(6)
おかげで翌朝はいつも以上に早く目が覚めたのだが、起き出してもいいものか悩むうちに、台所から物音が聞こえてきた。
「母」が朝食の支度をしているのなら、起きていって手伝おうか。だが、「父」がコーヒーでも飲みながら朝のひとときを過ごしているのなら、邪魔をするのも悪い気がする。
どうしたものかと起き抜けの頭で考えながら、枕元に置いていた携帯電話に届いたメールを見返した。
昨夜、「食事していくことになった」と送ったメールにはすぐさま「了解」と返ってきたが、追って泊まっていくことを伝えた際には、本文はなく、いかにもしょんぼりと丸まった、哀愁漂う水無月の後ろ姿の画像だけが送られてきた。これはどういう意味なんだろう?
「水無月」
名前を呼んでも返事はなく、画面に指を伸ばしても、やわらかな毛並みには触れられない。
そういえば、この家に猫はいなかった。この部屋に猫の写真が飾られているということもないようだ。昨日見せられたDVDやアルバムには噂の「すず」の姿がそこかしこにあって、すずは本当にきれいな猫だった、賢い仔だった、あんな猫はそうはいないと大絶賛されていて、確かに美しい猫であり、逢ってみたかったなと思いもしたが、それは秘密にしておいた方が良さそうだ。
画面が暗くなるまで水無月の背中を飽かず眺め、それからようやくカラダを起こす。しばらく朝のストレッチをしてから、「智くん」のシャツを借り、手早く着替えた。
台所から聞こえてくるのは、野菜を刻むリズミカルな音だ。
「おはようございます」
布団を畳み、ざっと顔を洗ってから台所に入っていくと、「母」が驚いたように振り返った。
「随分早いのね。もしかして、起こしちゃった? それとも、あんまり眠れなかったの?」
「いえ、熟睡しました。いつもこの時間には起きているので」
「まあ!」
「母」はわざとらしく目を丸くして、おかしそうに笑みを漏らす。
「典型的な『宵っ張りの朝寝坊』だった、あの智くんがねぇ」
「若いときは、みんなそうですよね」
将や和人たちの顔を思い浮かべて頷くと、「母」がたまりかねたように吹き出した。
「なに年寄りみたいなこと言ってるの!」
それもそうか、三十なんていうのは、この人たちにとってはまだまだぜんぜん「お子ちゃま」なのだ。
澤田も笑って、「手伝います」と袖を捲った。
「いいのよ、智くんはあっちで新聞でも読んでなさい」
「いや、でも、勉強にもなりますから」
先程から忙しく立ち働いていた様子なのに、朝食の支度はこれからのようで、台の上には卵や煮干しが乗っている。どうやらこの家の朝は、和食のようだ。
「お姉ちゃんたちに聞かせてあげたいわねぇ、今のセリフ」
「母」はやっぱり笑って、なのにうっすら涙ぐんで、誤魔化すように冷蔵庫からシシャモとかまぼこを取り出した。
「たいしたことはしないわよ。智くんがいた頃の、ふつうの朝ご飯を作るだけ」
「はい」
澤田が大根をおろし、シシャモを焼くことになった。その間に、「母」がだし巻き卵とワカメの味噌汁を作る。
「なんだ、智行は台所にばっかりいるんだな」
「あ。おはようございます」
居間にいたらしい「父」が、ちらっと顔を覗かせて、そのままふいっと行ってしまった。
「お父さんたら、焼き餅やいて」
「え?」
「自分も智くんといたいのに、普段『男子厨房に入るべからず』とかカッコつけてるから、入ってこれずにああしてウロウロしてるのよ」
「母」は勝ち誇ったようにふふんと笑って、隣りに立つ澤田を見上げる。
「男の人は、料理ができた方が断然カッコいいわよ」
「いや、その」
「智くんは小さい頃からお手伝いして、自然といろいろ覚えたのね。中学生くらいのときは食べ盛りでしょ? 夜中にこっそり起き出して、自分で夜食作って食べるようになったの。はじめは残り物でお茶漬けとか、カップラーメンにお湯を注ぐだけだったのが、どんどん腕を上げていってね。チャーハンとか焼きそばとか手早く上手に作るんだけど、ヘンな時間にいい匂いがしてくるもんだから、みんな起き出してきちゃって」
「母」は懐かしそうに、今は夫婦二人で住む家に、三人の子供たちがいた頃の思い出を紡いでいく。
「お姉ちゃんたちが『こんな時間に食べたら太る』とか文句言いながら、智くんの分をぜんぶ食べちゃって、お母さんがラーメンを作り直してあげてたらお父さんまで『小腹が減った』とか言い出して、あの頃はほんと、一日中料理している感じだったわねぇ」
この静かな家にも、そんな時代があったのだ。
そんなしみじみとした気分を払うように、「母」は手を動かし、澤田は指示に従い三人分の席を整えた。
