(3)
飼い猫に手を噛まれる。
そんな言い回しは存在しないし、実際に噛まれたわけではないのだが、まさにそういう心境なのだから仕方がない。
風呂を済ませて部屋に戻ってきた馨の恨みがましい視線もなんのその、水無月はつんと澄ましていつものねぐらを通り過ぎ、キャリーバッグの前で「にゃあ」と鳴いた。たったいま帰宅したばかりだというのに、早くも出掛ける準備は万端だというアピールだ。
「さんざんイチャイチャしてきたくせに、なんだよ」
水無月は背中をそびやかせて、毒づく馨をきれいに無視する。
「澤田くんは病み上がりなんだからな。あんまり疲れさせたらダメなんだぞ」
貴様ごときに言われるまでもないわ、小僧が。とでもいうような鋭い一瞥を肩越しにちらりと送り、猫は元の姿勢に戻る。
「多重猫格かよ。澤田くんといるときとはまるで別猫だな」
かわいこぶって、甘えた声を出して、小悪魔的な素振りを見せたかと思えば、聞き分けのよい純情娘のように振る舞いもする。馨の前ではツンデレならぬツンツン、それどころか、雪の女王もかくやという冷淡さしか見せたことがないくせに。
まあ、水無月が澤田を慕うのは、今にはじまったことではない。
事務所に連れて行くと、まずはさっと見まわし澤田を探す。みつけることができれば傍に行って「にゃあ」と鳴き、姿が見えなければ自室の前まで行って様子を窺い、やはり「にゃあ」と鳴いたりドアにカリカリ爪を立てたり、澤田があらわれるのをしばらく待ち、出てくる気がないか留守だと判断してからようやく戻ってくる。と言っても、飼い主の馨のもとへではなく、リビングの隅でひっそりとしている、怜の傍らが定位置だ。
そう。水無月が澤田の次に好きなのが、怜だった。ひとりと一匹は馴れ合うでもなく寄り添いあって、澤田の不在のときを過ごしていた。
「やっぱり、俺じゃなくて、あの人だよな」
水無月が誰かに似ているというのなら、自分ではなく、怜だろう。いや、似てる、似てないというのとは、違うかもしれない。水無月は怜のかわりに、そうはできない彼女の分まで、澤田に甘え、じゃれていた。澤田が好きで好きで大好きで、なのに自ら封じて行き場をなくしたその気持ちが、猫の形となってあらわれたかのように。
「澤田くんも、さ」
いつでも素っ気なくて、水無月がまとわりつくことこそ許していたが、たいしてかまうでもかわいがるでもないようにしか見えなかったのに、心のうちではぜんぜん違ったのだ。あんなにも表情豊かに愛しげに、からかってかわいがって世話を焼いて、あれが本当なのだろう。あれが、本当の澤田と彼女の姿だったのだ、きっと。
馨のせいで、歪められた人生がここにもひとつ。
ひとりの少年がはじめた「ゲーム」が、こんなにも多くの人間の未来を狂わせた。
「俺だけを憎んでくれればよかったのに」
ベッドの上で膝を抱えて呟くと、言っても詮ないことを、とでもいうように、水無月がすらりと伸びた長いしっぽをパサリと振った。
「そうだけどさ」
今更ナニを言ったところでどうにもならない。そんなことはわかっているが、それでも言いたくなるではないか。
いたって単純な話なのだ。
自分にも他人にも厳格であることで知られる祖父に、隠し子がいた。別邸勤めの女中に手をつけて、孕ませたのだという。そのまま邸内に留めおくことこそなかったが、家を買い与え、囲いものとしていたのだった。
だがしかし、生まれてきた子供、それも祖父が熱望していたはずの男児を、貴田家の籍に入れることは許さなかった。祖父にしてみれば、正妻腹の子こそ我が跡取り、ということなのだろう。祖母もまだ若く、二人目、三人目に男子が生まれる可能性は充分にあり、余計な禍根を残さぬための処置だった。
――そこまでは、まあいいさ。
馨が「兄」とも慕った人の、暗い声音が耳底を打つ。
使用人を手籠めにして、年若い彼女の夢も希望も力尽くで奪っておいて、随分と勝手な話だとは思うが、世間というのはそういうもの。そっちの言い分はわからなくもない。
けれど、大財閥の令嬢であった正妻は、馨の母を生んだだけで、身罷った。
そうとなれば、話は変わる。妻とその実家への遠慮も憚りも消えた以上、何を躊躇うことがあろう。妾腹の男児を籍に入れ、正式に嫡男として披露すればよいではないか。
しかし、祖父の考えは違った。自分の唯一の子である娘に婿を迎え、跡を継がせると発表したのだ。
――それだって、まあ、理解はできる。
