(3)
この日の朝も、水無月は馨に連れられやってきた。
「おはよう、水無月。相変わらずおきれいですね、お嬢さん?」
水無月は着道楽で、出張先がフレンチ・カフェならトリコロール・カラーのリボンを結び、イタリアンのリストランテならヴェツィアングラスのチョーカーをつけてくる。本日の舞台はすっかり馴染みとなった蕎麦屋なので、紅色の濃淡と白で編まれた真田紐を巻いていた。
「清さんがすっかり悪ノリしちゃってさ。二人で前の晩から衣装合わせするんだよ」
キャリーバッグを脇に寄せながら、馨がぼやく。
もともと水無月をかわいがっていた亡母のばあやは、クリスマスにひとり屋敷に取り残された不遇を訴える猫に同情して、お手製の焼き菓子を携えこっそり事務所を訪問するという暴挙に出た。その折り、せっかくだからと金糸で縁取った深紅のベルベッドのリボンを結び、ヒイラギのコサージュまでつけてめかし込んだ水無月に、こちらもひとり淋しく留守番中の澤田が臆面もなく、「洋装もお似合いですね、お嬢さん」などとのたまわったものだから、二人の乙女はすっかり舞い上がってしまったのだ。正月には京友禅の端切れで作った摘み細工で艶やかに装い、先日のバレンタインには、茜色のシフォンのリボンを華麗に巻いてあらわれた水無月を見て、
「『あたしがプレゼント(はあと)』ってやつ?」
と和人はからかったが、澤田は「ヘップバーンみたいだな」とそっと優しくうち笑んで、猫のハートを撃ち抜いた。往年の銀幕スターを見知っているとも思えないのに、賛辞か否かは寸時に察せられるのが恋心。ためしに「ローマの休日」、「マイ・フェア・レディ」、「シャレード」、「昼下がりの情事」と順に見せたところ、猫はもっともらしい顔でテレビの前に陣取り動こうとせず、一緒に映画を見ていた馨の目にも、だんだん愛猫が可憐な王女や下町娘に似ていなくもないように映ってきたから不思議なものだ。
それ以来、「今日もかわいいよ」と澤田に撫でてもらった後、しゃなりしゃなりと気取って歩く水無月に「よう、女優!」と声がかかり、気位の高い猫は冷ややかな一瞥でそれに応えるものの、満更でもない様子でいたのだが、しかし。
「……」
今朝は澤田の横をするりと過ぎて、まっすぐにリビングに向かうと、陽当たりのいい窓辺に置かれた猫ちぐらにすっと入ってしまった。
「水無月?」
不思議そうに問いかける澤田に、シッポの先をちらりと覗かせたものの、それもすぐさま引っ込める。
「怒ってるのかな」
「みたいだね」
水無月が担当する案件には、広瀬と馨がつくことになっている。そこに澤田までもが加わるのは、水無月がどうしてもとせがむからで、水無月が状況に慣れるまでは、それくらいのワガママは聞いてやろうということになっていた。
幸いなことに、水無月は「仕事」が気に入ったものらしく、いつも機嫌よく出勤する。水無月を自分の店や家に招きたがるのは猫の扱いに長けた愛猫家だし、客の中に猫初心者が混じっていても、彼らが上手にサポートしてくれる。「キャット・ファースト」が徹底されて、水無月が不快な思いをすることはまったくといっていいほどない。もちろん、ときに加減を知らない子供や厚かましい大人がいないわけではないが、そんなときはちらりと澤田を振り返り、いたわりと励ましに満ちた眼差しを送られることで辛抱する。これが終われば、思う存分、澤田に甘えることが許される、どんなワガママだって聞き届けられると知っているからだ。
それなのに、今日は澤田が一緒にきてくれないのだという。水無月も充分慣れてきたし、これまで何度も行っている蕎麦屋だから、問題はない。勝手にそんなことが言い交わされ、水無月の必死の抗議は却下された。澤田は「ごめんな」と優しく頭を撫でてくれたし、昨日は好きなだけ甘えて甘えて甘え尽くしたが、だからといって蟠りが消えてなくなるわけではない。
