(4)
「お待たせ、将。はい、から揚げ弁当」
「おせーよ。昼間もカップ麺だけなんだぜー」
「ごめんごめん。今お茶煎れるから、先に食べてて」
「広瀬くん、将に甘すぎ! お前それ食う前に、報告だろ!」
「報告ぅ?」
さっそくダイニングテーブルについた将は、早くも箸をくわえながら、いかにも面倒臭そうな目つきで和人を見た。
「特にはねーよ。あれからずっと、寝たまんま」
「あれから、ずっと?」
澤田と将が病院から戻ってきたのが、午前十一時頃。今が午後八時だから、九時間も眠りつづけていることになる。
眉を顰めて聞き返す和人に、将も心なしか不安げな顔をした。
「や、あんまり起きねーから、ちょっと前にムリヤリ起こして、薬飲ませたんだけど」
「薬だけ?」
「水と、食いかけのアイスがあったから、それも」
「うん。上出来、上出来」
「またそうやって、広瀬くんはさー」
和人は不平がましく口を尖らせ、将の後ろを通って澤田の私室へと向かった。
具合が悪いときは、いくらでも寝ていられるものだ。それだけのことなんだったら、いいんだけど。なんだかちょっと、イヤな予感がする。
「澤田くん?」
開けっ放しになっていた入口から、声をかけたが返事はない。
「澤田くん。熱、どう? ちょっと計ってみようか」
枕元まで行って話しかけるも、反応なし。澤田はまっすぐに横たわったまま、微動だにしない。
「ごめん、一回起きてもらってもいい? 果物買ってきたから、なんか食べられそうだったら……って、澤田くん? ちょっと、聞こえてる?!」
これだけ耳元で話していて、まったく無反応っておかしくないか。
「澤田くん! 目、開けてよ! 俺の声、聞こえてる?!」
「どうした?」
様子を見に来た広瀬の後ろから、将も顔を覗かせた。
「ねぇ、『寝たまんま』って、ほんとにこのまんまってこと? ずっとこの姿勢で寝てるわけ?」
「ああ、うん。たぶん」
「そんなのヘンだろ! 眠ってたって、寝返りくらい打つだろう、ふつう。澤田くん、目ぇ開けてってば! 将、薬飲ませたときはどうだった? ちゃんと目開いてた?」
「……んなこと言われても」
前髪に隠れてて、よく見えねーし。そんなのわざわざ、確かめたりしねーし。
「澤田くん、ひょっとして、目が開かないんじゃない? そうなんでしょ?」
瞼の奥の眼球が、ピクリと動いた気がする。
「広瀬くん、悪いけどタオル濡らして持ってきてもらえるかな」
「わかった」
「将はそこのクッション取って。澤田くん、カラダの向き変えるよ。いい?」
和人は毛布を引き剥がし、澤田の肩の下に手を入れると、横向きの姿勢にさせた。
「うわ。ガッチガチに固まってるよ」
肩も背中も首筋も、マッサージしようにも指が入らないくらい凝り固まっている。
「ツラかったでしょ、これ。なんでこんなになるまで……」
「和人」
「ああ、ありがと」
はじまりかけた説教は、広瀬の差し出す熱いおしぼりで中断された。
「澤田くん、マスクはずすよ。顔拭くからね」
タオルを広げて顔を覆い、その上からゆっくりと、額からこめかみ、頬のあたりを揉んでいく。きっと大丈夫だから、心配するな。自分を励まし、目の周囲を念入りにほぐしてからタオルをはずして、声をかけた。
「もう一度、目を開けてみて」
三人が息を詰めるようにして見守る中、澤田は一呼吸おいてから、じわじわと瞼を押し上げていった。
「よかったー」
澤田の眸に自分の顔が映るのを見て、和人はほっと息をつく。澤田も安堵したような顔をしているが、だがしかし。
「澤田くん、もしかして、声も出せないとか?」
念のために確かめると、澤田はゆっくりとした瞬きで、それに答えた。
