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春を待つ日々  作者: 苅野しのぶ
冬籠り
27/34

(5)

「それじゃ、いってきます」

「ああ。気をつけてな」

 広瀬も加えてのんびりとした朝食を済ませ、まずは一仕事して来るという馨を見送りがてら、ゴミ出しをして戻ろうとした背中に、声がかかった。

「あら、澤田さん!」

 ゆっくりと振り返ると、ご近所にお住まいらしい婦人が小走りに近づいてくる。

「おはようございます」

 こちらに覚えはないものの、顔見知りであるという可能性は充分あり得る。丁寧に挨拶し、そのまま逃れようと踵を返しかけたのだが、ワンテンポ遅く、まんまと行く手を遮られてしまった。

「お聞きしたわ、随分長く、入院してらしたんですって?」

「ええ、まあ」

「事故だったんでしょう?」

「……ええ」

「ねえ、お祓いとかそういうの、してもらった方がいいんじゃない?」

「はい?」

「だって、ほら、奥様のこともあるでしょう? 確かあのときも、交通事故だっていうお話だったわよね? ご夫婦揃って、そんな、ねぇ。今度は澤田さんまでこんなことになるって、おかしいわよ」

 言われたことの意味が飲み込めなくて、うまく返事ができなかった。自分がどんな表情をしているものかも、覚束ない。

「あら、やだ、ごめんなさい」

 黙りこくってしまったのをどう受け取ったものか、婦人は慌てたように顔の前で手を振った。

「若い人は、お祓いなんて言われても、ピンとこないわよね。ごめんなさいね、あんまりお気になさらないで」

 澤田はかろうじて挨拶らしき言葉を口にして、頷くような会釈をすると、機械的に足を動かしマンションのエントランスを潜り抜けた。


「みゃあ」

 玄関のドアを開けると、水無月がさっそく駆け寄ってくる。しかし、猫にさえ、何かおかしいとわかるのだろうか。

「みゃ?」

 澤田の足元までくるとふと立ち止まり、自ら飛びつき甘えることなく、小首を傾げて大きな瞳でじっと見上げる。

 澤田は慎重に玄関を上がると、猫の脇を素通りし、庭に面した窓から射し込む明るい光に導かれるように、奥へと進んだ。

「広瀬」

「うん?」

 ダイニングで新聞を読んでいた広瀬が、顔も上げずに短く答える。

 食べ終わった皿はキッチンに運ばれて、テーブルの上にはマグカップと広げられた新聞という、いつもの光景。広瀬は先程までと同じように端っこの席についていて、その向かいにはさっきまで馨がいた気配が残っている。

「どうした。具合でも悪いのか」

「いや」

 そう応じたものの、一歩も動くことができなかった。広瀬は訝しげな顔をして、わずかに椅子を引くと、いつでも立ち上がれる姿勢になる。

「あの、な」

 自分の声が、ぼんやり奇妙に響いて聞こえた。誰か他人が喋っているのを耳にしているかのようだ。

「俺は、結婚、してたのか?」

「え?」

 広瀬の顔を見ただけで、答えはわかった。

「そう……なのか」

 あまりに思いがけなくて、うまく頭が働かない。一番近い、馨が座っていた椅子の背に掴まって、どうにか腰を下ろした。

 くっついてきていた水無月が、足元に座って「みゃあ」と鳴く。膝に乗りたそうではあるけれど、今はそのときではないと感じるのか、しおらしく足首に頬を擦り寄せるだけで辛抱している。

「正確には、婚約していただけで、結婚してはいなかった」

 視線を向けると、広瀬は「うん」と頷いた。

「そうか」

 反射的に口をついただけの言葉に意味はなく、実のところ、広瀬の言う意味もきちんと理解できていない。

 婚約。結婚。

 これまで誰も、そんな話はしていなかった。

 そして。

「それで、その人は……」

「亡くなったんだ」

 広瀬はやわらかな声できっぱりと言い、それからふっと、吐息を漏らした。

「婚約中に、交通事故に遭ってね」

「ああ」

 「奥様」ではなかったが、「澤田くん」は婚約者を交通事故で亡くしていた。だから、先程の婦人は、あんなことを言ったのか。

「ごめん。話しておくべきなのはわかってたけど、言い出しにくくて」

 広瀬の言葉に、今度は澤田が頷いた。

 それはそうだろう。そんな人が存在したことさえ覚えていない男に、あえて「お前の婚約者は死んだんだ」と教えてやる必要がどこにある。

「気にしないでくれ。ちょっとそんなことを聞かされて、驚いただけだ」

 自分が事故に遭う前の記憶がない、というだけではない。かつての自分のものだというあの殺風景な部屋には、写真や手紙、贈り物らしき品など、恋人の存在を窺わせるようなものが、ひとつもなかった。私物には誰も手を触れていないということだから、事故に遭う前に、「澤田くん」が自分で処分したのだろう。

