったとしても。けっして癒えないであろう傷を、終生抱えていくのだとしても。
それとこれとは、別の話だ。
「にゃお」
「水無月? なんだ、どうした」
床に飛び降りた水無月が、和人と馨の間をすり抜けて、ひとり佇む将を見上げて一声鳴いた。
「これだろう? 水無月」
「にゃ!」
広瀬の差し出した包みを上品にくわえて、水無月はいそいそと澤田のもとに戻ってくる。
「昨日の水無月の戦利品だよ」
「戦利品?」
澤田は恭しく捧げられた包みと、得意げな猫、笑う広瀬を見比べて、首を傾げる。
「水無月は、昨日もモテモテでね」
あれ? 水無月さん、元気がないねぇ。どうしたの。え、恋煩い? ああ、今日は澤田さんがいないから。乙女だねぇ、健気だねぇ、純愛だねぇ。そうかそうか、これでも食べて、元気をお出し。
というわけで、いつも以上にちやほやされて、倍量の高級煮干しをせしめたのだ。
「ほかの男から巻き上げて、本命の澤田くんに貢ぐんだから、ほんと罪な猫だよな!」
「清純派ぶってるけど、本性はしたたかだからね、水無月は」
和人と馨の聞こえよがしの揶揄にも、水無月はまったく動じることなく、愛しい男を独占しようと、澤田と津村の間にグイッと割り込む。
「ちょうどよかった。俺からも、プレゼントがあるんだ」
澤田はジャケットのポケットから、小さなピンバッジを取り出した。このジャケットを着るのは今回がはじめてで、ポケットに入れた携帯電話を取り出したときに、これが入っているのに気づいたのだ。
おそらくは、「澤田くん」のものなのだろう。一年近く、もしかしたらもっと前から、このポケットの底で眠っていた、小さなバッジ。
「ほら。見た瞬間、水無月に似合うと思ったんだ」
すっと伸ばした水無月の首には、濃紅色と薄紅色、そして白糸で編まれた真田紐が結ばれていて、そこに鮮やかな緑のピンバッジを添えてやると、春らしい華やいだ色調となり、乳白色の猫の毛並みによく映える。
「シャムロック……」
ノドに絡まったような声で、津村がかすかに呟いた。
緑の三つ葉のクローバー。
それはアイルランドの象徴で、彼女が自分の持ち物に、好んでつけていたものだ。彼女が去って、目にすることもなくなって、それが今、澤田によって、再び彼らのもとにもたらされた。
ただ愛らしいだけの贈り物として。愛情と善意以外のなにものでもない、ささやかで、だからこそ素朴で純粋な愛を伝えるものとして。
「なんだか今日は、アイルランドづいてるな」
水無月をしっかりと胸に抱いて、その首筋に顔を埋めるようにして、澤田が笑った。なんの屈託もなく、穏やかに。
ギネス・ビールにアイリッシュ・パブ。そして、シャムロック。
偶然にしては出来すぎだが、悪くない偶然だ、そんな気がする。そういう気分が伝わるのか、五人の間に漂う空気も、ふっと解けたようだった。
「あのさ」
いかにもどうでもいいことのように、そっぽを向いて、ぶっきらぼうに、将がぼそりと呟いた。
「いつか、みんなで行ってみようか」
理由とか、目的とか、そんなのぜんぜんなしで。なんかウマいもんでも食おうぜーとか、たまには「海外旅行」とかもいいんじゃね? とか、そんなノリで。もしかしたら、偶然、バッタリ、彼女とはち合わせたりするかもしれないけど、それはそれで。「よう」とか、「元気そうじゃん」とか、それだけのことで。
「そうだな」
誰が何を言うよりも早く、澤田が応じた。
「いいかもな、それも」
陽当たりのいいソファにゆったりと腰掛け、膝には彼女が愛した猫を抱いて、罪とか罰とか責任とか、そんなものに囚われることなく、穏やかに、寛いで、なんの憂いもないように。
こんな風になってくれたらいいな、と彼らが望んでいたとおりに。
春まだ浅い、のどかなひととき。
頼まれればどんなことでもやる「なんでも屋」。
事務所兼用のマンションに集う、器用なのか不器用なのか、まとまっているのかいないのか、とにもかくにも緩やかに結ばれた六人と、品よく賢い、看板娘の美猫が一匹。
失われた記憶はそのままだし、なくしたものは戻ってこない。きっと、まったくの元通りには、もうなれない。
それでも。
「おかえり、澤田くん」
「ああ。ただいま」
汗と涙でぐちゃぐちゃになった顔をようやく上げて、津村が泣きすぎてかすれた声で噛みしめるように囁くと、澤田の低く穏やかな声が返ってきた。
――おかえりなさい。
なにもかも、もう一度ここからはじめればいい。
- 『春を待つ日々』 fin -