「目も見えないし、口も利けないし、カラダも動かせずにずっといたわけ?!」
思わず詰問口調になった和人に、澤田は困ったような顔をする。
「熱は?」
広瀬は強引に体温計を突っ込んで、ピピッという合図とともに抜き出した。
「三八度二分」
「いや、ほら、昼の分の薬飲み損ねたからさ。夜のは飲ませたから、これから利いてくるんじゃね?」
将はなんとなく澤田を庇うようにそう言って、それから誰にともなく「ごめん」と小さく呟いた。
「俺が、気付かなかったから」
「気付きようがないよ、喋れないんじゃ。そもそも自分で墓穴掘っただけなんだし、将が気にすることはない」
広瀬が言うと、澤田も眼差しだけで頷いてみせる。
「もう大丈夫だから、弁当の残り、食べておいで。デザートにプリンも買ってきたよ」
「ほんっと、将には激甘なんだから!」
「和人にもそのつもりなんだけどね?」
「そーじゃないとは言わないけどさー」
和人はぷんとムクレたまま、澤田の背中に手を当てた。熱を持った骨と皮だけの薄っぺらい背中を、少しでも血行がよくなるようにとさすっていく。言いたいことはイロイロあったが、何を言う暇もなく、気付いたときには澤田は再び眠りに落ちていた。
「よっぽどキツいんだろうなぁ」
「もう五日になるからね」
明日の朝までに熱が下がらなかったら、また病院送りにしてやろう。
和人と広瀬は無言で頷き、二人同時に溜め息をついた。
「不可抗力だったんだよ、今回は」
ありがたいことに、翌朝には体温は三七度台になっており、ガラガラながらもいちおう声も出せるようになってから、澤田はそう弁明した。
ふと目を開けようとしたら、できなかった。熱のせいで涙目になっていたからかなぁと目許を擦ろうとしたところ、毛布にくるまれた腕がうまく抜けない。さすがにこれは困ったと、「おーい」と助けを呼ぼうとしたのだが、なんと声まで出なくなっていた。すべては(主観的には)一瞬の出来事で、寝て覚めたらそうなっていたのだから、どうしようもない。しかも、困ったなーと思っている先からウトウトと微睡んでしまうので、どうすることもできないまま、時間だけがどんどん過ぎていってしまったのだ。
和人は怒ったような顔付きで黙って聞いていたが、そのうちぽつんと、呟いた。
「怖かったでしょ」
目も見えない、声も出せない、カラダも動かせない。
突然そんなことになってたなんて、どう考えたって怖すぎる。
「そうだな」
澤田はかすれた声でそう言って、それからふっと、唇の端に笑みを浮かべた。
「でも、助けが来るのは、わかってたから」
無愛想で、目つきが悪くて、取っ付きにくくて、なのにどうして、この人はこんなに優しい表情ができるんだろう。無口で、寡黙で、余計なことはもちろん、必要なことさえろくに言わないくせに、どうしていつも、欲しい言葉をくれるんだろう。
和人はキュッと唇を噛んでから、いつもの調子で憎まれ口を叩いてやった。
「甘いんだよ、澤田くんは。ほんとは俺、まっすぐ帰るつもりだったんだからね。広瀬くんにも、事務所に寄ったらダメだよって言ってたんだから。澤田くんが謝るまで、ぜってー許してやんねーって決めてたんだからね!」
澤田は「うん」と神妙に頷いていたものの、その表情が語っていた。
でも、やっぱり、来てくれたじゃないか。
「ふん! これからはビシバシ厳しくいくから、覚悟してな! 強力な助っ人も呼んであるんだから」
「助っ人?」
首を傾げる澤田に、和人が不敵にニヤリと笑う。
「ま、澤田くんはおとなしく寝ててよ。昼になったら起こしに来る」
「うん」
