(5)
和人の言ではないが、「両親」の前で無様な姿はさらせない。ゆえにターミナル駅へは込み合う急行ではなく各駅停車で座って向かい、乗り換えた在来線も、一本見送って始発に乗った。土曜の昼間の下り電車は空いていて、こちらものんびりしたものだ。「実家」の最寄り駅に行くにはさらにもう一度乗り換えるのだが、近頃は駅も進化して、構内にショッピングモールがあるのには驚いた。
眺めるともなくそれらを見つつ、目的のホームへと歩く途中、ちらちらと和人の姿が視界をよぎる。
「尾行」は本来、二人で組んでやるものだ。それをひとりでやるからこうなるのか、それとも和人はそもそも尾行を苦手にしているのか。どちらも少しずつある気はするが、思わせぶりな水無月といい勝負といった足取りで、これではすぐにターゲットに気づかれるだろうと思うと、自然と笑みがこみ上げてくる。
目的の駅にたどり着き、さてどうするつもりなのかと様子を伺っていると、澤田が改札への階段を上りきるのを見届けて、それでおしまいとしたらしかった。
せっかくの休みをこんなことで潰させてしまい、悪いことをしたな、と思いつつ改札を出ると、「母」がそこに立っていた。
「あ……」
直接「実家」に向かうと伝えてあったし、そもそも約束の時間にはまだ三十分以上もある。
慌てて駆け寄ろうとする澤田に「急がないで」と身振りで示しながら、「母」は待ちかねたように歩み寄った。
「すみません、お待たせして」
「ちょうど今きたところよ。智くんは、きっと早く来るだろうと思って」
「母」は抑えきれないというようににこにことして、うっすら赤くなった目を何度も瞬かせて、震えそうになる声を励まし明るく言った。
「疲れたんじゃない? 大丈夫?」
澤田が「はい」と頷くと、それでも気遣うような素振りを見せつつ、先に立って歩き出す。
「もう風邪はいいの? ほんとに上手に歩けるようになったのねぇ。お母さん、見惚れちゃったわよ。なんかもう、胸がいっぱいで」
ひとつ問いを発するごとに間をおいて、問い詰めるようにはならないように気を配っているのに、それでも言葉は止まってくれず、合間合間に「息子」の顔を見上げると、その都度笑みがこぼれ落ちる。
「お蕎麦屋さんのと、お人形教室の、写真見たのよ。元気でやってるみたいね」
はい、と俯くように頷く横顔に頷き返し、またつづける。
「かわいい猫ちゃんねぇ。品があって、賢そうで、うちにいた『すず』に、ちょっと似てるわね」
「……あの」
「似てるのよ。すずもきれいな猫で、薄いグレーなんだけど、満月の夜には銀色になるんだって、智くんはいつも二階のベランダで、すずを抱っこしてお月見してね」
駅前のロータリーから住宅街へ向かう道すがら、「母」がちらりと和菓子屋の看板に目を向けて、それから意味ありげに笑ったのは、月見団子を思い浮かべたからであると、それはなんとなく察せられた。
「このへんはちっとも変わらないのよ。コンビニとかファスト・フードのお店とか、新しくできたのもいくつかあるけど、あそこのクリーニング屋さんも、パン屋さんも、隣りのお花屋さんも、昔のままよ」
きっと、そこには「家族」の思い出があるのだろう。通りの向こうを眺めやる「母」と歩調を合わせて歩きながら、若い母親と手を繋いでパン屋から出てくる、よちよち歩きの坊やの姿をいつしか目で追っていた。
「ねえ、智くん」
同じ親子を見守っていた「母」は、二人が無事に横断歩道を渡り終えるのを見届けると、一瞬にして自分より頭ひとつ以上も大きくなってしまったかのように、どこか眩しそうな目つきで「息子」を見上げた。
「少し、休んでいかない?」
「え?」
「この時間だと、お昼食べ損ねちゃったでしょう。ほら、そこの角に、鯛焼き屋さんとたこ焼き屋さんが並んでるの。お母さんは鯛焼きで、智くんはたこ焼き」
「いや、でも」
「相変わらず、食べられないの? 随分ましになったけど、それでも痩せてるものねぇ」
「いえ、その」
「食べきれなかったら、残していいから。お母さんがかわりに食べてあげる。ね?」
この人の息子は、確かとっくに三十を越えているはずなのだが、いいんだろうか、これで。と、内心首を捻りつつ、「はあ」と頷く。
「母」はいかにも嬉しそうにして、「ここのベンチに座ってなさい」と、商店街の片隅に設けられたささやかな憩いの場らしき空間の方に息子を導いた。そうしてペンキの剥げかけた木製のベンチに腰を下ろすのを見届けると、自分はいそいそと店に出向く。
