(1)
風邪をこじらせ寝込んでいるうちに、秋は足早に行ってしまった。
いい加減にまっとうな生活を送らなければと思うのだが、和人の食餌療法のおかげで体重は一キロ増えたものの、目標には十キロほど足らないことに変わりはなく、体力も信用も一向に増してくれない。いまだにリハビリに通うほかは何もさせてもらえなくて、どうにかこうにか、炊事や洗濯、事務所内の掃除をこなし、日々を過ごしている。
そして、困ったことに、そんな甘やかされた状況であるにもかかわらず、すぐに疲れてしまうのだ。掃除といったところで、モップをかけた後に掃除機も動員し、テーブルや棚、テレビまわりを拭いてまわっただけのことなのに、ちょっとリビングのソファベッドに横になった途端、睡魔に襲われる。
ふざけるな、何をするにも人より時間がかかるんだから、今のうちに夕飯の下拵えでもはじめろよ。
そう思うそばからウトウトとして、どうしても瞼が持ち上がらない。再び風邪をひいたりしないように、しっかりブランケットにくるまったのが徒となり、すっと深い眠りに落ちてしまった。
そうして、どれほどの時間が経過したのか。
ずん、と胃のあたりに重苦しさを感じ、意識が浮上した。
少しずつ、なんとなく、違和感を覚えるのではなく、こんな風に唐突に異常を感じるのは、何かよくない兆候なのではあるまいか。いや、でも、本当にたまたまのことで、しばらくたてば、何事もなかったように治まってしまうかもしれない。耐えられないほどの痛みでもなし、このまましばらく様子をみよう。余計なことを言えば、また……。
「なんか胃のへんが苦しいけど、黙っておこう。また和人がウルサく騒ぐから」
突然ハッキリと声が聞こえ、パッと目を開くと、むっつりとした和人に見下ろされていた。
「図星でしょ」
「いや」
「いいよ、わかってるよ、顔に書いてあるよ」
「いいや、本当に、違う。ウルサいなんて、思ってない。心配かけたくないだけだ」
「それってさ、本質的には同じことなんじゃないのかな」
和人は拗ねたように言いながら、澤田の上に身を屈める。
「ほら、降りろよ水無月。重いってさ。お前、澤田くんに逢えないストレスで、ちょっと太ったんじゃない?」
「にゃー!」
「ん?」
横たわったまま自分の胃のあたりに目をやると、和人に抱き上げられようとする猫が、離されまいと必死にブランケットに爪を立てていた。
「……水無月?」
「にゃお」
名前を呼ばれた馨の猫が、感極まったかのように潤んだ瞳で見つめてくる。
「相変わらず、マタタビ体質だよね、澤田くんは。ファスナーを開けた途端、ネコまっしぐらだよ」
リビングの入り口に、憮然とした面持ちの馨がいた。出掛けに愛用のリュックサックを持ち上げたとき、なんか重いな、とは思ったのだ。しかし、まさか水無月がこっそり忍び込んでいるだなんて思いもよらず、自転車の前籠に乗せて運んできてしまった。事務所の玄関を上がったところでリュックを床に置き、さすがに何かおかしい気がして開けてみたところ、中から猫が飛び出してきたというわけだ。
「そうやって節操もなく澤田くんを押し倒したりするといけないから、連れてこないようにしてたのに」
「そうか。お前が水無月か」
「みゃおん」
話には聞いていたものの、実際に逢うのははじめてだ。和人の手から抱き取ると、猫は澤田にヒシと縋り、首筋に柔らかな毛並みを擦り寄せ甘えかかった。
「はは、擽ったいよ。随分積極的なお嬢さんだな」
「そりゃ、澤田くんに逢いたい一心で、実力行使に出るくらいだからね」
「澤田くんの前では純情可憐な町娘みたいな振りしてるけど、実体はしたたかな遣り手ババアだから、水無月は」
「シャーッ」
「ほら、今の般若みたいな顔、見た?」
「ん? ごめん、見逃した」
壁の時計を見ようとしていた澤田が猫に視線を戻すと、腕の中からつぶらな瞳を瞬かせて、「みゃおん」と鳴く。
「甘えた声出しちゃってさ。この猫っかぶりが」
「そりゃ、猫くらいかぶるよな? 猫なんだから」
「みゃあ」
すらりとした指に優しくノドを擽られ、猫がこの上なく幸せそうに首筋を伸ばした。
「へー。来てたんだ。相変わらずウマそうだな、水無月」
「にゃ?!」
「広瀬!」
