(1)
「あー!」
「やべー!」
「すいませーん!」
少年たちの賑やかな叫び声とともに、歩道沿いに設置されたフェンスを越えて、ポーンとバスケットボールが弾んできた。マンションと道路の間のささやかなスペースに、半面だけの小さなバスケットコートが設けられている。
澤田は提げていた買い物袋を花壇の縁にそっと置くと、こちらに駆け寄ろうとする少年を制してから、拾い上げたボールを手にゴールポストの方を向いた。
コートは道路よりも低くなっており、フェンスは背丈ほどの高さしかないから、こちらからだとほとんど傷害にならない。距離はだいたい、3ポイントラインのやや内側といったところか。
二、三度ボールを弾ませてから、シュートの構えをとった。カラダが一連の動きを覚えていて、考えるより先に動いている。
膝を軽く曲げて、押し出すようにボールを放つ。指先から離れた瞬間、確信した。
――イケる。
「おおー!」
「すげー!」
「ひゅー!」
シュッと静かにボールがネットに吸い込まれると、少年たちが満面の笑みと拍手を送ってくれた。それに軽く手を上げて応えてから、澤田は車道を挟んだ通りの向こう側に、ニヤリと得意げな笑みを向ける。
「よう」
ぽかーんと口を開けて突っ立っていた津村が、慌ててこちらに渡ってきた。
「持つよ」
津村は視線を合わせないままモゴモゴと言って、澤田の手をかい潜るようにして買い物袋を持ち上げる。
「いいのか。出掛けるところなんだろ?」
問いかける澤田に「うん」とだけ頷いて、津村はいま来た方角、つまり事務所の方へと足を向けた。そのまま歩き出しかけて、肩越しにチラリと澤田を振り返る。
「卵が入ってるから、気をつけてな」
澤田もそれだけ言って、津村と肩を並べて歩き出した。
最近は、病院との行き帰りも歩くようにしている。ゆっくり歩いて小一時間、リハビリを終えてから休憩がてら軽く昼食、帰りはまたのんびり歩き、商店街の店先を覗いて食材を調達。明日の朝までに調理する分だけだから、たいした量ではない。津村に持ってもらうまでもないのだが、そう言ったところで聞く耳を持たないだろうし、こうして顔を合わせるのも久し振りだ、いい機会ではある。
といっても、津村は何も話そうとしないし、澤田の方でもこれといって話すべきことを思いつかない。
それでも、まあ、いいのだ。
こうして一緒に歩いているだけで。ゆっくりとだが着実に、ともに目的に向かっているというだけで。
「きれい、だったね」
不意に、ぼそっとした声が二人の間にこぼれ落ちた。
「ん?」
先を促すように視線を向けると、津村は俯いたまま、なんだか泣き出しそうに笑っていた。
「放物線て、あんなにきれいだったんだ」
「ああ」
どこにも触れることなく、リングに吸い込まれていくボールの軌跡。あれは、確かに美しい。
「コドモたちの手前、はずさなくってよかったよ」
冗談めかして言うと、津村が「はは」っと小さく笑った。
もちろん、澤田が本当に意識していたのは、通りの向こう側にいた津村の目だ。
杖なしでも歩けるようになった。今ではこんなことだってできるんだぞ。
そう伝えたくて、あえて子供じみた振る舞いをした。
病院の中庭にも、ゴールポストがある。なんとはなく眺めていたら、「澤田さんはバスケ部だったそうですね」と担当の理学療法士に教えられた。事務所の近くにもこれとよく似たスペースがあって、ときどきひとりで延々とシュート練習をしていることがあるのだと、和人が言っていたらしい。
「澤田くん」のマネをするのは、正しいことではないかもしれない。
しかし、咄嗟にカラダが動いていた。まるで、考えるより先に、答えがわかっているかのように。
「澤田くんは、はずさないよ」
津村は足下を見つめたまま、掠れた声で囁くように小さく言った。
澤田は「うん」と「ふん」の間のような、なんとも曖昧な音でそれに応える。
きっと、「澤田くん」はそうだったのだろう。彼は彼らの期待を裏切らない。狙ったシュートははずさないし、求められているものを的確に与える。
それは、今の自分には無理な相談だ。
「なあ、津村」