「随分と、その、ヒドい話だな」

 結婚の約束をした相手がいたと聞かされても、何も思い出せないし、何も感じない。その人は非業の死を遂げたということなのに、そう聞いてさえ、感情は凪いだままだ。

 それが、自分という人間の本性なのだろうか。冷酷で、無慈悲。人として大事な何かが欠落した人間。

「そんなことは、ないよ」

 広瀬は澤田のカップにコーヒーを注いで、差し出した。

「澤田は、彼女を愛してた。誰よりも大切にしてた。充分すぎるくらいによく尽くした。俺が、保証する」

「……そうか」

 広瀬がそう言うのなら、そうなのかもしれない。いや。きっと、そうなのだろう。

 愛して、大切にして、充分に尽くして、そして、忘れようとした。愛していたからこそ。大切な人だからこそ。彼女を思い出させるすべてを、彼女とともに葬った。そういうことだったのかもしれない。

 マグカップを両手に包み、深く香りを吸い込んだ。

「みゃあ」

 水無月はひょいと後ろ足で立ち上がると、そのときがきたと判断したのか、さっと澤田の膝に飛び乗り丸くなる。

「お前も証人になるよな? 水無月」

「にゃ」

 猫は広瀬に向かって頷くように鳴いてから、澤田にカラダを擦り寄せ甘えかかった。

 澤田はマグカップをテーブルに置き、かわりに水無月を胸に抱いた。猫一匹分の重みと温もりが、空っぽの心にちょうどすっぽりと収まるようだ。

「あったかいな、お前は」

「にゃお」

 猫を抱いて俯くと、伸びすぎた前髪が表情を隠してくれる。


 いつもと変わらぬ、静かな朝。

 かさりと乾いた音がして、広瀬が新聞をめくる気配がする。

 どんなことでも、訊ねさえすれば広瀬は答えてくれるだろう。

 「婚約者」とは、どんな女性だったのか。どうして事故に遭ったのか。直接の死因はなんだったのか。その人を失って後、「澤田くん」はどんな風に生きていたのか。

 訊ねるべきことは、いくらでもある。そうして訊ねる方が、本当なような気さえする。

 しかし、なんだか他人の過去についてあれこれ詮索するようにしか思えなくて、敢えて問おうという気持ちになれなかった。それらはすべて自分で思い出すべき事柄なのであって、誰かに教えてもらうような性質の話ではない。

 広瀬の方でも同じようなことを考えているのか、自分からは話を切り出そうとはせず、少しぎこちない空気の支配する室内を、猫がノドを鳴らす音だけが静かに流れる。

 猫をしっかりと抱きなおし、乳白色のやわらかな毛並みに沿って優しく撫でると、いかにも心地よさそうにうっとりとして、しどけなくカラダを預けてきた。母に身を委ねる幼子のようでもあるが、そう評するには、少々艶めかしすぎるようでもある。

「今度生まれてくるときは、水無月を嫁にするといいよ」

 新聞に視線を落としたまま、本気とも冗談ともつかない口調で広瀬が言った。猫の顔を見遣ると、「願ってもないお申し出です」とでも言いたげに、甘えた声で「みゃお」と鳴く。

「それじゃあ、馨に頼んでみよう。水無月は馨の大事な猫だから」

「にゃ!」

「馨は単なる同居人で、手の掛かる弟みたいなもんだから、それには及ばないらしいよ」

「にゃ」

「そう言うなよ。こんなに愛されてるのに、つれないな」

 水無月の首には、縮緬細工のリボンが巻かれている。首輪というよりは首飾りというべき愛らしさで、耳と額の毛色と合わせた小豆色がなんとも上品だ。水無月のために誂えたかのようによく似合っている。