そもそも、ごちそうになってもいいものだろうかとそこから迷うところだが、「母」だという人に対してこの状況で財布を出すのもどうなのだろう、という気もしないでもない。ここはひとつ、甘えさせてもらうとしても、ここでぼんやり座っているという選択肢はない。
「あら」
せっかく座らせたのに、後ろからついてくる息子に「母」が驚きと嬉しさの綯い交ぜになった顔をする。
「座ってなさいって言ったのに」
澤田はこくりと頷いてから、注文する「母」の半歩後ろにそっと並んだ。
ひょっとして、駅で随分早くから待っていてくれたのではないだろうか。それで、自分の方が疲れてしまったということはありえそうだ。見たところは若々しいし元気そうでもあるが、三人姉弟の末っ子が三十代だということは、それなりの年齢ではあるはずだ。
「買い物の帰りに、よくこうして買いに来たのよ。お姉ちゃんたちにはナイショでね」
「母」はあんこのたっぷり詰まった鯛焼きを受け取って、今度はたこ焼きの窓口に立つ。
「どうしてナイショなんですか?」
なんとはなく気になって尋ねると、「母」が笑った。
「智くんだけを依怙贔屓してたんじゃないのよ。お姉ちゃんたちはもう大きくなってたから、部活の帰りに自分で買い食いしていたの」
ああ、なるほど、と頷くと、「母」はふふっと笑いながら、赤くなった目元を抑えた。
「おかしいわね」
「え?」
「別にナイショにすることなんてなかったんだけど、『ナイショね』って言うと、智くんが喜んだのよ。子供って、そういうものでしょ? 『ナイショ』とか『秘密』が大好きなの」
「ああ」
「『ナイショにしましょうね』って言うと、智くんも嬉しそうに『ナイショね』って言うくせに、食べ終わる頃には必ず、『お姉ちゃんにも買ってあげよう』って言い出すのよ。智くんは、優しいから。その顔が、さっきの貴方とそっくりで」
なんにも言えずに俯くと、「母」は容器に入ったたこ焼きを手渡した。
「座って待ってて、っていくら言っても、こうして智くんがくっついてくるのも、あの頃と同じ。人間って、そう簡単には変わらないのね」
疑うわけではない。けれど、この人を「母」として育った記憶をもたない今の自分に、何が言えるというのだろう。
なおも黙すしかない「息子」は「母」に促され、先程のベンチに並んで座る。
「食べられるだけでいいから、食べなさい」
はい、と頷き、箸がわりの竹串を手に取った。
外側はカリッとして、中はふんわりと柔らかい、たっぷりの鰹節が乗せられたソース味のたこ焼きは、昔ながら、と評したくなるような味がする。
「ここの鯛焼きはね、皮が厚くてしっかりしてるの。最近は薄皮が流行みたいだけど、鯛焼きはやっぱりこうでなくちゃね」
「母」は焼き立ての鯛焼きのシッポを千切ると、たこ焼きの器の端に、そっと乗せた。
「智くんは、あんこの入ってないシッポのところが好きなのよね」
そう言って、粒あんがいっぱいに詰まった腹の部分をパクリと頬張る。
「おいしい」
思わず、といった風に呟いて、恥ずかしそうに微笑んだ。
「鯛焼きなんて、久し振り」
ほぅっと幸せそうな溜め息をつく姿に、気づかされる。
大事なひとり息子が、交通事故に遭った。そんな連絡が突然もたらされたのが、一年前。生死の境をさまよって、ようやく一命を取り留めたかと思いきや、今度は記憶がないという。何も覚えていない、思い出せない、「家族」のもとには戻れない。
そういう息子の帰りを待ちわびつづけた、一年だったのだ。
「申し訳、ありませんでした」
せめて、もう少しなんとかするべきだった。電話での応対も、冷たすぎる、愛想がなさすぎる、それじゃあお母さんが可哀想だよ、と何度も忠告されていたのだ。たまにはこっちからかけてあげなよ、お母さんそれだけで喜ぶよ、という助言もあったのに、聞き入れるだけの余裕がなかった。
「どうして智くんが謝るの」
「母」は笑って、鯛焼きをもう一口、噛みしめた。それがあんまり旨そうに見えたので、先程もらった、餡のないシッポの部分を食べてみる。
「お母さんにも、たこ焼きちょうだい」
ごく自然に竹串を受け取って、「母」はたこ焼きをポンと口に入れた。
「おいしいわね」
「はい」
なんてことはない、素朴な鯛焼きとたこ焼きがしみじみとおいしく感じられて、二人肩を並べてうち笑み合う。
「よかった。ちゃんと食べられたじゃない」