気の利いたことなんて、言えっこない。そもそも、そんなことは求められてもいないだろう。普通でいい。当たり前で、平凡で、なんでもないこと。
「『ドレス・ド・オムライス』って知ってるか?」
「え?」
「さっき、テレビでやっててな。それで卵を買ったんだ」
「うん?」
「今夜、作ってみようと思ってさ。だから、夕飯までに戻ってこいよ。オムライスは温めなおしってわけにはいかないから」
澤田がニッと笑いかけると、今度は津村が「うん」と「ううん」の間のような、どっちつかずの声を漏らした。
避けられていることはわかっている。無理強いしようとは思わない。が、いつでもドアは開いているのだと、それだけは伝えなければと思うのだ。
「きっと、喜ぶよ、将が」
自分がどうするかはぼかしたまま、津村は「へへ」っと笑って言った。オムライスは、将の好物なのだ。
その先の角を曲がれば、彼らの暮らすマンションはもうすぐそこ。短い道行きは、なんの実りももたらさないまま呆気なく終了だ。
事務所に着くと、津村は買い物袋の中身を冷蔵庫に仕舞い、「それじゃ」と短く言って、そそくさと出て行ってしまった。
「待ってるぞ」
津村の背中にかけた声は、物音に紛れて届かなかったのか、答えのないまま、ガシャンとドアが閉じられる。
「にゃおん」
冷え冷えとした残響に嘆息する澤田のもとへ、猫が淑やかにあらわれると、いかにも愛おしげに身を擦り寄せた。
「津村は行っちゃったぞ、水無月」
「にゃ」
けれど、こうしてわたくしがお側におりまする。と慰めているかのような眼差しに、うん、と頷く。
年が明けてからも、水無月は馨とともに朝一番で出勤し、日がな一日を事務所で過ごすという行動パターンを遵守している。気の毒に、水無月の送迎係をせざるを得ないハメに陥った馨はすっかりふてくされて、玄関先でキャリーバッグの蓋を開けるたびに、「水無月さん入りまーす」だの、「水無月姐さんお連れしましたー」だの、いかにも舎弟じみた物言いをして拗ねていた。
「偉いな。ひとりで留守番してたのか」
「にゃん」
どんなに鳴いてもせがんでも、リハビリに連れて行くことはできないのだと諭されてからは、水無月はこうして健気に澤田の帰りを待っているようになった。いつもは賑やかな面々が出払いひとりきりになっても、悪さをすることもなくいい子にしている模様だ。
彼らが戻ってくるまでに、済ませておきたい家事は諸々あった。が、こんなにも愛らしく出迎えられてしまっては、そうそう無下にもできなくなる。
「にゃ」
水無月はいそいそとリビングまで先導すると、今の時間もっとも陽当たりのいい一角に、澤田を招いた。
なるほど、そこはたいそう居心地がよさそうだが、問題がひとつ。
「残念だな。俺にはちょっと、狭そうだ」
「にゃ?」
「遠慮せず、お前はそこで寛いでくれ。俺は見ているだけで充分だから」
「にゃ!」
二匹の猫が寄り添い微睡むのにピッタリな、スチール製のラックとチェストの間の日溜まりに丸くなった水無月が、跳ね起きるようにして澤田の足下に戻ってくる。ちょっと傷ついたような顔付きをしているのが哀れでもあり愛おしくもあり、撫でてやろうと膝を屈めて腕を伸ばすと、猫のほっそりとした腰のあたりに、ほわほわとした綿埃がくっついているのが目に入った。
「せっかくの美人が、台無しだ」
澤田が笑って抓み上げると、恥じ入った風に「みゃう」と鳴く。
「いや、こっちの落ち度だ。行き届かなくて申し訳ない」
不用意に頭を低く下げると、一日目眩に悩まされることになってしまう。それでついつい用心し、そのついでに確認が甘くなって、掃除の際にこんな大きな埃を見落としたのだろう。
「もう一度、床掃除をしておくか」
水無月が音を嫌うから、掃除機ではなくワイパーで。でもその前に、水無月の好きなカモミール・ティーを淹れてやろう。二人でお茶を楽しみながら、心行くまで猫を撫でて、一休み。ただし、「お昼寝」はなしだ。
そんな心積もりが通じたものか、水無月は「にゃあ」と頷くように鳴いてから、貴婦人のような足取りで、キッチンへと向かう澤田に付き従った。