「仕方ないよな、姉弟愛と恋愛感情は、別腹だから」

「にゃー」

「というか、水無月は馨の姉貴分なのか」

 雌猫(じょせい)に年齢を尋ねるのもはばかられるが、水無月はいったい幾つなんだろう。毛艶もよく、小柄なこともあって、まだうら若い乙女にしか見えないのだが。

「和人が拾ってきたのが二年前の六月だから、まだ三歳にはならないだろ。人間でいうと、二七、八ってところかな」

「なるほど」

「そうか。いつのまにか、本当に馨たちを追い越しちゃったんだな、水無月」

「にゃ」

 あの悪ガキどもが成長するのを、待ってなどいられませんから。とでも嘯くように、水無月はつんとお澄まし顔で短く鳴いた。

「美人で、しっかり者で、確かにいいお嫁さんになりそうだ、水無月は」

 他愛ない会話と愛らしい猫のおかげで、粟立っていた感情がいつの間にか鎮まっている。

 散歩代行や一時預かり、飼い方研修会への同行など、ペットに関する依頼は想像以上に多かった。それだけ動物をペットとして飼う人たちが多くいるということで、それは少々意外に思うほどだったのだが、今なら彼らの気持ちが理解できる。

 水無月(ねこ)は、偉大だ。

「よしよし、いい子だ」

「にゃおん」

 水無月を肩に乗せるように抱き上げて、俯けていた頭を起こした、その途端。

「……っ」

 ぐらりと世界が大きく揺れた。

 大丈夫、いつもの目眩だ。じっとしていれば、すぐに収まる。背もたれのある椅子に座っているのだし、転がり落ちる心配はない。水無月の重みと温もりに集中して、やり過ごせ。

 そうして、目を閉じていた時間が少しだけ長すぎたのか、それとも、目を開けるタイミングが少しだけ早すぎたのか。

 ようやく揺れが収まって目を開くと、気遣わしげな広瀬の眼差しとぶつかった。

「……大丈夫だ。なんでもない」

「ああ」

 広瀬はすっと視線をはずし、それきり関心をなくしたような顔をしているが、「またなのか」あるいは「まだなのか」という、苛立ちにも似た思いが伝わってくる。

 それは、澤田も同じだった。

 またなのか、まだなのか。いつになったら治るんだ。目眩や立ち眩みというのは厄介で、予兆もなく突然襲われ、一度はじまってしまったら、じっとやり過ごすしか打つ手がない。慎重に、気を配って、そういう状態にならないように注意しているつもりなのだが、ふとした弾みに立っていられないほどの揺れに翻弄されてしまうのだ。

 短い間のことではあるし、たいした害があるわけではない。が、なぜだか凄く、疲労する。肉体だけではなく、精神的にも。

 と。

「にゃ?」

 どん! という物が倒れたような震動が伝わってきて、広瀬と水無月につづき、澤田もゆっくりと二階を見上げた。

「派手に落ちたな」

「ああ」

 思わず顔を見合わせて、ニヤリと笑う。

「起きてくるかな」

「そのまま床で二度寝する方に、千点」

 広瀬はにっこり笑顔で言うと、あっさり新聞に意識を戻した。

「様子を見に行ってやらなくて、大丈夫か?」

 津村はときどき、こうしてベッドから落下する。そのため周囲の床には固いものを置かないようにしているそうだから、怪我をする心配はさほどない。しかし夏場ならともかく、この時季に床で寝たら、間違いなく風邪をひく。

「子供じゃあるまいし。寒かったら勝手にベッドに潜り込むよ」

「にゃ」

 広瀬に同意を示すかのように頷いてみせる水無月に、首を傾げて再考を促す。

 津村は昨夜、結局ここには顔を出さなかった。食事は外で済ませたのだろう、真夜中を過ぎてから、二階へ上がる足音が聞こえた。

 湯豆腐用の小振りの土鍋に、夕べの残りにいろいろを足したものが入れてある。それを届けるというのを口実に、様子を窺ってこようか、という考えが一瞬よぎった。が、二階は広瀬と津村のプライベートな空間なのだ。自分に踏み込む資格はない、という思いに押し留められる。退院してから四ヶ月、なんとか階段の上り下りができるようになってからも、二階へ行ったことは一度もなかった。共用スペースである事務所には自由気ままに出入りしても、「澤田くん」の私室には誰も無断では入らない。それと同じことだ。

