(2)
「二月は光の春」なのだという。
確かに、明るくなるのは早くなった。でも、この風の冷たさはどうだ。一年で一番寒いのが、二月だろう。それが「春」ってどういうことだよ。
と、誰にともなくプンプンしながら事務所にたどり着いた和人は、まずは手洗いうがいだとバスルームに向かい、固まった。
「え……?」
通りすがりにチラリと視線を向けたまま、行きかけた足をピタリと止めて、体重計の表示を二度見する。
「うそ」
まじまじと数字を見つめてから顔を上げると、体重計に乗った澤田と猫が、してやったりというような、よく似た笑みを浮かべてこちらを見ていた。
「……ナニやってんだよ、まったく」
和人が憮然として澤田の腕から猫を奪うと、数値は呆気なく急降下する。一時期よりはだいぶましになったとはいえ、澤田が痩せすぎなのに変わりはない。
「つまり、ちょうど水無月一匹分だけ、目標体重に足りてないってことだよね」
「にゃ」
「そんなに澤田くんが好きなら、澤田くんのためにその身を捧げて、食べられちゃえよ。確か、そういう話があったよね? あれは猫じゃなくって、ウサギだっけ」
「にゃあ」
「気にするな、水無月。どんなに飢えてもお前を食べるつもりはないし、そもそも俺はあの話が好きじゃない」
「えー。そうなの? なんか意外」
和人の言葉に、澤田の方が驚いたような面持ちになる。
「どうしてだ。神様ともあろうものが、ウサギの忠誠心を試した上に、見殺しにするんだぞ? イヤな話じゃないか」
「そういう風に言われると、アレだけど」
和人は水無月のノドを擽りながら、首を傾げる。
「澤田くんてさ、助けを求められる前からさっさとひとりで山に行って、狩りのついでに付け合わせのキノコとか山菜とかも採ってきて、みんなに手料理振る舞ってくれそうじゃん。しかも、うまく輪に入れないでしょんぼりしてる、みそっかすのウサギのフォローも忘れない。いっぱい木の実のなってる茂みにさり気なく誘導して、『ウサギがデザートを持ってきてくれたぞ』なんて、手柄を立てさせてやったりして」
「その合間に、ウサギを泣かせた狐とサルを、きっちりシバき倒してな」
「そうやって、すっかりウサギのハートを鷲掴みにしちゃうんだよね、罪なことに」
いつのまにかバスルームの入口に集まっていた将と馨が、おもしろくもなさそうな顔で付け加えた。
「なんというか、その……」
三人と一匹の視線を一身に浴び、澤田が思わず口ごもる。責められているわけではないが、なんとはなく追いつめられたような気分に陥り、なんとも居たたまれずに、わずかな隙をついてバスルームから脱出した。
「随分と働き者なんだな、『澤田くん』は」
ボソリと呟き、逃げるようにして廊下に消える痩せた背中に、図らずして三人の声が重なり合う。
「アンタだよ」
ほかの誰が、ウサギと狐とサルの三匹に託された任務をひとりでこなし、現世では報われないはずの話をハッピー・エンドに持ち込むという、神をも恐れぬ離れ業をやってのけるというのだ。
今日こうして三人がいそいそと集まってきたのだって、「なんかおやつある?」という和人からのメールに、「小豆粥の残りの小豆で、汁粉を作ってみた」という返信があり、それをみんなに転送したからだ。自分は甘いものが苦手で、作ったところで食べられないくせに、朝からせっせと小豆を炊いて、広瀬に味見をしてもらったのだという。餅だって、ホームベーカリーによる自家製だ。
馨が家庭教師をしている中学生を連れ出して、遠足に行くことにしたと言えば、翌朝には四人分の弁当と、誰が食べてもいいからと、ひとり分のランチプレートが自動的に用意される。本人は否定するが、食べ盛りの青少年が十二分に満足するだけのハンバーグやエビフライやポテトサラダや卵焼きを拵えるには、ほとんど徹夜しなければならなかったはずだ。
「にゃ」
水無月はするりと和人の腕からすり抜けると、愛しい男のもとへと向かう。
「お前は餅はやめておこうな? 『吾輩』みたいに、踊りを踊るハメになったらタイヘンだ」
「にゃお?」
「『ワガハイ』って?」
水無月と並んで小首を傾げる和人に、馨が答える。
「漱石の猫だよ。摘み食いした餅が歯にくっついて、苦しんでるのを『猫が踊ってる』って笑われるんだ」
