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春を待つ日々  作者: 苅野しのぶ
山笑う
31/34

(4)

 バス通りへ出るまでの道順は、いつもと同じ。しかし今日は、反対側に道を折れる。

「そういえば、退院してからはじめてじゃない? 澤田くんが駅に行くの」

 こうして杖なしで歩けるようになってからも、まだまだムリは禁物とはいえ、日常生活を普通に送れるようになってからも、澤田は事務所と病院とその間にある商店街という閉ざされた円の外側に出ようとしない。そういう気分になれないのか、それとも身体的に不安があるのか。もしかして、あれもダメ、これも危ないとか俺がウルサく言い過ぎたせいもあるのかな、と、和人はちらりと隣りを歩く澤田を見上げる。

「ん?」

「なんでもない」

 ぷるぷると首を振ってから、気を取り直した和人はいつもの調子でつけつけと言った。

「澤田くん、本当にひとりで大丈夫なの? 電車の乗り換えとか、できる?」

 澤田はジャケットのポケットをポンと叩いて、頷いてみせる。

「乗り換え案内も、最寄り駅からの地図も、調べて印刷して持ってきた。それにな」

「うん?」

「路線図やなんかは、覚えてるんだ」

「ああ。そっか」

 澤田は「うん」と頷いて、かすかに笑う。

 忘れてしまったのは、どうしても思い出すことができないのは、自分に関する記憶だけ。「実家」の最寄り駅はわからないのに、駅名を聞けば、あれに乗って、ここで乗り換えて、こうやっていけば効率がいい、というルートはすぐに浮かぶ。

「……そっか」

 和人はもう一度呟いて、足元に転がっていた小石を蹴飛ばした。


 なくした記憶は、無理に取り戻そうとしない方がいい。

 主治医のひとりに、そう言われていた。

 生きるために必要な処置であると脳が判断した結果なのだから、無理やり思い出させようとすると、精神だけではなく肉体的にも、多大なダメージを与える恐れがある。本人が今の状態に耐えられないというのなら話は別だが、うまく適応できているのであれば、これがある意味「正解」なのかもしれません。


 つまり、澤田くんは、これから先生きていくために、過去の自分を全否定したってことなのだ。自分という人間を一度完全にリセットしなければ、生きることができなかったってことだ。

 そんなのって、ゼッタイおかしい。

 確かに、無口で不愛想で感じ悪いなと思ったことはいっぱいあるし、礼儀だなんだって鬱陶しいなと思ったことも多々あるし、やたら秘密主義でそんなに俺たちを信用できないのかよ!ってムカついたことも数え切れないほどあるけれど、だからといって、昔の澤田くんがなにもかも全部ダメだとは、誰にも言えないし、言わせない。たとえ澤田本人がそう言い張っても、そんなのゼッタイ認めない。

 でも、だけど。

 この人は本気でやったんだ。本当にやってしまったんだ。そうしなければ、どうしても生きることができなかった。

「なんでかな」

 悲しいことやつらいことが、たくさんあったのは知ってるけど。忘れられるものなら忘れたいって願うのも、ムリはないとは思うけど。

 澤田くんが悪かったから、ああいうことになったわけじゃない。少なくとも、澤田くんひとりだけが、なにもかもぜんぶ悪かったなんてはずがない。

 路線図も、電車の乗り方も、ぜんぶ忘れちゃってもよかったのに。そんなことより、覚えてて欲しかったことはたくさんあるのに。

 澤田くんひとりが負うべき義務や責任なんて、ぜんぜんまったくどこにも存在しないんだってことを、ちゃんと知っててもらいたかったのに。

「和人?」

 和人は再びぷるぷるっと仔犬のように首を振って気を取り直すと、バス通りから一本奥に入った道にある、仕舞た屋風の小体な店を指さした。

「澤田くん、なんかおみやげ持ってった方がよくない?」

 澤田は一瞬きょとんとして、それから小さく頷いた。

「ああ。そうか。そうだな」

「お母さんは大福もケーキも好きなの知ってるけど、お父さんはどうかわかんないからさ」

「うん」

「澤田くんが甘いのダメなの、お父さん譲りかもしれないでしょ? だから、煎餅なんてどうかと思って。デパ地下とか、どこでも買えるのじゃつまんないし、あの店なんてどうよ」

