(2)
今年の冬は、寒さが一際身に凍みる。
冷たい北風にひゅーと首筋を撫でられて、縮こまっていたカラダがさらに小さく丸まった。
「津村くん」
「将……!」
暗がりから突然声をかけられて、津村はギョッとしたように振り返る。
「こんなとこで、ナニしてんの?」
「お前こそ、ナニしてんだよ!」
鸚鵡返しに答えると、将がフッと、片頬で笑った。
「答えに困ったら、質問で返せ。そう教えてくれたの、津村くんだよな」
「……ナニが言いたいんだよ」
「ベツに? 単純に、ナニしてんのかなーって思っただけ」
津村は必要以上にイライラしている自分を意識しながら、敢えて無造作に将に答える。
「なんもしてねーよ。事務所に戻るのに、通りがかっただけに決まってんだろ」
「ふーん?」
「なんだよ」
「なんで隠すの?」
「はあ?」
「いっしょにいたの、アイツだろ」
将は、今さっき立ち去ったばかりの津村の連れが消えた方角をちらりと見遣る。
「将、お前、俺のことつけてたのかよ?!」
カッと頭に血がのぼった。それが憤りのためなのか、羞恥のせいなのかはわからぬまま、後ろめたさが腹立たしさを倍加させて、将への怒りが膨れ上がる。
「んなわけないでしょ。俺はほんとーに、事務所に戻るのに通りがかっただけだよ」
将は睨みつける津村を軽くいなして、肩を竦めた。
「どーしちゃったんだよ、津村くん。アイツと二人っきりで逢うなって、澤田くんに言われてんだろ」
将が見たのは、津村会いたさにもう何年も狂言家出をくり返している、甘えん坊の家出娘だ。たとえ向こうからアプローチしてきたのだとしても、保護すべき未成年に手を出したなんてことになったら、罰せられるのはこっちになる。だから、捜索中にだって津村と少女が二人きりにならないように気を配っているのだし、ましてや少女の両親からの依頼によってではなく、個人的に本人と逢うなんてことはあってはならない。そんな初歩的なこと、イマサラ将に指摘されるまでもなく、津村は弁えているはずなのだ。
「……そんなの」
気づいたら、言葉が零れ落ちていた。足下に視線を落とし、歪んだ笑みを浮かべかける津村を、将は冷ややかといってもいい声音で強引に遮る。
「今の澤田くんは、なんも覚えてない。自分がそんなルールを作ったのだって、思い出せない。だから、ベツに守んなくたっていいだろうとか、そんなのぜんぜん関係ねーよとか。思ってもないこと、言わなくていいから」
「なんだよ、それ」
津村は顔を俯けたまま、ギュッと拳を握り締めた。
「知ったようなこと言ってんじゃねーよ。お前にナニがわかるんだよ!」
「わかんねーよ。わかんねーけど、わかるんだよ」
津村の気持ちは、津村にしかわからない。同じ車に乗っていて、しかもハンドルを握っていて、澤田ひとりにあれだけの怪我を負わせ、無傷で救出された自分を責めずにいられない、津村の気持ちは。
でも、津村が澤田を信じていることは、わかっている。誰よりも信じていて、誰よりも記憶が戻るのを待ち望んでいる。痛々しくって、見てられないくらい、切実に。
「アイツに、待ち伏せでもされた?」
コドモだ、コドモだと思っていた家出娘も、この春には高校を卒業する。もしも本当に津村に恋しているというのなら、何か積極的な手を打ってきたとしても不思議はない。
家出娘と逢っていたのを咄嗟に隠そうとしたのは、「ヤバい」と思ったからだろう。向こうから迫られたのだとしても、二人で逢っていたのは事実。悪い娘ではないのだが、甘ったれでワガママで、思い通りにならないとすぐに癇癪を起こすから、津村に拒絶された腹癒せに、どんな言い掛かりをつけてくるかわからない。乙女心を傷つけることなく、上手にやんわりと理を諭さなければならないが、そんな芸当は今の津村にはできそうもない。もちろん、今でも今でなくっても、ぶっきらぼうで口下手な将にはムリな相談だし、こんなときに頼りになるのは、ひとりだけだ。