巨大財閥の影響力は侮りがたいし、利用できるものは利用すべきだ。向こうからみれば娘の忘れ形見となる孫娘、今後ともよしなに、というわけだ。
だが、その愛娘もこの世を去った。それも自らの意志で退場した。あとに残されたのは、五歳になったばかりのあどけない幼児。どんなにかわいらしくても、所詮それだけのことでしかない。資質も、能力も、適性も、ここまで幼くては推し量りようがないだろう。海のものとも山のものともわからないとは、こういうことだ。
なのにそれでも、この子を後継者とすることに変わりはない、という声明を耳にしたとき、ぷつっと何かが切れる音がした。
ことここにいたっても、認めようとしないのか。だったらなぜ、生ませたのだ。妾のカラダを抱きには来ても、生まれた子に逢おうとはしない。養育費こそ宛行われているものの、はじめから存在しないがごとくに素通りされる。母はあの男を「あなたのお父様」だと言っていたが、大学入学の手続きの際に、認知すらされていないことに気づかされた。
そういう男に復讐を誓うのは、むしろ当然だろう。
自分を選ばなかったことを、必ず後悔させてやる。
小学校から高校までは、向こうの指示通りに私立の名門校に通い、常に首席をキープした。大学もそのまま進む予定だったが、独断で外部受験し、最高峰の国立大学に見事現役で合格してみせた。そこでも優秀な成績を収め、人脈を築き、政治家や高級官僚への道を突き進むことに迷いも疑いも持ちようのない人々にいぶかしまれながら、一民間企業への就職を決めた。
国の中枢を担おうという者たちからすれば、確かに首を傾げる選択ではあろうが、世間的には人気の高い優良企業。そう簡単に入社がかなうところではない。人事部のトップだけは、この異色の志望者の素性に気づいていた可能性はある。その場合、あの独裁者に注進に及んだであろうことも想像に難くない。しかし、一社員としての座を実力で勝ち取ったことに疑問の余地はないし、入社後も出自については秘したまま、自分の力でのし上がった。
そうして自らを磨き上げる一方で、抜かりなく未来の帝王の心を籠絡した。孤独な子供の心を掴むことなどわけもない。自分の子供時代を思い起こせばいいだけだ。
楽しい遊び相手。頼りになる兄貴分。話のわかる年上の友人。望まれる役割を演じつつ、子供らしい未熟な正義感を刺激して、自分が少年の母の異母弟であることは伏せたまま、巧妙に祖父への反抗心、父への不信感を植え付けた。
はじめは、思うがままに弄んで、無垢で幼気な少年を自滅させようと思っていた。信頼させてから手酷く裏切り、人格を壊して母親と同じ道を歩ませてやる。
しかし、他者を思い通りに操るというのは思いのほかに楽しくて、どうせならこのまま利用してやろうと考えるようになった。社長だろうと会長だろうと、好きな席につけばいい。ただし、実際に駒を動かすのはこの自分。偽りの信頼関係を構築しながら、どちらが優秀な人間か自覚させ、さり気なく自尊心を奪い、服従させる。けっして無理強いはしない。自分の意志で、負け犬となることを選ばせるのだ。
そんな計画を着々と進めていた頃、ひとりの女があらわれた。年齢からいえば「少女」とした方が正しいが、あれはすでに、紛れもなく「女」だった。
どういう思惑からだったのか、顧みられない私生児が通わせられていたのは、良家の子弟の集うことで知られる名門校で、政治家の息子であるかつての級友に招かれたパーティーに、その女はいた。自分たちよりは四、五歳は年下だろうということだが、その時々によって、もっと年嵩にも、もっと年若にも見えるのだという。妖艶としか言いようのない夜もあれば、初々しくあどけないような晩もある。
『現代版「椿姫」ってとこかな。上流階級の紳士相手の、高級娼婦ってヤツらしいよ』
そもそもその女を見せるために旧友たちを呼び寄せた友は、声を潜めて得意げに語った。
父親か祖父にしか見えない老紳士と連れ立つ女は、文句なく美しかった。表向きは「知人の娘」だの「遠縁の者」だのと言い繕い、飛び切りの美姫をはべらかす男の自負、欲望、誇り、そういったすべてを十全に知り、完璧に満たす術を心得えている。顔立ちや姿形の優美さだけではなく、賢さをも併せ持っているということだ。
二十歳になるやならずやという若さでこんな稼業に身を落としているからには、ろくな生まれ育ちではないのだろう。