 格子のはまった窓から、父子らしい作務衣姿の職人が二人、炭火で煎餅を焼いているのが見える。

「この町の密かな名店なんだよ。ちょうど今日から、名物の桜煎餅が発売なんだ」

 花の時期にはまだまだ早いが、一足先に、春の便りというのもいいだろう。桜の葉が練り込まれ、塩漬けの花弁が添えられた、桜の花の形をしたかわいらしい小振りの煎餅だ。

 澤田は勧められるままに、缶入りのをひとつと、袋入りのをひとつ、応対に出てきた息子らしき方から購うと、袋入りのを和人に渡した。

「え?」

「お前たちの、今日のおやつだ」

「いいよ、そんなの!」

「教えてもらったお礼だよ。言われなかったら、手ぶらで出向くところだった」

 やっぱり、どこか抜けてるな。澤田は自嘲気味にぼそりと言って、煎餅屋の紙袋を片手に、駅に向かって歩き出す。

「たぶん、それでいいんだけどね、澤田くんは」

 ヘヘッと笑う、和人の声に潜んだ何かが気になり、澤田はわずかに首を傾げた。

「俺は、なんか怖くて」

「怖い?」

「そ。父親の奥さんは若くてかわいくていい人だし、ちっこい弟と妹にも懐かれてるし、あの家に顔を出しても邪険にされないのはわかってるけど、なんか手みやげでもないと間がもたないっていうか、今日はなんにもないってわかった瞬間、いきなりガッカリされちゃったらどーしよーとか」

 和人は澤田と目を合わせずに、おどけたような口調でつづける。

「ま、ほんとにヤバいのは『おかーさん』って呼ぶとマジギレする、いまだ現役で恋の狩人やってる母親で、こっちは気の利いたみやげがないと、本気で怒り出しちゃうわけ。バカにされてるっていうか、軽く見られてるって思うんだろうね。常に自分が主役の人だからさ」

 悪い人ではないのだ。機嫌のいいときには楽しい女性で、和人を年下の恋人のように扱って、愉快なひとときを共有できる。ただ、そのご機嫌の雲行きがいつどう変化するのか誰にも読めないのが問題で、最終的には突然のスコールに濡れ鼠となって退散することになってしまうのが困りものだ。

「その点、澤田くんちは澤田くんが主役だもんね。お父さんもお母さんも、澤田くんの顔を見られるだけで嬉しいんだからさ、みやげなんてあってもなくてもどうでもいいんだよ」

 ひょっとすると、あの気難しそうなお父さんは、コドモが余計な気を使うんじゃない、とかかえって怒っちゃったりして、と和人は内心ぺろりと舌を出す。

 澤田は何か考えるような顔つきで、そのまま黙って歩きつづけた。

 こういうとき、すぐに適当な相槌を打ったりとか、その場しのぎの気休めを言ったりとか、しないんだよね、澤田くんは。澤田くんの口が重いのは、心にもないことは口にしないからだ。何も言わないけど、聞いてないわけでも聞き流してるわけでもなくて、きちんと考えて、受け止めてくれている。だから、澤田くんの無言はキライじゃない。怖かったり気まずかったり居たたまれない気にさせられることもあるんだけど、けっしてイヤな沈黙じゃない。

 信号待ちのために足を止めると、澤田はふぅっと吐息をついて、ぼそりと言った。

「人の気持ちっていうのは、不自由だな」

 ときに、好意や善意がそのまま届いてくれないことがある。もつれ合って絡まって、誰にもどうにもならなくなる感情がある。ほんの小さなかけ違いが、取り返しのつかない結果をもたらす。

 和人が気働きがいいのは賢いからだが、幼い頃からそういう自分であろうと努力してきたからでもあるのだろう。明るくて、楽しくて、優しくて、それが本来の性質であるというのも間違いないが、意識して獲得してきた部分もあるのだろう。

 彼らといるときの和人は、自然体に見える。好き放題を言って、甘え上手で調子がよくて、みんなに愛されかわいがられている。

 和人にそういう場があって、彼がそういう仲間を見つけられて、本当によかった。

 「澤田くん」も、そう思っていたに違いない。

「和人のみやげが喜ばれるのは、心が籠もっているからだ」

「え?」

「これも、和人がわざわざ選んでくれたんだって伝えたら、きっと、喜んでもらえると思う」

 煎餅屋の紙袋を、そっと揺らした。

 値段や世間体や形式ではなく、相手の身になって、喜ぶ顔を思い描いて、誠意を込めて選んだ贈り物。和人のまっすぐな気持ちが伝わるから、みんな和人からのプレゼントを楽しみにしているのだ。