「にゃお」
不穏な目つきで飼い主を見据える水無月に、「俺が笑ったわけじゃないから!」と馨が口を尖らせた。
「ほら、姉弟喧嘩はそれくらいにしておけ。餅は二切れずつな。あんまり食い過ぎると、夕飯が入らなくなるだろ」
「別腹だから、大丈夫だよ」
「夜はナニ?」
「オムライスだ」
「よしっ!」
嬉々としてキッチンについてきた将が、盆を手に取るついでに作業台の上をチラリと見遣ると、玉ねぎ、ピーマン、マッシュルームが山となり、あとは炒めるだけの状態になっていた。ピーマンは好きじゃないんだけど、澤田のチキンライスのピーマンだけは、うまいと思う。入ってないと物足りないくらいだ。
「どうした?」
「ベツに」
笑いをかみ殺すように唇を引き結んだ将に、澤田は訝しげな顔になるものの、気を取り直すようにお玉を手にした。
「熱いから、気をつけてな」
澤田が椀にとろりとした小豆をよそい、焼き網の上でぷくっと膨らんだ餅を添えていく。三人分の椀が揃ったところで「頼んだぞ」と言うのを聞きつけて、将の後ろから和人が咎めるような声を上げる。
「澤田くんのは?」
「そう言われると思ってな」
澤田は小さく笑うと、大根下ろしをてんこ盛りにした小鉢を和人に示した。
「あ。からみ餅?」
なるほど、それなら甘いのが苦手でも食べられるし、「そっちもウマそーだなー」とネダられてもいいように、多すぎるくらいの大根を用意したというわけだ。
「あとで一口もらっていい?」
澤田は頷き、足下にまとわりつく猫にそっと微笑む。
「お嬢さんには、こちらの高級煮干しをご用意しますよ」
「にゃおん」
愛しい澤田に好物の煮干しを供されるとあって、水無月がこの上なく幸せそうに一鳴きした。
「なんだよ、かわい子ぶっちゃって。この猫っかぶりが」
「まあまあ、そう妬くなって」
「水無月は今や、うちの一番の稼ぎ頭だからな。この煮干しも自分でゲットしたんだろ?」
「にゃ」
「お前たち、こんなところで喋ってないで、温かいうちに食べてくれよ。馨、そこのしば漬けも持ってきてくれ」
「はーい」
「へーい」
「ほーい」
「にゃー」
ダイニング・テーブルに皆がつくと、さも当然のように、水無月は飼い主ではなく澤田の席の足下にちんまりと座す。
澤田と猫と、イジケた馨。
それはもうすっかり見慣れた光景で、「馨にも優しくするんだぞ?」と澤田は律儀に窘めるが、水無月が殊勝な顔をして見せるのはそのときだけで、澤田の目の届かないところでは、相変わらず女王然として振る舞っている。広瀬には自ずと敬意を払っているし、動物の扱いに長けた「ペット・マスター」和人も、当然認められている。将は気が向いたときにかまうだけだが、昔から一目置かれているというか、水無月とは互いに認め合った間柄。つまり「下僕」扱いされているのは馨だけで、それがまた馨には納得いかないというわけだ。
むっつり餅を食べる馨の隣りで、和人が猫に話しかける。
「またオファーがあったんだって? 水無月」
「にゃ」
「今月だけで何度目だよ」
「本当は毎日だって来て欲しいって言われてるんだよな?」
「にゃおん」
どこか誇らしげな澤田の口振りに、水無月は品よく慎ましやかに、ほっそりとした首をすっと伸ばす。
それは、ひと月ほど前のこと。
澤田がいつものリハビリを終えて病院のロビーへいくと、広瀬がソファに座っていた。留守番ばかりで気の毒だから、水無月を連れ出したのだという。そうして向かったのが猫好きの店主が商う評判の蕎麦屋で、澤田と広瀬は蕎麦を堪能し、店主は美猫にメロメロになった。
「ぜひまたいらしてください!」
と割引券の束を渡されたのみならず、写真の撮影と、店のブログへの掲載許可を求められ、飼い主である馨に確認のうえ了承したところ、予想以上の反響があり、「この猫ちゃんに会いたい!」「次の来店はいつですか?」という問い合わせが複数あったため、いっそのこと、「水無月さんと本格手打ち蕎麦を楽しむ会」を催させて欲しいと打診されたのだ。