「事務所に戻るんだろ? 早いとこ広瀬くんに報告してさ、あっちの親に話通してもらっといた方がいいよ」
将は一緒に行こうと誘うように、クイッと首を出口の方に向けて歩き出す。津村も一瞬、それにつづきかけて、ふっと足を止めた。
「俺、ちょっと、買い物があるから」
将も立ち止まると、背けられた津村の横顔をジッと見つめる。
逃げんなよ。
一番はじめに浮かんだ言葉は飲み込んで、かわりにニッと笑ってみせた。
「津村くんにも、メールきてんだろ。今夜は鍋だってさ。俺らの分は残してあるから、早く帰ってこいって」
津村は「うん」と頷くと、背中を向けた。虚勢を張っていた肩のあたりがしょんぼりとして、見るからに寒々しく丸められている。その後ろ姿は容赦なく津村の精神状態をさらけ出していて、そのまま行かせてやるつもりだったのに、気づいたときには「津村くん」と呼び止めていた。
「俺さ」
言い掛けたものの、言葉に詰まる。将はすっと息を吸って、吐き出した。白い息が、ふわっと浮かんで消えていく。
「俺。ここで、澤田くんに拾われたんだ」
津村の足が、ピタリと止まった。
「さっき津村くんがいたところに、俺がいてさ。いま俺がいるところから、澤田くんが声かけてきて。それで、なんとなく。ここに来たんだ」
事務所に戻る道はほかにいくらでもあるのに、自然とこの公園を通り抜けるルートを取っていた。あれはもっと遅い時間だったけど、やっぱりこんな風に寒い日だったな。そんなことを考えるともなく考えながら、ふと顔を上げると、津村の姿が目に入ったのだ。
「なんでだろうな。ベツに、だからどうしたってこともねーのにさ」
駅からほど近いのに、緑が多いせいか、閑静な住宅街にふさわしい落ち着いた公園。広々として昼間は明るく開放的だが、夜は森閑として物騒にもなる、都会のオアシス。
あの事故以来、気がつくと、この場所に来てしまう。感傷に浸るわけでもなく、ただ通り過ぎるだけのことなのに、なぜだかこの道を選んでしまう。
津村は、何も言わなかった。かすかに頷くような素振りをしてみせて、ハーフコートのポケットに両手を突っ込み、薄ら寒そうな背中を見せて遠ざかっていく。
将は悄然と去っていく後ろ姿を見送って、自分もクルリと踵を返した。
どうしてあんなことを言ったのか。
柄にもなく、津村を慰めたいような、励ましたいような、そんな衝動に駆られ、気づいたら言うつもりもないことを口にしていた。言ったところで、慰めにも励ましにもならないのに。むしろ、津村には責めているように聞こえてしまったかもしれないのに。
将は怒ったようにずんずん歩きながら、空を見上げる。
澤田の婚約者が抜けて、澤田と広瀬、津村と怜の四人で再出発したチームの初仕事が、将を彼らのもとに呼び寄せることになったのだった。
息子が学校でイジメをやっているらしいから、止めてくれ。そういう依頼だったのだという。
子供であれ大人であれ、イジメはエスカレートする。因果関係すら曖昧になり、誰にも止めようがなくなったとき、第三者に解決を委ねるのは悪い選択ではない。
それでも、それまでとは打って変わった任務に戸惑いもしたし、腑に落ちない気もしたが、彼らに拒否することはできず、毎日通い詰めて依頼人の息子に口を割らせたところ、「卒業生に恐喝されていて止められない」という話になった。
探し出した首謀者は二十歳を超えていたから、暴行と恐喝の現場を押さえ、これが大っぴらになればどういうことになるのか、荒っぽい方法で理解させた。かなり無茶なやり方だったが、当時の澤田にはほかにやりようがなかった。
周囲からの聞き込みで、彼らの在学中の所業も粗方わかった。傷害、窃盗、あらゆる悪事に手を染めており、同級生に対する陰惨なイジメの様子も、かつてのクラスメートによって明かされた。
ターゲットになっていたのは、将だった。