「そんな、わざわざ余計なこと言わなくていいよ。お母さん、ガッカリするかもしれないじゃん」

 照れているらしく、形のいい耳を赤くして口を尖らせる和人に、澤田は小さく笑って「いいや」と言った。

「電話のたびに、いつも和人の話をするんだ」

「お母さん?」

 そう、と澤田は頷いて、青信号に変わった横断歩道を歩き出す。

「和人くんが、和人くんは、って、いつも」

「それは、ほかにテキトーな話題がないからでしょ。澤田くん自分からはぜんぜん喋んないし、天気と体調の話くらいしか、することないんだから」

 まあ、そういう面も確かにある。だが、それだけではないだろうとも澤田は思う。

「『和人くんはいい子だ』って、言ってたよ」

「もう、ちょっと、やめてよそーゆーの!」

 和人はいよいよ耳を真っ赤に染めて、ずんずんと前を歩いていく。小柄な背中を怒らせて、自然と歩調が速まって、そのまましばらく行ってから、ふと我に返ったように後ろの澤田を気遣い速度を落とすが、立ち止まる様子はまったくない。

「そういえば、和人の用事って、なんなんだ?」

「用事?」

 肩越しに振り返る和人の眉が、不審そうに寄っている。

「駅前に用事があるって、言ってただろ?」

 だから一緒にここまで出てきたはずなのだが、和人は脇目もふらずに駅に向かっているようにしか見えない。

「ああ! 用事っていうか、あれね! ちょっと本屋にでも行こうと思ってさ!」

 和人は慌てたように、早口に言う。

「本屋なら、スーパーの三階に入ってるだろ。あっちの方が近くないか?」

「あそこは俺が読みたいような雑誌がぜんぜんないの! 澤田くんも言ってたよ。駅前にできた新しい本屋は、品揃えがマニアックでおもしろいって」

 和人は何気なく言ってから、ふと気づいた。

 そういえば、あの事故以来、澤田は本を読まなくなった。活字を追うと目がまわるとかで、時間をかけて新聞を読む以外は、「なんでも屋」関連の報告書を丁寧に見ていくだけだ。

 つまり、そういうことなんだ。

 どんなに見た目が改善されても、元通りにはほど遠い。知らない人が見たら「ふつう」だと思うだろうけど、そもそも澤田くんは「ふつう」じゃない。ちょっとした動きや仕草に人とは違う「間」があって、そのなんてことない立ち居振る舞いに、「色気」みたいなものが醸し出される。そういう男なんだから、この人は。

「その本屋って、ここのことか?」

「そうだけど、ついでだから、改札口まで送ってく」

 一階の駅のロータリーに面した部分は花屋とカフェ、その奥に広がるらしいなんとはなくノスタルジックな雰囲気の書店を眺める澤田の隣りを、どういうわけかちょっとムクレた和人がすたすたと行く。

 「用事」は単なる口実で、はじめからそのつもりだったのだろう。澤田をひとりで行かせるのが心配で、駅まで見送りにきてくれたのだ。

「ありがとな」

「ナニそれ。意味わかんない」

 照れるとつっけんどんになる和人に小さく笑って、澤田はその後ろをゆっくりと歩く。

 小柄で華奢な作りをしているが、和人は案外逞しい。無難でオーソドックスを旨とする自分とは対照的に、お洒落な和人の着こなしは、遊び心があってセンスがいい。上背はないがスタイルがよく、丈の短いブルゾンがよく似合っている。いかにもイマドキの若者で、そのくせへんに古風なところもあり、そのどちらもが「和人らしさ」になっている。

 「澤田くん」は把握していたのかもしれないが、自分は和人の生い立ちも家庭環境も何も知らない。それでも、和人がどういう人間なのかということは、正しく理解できている。そう言い切ることができる。