重苦しい胃の痛みがいつしか消えてなくなって、無事にたこ焼きを完食することができた。
「母」はそれを満足そうに見届けると、やれやれ、といった表情で立ち上がる。
「お父さんが待ってるから、そろそろ行きましょうか」
「はい」
「本当に、もうすっかりよくなって」
どこにも掴まることなく、特に気負う様子もなく、すっとまっすぐに立ち上がる姿に目を細める「母」に、たまらなく照れくさくて顔を背ける。
「智くんは、小さい頃からガンバリやさんだったものね」
「そんなことは……」
「本当よ。本当なんだから。本当に、お母さんの自慢の息子なのよ、智くんは」
「母」は誰に向けてかキッパリと言い切ると、てきぱきとゴミを片づけ、家路を指して歩き出した。
「母」とのんびり十分ほど歩き、たどり着いたのは住宅街の中の一軒家。「澤田」の表札が掲げられた、二階建ての木造家屋だ。
ちらりと「母」が視線を向けてきたのは、生まれ育った「実家」を目にし、突如として記憶が戻った、そういう展開を期待したからだと思う。が、現実はそうはいかない、いってくれない。
いつかどこかで見たような、なんとはなく懐かしいような、昭和の建築だとは思う。コンクリートブロックの塀、門扉脇の金木犀、石段をいくつか上がって、玄関となる。
「ただいま」
「母」が声をかけると、奥からやけに元気な「おかえりなさーい」の女声二重唱が返ってきた。ぎょっとして足を止めると、「母」が声を潜めて囁いた。
「お姉ちゃんたちが来てるみたい」
「え……」
「今日は遠慮するように言ったんだけど、人の話を聞かない人たちだから」
いやいやちょっと待て、それはダメだろう。と思うものの言葉にするわけにはいかず、やっぱりこのまま帰ります、と踵を返すことももちろんできず、追い詰められたような気になり立ち尽くしていると、「母」が慰めるように背中にそっと手を添えた。
「そんなに長居はしないと思うし、お姉ちゃんたちも少しは大人になったから」
それを言うなら、こちらにも長居する気はないのだけれど、最初からそう告げるのも気が引けて、「はい」と頷き、意を決して玄関を上がった。
「遅かったじゃない。どこまで迎えに行ってたのよ、お母さん」
この間の電話の声は、こちらだな、と思いつつ、長い髪を後ろでまとめた女性に頭を下げる。
「一時ちょうどなんだから、遅くはないでしょ。お姉ちゃんて、せっかちだよね」
ということは、ショートカットのこちらが「次姉」で、あちらが「長姉」かと見当をつけ、居間のソファに並んで陣取る似通った面差しの二人の奥、ひとり掛けのソファに腰を下ろしている「父」に会釈した。
「あら珍しい。お茶淹れてくれたの?」
「姉」たちの向かいの席に座るように勧めながら、「母」が言う。
「珍しいってナニよ。これでも主婦なんですからね」
「だって、ウチではなんにもやらないじゃない」
「いっつも智くんこき使ってねー」
「ちょっと! 人聞きの悪いこと言わないでよ。自分だって昔から智くんにお手伝いとか押しつけてたくせに」
「私はお姉ちゃんほどあくどくないもん」
「あくどいって、どういうこと!」
「ほらほら、いい加減にしなさい。智くんがビックリしてるでしょ」
「……いえ」
気の置けない家族の会話、のようでありながら、「姉」たちのやり取りはどこかぎこちなく、上擦っているようにも感じられる。智くん、智くんと口にしながら、二人ともこちらを見ようとしないからかもしれない。
「カラダの具合は、どうなんだ」
それまで黙していた「父」が、おもむろに口を開いた。
「見たところは、だいぶいいようだな」
澤田が「はい」と頷くと、あんなに賑やかだった室内に沈黙が落ちる。
もっと詳しい説明を待たれているのだ。そう気づいたものの、何をどう言ったものか、言葉に窮す。
リハビリのメニューをきっちりこなし、メンテナンスも怠らない。そうしているかぎり日常生活に支障がない程度に動けるし、多少は食べられるようになったおかげで体力も少しはついてきた。風邪をひいたり熱を出したりということも、減ってきている。
だが、うっかり寝付いてしまい、リハビリを休まざるをえない状況に陥ると、たちまち筋力は衰えて、体中にガタがくる。まだまだ全快にはほど遠く、ほんの少しの油断が命取りとなってしまうということだ。
と、そんなことをこの人たちに伝える必要はどこにもない。
それならば、何を言えばいいのだろう?
