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春を待つ日々  作者: 苅野しのぶ
小春日和
22/34

(5)

 今日はまた、水無月の機嫌が一段と悪い。

 澤田の気配がするのに、澤田がいない。

 恐らくはそれが原因だ。

「俺じゃないよ、清さんだよ」

 いちおう言い訳するものの、猫は「それがどうした」とでもいうような一瞥をくれ、部屋の隅に行ってしまう。自分を差し置いて澤田の傍に侍るなど、言語道断。相手が誰であろうと、許すつもりはないということらしい。

「猫も飼い主に似るのか、みぃちゃんは本当に澤田さんが好きなのねぇ」

「なんでそうなるのかな」

「あら。違いましたか?」

 事務所でのお料理教室の報告がてら、コーヒーとアーモンドのガレットを子供部屋まで運んできてくれた婦人が、訳知り顔に微笑みかける。水無月の不機嫌がうつったわけでもないが、なんとはなくおもしろくない気分の馨は、意地悪く当て擦りを口にした。

「だいたい、澤田くんのお母さんが遠慮してるのに、清さんが出張ってくってどうなんだろうね」

「実の母親だからこそ、ご遠慮もおありなんですよ。こういうときは、わたくしのような者がお節介を焼くぐらいが、ちょうどいいんです」

「言い訳にしか聞こえないよ」

 そもそも、馨には子を思う母の気持ちだなんてこれっぽっちも理解できないし、するつもりもない。

「そうですね。そうなのかもしれません。すっかり楽しく過ごしてきたものですから、つい」

 婦人は馨のイヤミなど軽やかに受け流し、クスリと小さな笑みを浮かべた。

「澤田さんのお風邪も、峠を越したようですからね。またすぐにお目にかかれますよ。ね? みぃちゃん」

 月を眺める猫が描かれた染め付けの皿に、猫用クッキーを少し多めに入れながら、飼い主と猫のどちらへともなくそう言って、婦人は「失礼します」と下がっていった。


「ふん」

 いい年齢をして、いつまでも子供のときのままに子供部屋を使っているから、いつまでたっても子供扱いされてしまう。いや。本当の理由はそんなことではなく、いつまでも大人になれない自分にあるのだということはわかっているが。

「お前はいいよな、水無月」

 それはそれ、これはこれ、と割り切ったかのように、平然とクッキーを食べにやってきた猫に思わずぼやく。猫には猫の苦労もあろうが、人間様よりは気楽そうに見えるのだから仕方がない。

 案の定、猫は「貴様ごときに何がわかる」というような視線をちらりと向けて、それきり飼い主の存在を切り捨てた。猫はクールな生き物だというが、それにしても水無月は冷たい。しかも、飼い主である自分には取り分け冷淡。猫と子供は相性が悪いとも聞くが、そのせいだろうか。

「澤田くんは、大人だもんな」

 だから、こんな自分を許してくれる。あんなカラダで、他人のことを気遣いさえする。そんな必要はどこにもないのに。今の彼にとっては、自分たちはなんの意味もない存在でしかないはずなのに。

「……記憶、か」


 馨の一番古い思い出は、五歳のときのものだ。

 きれいな女の人が、絵を描いている。彼女の使う二十四色揃いの色鉛筆が、馨は羨ましくってならなかった。

 『かして?』

 そう言ってみたけれど、返事はなく、馨は黙って画用紙いっぱいに描かれていく絵を眺めていることにした。

 『じょうずだね』

 それはまさに小さな子供が描く絵そのものの拙さだったが、絵も工作も苦手な馨よりは本当に上手に見えたから、心から言った。

 『お父様の絵』

 どこか舌っ足らずな愛らしい声が、得意げに言う。表情もなんとはなくあどけなくて、幼い女の子のようだった。

 描き上がった絵を満足げに眺めるその人を、馨はうっとりと見つめていた。きれいで、かわいくて、馨はその人が大好きだった。

 すると、彼女の手から、はらりと画用紙が取り落とされた。

 どうしたんだろう、と思っていると、彼女はふわりと立ち上がって、そのままバルコニーへと歩いていく。手摺りに浅く腰掛けたときには、お外を見に行ったのかな、と思っただけだった。揃えた両足を手摺りの向こう側に下ろしたのを見てはじめて、「あぶないよ」と声をかけた。

 その人は、馨を一度も見なかった。どこにもいない誰かに向かって、それはそれはきれいに微笑みかけたかと思うと、そのままふっと、馨の目の前から消えてしまった。

 それが、母の最期だ。

 馨の五つのお祝いを済ませてすぐのことで、そのときに二人で撮った写真が、母の遺影となった。

 母は、心を病んでいた。想い合っていた初恋の人との仲を裂かれ、従順であるという理由で選ばれた遠縁の男と強引に結婚させられたのが原因だったそうだ。母は一人娘だったから、親の決めた相手を婿に取るのは、祖父にとっては必然だ。二人に求められたのは後継者を儲けることだけであり、母は翌年、十九の若さで馨を生んだ。