何がキッカケだったのかは、挨拶をしなかったらしいだとか、イジメへの加担を断わったからだとか、諸説あって一致しない。本当のところは、本人たちにだってわかりはしないのだろう。ただ、誰がどう見ても、将はイジメを受けるようなタイプではない。それがかえって、学校側の対応を遅らせた。そして、将自身も、決して自分から助けを求めようとはしなかった。
三階のベランダから突き落とされたこともある。バイクで轢き殺されそうにもなった。所有する家畜を識別しようとするかのように、右の耳朶を無残に切り刻まれもした。それはもうイジメではなく、リンチだった。それでも将は、一日も休まず登校した。
そして、ある朝。全裸にされてロープで縛り上げられた将が、便所で発見された。汚物に塗れて血反吐を吐き、ぴくりとも動かない将に、あっという間に群がった傍観者という名の共犯者たちはみな、間違いなく死んでいると思ったと口を揃えた。
学校は、虐げられる側を排除する。事が公になり、転校を勧められた将は、そのまま高校を退学した。学校に通いつづけることも、転校を拒んで退学することも、将の精一杯の抵抗だった。将のプライドは理不尽な暴力に屈することを許さず、正義を行えない組織への帰属を拒否したのだ。それがイジメられていた人間だとは思えないくらい、将は昂然と頭を擡げて去っていった。
その一方、誰にも見せられない分だけ深く、将は傷つき、病んでいた。親しかったはずの友人は、きれいに皆、背中を向けた。親や教師ははじめから頼る気にもなれない。それまで頼みもしないのに媚びた薄ら笑いを浮かべていた連中が、途端に唾を吐きかける。
――裏切られたなんて嘆く奴はバカだ。信じた方が負けなのだ。
澤田と出逢った当時の将は、どんなときでも小さな背中を怒らせて、他人を寄せ付けようとしなかった。誰に対しても無関心のような顔をして、それでいて警戒を怠らない。いつでもピリピリと張り詰めていたし、下手に手を出そうとする人間には牙を剥いて追い払った。
中でも、人に囲まれるのがダメだった。
澤田と二人で街中を歩いていて、突然、立ち竦んだかと思うと、うまく呼吸ができずにパニック状態になったことがある。別段変わったことがあったわけではない。平日でも歩行者天国なみの混雑を来たすスクランブル交差点で、たまたま四方を人の波に遮られて動きがとれなくなっただけだ。それも僅か数秒の出来事でしかない。
似たようなことは、その後も何度かあった。囲まれた、そう思った途端、過度の緊張に襲われるのだ。集団暴行の後遺症のようなものだったのだろう。
将は、胸に溜まった息をふうっと吐いた。白い空気の塊が、触れることさえできそうにハッキリと浮かぶ。
澤田は、自分が見たこと、知ったこと、気づいたことを、ひとつも将に悟らせなかった。かつての自分がどんなに惨めな存在だったのかということを、決して悟らせまいと精一杯の虚勢を張って生きていた将には、何ひとつ。
普段はほったらかしのクセに、礼儀だとか責任だとか、そういうことになると澤田は容赦なかった。世話になったら礼を言えだの、時間を守れだの、津村や和人に対するのと少しも変わらず、将にも手厳しく要求した。どんなに悪態をつこうが反発しようが、澤田は決して折れなかった。自分から手を出すことこそなかったが、将がキレて掴みかかっていけば、体格差にものを言わせて捻じ伏せられもした。ヘンな気遣いや手加減を感じたことは一度もなかった。
だから、まったく気づかなかった。もしも少しでもおかしいと感じていたら、将はすぐさま彼らのもとを去っていたはずだ。
そもそも、チームへの依頼は「現在行われているイジメをやめさせること」で、首謀者と話をつけたところで任務は完了。そのついでに知ることとなった何年も前の悪行は、この件とは無関係だ。