若さと美貌と才覚を武器に、成り上がろうとしている孤独な女。
まるで、己の姿を見るようだった。他人の目には、自分はこんな風に映っているのだろうか。そう思うだに腹立たしく、いたぶりたい衝動をかき立てられた。
「同類相憐れむ」というのは趣味じゃない。友の手前、興味をそそられたていは繕ったものの、それで終わりの話だった。
ところが、向こうはそうではなかったらしい。
大事なパトロンの目を盗み、さらなる獲物を狙っていたのか、そうしてその場のすべてを見聞きするのも仕事のうちか、人の輪の外からチラチラと視線を送る若造たちにも抜かりなくチェックを入れていた。そして、御曹司の友人だというからには将来有望だと見込みをつけ、接触をはかった。
と、そういうことであったのなら、また違った展開もあっただろう。打算的な人間は役に立つし、嫌いではない。
だが、そうではなかった。
後日、偶然を装い立ちあらわれた女は、単純に、明確に、恋をしていた。不様にも、「本当の自分」とやらを晒していた。脆くて愚かな、恋する乙女の「素の顔」を。
再び怒りが沸き起こった。踏みにじり、そのきれいな顔をズタズタに引き裂いてやったらどんなにスッとすることか。
しかし、もっと賢いやり方がある。利用できるものは利用せねば、罰が当たるというものだ。大いに活用させてもらおうではないか。
ちょうど、人を操る楽しさに目覚めていた。これぞ天職としか言いようがない。
それは、ちょっとした提案からはじまった。
企業の内部告発、はたまた産業スパイ。そんな話題が取り沙汰される時世です。我が社においても、そういった動向を注視するべきではないでしょうか。さり気なく、かつ速やかに。たとえば、新入社員の一部を活用し、研修と称して比較的短期間にいくつかの部署に派遣して、そのたびにレポートを提出させる。本人たちには何も知らせなくていい。むしろ、何も知らない方がいい。世慣れない新人が上司や先輩にふつうに接し、世話を焼かれながら成長していく。そうした中で露呈した人物像、あるいは人間性。そこにこそ物事の本質はあるはずです。余計な経費もかからず、たいした手間も必要としない。やらせてみてはもらえませんか。
本当の狙いは、少々異なる。が、そんなことを公言するほどバカではない。とにもかくにも提案は了承され、このささやかなプロジェクトを任された。
ちょうど、件の女が、というよりは彼女の同期生たちが、就職活動の季節を迎えていた。あの女が大学生だったというのも驚きだが、床あしらいのみならず、時と場合によっては知性と教養も要求されるであろうことを考えれば、それも必然だったのかもしれない。
ひとりは、この女でいい。そして、もうひとり。
寝物語に、おもしろい男がいるのだと聞かされていた。当然のことながら、真の姿は完全に秘匿して、野球サークルのマネージャーなどもしつつ学生生活を堪能する女は、同年代の男女の憧れの的となっていた。彼女に言い寄る男は数知れず、その中には既婚の教職員さえも含まれていたが、そういった有象無象の中に、ひとりだけ「手応え」を感じる男がいるのだという。気がないわけではないことはわかっている。彼女に恋する男たちのひとりであるにもかかわらず、彼女の微笑みひとつで心蕩かせ、思いのままとなる輩と一線を画す、頑なな何かがある。
『貴方に少し、似てるかも』
そんな戯言に耳を貸しはしなかった。ただ、必ず落とせ、と女に命じた。引きずり込んで、溺れさせろ、と。
「それが、澤田くんだったんだよ」
深い回想から浮上するため、声に出して囁くと、水無月が振り向き「にゃあ」と鳴いた。
残る二人は、書類審査で抽出したということだ。
男女ひとりずつ、対局にある二人を選んでサンプルとした。ひとりは、「一億総中流」と呼ばれた時代の典型的な中流家庭、サラリーマンの父と専業主婦の母、二人の子供のうちの次男坊。絵に描いたように平凡な、あまりにありふれた幸福を当たり前のように享受して育った好男児。もうひとりは、両親は不明、愛にも金にも恵まれず、施設育ちだが抜群の成績で奨学金を獲得し、大学まで進んだという今時珍しいくらいに薄幸な女子学生。
彼ら四人は呼び集められ、「別枠」での入社を打診された。特段どうということもないのだが、「別枠」だということは弁えておくこと。それを他の社員に知られないようにすること。定期的にレポートを提出すること。守ってもらいたいのはたったそれだけ、なおかつ勤続五年で、関連財団から給付されていた奨学金の返済を免除する。もちろんその後も勤務は可能、昇進その他で一般入社の社員と待遇差が生じないことは約束する。