ふわりとした優しげな声とは不似合いな発言に、澤田と猫がギョッとして振り返る。
「昔から、六月に食べる『水無月』っていう名前の菓子があるんだよ。それに似てるんだよな、水無月は」
乳白色の体毛に、ピンと尖った三角の耳、しかもその耳と額のあたりがちょうどいい小豆色で、三角形のういろう生地の上に小豆を載せた「水無月」を、いやが上にも思い出させるのだ、この猫は。
「えー。そんな菓子があるなんて、ぜんぜん知らなかった!」
「そう? じゃあ、来年は忘れずに買ってきてあげるよ」
「来年かぁ」
見るからに残念そうな顔をする和人に、広瀬は笑う。
「まあ、実質的にはあと半年の辛抱だ。今は一年中置いてる店もあるかもしれないけど、やっぱり水無月は六月に食べないと。神事の名残だって説もあるくらいだから」
「なあ、いま何時なんだ?」
ひとりで留守番していたはずなのに、いつのまにか和人と馨に加えて、広瀬までいる。彼らの影になって見えない時計の方にもどかしそうな目を向ける澤田に、和人があっさり答えを与えた。
「もうすぐ七時だよ」
「七時! 悪い、夕飯の支度がまだぜんぜん……」
水無月を抱いたままガバリと身を起こそうとする澤田を、広瀬が止めた。
「今夜は鍋にした。野菜の準備が済んだら呼ぶから、おとなしく待ってろ」
「いや、下拵えなら俺が」
「澤田くんは水無月と遊んでればいいよ。俺が手伝うから」
「そういうわけには」
「いくんだよ。澤田くん、やらなくていいって言ったのに、風呂掃除と窓拭きやったでしょ。自覚してるより疲れたんだよ、ゼッタイ。眠ってるなんて思わないからふつーにウルサく入ってきたのに、ぜんぜん起きないくらいグッスリ寝てたんだから」
「起こしてくれて、よかったのに」
むしろ、起こしてくれた方がよかったのに。そう言いたげな顔の澤田に、和人は芝居がかった溜め息をついた。
「澤田くんだったら、疲れて寝てる俺たちをムリヤリ起こした? 起こさないでしょ? それにね、澤田くんは俺たちの食事係ってわけじゃないんだよ。義務じゃないんだから、そんな責任感じなくっていいんだってば」
「でも、ほかには何もできないんだ。せめてそれくらいはやらないと……」
「みゃあ」
「ほらね、水無月も言ってるだろ。正直、澤田くんの賄いはやっぱりウマいし、ありがたいよ。ありがたいけど、それ以上に大事なのは、澤田くんがここにいてくれることなんだから」
「みゃお」
和人は水無月の頷きあうと、そのままぷいっとキッチンへと行ってしまった。ちらりと覗く耳朶が赤くなっているのは、どうやら照れているためらしい。
「お前はそれでいいけどな、水無月」
確かに猫は、ただそこにいるだけで充分だ。その愛らしさで人を慰め、幸福にする。しかし、人間は、そういうわけにはいかないだろう。いたいけな幼子であるならともかく、大のオトナともなれば、ただ無為に過ごしているだけでいいとはいくまい。
左手で猫を支えつつ、右肘を軸に上体を起こして嘆息すると、水無月が慰めるように「にゃあ」と鳴いた。
「和人くんは、ちょっと嬉しいんだよ」
馨がひとり掛け用のソファに腰を下ろしてボソリと言うと、澤田と猫がクルリとそちらに顔を向ける。
「澤田くんが俺たちの前で寝てるとか、ありえなかったから。それだけ心を許してくれてるっていうか、リラックスできてる証拠でしょ」
「『澤田くん』はそうだったのかもしれないけどな。俺は、眠ってばっかりいるじゃないか」
澤田は苦い笑みを浮かべて、猫を撫でる。
「具合が悪くて意識を保ってられない、とかいうのはノーカウントだよ。まあ、今だってその延長なんだろうけどさ」
すぐに眠ってしまうのは疲れやすいからで、疲れやすいのは体力が落ちているからで、体力が落ちているのはなかなか体調が戻らないからで、そういったすべてが精神的にも疲弊させているのだろう。本人が隠そうとしているので見て見ぬ振りをしているが、いまだに眩暈や立ち眩みに悩まされているのも知っている。だからこそ休んでいてくれと言っているのに、それができないのが澤田という男なのだ。
「澤田くんは、苦手だよね。何もしないでのんびりしてるとか、そういうの」
馨は澤田の膝で寛ぐ水無月に視線を向けたまま、ひっそりと笑う。