そんな依頼は想定外だが、試してみるのも悪くはないということで、郊外にある古民家風の店の片隅に、床几が据えられ、水無月のために小豆色の座布団まで誂えられた。窓の外には薄紅色の枝垂れ梅が咲き綻び、予約をした猫と蕎麦を愛する客は、食事の前でも後でも好きなときに、水無月の許す範囲で彼女を愛でることが認められる。プライドも高いが外面のよさも抜群な水無月は、終始品よくおとなしやかに、見事な客あしらいをみせ、店主も客も大満足。初回はお試し価格で、担当者である広瀬と馨の蕎麦代が出張費がわりという約束だったが、水無月のたっての希望で付き添うこととなった澤田に加え、おもしろがってついてきた将と和人にまで特製蕎麦御膳が振る舞われたほか、水無月には高級煮干しと鰹節が進呈された。
そうして初のイベントが無事に成功し、今後は定期的に開催したいという話になってからは、水無月も正式なスタッフとして登録し、きちんとした料金も設定した。「なんでも屋」の公式サイトでも水無月の仕事ぶりを紹介したところ、自分では飼えないけれど猫と触れ合いたい個人や、そういった人たちの需要を見込んだ商店主などから「レンタル美猫」の依頼が殺到。水無月のコンディションや派遣先の状況などを勘案して、慎重にオファーを受けるようになった現在、水無月はすっかりここの看板娘となっている。
そして、水無月の魅力というか、威力というかがさらに波及した結果。
「そういえば、澤田くんの内職の方はどうなの?」
馨の問いに、和人が答える。
「順調順調。ほっとくとまた根詰めるから、受注制限してるんだけど、だいぶ手際がよくなってさ」
ね、と同意を求める和人に、澤田は苦笑するほかない。
ことの発端は和人で、「こんなのあるんだって」と持ってきたのは「猫毛フェルト」なるものを紹介した雑誌記事。
「水無月の毛で、水無月のフィギュアとか作ったら、超絶かわいいよね!」
そんな話に耳を傾けている澤田の膝で、水無月が同意を示すように「にゃあ」と鳴き、「ほらほら、水無月も乗り気だってさ」などと身を乗り出されると、もう断るのは難しい。水無月の毛を集め、洗い、手芸店で買ってきた羊毛フェルト用の針でチクチクとやって、全長五センチほどの「ミニ水無月」を完成させた。耳と額の小豆色も再現し、臙脂の刺繍糸を首に結んだところ、我ながらなかなかの出来映えで、それはそれで結構なのだが、予想外に話が大きくなってしまったのである。軽い気持ちでサイトに載せた水無月と「ミニ水無月」のツーショットが大好評で、「うちの猫のも作って!」や「作り方を教えて欲しい」という声が寄せられるようになったのだ。
こんな素人の手慰みを商売にするなどとはおこがましいと、澤田は当然断るつもりでいたのだが、思いがけない申し出が舞い込んできて、そうもいかなくなってしまった。長らく澤田の担当をしてくれているリハビリチームのひとりが、偶然この「ミニ水無月」に気づいたのだという。自分でも作り方を調べてみたところ、手や指のリハビリにもよさそうだし、いい気分転換にもなる。長期の入院で愛猫と離れて暮らす患者や、それに付き添い疲弊している家族は少なくない。そして、あれだけの大怪我をして、自分の指ひとつ持ち上げることができなかった澤田が、ここまで回復したというその事実が、何よりの支えになり、励みにもなる。リハビリ教室の特別講師として、「猫毛フェルト」講座を開いてもらいたいというのだ。
現在も通院中の身の上で、講師だなどととんでもないと、固辞するつもりでいた。しかしここでも和人に「恩返しだと思ってさ」と背中を押され、断りきれなくなってしまった。そして結局、自分のためのトレーニングでもあるのだと言い聞かせ、事前に申し込んだ八名の善男善女と、リハビリルームの一角で「猫毛フェルト」作りに励むこととなった。それぞれ飼い猫の写真を持ち寄って、「ウチの子」自慢などをしながら作業に取り組むひとときは、不慣れな上に愛想もない講師の手際の悪さもなんのその、なかなかに好評。
「イケメン講師あらわる! と聞いて駆けつけてみたら、澤田さんでしたか」
「先生、こーゆーの興味あるの? なんかイメージ違うんだけど」
「私が興味あるのはイケメンの方。針でチクチクやるのは人間だけで充分」
和人と親しい美形の外科医までもが顔を覗かせ、そんな軽口を叩いていった。
「てゆーか、澤田くんならほとんど毎日ここでリハビリやってんじゃん」