朝食に強制的に食べさせられたカットフルーツとヨーグルトの器を和人が下げる間に、薬を服用。水分もたっぷり取らされてから、再びベッドに横になった。
昨日の今日なので、とにかく「従順に」がモットーだ。それに、今日一日安静にしていたら、明日には床を離れられそうな予感がする。逆に言えば、今日はまだムリはできないということで、澤田は早くも訪れた睡魔に身を委ねた。
浅い眠りをたゆたいながら、なんとはなく、壁の向こうの賑やかな気配は感じていた。ただ、誰が来たのかな、とぼんやり考えるそばから再び眠りに落ちてしまうので、そんな夢を見ていただけだと言われれば、そうかもしれない、とも思う。
「澤田くん」
ノックの音にも気付かなかったので、ちょうど眠りが深くなっていたときだったのだろう。目を開けると、和人がベッドの傍らに立っていた。
「よかった。起きられそう?」
ということは、早くも昼になったものらしい。このところ、眠って起きると一日が終わってしまっている。
和人の手を借り、ベッドの上に起き上がった。和人はすばやくカーディガンを着せかけると、背中にクッションを差し入れ支えてくれる。
「今朝はちゃんと、ヒゲも剃ったし。寝癖もついてない」
「うん?」
「熱が下がったら、また床屋さんしないとね。けどまあ、今日のところはこれでよし」
和人はササッと澤田の髪をなおしてから、ドアの方を振り向いた。
「どうぞ、入って入って」
「お休みのところを、失礼いたします」
「……!」
「へへー。驚いたでしょ。こちらは、馨のところの、清さんです。清さん、この人が澤田くん。今はすっかりダシを取り切った後の鶏ガラみたいになっちゃってるけど、ほんとは男前なんだよ」
もともと小顔な上に、痩せてひとまわり小さくなったものだから、驚きに見張った目が一際大きく見える澤田を見遣り、和人はそっと溜め息をつく。
入院中に仲良くなった看護師たちが、キャーキャーはしゃいで言ってたっけ。
『知ってました? 澤田さんて、実寸で八頭身なんですよ! そんな人が実在するなんて、信じられないと思いません? 少女マンガもビックリですよ!』
男前でスタイルがよくって、料理上手でスポーツ万能。もしかしたら、天は二物どころか三物も四物も与えてしまったのを後悔して、澤田くんから健康と記憶を取り上げようとしたのかもしれない。もちろん、相手が天であろうとなかろうと、そんなのゼッタイ阻止してやるけど。
「せっかくだったら、ベストな状態の澤田くんを紹介したかったよ。澤田くんはマダム・キラーだから」
まあ、澤田くんがご近所の奥様方から愛されてるのは、ゴミ出しや玄関前の掃除をきちんとやるからなんだけど。
「見目麗しい殿方には慣れておりますから、ご懸念にはおよびませんよ」
品のいい老婦人は和人の戯れ言を軽くあしらい、改めて澤田に一礼した。
「突然押し掛けまして、申し訳ございません。馨様が、たいへんお世話になっていると伺っております」
澤田は咄嗟に「いえ、そんな」と返そうとしたものの、しばらく寝ている間にまた声が出なくなってしまっていた。咳払いするつもりが咳き込んでしまい、ゲホゲホやっていると「まあまあまあ!」という声とともに小さな手に背中をさすられる。
「和人さん、お茶をお持ちして!」
「はい!」
「ご無理は禁物ですよ。さあさ、楽になさってください」
澤田は「すみません」と謝るかわりに、頷いてみせる。
「ねぇねぇ、澤田くん、これ見てよ! すっげーウマそうでしょ?」
和人が運んできた足付きのお盆の上には、出来立てらしい白粥と、梅干し、塩昆布、野沢菜漬けの三種が盛られた小皿があった。
「今日は、清さんにおいしいお粥の炊き方を習ったんだよ」