ざっくりとした厚手のセーターがいまだ生々しい傷跡をうまく隠して、ゆったりとソファに腰掛けている姿を眺めていると、今日という日はこれが当たり前だった一年前――もちろん本当はそのもっとずっと昔――から繋がっているんだなぁと、そんなことをふと思う。
当たり前に、澤田がいた日々。津村がなんの屈託もなく笑っていて、広瀬の纏う空気が優しくて、それぞれ気ままに、みんなが好き勝手にやっている。それが当然だった、あの頃。
「猫も飼い主に似るのかな」
「え?」
思ったよりも、ぼんやりしていた時間が長かったのかもしれない。ふっと顔を上げると、水無月のノドを擽る澤田と目が合った。
「そうしていると、よく似ているな、お前たちは」
その言葉に促されるようにして水無月を見ると、猫も大きな瞳をまんまるくして馨を見ている。
「似てないよ、ぜんぜん」
先日、母のばあやに言われた言葉を思い出し、反射的に否定する馨に同意するかのように、猫がいかにも不服げに「にゃあ」と鳴いた。
「ほら、その顔。そっくりだよ」
澤田は水無月を「よっこらしょ」と抱き上げて、馨の顔の隣りに並べる。小柄な猫ではあるのだが、持ち上げるとなると、やはりそれなりに筋力がいった。
「お前は美人だね、水無月。モテるんだろう?」
「にゃー!」
「心外だってさ。水無月は澤田くん一筋だから」
「それは光栄ですけどね、お嬢さん。俺なんかより、もっといい男がここにはいっぱいいるじゃないですか」
「にゃっ」
「澤田くんじゃなきゃ、ダメなんだって」
「にゃあ」
馨と猫の息のあったやり取りに、澤田の笑みが深くなる。
「美人な上に、随分お優しいんですね、お嬢さん? 慰めてくれるんですか」
「にゃおん」
「おっと!」
猫に取り縋られてバランスを崩しかけた澤田の背中を、様子を窺っていた和人が後ろから支えた。
「こら水無月! 澤田くんの傷をこれ以上ひとつでも増やしてみろ、猫鍋にしてやるからな!」
「ニャ!」
「だいたいね、がっつきすぎなんだよ、お前は。そういう慎みのない娘は、澤田くんのタイプじゃないってわかってんのか?」
「にゃー」
「それは、和人くんの趣味なような気もするけどね」
「えー。てか、お前だってそうだろ? 積極的にこられたら引いちゃうくせに。ま、自分からもいけないんだけどな、馨は」
「俺はベツに……」
和人は馨をからかいながら、手際よくソファベッドの背もたれを起こし、ベッドからソファの状態に戻していく。
「澤田くんも、待ってる方だよね。いいよなぁ、男前は。黙ってても美女が寄ってくるんだからさ」
「あんなこと言ってるぞ? 実際は和人が一番モテそうなのにな」
「にゃおん」
「それでもやっぱり、水無月の一番は澤田くんらしいよ」
「みゃお」
「よしよし、あとで広瀬に頼んで、煮干しをもらってやろう」
「にゃーん」
「煮干しなんかより、澤田くん本人の方がよっぽど水無月の好物だけどね」
一向に飼い猫に懐かれない馨は、じゃれつく水無月を甘い声であやす澤田を横目で見遣り、むっつりと言う。
「妬くな妬くな。水無月が澤田くんに首ったけなのは、今にはじまったことじゃないんだから」
どういうわけか、澤田は昔から猫に好かれる。澤田自身、どこか猫っぽいところがあるからかもしれない。ついっと切れあがった大きな眸とか、さり気なく優雅な身ごなしとか、むやみに群れることを厭うとことか、そのくせ案外、淋しがりやなところとか。
「そうだけどさぁ」
それにしても、かつての澤田は、こんなにも優しい表情をして、こんなにも甘やかに、猫に囁きかけていたものだろうか。むしろ素っ気なく無造作にあしらっていたとしか思えないのだが、しかし、閉ざされていた心の内を覗いてみたら、案外こんなやわらかな感情が潜んでいたのかもしれないとも思う。
だとしたら、猫たちが澤田に魅了されるのも当然だ。深みのある豊かで艶やかな低い声は、まるで意中の女性を口説いてでもいるかのようではないか。こんな声で語りかけられて、どうして心惹かれずにいられるだろう。
それに、澤田自身もまた、これまでになく寛いでいるように見える。もしかしたら、水無月が澤田に甘えているのよりずっと、澤田が水無月に甘え、癒され、解放されているのかもしれない。