「まずはね、健康が一番よ」
並んで座った「母」が、頷きながらそう言った。
「元気でいてくれさえすれば、それでいいわ」
本当は、それだけではないのだろうことはわかっているが、「はい」とだけ答えて視線を落とす。
心配かけて、ごめんなさい。ぜんぶ思い出したから、もう大丈夫。安心してね、お母さん。
この人たちが待っているのは、そういう言葉であるはずなのに。
「ねぇ、それっておみやげ?」
再び立ち込めそうになる沈黙を、「次姉」があっけらかんと打ち払った。視線は足元に置いたまま、渡しそびれていた紙袋に向けられている。
「智くんにしては気が利くじゃない」
「いや、自分ではそこまで気がまわらなくて、アドバイスされたんです」
「もしかして、和人くん?」
耳打ちする「母」に「はい」と答えると、「やっぱりね」と返ってくる。そっと笑みを交わす二人の様子に、「次姉」がひょいと眉を上げた。
「ナニよ、お母さん知ってる人?」
「かわいくて、人懐こくて、すっごくいい子なのよ。若いのによく気がついて、入院しているときも、智くんがすっかりお世話になってね」
「へー」
いつのまにか包装紙をはがし、缶から煎餅を取り出していた「姉」二人が声を揃える。
「あ。このお煎餅、こないだ雑誌に出てた! 『季節限定・桜煎餅』って、人気なんだって」
「ちょうどいいわ。私もおみやげ持ってきたのよ」
「長姉」は身軽く席を立つと、ケーキ箱と取り皿を手に戻ってくる。
「智くんは甘いのダメだけど、プリンだけは好きだったじゃない」
と言いながら、澤田の前にカップ入りのカスタード・プリンを置き、自分の皿にミルクレープを乗せ、お母さんはモンブラン、あとはお好きなのをどうぞ、と箱ごと妹の手に渡す。
「そういえば、智くんの誕生日にお母さんが大きいプリン作ったことがあったよね。ひっくり返すのがタイヘンで、スプーンで掬って食べたんだっけ」
「それは試作品。もうひとつのはきれいに型からはずせたんだけど、お姉ちゃんたちが生クリームとかチョコレートとかたっぷり乗っけちゃって、けっきょく智くんは食べられなくなちゃったのよ」
「あー。お母さんにすっごく怒られたの、覚えてる!」
「だって、やめなさい、って言ってるのに、ぜんぜん言うこと聞かないから。智くんの誕生日なのに、どうして智くんがイヤがることするのよ」
「母」は、今もまだ怒っているような口振りで「次姉」を責める。
「誕生日だからよ! 私たちとしては、デコレーションケーキみたいに飾ってあげたら、智くんが喜ぶと思ったんだって」
「生クリームが苦手で、そのデコレーションケーキが食べられないから、かわりにプリンを作ったのよ?」
「そーなんだけどさー。ほら、私たちも子供だったから、自分が嬉しいことは智くんも嬉しいはずだって、思い込んじゃったんだよねー」
「次姉」は屈託なく笑って、生クリームをたっぷりくるんだバナナ・オムレットを幸せそうに頬張った。
「お姉ちゃん、これすっごくおいしい!」
「長姉」は「でしょ?」と頷いてから、トートバッグを引き寄せる。
「私もあのときのプリンケーキを思い出してね。旦那に古いビデオをDVDに焼いてもらって、持ってきたのよ」
「うそ! 見たい見たい!」
「笑っちゃうのよ。うちの優羽ちゃん、智くんのこと大好きじゃない? これは優羽ちゃんと同じ、五歳のときの智くんだよ、って教えたら、智くんかわいい、優羽ちゃんちっちゃい智くんも好き、やっぱり智くんのお嫁さんになる!って、めっちゃ盛り上がっちゃって。パパったら焼き餅やいて、敵に塩を送っただのなんだのって、今朝もまだぶつぶつ言ってたわよ。『叔父と姪は結婚できないんだぞ』とかしつこく言うから、最後には『パパきらい!』って泣かれちゃって」
「お義兄さん、優羽ちゃん溺愛してるもんねー」
「三人きょうだいの末っ子は、みんなそうよ。うちも女の子は優羽ちゃんだけだし」
と、並んで座る「母」と澤田を意味ありげに見遣りながら、居間の大型テレビのスイッチを入れた。
そこからは、「澤田家の歴史鑑賞会」が繰り広げられることと相成った。