昨日から食傷気味で、正直なところ腹は減っていないのだが、それでもうまい朝食だった。軽く表面に焼き色をつけたかまぼこを口にした瞬間、どこか懐かしいような心地がして、尋ねてみると、フライパンにゴマ油を垂らしたのだという。
「智くんが好きで、よくお弁当に入れたのよ」
「母」は、満足そうに微笑んでいた。
ちょっと顔を出すだけのつもりが、思いがけず長い滞在となった。
記憶の戻らないまま「家族」と向き合うのは気が引けて、どれだけ待ち望まれているかを知りながら、気づかぬ振りをしつづけてきた。いよいよ逃げきれなくなった今回は、「父」と「母」に挨拶するだけで済ませるつもりだったのに、「実家」のドアの向こうにはわざわざ嫁ぎ先からやってきた二人の「姉」の姿まであり、いろいろ翻弄されることとなったりもしたのだが、しかし。そうして過ごした時間は、思いのほか苦痛ではなかった。
三度目の正直でようやく辞去する運びとなったのは、朝食の後に「母」に促されるまま「父」と居間でコーヒーを飲んでからで、そこでようやく、「それでは」と腰を上げることができたのだった。
「ちょっと待っていなさい。車で送っていこう」
「そうよ、智くん、そうなさい」
止める間もなく「父」と「母」はそれぞれ奥に引っ込んで、「父」は車のキーを手に着替えてき、「母」は重そうな紙袋を提げて戻ってきた。
「急いで作ったから、自信ないんだけど。お昼にみなさんで食べてちょうだい」
早くから台所に立っていたのは、このためだったのか。
手渡された袋はずっしりと重く、その分だけ垂れる頭の角度が深くなる。
「カラダに気をつけてね。ムリしちゃダメよ」
「はい」
「また、いつでもいらっしゃい。お母さん、待ってるから」
二人を見送る「母」はにこにことして、なのに今にも泣き出しそうに声が震えて、車が角を曲がって見えなくなるまで、いつまでもいつまでも手を振っていた。
サイドミラー越しにその小さな姿を眺めるうち、我知らず溜め息をついていたらしい。
「疲れたか」
「あ、いえ」
急いで助手席で姿勢をただすと、運転席の「父」が静かに笑った。
他人の人生に間借りをしているような状態になってから、はじめて「実家」を訪れた帰り道。この狭い空間に「父」と二人きりで小一時間、などということになろうとは夢にも思わなかったが、さほど緊張も気後れもしていない自分がいる。
「驚いただろう。お姉ちゃんたちはお前を囲むといつもあの調子でね。智行はひとりだけ歳が離れてるから、いくつになってもかわいいんだな」
「はは……」
そつがなく面倒見のいい「長姉」と、しっかりというかちゃっかりというか、その中間くらいの気のいい「次姉」。よく喋りよく笑い、賑やかなことこの上ないが、いやな騒々しさではなかった。遠慮なくあれこれ言い合いながらも、二人の仲が悪くはないからなのかもしれない。
「……あ」
なんだか無性に照れくさくて窓の外を眺めていると、ジャケットの内ポケットがプルプルと震えだした。携帯電話の小さなディスプレイに「和人」と表示されているのを確認し、すみません、と断ってからボタンを押す。
「もしもし?」
『澤田くん? もう、朝から何回もかけてんのに、なんで出ないんだよ!』
突然飛び込んできた声は、おそらく「父」にも聞こえただろうほど大きかった。
「ごめん、気づかなかった。どうした、なんかあったか?」
『それはこっちのセリフだよ! ナニ言ってんだよ、もう! 今どこにいるの?!』
「えぇっと、車で送ってもらっているところで、道が混んでいなければ、そんなに時間はかからないんじゃないかと思うんだが……」
確認するように視線を向けると、「父」は黙って頷いた。
『車ぁっ?! ちょっと、大丈夫なのっ? 電車にするんじゃなかったのかよ?!』
「その予定だったんだけど、ちょっと、変更になったんだ」
送ってやろうという「父」の申し出は、もう少し「息子」との時間を持ちたいという気持ちゆえだろうと思うと、どうしても断ることはできなくて、と、胸の内でひっそり呟く。
『だって、澤田くん道わかるっ? ちゃんとナビできてる??』
「いや、その、俺はともかく、カーナビがあるから」
『ああ…………じゃあ、大丈夫……なんだ?』
うん、と答えながら、なぜだか急速に勢いをなくし、どことなく落胆している様子の和人に首を傾げた。
『えぇっと、じゃあ……もっと近くまで来たら電話して! このへん似たようなマンションが多いから、わかりにくいと思うんだ。エントランスで待っててやるよ!』
「あ、うん。悪いな」
『ベツにいいよ! じゃあね!』
唐突にやたらと威勢よくプツッと切れた携帯にやはり首を傾げていると、「父」が尋ねた。