 それに、きっと、津村は喜ばない。困って、戸惑って、逃げ出そうとするかもしれない。迂闊なことをして、津村の居場所を奪うようなことだけはしてはならない。絶対に。


 とつおいつ、取り留めのない思考を持て余しながら水無月を無言で撫でていると、自然と瞼が重くなってきた。猫は「寝子」だというが、抱いている方も眠くなる。

 目を休めるつもりで瞼を閉じると、広瀬がかさかさと音をさせ、新聞を畳んだ。

「少し、横になってきたら」

「今さっき、朝食を済ませたばかりだぞ」

 笑っていなすものの、広瀬の声はやわらがない。

「ろくろく寝てないんだろ。顔色が悪い」

「そんなことは……」

「あるんだよ」

 ピシャリと遮られて、思わず猫と顔を見合わせる。

「大丈夫だよな? 水無月」

「添い寝だぞ、水無月」

「にゃ!」

 広瀬の一言で迷いは消えて、水無月が全体重を預けてきた。

「こらー」

 顔を顰めてみせるものの、本気で怒っているわけではないのは伝わるらしく、「みゃお」と愛らしくも艶めかしい鳴き声が返ってくる。わざと答えずにいると、「ささ、さっそくお褥へまいりましょう」と誘うように、グイッとカラダを押しつけられた。

「よしよし、頼りになるな、水無月は。それじゃ、あとは任せたぞ」

「にゃおん」

 広瀬はいったん部屋に戻ることにしたらしく、通りすがりに猫を撫でただけで、澤田には見向きもせずに玄関へと向かう。

「広瀬」

 思わず呼び止めてしまってから、言葉に詰まった。迷って、躊躇って、逡巡して、ようやく出てきたのは陳腐な問い。ノドに絡まったようなおかしな声で、一言だけ。

「その人は、幸せ、だったのかな」

 口にするつもりのなかった問いかけに返ってきたのは、沈黙だった。少し長すぎる、沈黙がつづく。

 その重みに耐えかねて、ごめん、と謝ろうとした、ちょうどそのとき、広瀬がおもむろに口を開いた。

「そうだな」

 やはり、躊躇う様子が窺われる。

 そうして、待つことしばし。ふわりとしたやわらかな声が、静かに告げた。

「澤田と出逢えたことは、幸運だったと思うよ。彼女にとって」

 水無月を抱き、目を閉じたまま、広瀬の言葉を噛み締める。

 名前も、面影も、抱いた気持ちも、何ひとつ思い出せない「婚約者」。

 人は、忘れ去られてしまったときに、本当の死を迎えるのだという。

 そういう意味では、自分は彼女を殺してしまった。どこをどう探しても、自分の中に彼女はいない。

 しかし、広瀬が覚えていてくれた。広瀬の記憶の中にはその人がいて、こうして思い起こしてくれる。夭逝したとはいえ、けっして不幸なだけではなかったらしい、その人の生きた姿を。

「ありがとう」

 水無月に向かって囁くと、広瀬も頷くような素振りだけ残して、行ってしまった。

 静かな足音につづいて、靴を履く気配がし、玄関のドアが開いて、また閉まる。丁寧に鍵までかけてから、広瀬はいかにも彼らしい落ち着いた足取りで、階段を上っていった。


 理由もなく溜め息をついて、水無月を胸に抱いたまま、天を仰ぐ。

 外は今日もいい天気だ。

 陽当たりがよく暖かな室内にいても、身を切るような風の冷たさと、キリッと引き締まった凍てつく空気は、思い起こせる。どこか郷愁を誘うような、冬の香りも。

 「郷愁」。何も覚えていないのに、なぜ。どうしてこんなに苦しくなる。

 思い出せそうで思い出せない、誰かの笑顔。霞の奥からかすかに聞こえる、笑い声。追おうとすれば消えてしまう面影に、なぜだか胸が締めつけられる。

「みゃお」

 いつしか濡れていた頬を、ざらつく舌で猫が舐めた。何度も、何度も。くり返し、飽くことなく。癒すように、宥めるように、慰撫するように。

「頼むから、俺を甘やかさないでくれ」

「みゃあ」

 こんな状況で、こんな境遇で、それでもなんとか生きている。絶望もせず、ヤケにもならず、驚くほど心穏やかに暮らしている。

 記憶をなくしたということは、一度死んだのと同じこと。自分を殺し、家族を、友人を、仲間たちを、みんな殺した。

 そんな男が、生かされている。かつての記憶を持つ人々によって。彼らに繋ぎ止められることによって。新たに生き直すことを許されて、そして。


 ――俺、今の澤田くんも、けっこう好きだよ。


 自分という人間は、どこまで彼らに救われるのだろう。




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