「長姉」がそういうものを選んできたということもあるのだろうが、映し出された映像でも、「実家」に保管されていたり「姉」たちが持ち寄ったりしたアルバムでも、いつでも「智くん」が「家族」の中心で、大事にされて甘やかされて、生まれたばかりの赤ん坊が幼児になり学齢期を迎えどんどん大きくなっていく。笑ったり泣いたり拗ねたりしている自分によく似た幼い人物が、いかに彼らに愛されているか。それはちょっと擽ったくて、どうしようもないもどかしさのようなものも呼び起したけれど、決して悪い気持ちはしなかった。「父」と、「母」と、「長姉」と、「次姉」と、思い出の品を囲んで懐かしそうに語り合う姿はいかにも楽しげで、ああいい「家族」なんだなぁと、そんな風に自然と思えた。
いつしか滞在時間は大幅に予定を越えており、窓外に夕方めいた気配の漂いはじめたのを機に、澤田が「そろそろ」と暇を告げようとすると、ちょうどそのタイミングで「母」に食事をしていくように勧められた。何を言う間もなく「姉」たちが同意して、そのうえ自分たちも相伴に預かると言い出して、「母」に「もうおかずも作ってあるから」と言われてしまうと、断ることはできなかった。
それならばと、「母」といっしょに台所に立った。昔ながらの小さな炊事場で、二人で並んで作業するには狭すぎて、皿を出したり調味料を渡したりする程度のことしかできなかったが、「母」はとても嬉しそうで、「向こうで休んでなさい」と言いつつも手放しかねる様子で、たえず話しかけてはニコニコしていた。ちらりちらりと振り返り、何度も何度も「息子」を見上げて、こっそり涙ぐんでいた。
すっかり娘気分に戻ったらしく、自分ではぜんぜん手伝う気もない「姉」たちに、「アンタは昔っからそーやってお母さんにくっついていたわよねぇ」「そうそう、智くんはお母さん子だったから」と冷やかされながら、自分でもなんとはなく「母」のそばを立ち去りかねて、いっしょに「家族」五人の食卓を整えた。
並べられたのは、恐らく「智くん」の好物ばかりなのだろう。残念ながら多くを食べることはできなかったが、コロッケも、唐揚げも、かぼちゃのきんぴらも、牛蒡サラダも、高野豆腐の卵綴じも、何を口にしても旨かった。自分の作る料理の基本は、この味なのだろう、そう思った。
「それじゃあね、智くん。これからはもっとしょっちゅう顔出しなさいよ」
「元気そうで安心したわよ。またね」
食べきれなかった分は、「姉」たちがてきぱきと容器に詰めて、「パパたちのお弁当にする」ということになり、最後まで明るく賑やかに、二人いっしょに帰っていった。
「母」は「いいわよ、そんな」と固辞したが、洗い物だけはさせてもらって、今度こそ「それでは」と辞そうとすると、「もう遅いから、泊まっていきなさい」と居間から出てきた「父」が言った。
「そうよ、そうしなさい。いつ来てもいいように、パジャマも下着も新しいのを用意してあるのよ。布団だって、ちゃんと干しておいたんだから」
腕を抱き留めるようにして言い募る「母」を無下にはできず、まったく思いがけないことに、「実家」に泊めてもらうことになってしまった。
「両親」はまだまだ話していたそうだったが、それでも「疲れているだろう」と、早めの就寝を勧めてくれた。
実のところ、かなり疲労してはいた。しかし、
「ひとりでお風呂入れるの? お父さんにいっしょに入ってもらう?」
という申し出は、もちろん謹んで遠慮する。トイレと風呂だけは自分ひとりでなんとかできるようにする、というのが本格的にリハビリをはじめてから掲げていた目標で、それをクリアできたからこそ、退院したのだ。
そうして狭くて急な階段を上り、二階の「智くんの部屋」に案内された。
就職するまで暮らしていたというこの部屋も、シンプルで無駄な装飾が何もない。ベッドと、勉強机と、幼い頃からの愛読書が並んでいるらしい本棚と。「澤田くん」らしいな、という気はするものの、「自分の部屋に帰ってきた」という感慨は特にない。
ただ、たぶん眠れないだろうな、と思っていたにもかかわらず、不思議なくらい、すっと眠りに落ちていた。夜中に何度か「両親」の足音を聞いた気もするが、それでも深く安らかな眠りにつくことができた。