「例の、お仲間か?」
「ええ、まあ」
「父」は小さく頷いて、「そうか」と言った。そうしてしばらく車を走らせた後、どこか照れくさそうな笑みを浮かべてポツリと言った。
「智行は、いい友達をもったんだな」
「え?」
「会社を辞めて事業を興すと聞いたときには、どうなることかと思ったがね」
「……そう、でしょうね」
自分のことのはずなのだが、なんにも覚えていない状態ではなんと言ったものだかわからない。我ながらなんとも間の抜けたことだと思って身を竦めるが、「父」は特に気にする様子もなく、淡々と話しつづける。
「時代が違うというのはわかっている。でも、お前は小さい頃から辛抱強くがんばり抜く子だったから、お父さんみたいに、ひとつの会社で最後まで勤め上げるんだろうと思ってたんだ。だから驚いたし、正直少し腹が立ったし、でも、反対はしなかったよ。お前が決めたことなんだ。ちゃんと考えがあるんだろうと、思ったからね」
「父」がこんなに話すのははじめてだった。「母」や「姉」たちの傍らで、相槌を打つばかりだった「父」。病院まで見舞いにきても、会話らしい会話はなく、「じゃあ」とか「またな」と言って帰っていくだけだった。
「……すみません。その、いろいろご心配をおかけして」
大切に育ててもらったカラダを、こんな風に壊してしまったこと。この歳になるまでにこうむった恩の数々を、なにひとつ記憶していないこと。
きちんと詫びなければならないことはたくさんあるのに、そんな陳腐なセリフしか出てこなかった。 「母」に持たされた手提げ袋を抱えた指先を、じっと見つめる。
「謝ることはない。子供の心配をするのも、親のつとめだ」
「そんな……」
「本当だよ。そうやって子供は大人になって、親になるのさ」
「父」も「母」も小柄な人で、二人の「姉」も小さいのに、自分ひとりだけひょっこり頭ひとつ飛びぬけているさまはなんともいえず滑稽で、昨日も「家族」で笑いあったばかりなのに、「父」の大きさに圧倒される思いがする。
隣りに座るこの人を、「お父さん」と呼んでみたい。ほんの一瞬、そんな感慨が胸をよぎった。
「また、いつでも遊びにきなさい。お母さんが喜ぶし……お父さんも、嬉しいから」
「はい」と頷くと、「父」も小さく頷き返す。
「お母さんがあんなに笑ったのは、お前が怪我をしてからはじめてだよ」
「……」
記憶なんかあってもなくても、もっと早く、逢いに行けばよかったのだ。「そのままでいい」と言ってくれた彼らの言葉を、すなおに受け止めるべきだった。
「母」が笑顔になってくれて、「父」が喜んでくれるなら、それで充分ではないか。
謝罪の言葉を口にすることは簡単だが、それで許されようとするのは、卑怯だろう。年端のいかぬ幼子のように、「ごめんなさい」と泣いて詫びてしまいたかったが、それではいくらなんでも甘えすぎだ。それが許された「小さい智くん」は、もうどこにも存在しない。
これからの行動で、償っていこう。
もう一度、こくりと頷き、心に刻んだ。
その後は、どちらもほとんど口を開かなかった。
日曜日の遅い朝、混雑しはじめる時間をうまくすり抜けて、車は順調に走っていく。
「ここでいいかな」
「え? あ……!」
そういえば、「目的地、周辺です」とナビが告げていたような気もするが、ぼんやりしていて聞いてなかった。いつのまにか、車はマンションの裏手に着いている。正面玄関の方に出てくるものだとばかり思っていたから、こんなにも近くにいるとは気付かなかった。
「すみません、ありがとうございました。あの、せっかくだから、お茶でも」
「いや、今日は帰るよ」
「でも!」
「お母さんが、待ってるから」
「ああ……」
昨日の賑やかさから一転、ひっそり静まりかえった家にひとりでいるであろう「母」。張り切って「息子」を迎えた反動から、疲れてしまっていないだろうか。しょぼんと肩を落として座り込んでいる姿、負けじと家事にいそしむ姿、二つの「母」の姿が脳裏に浮かぶ。
「無事に着いたって、電話しておいてくれ。きっと心配してるから」
「はい」
「それじゃあ、またな。お仲間たちに、よろしく」
「あの、そちらのみなさんにも」
「お母さん」とも「お姉さん」とも言えずにそんな言い方をする「息子」に、「父」はうんうんと頷き笑っていた。
もう一度「ありがとうございました」とくり返し、それから深く頭を下げて、「母」がそうしていたのと同じように、角を曲がって見えなくなるまで、「父」の車を見送った。
いつしか「澤田くん」と呼ばれることに馴染んだように、「智くん」と呼ばれることにも慣れるだろうか。
そんなことを思いながら。