就職超氷河期。そんな時代に、企業側から誘われたのだ。少々変わった条件付きだとはいえ、世間に名前を知られた一流企業。多少の迷いや躊躇いはあったにしても、最終的には受け入れることとなる。
そうして、翠、澤田、広瀬、怜の四人が集められた。
彼らが自分たちの提出したレポートが人事に反映されていることを確信したのは、二年ほど経ってからだった。かわいがられた上司が昇進した、というのならいい。気の合わなかった上役の左降人事、当たりの強かった先輩の不本意な転属、そちらの方がキツかった。子供ではあるまいし、個人的な好悪の感情を評価に反映させたつもりはないが、無意識のうちに、行間に滲み出てしまってはいなかったか。そんな自責の念が拭い去れない。ともに働く仲間たちを密かにスパイし、告げ口しているような後ろめたさが募っていく。
四人が同じ部署に配属されることはない。ひとりずつ、それぞれのセクションにてんでバラバラに送られる。疎外感と罪悪感が仲間意識を強め、彼らを固く結びつけた。
それが、馨のためにでっち上げられたヒーローたちの真の姿。
彼らがいかに有能で、どんなに組織の利益のために貢献したか。迷い、悩み、苦しみながらも、無私の心で大義のために尽くしたか。
中学生の馨はまんまと術中にはまり、青臭い憧れを抱き、彼らのような人間になりたいと願うようになった。祖父の血を引くというだけの理由でトップの地位につくのではなく、どうせ逃れられない運命なら、一社員として一段一段、自分の力で上がっていきたい。それも、自分の素性を明かさぬままで。誰もやりたがらないポジションに身を置いて。そうして本当にその地位に相応しい人のサポートにまわるのが、自分のように凡庸な人間にはお似合いなのだ。この人を見ていればよくわかる。優秀な人材というのがどういうものか。容姿も知性も人格も、これぞまさしくトップに立つべき逸材。こういう人に場所を譲って、自分は影の存在である「チーム」の一員として、彼を支えていこう。それこそが「正義」だ。密かに誘導されていることにも気づかずに、固く心に決めていた。
「言ってくれるだけで、よかったのにね」
そんな手の込んだことをしなくても、自分は祖父の息子であり、当然の権利としてすべての財産を相続することを要求する、そう言ってくれていたら、馨は喜んですべてを差し出していただろう。大好きな「お兄ちゃん」と本当に血の繋がりがあっただなんて、はじめから教えてくれていたら、どんなに嬉しかったことか。
しかし、彼がすべてを明かしたのは、何もかもが終わった後だった。
馨の望みは聞き届けられ、「チーム」に加わることが許された。けれどそのときにはもう、「チーム」は姿を変えていた。
ときには関連企業や取引先も含めた、上層部向けの「シークレット・サービス」。恩を売ると同時に弱みも握れる、とっても便利な「なんでも屋」。
そうして、彼らに与えられた最後の指令が、「自分探し」中の御曹司を預かり、彼の夢見がちな目を覚まさせて、本来のあるべき場所に戻らせる、というものだった。つまり、馨を受け入れ、信用させて、拒絶する。幼い頃からの夢物語をぶち壊し、精神的に追いつめて、この世で信頼できるのは「大好きなお兄ちゃん」ただひとり、そういう状況を作ろうとしたのだ。
本当に、本当に、本当に、そんなことをする必要はなかったのに。ただ一言、「お前が憎い」と言ってくれればよかったのだ。「消えてなくなれ」と言ってくれたら、喜んでそうしていたに決まっている。
どうして彼らを巻き込む必要があったのか。翠は機械によって生かされる存在となり、その原因を作ったと見なされた怜の心は壊れ、目の前にあった幸福を奪われた澤田は、憂愁のうちに沈み込んだ。それ以上、彼らを苦しめる必要がどこにある。
しかし、馨のみならず彼らもろとも破滅させるため、怜は娼婦に仕立てられたのだった。彼女を客のもとへと送り出す連絡は、あえて澤田を通して届けられた。
そうして、馨だけは気づくように、仕向けられた。
彼女を買っていたのは、馨の父だという、その事実を。
「にゃあ!」
水無月が威嚇するように低く鳴いた。
「……わかってるよ」
夜中の考え事は、ろくな思考を生み出さない。
さっさと寝て、さっさと起きろ。