 しかし、母は自分の妊娠も出産も、決して認めようとしなかったという。馨を産み落とすとそれきり何事もなかったかのように少女の自分に戻り、馨は母のばあやに育てられた。

 馨の父となった男は、彼なりに妻を愛していたのだと思う。公の場では夫婦として紹介され、会社でもそれなりの地位を与えられてはいたが、妻には空気のごとくに遇されて、社内では「操り人形」と揶揄される男としては、精一杯に。

 もともと病弱だった母は、意に染まぬ結婚を強いられたのを機に、薬の量が増えていった。それは父の意向でもあり、父が母に子を孕ませるためには、どうしても必要な処置だった。そうして、母が薬で眠らされている間に、馨は生命を授かった。そしてその後も、父は母に同じ薬を飲ませつづけた。それが、哀れな父の愛の証だ。

 馨は長いこと、母が自ら命を絶ったのは、馨の七五三が原因なのだと思っていた。母はあのとき、結局は出番のなかった成人式用の大振り袖で写真を撮りたいとグズっていた。しかし、一児の母としての記念写真に、振り袖姿というのはおかしいだろうという周囲の判断で、亡母の形見の色留め袖を着せられたのだ。結婚も出産も認めようとしない母にとって、それはいかにも理不尽な要求だったはずだ。幼い頃から蝶よ花よと傅かれて生い育った人だけに、カメラを向けられると非の打ち所のない笑みを浮かべるのが習い性となっていて、写真にもいかにも幸せな若奥様然として収まっているものの、年増のような格好をさせられて、しかも晴れ着を着せられ緊張しきったおかしな子供まで並ばせられて、内心は怒り心頭だったに違いない。だから、あれは母なりの抗議であり、母はああしてすべてを否定したのだと信じていた。

 だがその後、使用人たちの噂話から、母が当時、第二子を身籠っていたことを知らされた。そして、どうやらそれが、身を投げた直接の理由であったらしいことも。

 母亡き後、父の存在はますます希薄になった。もともと幼児であった馨の起床前に出社し、就寝後に帰宅する生活だったから、顔を合わせることさえほとんどなく、言葉を交わすのは年に数回、正月や公の行事の席にかぎられるといった状態を、さほど不審に思うことなく馨は育った。

 父の役目は、祖父から馨へと渡されるべきバトンの、守り役だ。馨が無事にその地位につく日まで、大過なく過ごしていればそれでいい。女遊びは程々に、愛人を持つことはかまわないが、後々面倒の種となることを避けるため、子を生すことは厳禁。それが祖父の作ったルールだったが、一見もっともらしいそれには、矛盾が内包されていた。

 馨は、幼い頃から母親似であると言われている。顔立ちも仕草も、亡き母に生き写しだと。確かに、姿形は母に似ているのかもしれないが、影の薄さは父譲りだ。この家にとって馨は特別な子であったから、大事にされてはいた。しかし、おとなしくて手の掛からない馨は、大人たちからすぐに存在を忘れられてしまう。おかげで子供の耳に入れるべきではないあれこれを聞かされることになったのだが、大人たちは好き放題に喋った後に馨がいることに気づいても、まったく意に介さなかった。どうせ子供にはなんの話かわかるまい、と思っていたのだろうが、子供というのは案外大人の話を理解しているものなのだ。

 彼らにとって、馨は自分の人生を有利に運ぶための駒であり、その場かぎりの愛玩物であると同時に、いずれ金の卵を生むはずのかわいらしいヒヨコであった。母のばあやとその夫は、親の愛を知らない不憫な子供を慈しんでくれたが、家政を取り仕切る彼ら二人は常に仕事に追われており、馨にかまう時間がない。自分の跡取りが使用人にベッタリくっついていることを祖父が嫌ったこともあって、馨はひとりでいることが多かった。


 だから余計に、あの人のことは記憶に残った。

 「不慮の事故」によって夭逝した母の葬儀には、多くの人が参列した。しかしそのほとんどが会社の関係者で、母個人の友人や知人は恐らくひとりもおらず、独裁者である祖父に服従はしても、親身になってくれるような親戚もいない。

 斎場から戻ってくると、屋敷は人でごった返していた。母を亡くしたばかりの幼い馨は、一通り皆に哀れまれると、庭で遊んでいなさいと大人たちの輪から追い出された。

 『やあ。仲間に入れてくれるかい?』

 母が好きだったイングリッシュガーデンの片隅で、ぬいぐるみを並べておままごとをしていた馨が顔を上げると、学校の制服を着た見知らぬ少年が立っていた。五歳の馨には、それが中学のものか高校のものかの区別はつかず、突然あらわれた「大きなお兄ちゃん」をぽかんと見上げるだけだった。

 『これは、幼稚園ごっこ?』

 そう尋ねられて、馨は真っ赤になった。自分ではそのつもりでいたのだけれど、幼稚園に通っていない馨には、そこがどういうところなのか、本当はよくわかっていなかったからだ。