にもかかわらず、学校からだけではなく自宅からも姿を消したという少年のその後の噂が引っ掛かり、澤田はひとりで調査をつづけたのだという。
『お前、チキンレースで小遣い稼いでただろ?』
澤田の低く掠れた声が、今でも耳に残っている。
見知らぬ街で十六やそこらのガキがひとりで生きていくのに、どれだけの選択肢があるのだろう? しかも、あの頃の将は、まともに人と関わることもできなかった。どんな経緯であんなバカなことをはじめたのか、自分でもよく覚えていない。気づいたら、そうせざるを得ない状況に追い込まれていた。
『そんなに死にたいんなら、俺が終わりにしてやろうって思ったよ』
自嘲する声の暗さに、エンジンの轟音と耳を劈くクラクションと、頭のイカれた輩の狂った雄叫びが重なっていく。
もう長いこと放置されたっきりの、マンションか何かの建設予定地に、毎晩行き場のない若者たちが屯していた。古い映画のシーンを模して区切られたそこがレース場で、向かい合わせに据えられた車で突っ込んでいき、先にハンドルを切った方が負けになる。掛け金は仕切っている連中の懐に入るだけだった。将は住む場所と食い扶持を宛がわれ、レースがある度に呼び出されてカラダを張った。他には何も持っていなかったし、やるべきことも、できることも何もなかった。
澤田は、あの場所にいたのだという。そして、レースに加わる気でいた。
『でもな、お前を見てわかったんだ。腐っていたのは、俺の方だ』
将は自分を危険に晒すことによって、必死に生きていた。生死の境を味わうことで、生きている実感を取り戻そうとするかのように。お前にそんな自覚があったのかはともかく、俺の目にはそう映ったのだと、澤田は言った。
死にたがっていたのは、他の誰でもなく、澤田自身だった。
澤田の婚約者は、正面から全速力で歩道に乗り上げてきた乗用車によって、壁に押し潰されたのだと聞いている。澤田は、彼女が味わった恐怖と衝撃を、自分のカラダに刻もうとしたのだろうか。そうして自分が死んだなら、彼女はきっと、目を覚ます。同じ苦しみを請け負って、身代わりに命を差し出すことができたなら。そんな甘ったるい幻想に、取り憑かれていたのかもしれない。
だが、どんな形ででも生きようとしている将の姿は、そこに留まることを許してはくれなかった。
『だから、なんとか足を洗わせたかった。お前を死なせたくなかったんだ』
勝利を収め、緊張と興奮に包まれて車から降りる将を遠目に見ながら、強烈にそう思ったのだと言っていた。
澤田は当時、彼女と過ごすことのできない時間、広瀬たちの目からも逃れる夜になると、ひとりで街をさ迷っていた。誰かを殴りたかったのか、誰かに殴られたかったのか、自分でもよくわからないまま、とにかくそんな場所を求めていた。
そして、あそこに出くわしたのだ。
はじめはそれが将だということがわからなかったそうだ。男たちに囲まれて震えているのは、命知らずの野生児とはまるで別人だった。澤田が声をかけるのがあと少し遅かったら、きっと、例の発作を起こしていただろう。男たちが立ち去って、多少顔色をもちなおし、今度は自分を睨み付けてくる将をこのまま手放したくはないと、取り敢えず独断で名刺を渡したのだということだ。
――やめとけよ。クダらねぇ。
あのときの澤田の声を、忘れたことはない。
将も、そう思っていた。
チンピラに養われる生活も、他にどうしようもない自分自身も、何もかもがクダらなかった。差し出された名前も知らない女と貪る浅い眠りの中でさえそう思いながら、抜け出すことができなかった。
将はそこに人がいることにも気付いていなかった。唐突に地を這う低い声が耳を打ち、澤田の突き放すような、ほっぽり出すような口調が、ずしっと胸に重く響いた。
それは、他人を嘲る言葉ではなかった。あれはきっと、澤田自身に向けられた言葉でもあったのだ。
だから、将にも届いた。自分を痛めつけようとする声だからこそ、将にも響いた。