「仕方ないだろ? 澤田くんは用事ができたんだから」
弟分の馨の説教がましい口振りが、繊細な猫の神経に障る。
「水無月に嫌われると、悲しいな」
心なしか本当に淋しげな口調で言う澤田に、馨は口を尖らせた。
「俺なんか、こんなのしょっちゅうだよ」
二人の気配が遠ざかろうとするのを察し、水無月は猫ちぐらからちらりと顔を覗かせたが、彼らが振り返りかけると、すっと中に引っ込んでしまう。澤田と馨は顔を見合わせ、苦笑した。水無月姫のご機嫌は、そう簡単には直りそうにないようだ。
「蕎麦屋組は昼飯付きだからいいとして、残りはどうする? 俺は十一時には出るから、好きなときに食べられるように、サンドイッチでも置いてくか」
気を取り直してキッチンに入っていく澤田に、ソファに寝転がっていた将が物憂げに言った。
「いいよ、わざわざ作んねーで。冷蔵庫の中のもん、適当に食うから」
「そんなこと言って、レンジで温めなおすのさえ面倒がるじゃないか、将は」
「んなことねーよ」
実際はその通りであるのだが、飄々と嘯く将に澤田は笑って、冷蔵庫の扉を開けた。
「食パンに余り物を挟むだけだ。いくつか置いておくよ。それとも、握り飯の方がいいか?」
「パンでいい」
そうか、と頷く澤田の視界の端を、小さな猫の姿がちらりと掠める。が、そちらに目を向けると、白っぽい影はささっと隠れてしまった。澤田がそのまま作業をつづけようとすると、再びこそっと頭の先を覗かせて、視線を送ると姿を消すという鬼ごっこがくり返される。
「澤田くんにおいてかれるってのもショックだけど、ジェラシーもあるんだよな、水無月?」
澤田と水無月のちょうど真ん中あたり、ダイニングの椅子に腰掛けた和人が猫に言う。
「ジェラシー?」
「自分が澤田くんの最初の猫じゃなかったことが発覚して、妬いてるんだよ。今日だって、自分を差し置いて別の猫に逢いに行くんじゃないかって、心配なんだよな?」
水無月が隠れているらしい、ソファベッドの背にかけたブランケットの裾が、もぞもぞと動く。
澤田は薄く切ったパンの上に、千切りキャベツと解凍したハンバーグを並べながら、水無月に聞こえるように声を張った。
「ちゃんと確かめたわけじゃないが、前に猫を飼っていた、という話だったと思うぞ。今も猫がいる、という印象は受けなかった」
「だってさ、水無月。よかったね」
和人が声をかけるも、ブランケットの膨らみに動きはない。
「もうそのへんで許してやりなよ。澤田くんが中学生の頃ってことは、俺たちがまだ生まれてないくらい大昔の話なんだぜ?」
「水無月はともかく、和人くんはいくらなんでも生まれてるでしょ」
隣りの椅子を引きながら、和人よりひとつ年下の馨が言う。
「えー。そーかなー」
そりゃあ、実際の年齢差を考えれば生まれているに決まっているが、感覚的には澤田ははじめっからずっと大人で、永遠に大人で、自分が生まれるもっと前から大人だったような気がするのだから仕方がない。
そんな会話の間にも、澤田はハンバーグのほかに、ゆで卵とピクルスを刻みマヨネーズで和えたタルタル風と、BLTの二種を三山拵えて、できあがったサンドイッチをそれぞれ二等分に切り分けてからラップに包み、皿に積み上げていく。
「付け合わせはポテトチップで勘弁してくれ。あとは、鍋にミネストローネが入ってる。おやつまでは手がまわらないから、各自で調達すること。いいな?」
「澤田くん、自分はどうすんの? 一時の約束ってことは、実家でお昼?」
「いや、そんなに長居するつもりはない。ちょっと顔を出すだけだ」
「てことは、昼抜き? ダメだよそんなの! 途中で倒れたりしたらどうすんの?!」
「念のため早めに出るから、向こうの駅に着いたら何か腹に入れるよ。今は食欲なくってな」
澤田の弁明に、「ふーん」と半信半疑な顔をする和人の後ろを、サッと猫が横切った。話題が自分から逸れてきたので、アピールしているものらしい。