 『馨くんが先生なのかな。僕はお友達のひとりでいい?』

 『……おにいちゃんが、せんせい』

 馨は小さな声でこそっと言って、クマとウサギとイヌとネコが並んだベンチの真ん中に、ちょこんと座った。正しい幼稚園のあり方を教えてもらいたかったし、少し緊張してもいたから、仲良しのぬいぐるみたちの中に紛れ込んでいたかった。

 少年はにっこり笑うと、ぬいぐるみたちも一緒にまずはしりとり、それからかくれんぼ、さらにはお相撲までやってから、おやつの時間だと言ってベンチに戻り、よいこのみんなにチョコレートを配ってくれた。

 馨がこんなに楽しい時間を過ごしたのは、生まれてはじめてだった。大きな声で笑って、はしゃいで、転げ回って、カラダ中に喜びが満ち溢れた。少年はなんでもできて、優しくて、格好良かった。はじめて逢った人だけど、馨はもう彼の虜になっていた。

 『またあそんでくれる?』

 夕方となり、庭園の入口の方からばあやの呼ぶ声が聞こえたのを潮に、「じゃあね」と立ち去りかけた少年に、取り縋るようにして馨は尋ねた。

 『そうだね。きっと、また』

 にこりと笑うと、少年はさっとすばやく姿を消した。ばあやがあらわれたときには、馨とぬいぐるみがちんまり寄り添っているだけだった。

 馨は少年の名前すら知らなくて、ばあやに優しいお兄ちゃんのことを尋ねても、首を傾げられるだけだった。制服を着ていたということは、母の葬儀に参列した誰かの息子なのだろうと思われた。しかしそんな少年を見かけた者はひとりもおらず、出入りの業者の若いのが坊ちゃまの相手をしてくれたのではないか、学校の制服ではなくて、作業着か何かだったのだろうということに落ち着いた。

 あのお兄ちゃんに、もう一度逢いたい。

 馨の切なる願いは叶える術すらなく、当てもなくただただ待つことしかできなかった。

 楽しかった思い出は、反芻されるごとに輝きを増して、年上の少年への思慕の念を強くする。

 何もかも、巧妙に仕組まれた罠だったのだと悟るのは、二十年近くも後のことだ。

 そののち彼は、年に数回、馨の前にあらわれた。避暑地の別荘に滞在中、敷地のはずれで声をかけられたこともあるが、たいていは学校や習い事からの帰り道などで、姿を見せるのは馨がひとりでいるときに限られた。

 『真実は、見た目とはぜんぜん違うんだよ』

 彼はそんな話をした。誰にも顧みられることなく、黒子となって正義のために働く者たちのことを。富も名誉も求めずに、人知れず大義のために尽くす人々のことを。

 自分はそういう人間になりたいのだと、彼は言った。

 そして馨も、そういう大人になりたいと心に決めた。祖父の唯一の孫として、支配者の側に立つのではなく。知識も能力もなしに、経営陣に加わるのではなく。誰にも知られず、誰かを支える人になりたい。人に憎まれ嫌われる仕事であっても、黙って耐える人でありたい。

 幼児のための他愛ないお伽噺は、年齢とともに少しずつ現実らしいものになっていった。少年はいつしか青年となり、彼は祖父の下で働くようになって、そこには、お伽噺の英雄たちのような人間が本当にいるのだと教えてくれた。

 そのうちのひとりが、「澤田智行」。

 飛び切り優秀なのだという、彼の率いるチームに加わりたいと馨が願ったのは、必然だった。

 なぜなら彼らは、馨のために用意された、スケープゴードだったのだから。馨を操り破滅させるために存在させられた、生け贄だ。

 あの人は、このゲームのためだけに生きていた。少年の日から綿密な計画を立て、馨の心を盗み、支配した。祖父の懐に忍び入り、上手に利用しさえした。

 すべては祖父への復讐のため。自分を受け入れることなく切り捨てた祖父と、自分が受け取るべきだったすべてをそれとも知らずに享受する、無知で恥知らずな馨への復讐。

 そうして馨は、澤田と出逢った。彼と、彼のチームの面々と。

 そうして澤田は、婚約者を亡くし、半死半生の目に遭って、記憶まで失う羽目になった。

 そのすべてのはじまりが、馨がこの世に生を受けたことにあるのだとは知らないまま。馨への恨みと憎しみが、彼の人生をも歪めてしまったのだとは知る由もなく。


 ――お前は、謝らなくていい。


「みゃあ」

「イテッ」

 クッキーを食べ終えた水無月が、わざわざ馨の足を踏みつけてから、悠々とねぐらに戻っていく。なんとはなく、猫に頭の中を覗き見られたような、そんな気がした。


 ――明日、もしも俺が事務所に行ったとしても、お前は連れていってやらないからな。


 敢えて言葉に出さずに念じてみると、水無月はおもむろに振り返り、剣呑な目つきで馨を一瞥してから、「にゃー」と不穏に一声鳴いた。




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