水無月はそう言いたいのだ。
「つまりは、少しでも早く自分が澤田くんに逢いたいんだろ」
「にゃ」
つんと澄ました後ろ姿を見遣りつつ、馨はごろんとベッドに寝ころんだ。
何が彼にそうさせたのか。澤田が記憶をなくした今となっては、もう誰にもわからない。
婚約者を盾に取られ、言いなりになるしかなかったはずの澤田が、指令に背いた。それからまもなく、機械に繋がれているかぎり半永久的に生きているはずだった翠の心臓が、なぜか止まった。そして、いるはずのない怜がたったひとり、そのとき、その場に居合わせた。
これもまた、すべて仕組まれたことだったのだろうか。
澤田が自らそうするように仕向けておいて、彼の不服従の報いとして、翠の生命に終止符が打たれた。澤田にそうすることを選ばせた罰として、怜に死に神の役が与えられた。そういうことだったのだろうか。
『これでわかっただろう、馨?』
ようやく正体をあらわした黒幕は、自分のせいで彼らの人生が滅茶苦茶になったことに打ちのめされた馨を、満足そうに見下ろした。
お前は俺の言うとおりにしていればいい。おとなしく従いさえすれば、一生飼い殺しにするだけで許してやる。お前の父親のように。無能な人間に相応しい、惨めで不様な人生を与えてやろう。
「それでもよかったんだけどね、俺は」
争うのも競うのも、子供の頃からキライだった。誰も傷つけず、自分自身も傷つかず、静かに穏やかに生きていければそれでいい。地位も名誉も、欲しい人が手にするのでなければ意味がない。
「だけど、さ」
彼は、やりすぎたのだ、少しだけ。
馨だけを標的としていればよかったのに、いつしか手を広げすぎた。
何もかもが一遍に起きて、茫然自失の状態から覚めたとき、馨の心は決まっていた。何を考えた覚えもないのに、なんら迷わず行動していた。
貴方の望む道を歩こう。だがその前に、叶えて欲しいことがある。
あんなにも忌避していた祖父の前で、そう宣言した。
貴方の息子に、しかるべきポストを用意して解き放つこと。
短い間ではあったが、馨を受け入れてくれた「チーム」を、自由にすること。
そうして馨の「叔父」は社を離れた。「チーム」は独立して、本物の「なんでも屋」としてリスタートすることになった。
自分が翠を殺したのだという強迫観念に囚われた怜を、どうすべきか。それが一番の問題だったが、なんといっても彼らは「なんでも屋」だ。彼女の出身大学の図書館から卒業論文をみつけ出し、アイルランドの民話や伝承を研究テーマにしていたことを探り当てた。そこから伝手とコネとを大いに使い、本人の意思は判然としないままではあったが、ダブリンの研究機構に送り出した。その後、あちらからの便りはないし、こちらからもあえて連絡していない。が、先日、彼女が籍を置く機関の紀要に、「チェンジリング(取り替え子)」に関する文章が載っていた。末尾の署名「R.H」は、「Ryo Hayakawa」なのではないかと、馨は密かに推測している。
許されたとは思っていない。許されようはずもない。死んだ者は生き返らないし、壊れた関係も、一度開いた傷口も、けっして元通りにはならないのだから。
それでも、馨は馨にできるだけのことをした。
彼らは馨を責めようとはせず、それまでどおりに受け入れてくれた。
永遠につづくわけではない。
いつかは求められる場所へ行かなければならない。
だからこそ今が大切で、このささやかな日々が愛おしい。
やれるだけのことはやったつもりだ。でも、まだほかにもないだろうか。
澤田くんのために、できること。彼らのために、やれること。
「にゃあ」
「わかったってば。おやすみ、水無月。どうせ夢の中でも澤田くんといちゃつくんだろ」
ベッドから降りて明かりを消しにいくついでに、ためしにドア脇に置いたキャリーバッグの入口を開けてみた。
「にゃ」
猫はさも当然、といった顔で中に入り、くるんと丸くなって目を閉じる。
馨は溜め息をつくと、扉を開けたまま固定して、しょんぼり自分のベッドに戻った。傍らに置かれた空っぽの猫の寝床を恨みがましくちらりと見遣り、わざとらしく「ふん」と言ってから背中を向けて横たわったものの、愛猫が気にかけてくれる様子は微塵もなく、むなしさが一層募るだけだった。
「ちょっとぐらい、慰めてくれたっていいじゃないか」
くぐもった声は聞こえなかったか、猫は「にゃあ」とも鳴かずに沈黙で答えた。