そしてそれは、馨も同じだ。あれ以来どうしても拭えなかった蟠りが解きほぐされて、こうして澤田と向き合えている。
――だから早く連れてこいと言ったのだ、愚か者め。
猫は冷ややかな一瞥を馨にくれると、すりっと澤田の首筋に身を寄せて、うっとりと目を閉じ優しい愛撫に身を任せた。
「このまましばらく、水無月をここに置いておこうか。本人もそのつもりでいるみたいだし」
飼い猫の心の声を代弁する馨に、和人の表情が明るくなる。
「お。いいんじゃない? いい子にできるよな、水無月」
「にゃん」
「ナニ言ってるんだ。ダメに決まってるだろ、そんなの」
肩によじ登ろうとする水無月をいかにも愛おしそうに撫でてるくせに、馨の提案を素っ気なく退ける澤田に、和人が小さく溜め息を洩らした。
「おんなじこと言ってるよ」
「ん?」
「なんでもない。ほら、そろそろあっちに移動しよう。もう準備できるって」
「よし」
澤田は猫を落とさないようにしっかりと抱き、すっと集中したかと思うと、ソファベッドからまっすぐきれいに立ち上がった。猫の重さに加え、いつも座っている椅子より座面が低い分だけ負荷がかかるものの、杖の助けなしで無事に立てたことに安堵する。見守っていた和人と馨も同じ思いらしいのを感じながら、しばらく動かさなかったおかげで強ばる筋肉を宥め、慎重にダイニングまで歩を進めた。
「ウマそうだな。みぞれ鍋か」
豆腐に白菜、椎茸としらたき、ネギと油揚げと肉団子。ぎっしり詰め込まれた鍋の横に、広瀬がこれも山盛りの大根おろしの鉢を並べる。
「シメはうどんね。水無月が来るってわかってたら、メザシくらい買ってきてやったのにな」
「いいのいいの。こいつ、不法侵入したんだから。煮干しで充分!」
広瀬にくっついてキッチンとリビングを行き来しながら、和人が猫に向かって「な?」と同意を求めると、猫はいかにも不当な扱いを受けたかのように、哀れっぽく「にゃあ」と鳴いて澤田を見上げた。
「贅沢だなぁ。結構いい煮干し使ってるんだぞ?」
「馨といっしょで、清さんに毎日おいしいもの食べさせてもらってるからさ。舌が肥えてるんだよ」
「グルメな猫か。やっぱり、お前もウマいんだろうね、水無月」
「にゃ!」
広瀬がにっこり微笑みかけると、猫は慌てて澤田の腕の中に身を隠した。
「よしよし、ちょっと馨のところに行っておいで。鰹節かいて、猫まんま拵えてやるから」
「にゃおん」
「猫まんまは大歓迎だけど、澤田くんから離れるつもりはないってさ」
「そんなこと言ったって、お前を抱いたままだと何もできないだろ?」
「にゃおーん」
猫を馨に託そうとする澤田と、離されまじとしがみつく猫との間で、セーターがびよーんと引き延ばされる。
「わかった。俺が猫まんま用意すればいいんだろ」
どこか恨みがましい口調で言って、馨がキッチンに向かおうとすると、和人がすかさず引き留めた。
「馨にはムリムリ! キャットフードかなんか、持ってこなかったのかよ?」
「だって、水無月がついてきてるなんて知らなかったんだから!」
「なんか哀れだな。澤田くんへの愛の百分の一くらい、馨に分けてやれよ、水無月」
「心配しなくても、水無月が一番好きなのは、馨だよ」
澤田の言葉に、猫と馨と和人と、三者が揃って訝しげな顔をする。
「水無月が馨につれないのは、愛されてる自信があるからだ。信頼しているからこそ、素気なくする。そうなんだろ? お嬢さん」
「にゃ!」
猫は全力で否定するかのように、キッと馨を睨みつけると、片手を伸ばしてシャッと馨の頬を引っかこうとした。
「水無月」
「……!」
低い声で窘められて、振り上げられた前足が渋々と引き戻される。
「いい子だ」
澤田がそっと微笑んで、再び馨の腕へと猫をゆだねると、今度は逆らいもせずにおとなしく飼い主の胸に抱かれた。
――ああ。澤田くんの声は、猫さえ従わせるんだな。
「にゃっ」
「うおっ」
飼い猫とのスキンシップがはかれたのはほんの一瞬。
いちおうの義理は果たしたつもりか、思いに沈もうとする馨の鳩尾を後ろ足で一蹴りして、水無月はひらりと床に飛び降りると、いそいそと澤田のあとを追っていってしまった。