 なんでだろうな、とそんなことを思いめぐらせながら歩いていると、和人が不意に振り返った。

「澤田くん、帰りも電車だよね?」

「ああ」

「俺、たぶんこのへんフラフラしてるから、出るときに電話してよ」

「すぐに帰って、サンドイッチ食べるんじゃなかったのか?」

「そうだけど! 午後から映画でも観に行こうかなーって思ってるから!」

 ムキになる和人に、「そうか」と笑みをかみ殺して頷いて、顔を上げるとその先に改札が見えた。

「それじゃあ、ここで」

「うん。気をつけてね。お母さんによろしく」

「ああ」

「お母さんの前でカッコつけて、ムリしたりしないでよ!」

 カッコつけるというか、気を使うというか、どんなに言ったところである程度ムリをするのは目に見えている。そもそも今回の「実家訪問」そのものが、けっこうな「ムリ」でもあるんだろう。でも、だからこそ、あんまり無茶はしないで欲しい。

「カッコつけたくても、つけようがないさ」

「え?」

 澤田の声にはどこかひんやりとした響きがあって、和人からすっと表情が消えた。

「今の俺は、空っぽだからな」

 薄く笑って見下ろしている、澤田の何も持っていない左手は、ちょうど猫の仔一匹乗せているような、そんな形をしているように和人には見えた。


 二年前、和人が拾ってきたばかりの頃の水無月は、ちょうどあれくらいの大きさで。そんな水無月を、大事そうに、愛おしそうに、ああして抱いていた人が、あの頃にはいて。


 ちゃんと見れば、もちろんぜんぜん違うのだけれど、澤田と彼女はよく似ていた。背が高くて屋せっぽちで、どちらも滅多に笑わなくて、白シャツにジーンズみたいな格好ばかりなのも、ほったらかしでさらさらの黒髪がすぐに伸びすぎてしまうのも、そっくりだった。

 彼女が澤田を慕う気持ちが、自然とそうさせていたのだろうと広瀬は言った。彼女は澤田が好きで好きで大好きで、無意識のうちにそうなってしまったのだろう、と。

 だとしたら。

 今こうして、あの頃の彼女そのもののように、そこにはいない水無月を抱くようにして、澤田がひっそりと佇んでいるのは。空の掌に視線を落として、無数に刻まれた古い傷痕だけを見つめて、なくした何かを悼んでいるように見えるのは。

「空っぽじゃ、ないよ」

 思い出すことはできないのかもしれないけど、彼女はちゃんと、そこにいるんだ。

 だから、さっきだって。

 水無月が将のところに逃げ込んだとき、広瀬くんが誰を思い浮かべているのか、すぐにわかった。将も馨も、やっぱりわかっていたと思う。

 澤田くんにかまってもらえなくて悲しいとき、水無月がまず向かうのは、彼女のところだったから。そうして二人で、慰め合うようにしていたから。

 誰もなんにも言わないまま、同じ人のことを思い浮かべた。四人がそれぞれ彼女を思い、そうしてふっと視線を向けると、澤田がやわらかな笑みを浮かべていた。

 まるで、あの頃の彼女のことを、彼ら同様、思い浮かべているかのように。ただ懐かしく、慕わしい思い出が、そっと呼び覚まされでもしたかのように。

 ふわりと自然に、はじめて見るような優しい表情を浮かべていた。

 だから。

「澤田くんは、空っぽじゃない」

 そうくり返してから、和人は澤田の目をまっすぐに見つめた。

「事故の後のことは、少なくとも、一般病棟に移って体調が安定してきてからのことは、覚えてるんでしょ?」

「……ああ」

「だったら、もう半年以上だよ。それだけの記憶は、ちゃんとあるんじゃないか」

 つまりそれは、今こうして生きていて、これからも生きていこうとしている澤田にとって、自分たちは邪魔ではないということだ。つらくて、苦しくて、忘れてしまわないと生きてられない。そういう存在にはならずに済んだということなのだ。

「しっかり覚えといてよ。何倍にもして返してもらうつもりで、せっせと恩売りつけてるんだからさ」

 わざと恩着せがましく言ってやると、澤田は唇の端に笑みらしきものを薄く浮かべて、頷いた。

「じゃあね! 気をつけて!」

「和人もな」

「って、コドモじゃないんだからさー」

 不服げに口を尖らせてから、自分も年上の澤田に向かって同じことを言っているのだと思い至る。

 和人はきゅっと口を噤むと、バイバイ、と手を振って、改札の向こうに消えていく澤田を見送った。

 そうして澤田が振り返ることなく、ホームへの階段を上がっていくのを確認して、自分も改札を通り抜けた。




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