「さり気ない振りして通りすがりにチラ見するのと、同じテーブルについて堂々と正面からガン見するのは違うでしょ。『ここがうまくできないんですけどぉー』とか言ったら、手取り足取り親切に教えてくれるのよ? 生身の美女には完全スルーな朴念仁が、写真の猫にだったら、『かわいいですね』なんて優しく微笑んでくれたりするのよ? これを逃す手はないでしょう!」
「なるほどー」
「冗談を真に受けるな、和人」
お集まりのみなさんの中から、澤田くんの新たな恋のお相手がみつかるかも! とときめきかけた和人の淡い期待は澤田本人によって一蹴されたが、実際、参加者以上に見物人の数は多く、「自分でもやってみたい」「次はいつ?」「うちでは飼ってないけど、友だちの猫に頼んでみる!」といった具合で、講師の意向を素通りし、「助手」の和人がさっさと次回の契約を結んでしまった。
そして、もうひとつの新規事業が「猫ちぐら」。
これも和人が図書館で写真集を借りてきたのがキッカケで、「こんなの知ってるー?」と藁で編んだ籠から猫が顔を覗かせている写真を澤田に見せ、「水無月にどうかと思うんだけど、大人気で入手困難なんだって」「でも、自分でも作れるらしいよ?」「ほら、これが作り方」と畳みかけて、「遠足」で行った民家園でしっかり購入済みの資料集を手渡した。どうもこれを手に入れるための「遠足」だったらしく、材料の調達先もリサーチ済みときては、「やってみようか」と言わざるをえまい。一緒にホームセンターに出掛け、藁のかわりに紙紐で、まずは作ってみることにした。何はなくとも時間だけはあることだし、ただひたすら紙をほぐして籠を編むという作業もまた、けっしてスムーズには動いてくれない手指の訓練にもなってくれよう。
そんなわけで、澤田は簡易版の猫ちぐら的なものを作り上げ、これも水無月付きで写真をサイトに掲載したところ、次々に注文が入ってきた。猫毛フェルトのマスコットと並んで、澤田の「内職」になったというわけだ。
「澤田くんが器用だってのは知ってたけどさ、まさかこんな才能まであったとはね」
ずっと寝たきりで、できることといったら瞬きくらいで、箸を持つどころかスプーンを握ることすらできなかったのに、努力に努力を重ねてここまで戻ってきたんだ、この人は。
馨はそんな感慨は秘めたまま、むっつりと言う。
「それはこっちのセリフだよ。馨の写真のおかげで、注文が入るようになったんだ。実物よりもだいぶ見栄えがよくなってるからな」
サイトに載せている写真は、すべて馨が撮ったものだ。馨は猫毛フェルトの水無月の画像を加工して、新たな名刺も作成したのだが、これがまた評判がよくて、併せて作ったチラシも一緒に講習会場に置いたところ、あっという間に捌けてしまった。「かわいい猫のなんでも屋さん」として、新たな販路拡大に繋がるのではないかと期待が寄せられている。
「にゃおん」
「ああ。もちろん、すべてはお前がかわいいおかげだとも」
もっともらしく頷く澤田に、猫が頷き返して「にゃあ」と鳴く。
と、そこに、事務所の固定電話が着信を告げた。
「俺がでるよ」
一番近くにいた馨が身軽く立ち、残りの面々はおとなしく邪魔にならないように餅を食べる。
はい、はい、と静かにつづいていた声が「え?」と一際大きくなり、なんだろう、と顔を見合わせた三人と一匹のもとに、子機を手にした馨が戻ってきた。
「あの、澤田くんになんだけど」
「あ、お母さん?」
本人よりも先に反応する和人に、馨はぷるぷると首を振る。
「じゃあナニ? 講習会の依頼とかだったら、マネージャーの俺を通してもらわないと」
「いや、そういうんじゃなくて」
「だったらなんだよ。早く言えよ」
「なんか、その。お姉さん、みたい」
「お姉さん?!」
三人と一匹の視線が、今度は澤田のもとにサッと集まる。
「お姉さんって、あの、子供のとき、澤田くんをイジメて泣かせてた?」
「え。そうなの?」
「お母さんが言ってた。お姉ちゃんが二人いるんだけど、メッチャ怖いんだって」
「マジか」
「うん。すげーイジメっ子らしい」
声を潜めるでもなくかわされる会話がこれ以上エスカレートする前にと、澤田は席を立って、馨から子機を受け取った。