「あれ? どうしたの、水無月」
二階から降りてきた広瀬が、足元を駆け抜けていった猫に首を傾げた。
「そーゆーお年頃なんだってさ」
「ふーん?」
テーブルの上のサンドイッチに「旨そうだな」と呟いてから、ぽんと馨の両肩に手をかける。
「そろそろ出るよ。準備はいい?」
「俺はね。水無月がすなおにキャリーに入ってくれるかは謎だけど」
猫が消え去った方向に、視線が集まる。
「出掛ける前に、ちゃんと説得していってよね」
広瀬に促されて、澤田が前に進み出た。
「なあ、水無月。仲直りしよう?」
隠れていると思しきあたり、ひとり掛けのソファに積み重ねられたクッションの隙間に声をかけるも、返事はない。
「出てきてくれよ。みんな待ってるぞ?」
澤田が一番上のクッションをそっと持ち上げると、猫が突然飛び出して、向かいのソファにいた将の懐に潜り込んだ。
「うお?!」
驚いてカラダを起こした将の胸に、顔を埋めるようにして丸くなる。
「なんで将なんだよ。拾ってきたの、俺なのに」
「飼ってるのは俺なのに」
和人と馨のブーイングにかまうことなく、水無月は将に甘えて「みぃ」と鳴いた。
「こういうときは、将なんだよなぁ、水無月は」
感慨深げな声に振り返ると、広瀬がやわらかな笑みを浮かべて目を伏せた。
「澤田に叱られたり、かまってもらえなかったりして悲しくなると、将に慰めてもらおうとするんだよ、昔から」
将と、本当はあともうひとり、水無月のお気に入りがいたのだけれど。お気に入りというか、魂の双子というか、似た者同士の不器用なのが、あともうひとり。
「そうなのか」
澤田もふっと表情を和らげて、将のもとに歩み寄る。
「水無月」
ソファの脇に跪いて、将の腕の中からわずかに覗く、小さな頭を優しく撫でて、囁いた。
「今の俺にとって、猫はお前だけだよ」
「……」
「お前だけが、俺の大事な猫なんだ」
将の胸に顔を埋めたまま、水無月がくぐもった声でかすかに鳴いたようだった。しかし、まだ隠れ家から出てくるつもりにはなれないらしく、将にしがみついている。
澤田はそっと、溜め息まじりの笑みを漏らし、もう一度猫の頭を包み込むようにふわりと撫でた。
「それじゃあな。あとは頼んだぞ、将」
「ああ。もう行くの?」
澤田は「うん」と頷いて、膝に手をつき慎重に立ち上がる。
「サンドイッチは多めに作ってあるから、津村にも声をかけてくれ。ついでにミネストローネも温めてもらえるだろ」
今度は将が「うん」と頷き、澤田はそのブロンズ色の髪をクシャリと撫でて、コート掛けにかけてあったジャケットを羽織った。
「あ。ねぇ、俺も行くよ!」
「ん?」
「駅前にちょっと用事があるんだ」
和人はすばやく自分のブルゾンを手に取って、反論する隙を与えずに玄関に向かう。
「すぐ帰ってくるから、俺の分のサンドイッチ、残しといてよ! それじゃあね、いってきます!」
パタパタと出て行く和人に急かされるような形になり、澤田は昨晩丁寧に汚れを落としておいたスニーカーに足を入れた。玄関に作り付けの棚には、履きならされた革靴が何足もある。「実家」に挨拶に行くというのなら、そのうちのひとつを選ぶべきなのかもしれないが、「澤田くん」の靴を履いて出掛ける気には、どうしてもなれなかった。とにもかくにも安全第一、今日はどうしても転んだり躓いたりするわけにはいかないのだからと自分自身に言い訳して、退院する際に用意したスニーカーを履いていくことにしたのだ。
澤田は、なんとなく玄関先に集まってきた三人を振り返ることなく、「じゃあ」とだけ短く言って、和人が押さえているドアの向こうへ踏み出した。
「みゃーーー!」
日頃おとなしやかな水無月の、小さなカラダを振り絞るようにして発した哀切な叫びは、ガシャンという無粋な開閉音にかき消された。