あのとき、将は自分と同じ匂いを澤田から嗅ぎ取ったのだ。
そうして、彼の誘いにのることを選んだ将を、澤田はそのまま事務所に連れていった。もともと極端に少ない私物に未練はないと告げると、新たな住まいが決まるまで事務所に留まるようにと言い、すっぱりと元いた暮らしと切り離させた。
「足を洗う」といっても、やめます、ハイそうですか、というわけには当然いかない。澤田がどうやってヤツらと話をつけたのか、将は何も聞かされていなかった。恐らくは広瀬にすら詳しい事情を明かしていないはずで、澤田が記憶をなくした今、すべてを知る者は誰もいないということになる。
「……けど、俺は覚えてっから」
澤田に拾われたことも。危ない橋を渡らせたのだろうことも。自分がそうして救い出されたのだということも。何もかもぜんぶ、覚えている。そして将の記憶にあるかぎり、あったことがなかったことにはならないのだ。
津村も、顔を上げさえすれば、わかるのに。
滅多に事務所に姿を見せなくなった津村は、たまにあらわれても、俯きがちにして誰とも目を合わせようとしない。だから、津村だけは気づけないのだ。津村を見て、澤田がどんなに嬉しそうな笑みを浮かべるか。ほっとして、安心して、何か話しかけたそうに、しかしなんにも言えず、見守っていることを。来ても、来なくても、津村の好きなドライカレーやポトフを拵えて、いつでも待っていることも。
覚えていない、思い出せない、俺はお前たちの「澤田くん」ではない。頑なにそう言いつづけているが、澤田の作る料理の味は、彼らが覚えているのとぜんぜんまったく変わらない。確かに、何をするにも時間はかかる。見栄えも正直、見劣りする。でも、誰もそこまでの注文はしていないのに、和人のために作るカレーは少し甘くて、広瀬のオーダーだと香辛料の種類が増える。津村が頼めば、きっと、自動的にチーズが上に乗るのだろう。無意識のうちにそうしているのか、カラダが勝手に動くのか、下手に確かめたりしたら本人を混乱させてしまいそうで、誰も何も言おうとしないが、澤田の手料理を口にするたびに、何も変わってはいないのだと実感する。
津村の目には、不揃いのキャベツの千切りや、繋がったままのキュウリの薄切り、そんなものばかりが映ってしまい、その先を見ることができなくなってしまっているのだ。できたことができないというのはもどかしいだろうし、危なっかしい手つきで苦労している澤田の姿は、痛々しくもある。それが自分のせいだ、という罪の意識があるなら、なおさらだ。澤田本人はぜんぜん責めていないのに、もしかしたらそれだからこそ、津村は自分を責めつづけている。そうして失われたものばかりを悔いている。
津村が苛立つ気持ちは理解できる。
依然として澤田の記憶は戻らぬままだ。それでも、澤田は充分に澤田らしくて、カラダの自由が利かなくても、体調が思うようにならなくても、少なくても彼らの前では、悲壮感をけっして見せない。だから、というわけでもないのだが、いつのまにか、少しずつ、このままでもいいではないか、という気分が生まれはじめている。諦めたというのではない。取り戻せるものなら、取り戻したいに決まっている。しかし、澤田が澤田であることは事実なのだ。無理に苦しまなくても、そうすることによって苦しめなくても、よいではないか。
津村には、それが許せないのだ。このままでいいはずがない。記憶も、健康も、百パーセント戻さないでいいわけがない。元通りの澤田以外は認められない。将が津村の立場だったら、やはり、そう思い詰めていただろう。
でも、本当に、澤田は今のままでも充分に彼なのだ。
津村がそれに気づくことさえできたなら。まっすぐに澤田の目を見ることさえできれば、すぐにわかることなのに。
将は天に向かって、ふぅっと大きく白い息を吐き出した。