「もしもし」
『あ、智くん?』
聞こえてきたのは、気の置けない間柄であることが伺われる、普段使いの声だった。
『お蕎麦屋さんのブログ、見たわよ。元気そうじゃない。風邪ひいたって聞いてたけど、もうよくなったんでしょ?』
「……はい」
『ねぇ、一度、家に顔出してあげなさいよ。お父さんもお母さんも、待ってるのよ』
「……」
『お正月に帰ってくるって言ってたのに、熱出してダメになったんだってね。お母さん、すっごくガッカリしてたんだから』
「…………」
『ブログのこと教えてあげたら、智くんが猫の後ろに写り込んでる写真を携帯の待ち受けにして、いっつも眺めてるのよ。ほら、ウチでも前に猫飼ってたじゃない』
「え?」
『智くんが中学生のときに拾ってきて、「すず」って名前つけてかわいがってたでしょ。お母さん、やっぱり智くんは猫が好きなのね、って喜んじゃって。もしかしたら、昔のことを何か思い出したのかもしれないって、ちょっと期待してるみたいだったけど……』
「……いや、それは」
『……そう』
声のトーンが少し落ちて、ふぅっと溜め息を漏らす気配がする。
『まあ、とにかく、一度顔見せて、安心させてあげてよ。今度の土曜はどう?』
「明後日、ですか」
『このまま電話切ると、またグダグダになっちゃうでしょ。何か用でもあるの?』
「……いえ」
『じゃあ決まり! 土曜日の、そうね、一時くらい? ひとりで行けそう? 迎えに行った方がいい?』
「いえ、それは。大丈夫、です」
『わかった。向こうには私から伝えておくから。智くん、今度は逃げちゃダメよ』
「逃げたわけじゃなくて、澤田くんはほんとに具合が悪かったんだよ!」
「和人」
『え、ナニ?』
「いえ、なんでもありません。わかりました。よろしくお伝えください。それでは、失礼します」
澤田は通話を終えると、苦笑とともに振り返る。
「そういうことに、なった」
「お姉さん」は地声が大きくて、会話がすべて筒抜けになっていたことは、確認するまでもなく明らかだ。
「いいの? 澤田くん。大丈夫?」
記憶が戻らないかぎり、「家族」とは距離をおきたい。
澤田がそう考えていることは知っているから、和人の眉が気遣わしげに自然と下がる。
去年の暮れ、澤田の母から電話があった。いつもどおり、息子の声を聞くことだけが目的の短いもので、元気でいるか、変わりはないか、風邪などひかないように気をつけて、といったやり取りの最後にそれとなく、正月はどう過ごすのか、というようなことを尋ねられたらしい。遠慮がちに、さり気なく、でもどうしようもないほど切実に、顔を見せて欲しいと願われていることを気づかずにいられる澤田ではなく、松の内に「実家」に挨拶に行ってくるという話になったと聞かされた。
だがしかし、その数日後、澤田はバスルームで倒れているのを馨と水無月に発見された。本人曰く、軽い貧血のようなもので、五分か十分、横になっていただけだということだが、おそらくは小一時間ほど起き上がれずにいたに違いなく、よりにもよってこの事務所でもっとも寒いところだったのも災いして、熱を出して寝込んでしまった。湯たんぽがわりに水無月を抱いて、いつになくおとなしく自室での静養に同意する澤田の世話を焼きながら、ひょっとして、家に帰らなきゃいけないのがストレスになって、倒れたんじゃないのかな、と和人は思った。だから、熱は二、三日ですぐに下がったけど、里帰りは延期した方がいいんじゃない、と提案し、それを聞いてちょっとほっとしたような表情をした澤田にも、あえてツッコんだりはしなかった。かわいいひとり息子に逢いたいという母の気持ちを思うと胸が痛むが、澤田にムリはさせたくない。
「いつまでも、このままってわけにはいかないからな」
静かに淡々とした澤田の言葉に、和人はハッとして顔を上げた。隣りで汁粉を食べていた将の手が止まり、さらにその向こうに座っている馨の目が、ひとまわり大きくなっている。
澤田は食べ終わった器を盆に載せ、そのままキッチンに行ってしまった。
「みゃおん」
慌ててあとを追う水無月の後ろ姿を見送って、三人はそれぞれ物言いたげな顔をしながら、何も言えずに残りの餅を飲み込んだ。