「和人さんからお電話をいただいたんですけどね、直接お教えした方が早いと思いまして」
「名付けて、『ヘンゼルとグレーテル大作戦』! 澤田くんをまるまる太らせるミッションなんだ」
「わたくしが、森に住む悪い魔女ということで」
「違うよ、魔法使いの大先生だよ! なんてったって、俺たちの胃袋をすっかり虜にしちゃった、凄腕の持ち主なんだから」
「そうそう、煽てに乗ったわけではありませんが、お弁当をお持ちしたんですよ。将さんもおいでかと思って、二人分」
「やった! 将は今日は来てないけど、二階に津村くんがいるはずだから、声かけてみるよ。今日はナニ? どんなの?」
「そぼろと青菜と人参のきんぴら、海苔と炒り卵の五色弁当。実は、馨様も今頃屋敷で同じものを召し上がっているはずなんですよ」
「幸せだよなぁ、馨は。いっつもウマいもん作ってもらえてさー」
「それがわたくしの仕事ですからね」
澤田は、鷹揚に微笑む婦人の袖を、躊躇いがちにそっと引いた。
「はい?」
慈愛のこもった眼差しを向けられて、さらにしばらく躊躇してから、唇の動きだけで「馨は」と問う。
「お昼を召し上がってから、家庭教師のお仕事にお出かけになるとのことでした。和人さんからのお電話の後、こちらにご一緒しましょうとお誘いしたんですが、保護者同伴なんてイヤだと仰いまして」
「馨は子供だからね。照れてるんだよ」
「それもあるんでしょうけどね。和人さんにはお粥の作り方を訊かれましたけど、馨様にはお茶の淹れ方を教えてくれと頼まれたんですよ」
「ああ! アイツの淹れたお茶、ものスッゴく不味かったんだよ。澤田くん、よくあんなの飲んだね? 勇気あるよ」
「とても気にしてらっしゃるご様子でしてね。わたくしが至りませんで、申し訳ございませんでした」
「えー。清さんのせいじゃないでしょ!」
「お育てした者の責任ですよ。時代が違うんですから、多少は台所仕事もお教えしておくべきでした」
「そんなこと言ったら、俺も将もダメな子だよ?」
「これからお覚えになればいいんですよ。いいお手本がいらっしゃるんですから」
「あー。澤田くんはダメだよ。なんでも自分でやっちゃって、俺たちにはなんにもさせてくれないもん。俺たちみんな、出てきたご飯をおいしくいただくだけだから」
「まあまあ、随分と甘やかされてるんですねぇ」
「馨といっしょだね」
二人は仲良く笑い合うと、「さあさあ」「そうだそうだ」と澤田に食事をはじめるよう促した。
「ぜんぶ食べるまで、許さないからね!」
「せっかくの和人さんのお心尽くしですもの、きれいに召し上がってくださいますよ」
にこやかにプレッシャーをかけられて、澤田は否も応もなく、ゆっくりとした動作で箸を手にした。
「どう? おいしい?」
一口運んだところで、和人が身を乗り出して尋ねてくる。
熱のせいで口の中がおかしな感じになっているし、鼻の通りも悪いし、ノドが痛くて飲み込むのも一苦労だが、それでも澤田は「うん」と頷いた。口にする前からわかっていた。この粥が、ウマくないはずがない。
「よかった」
たとえどんなに不味くても、澤田の答えが「ウマい」であろうことは火を見るよりも明らかだ。それでもやっぱり、嬉しいものは嬉しい。表情をみるかぎり、満更ウソでもないらしいのがさらによい。
「おかわりもあるからね!」
「温めなおせば、お夕飯にもいただけますよ」
「大丈夫、復習がてら、ちゃんとまた作り直すから!」
「まあまあ、勉強熱心だこと。それでしたら、食欲がないとのことでまずは白粥にしましたけど、七草風に大根や蕪を入れてもよろしいですし、芋粥やかぼちゃ粥、小豆粥もおいしいですよ。茶粥もさっぱりしてますし、おかかをたっぷり入れて、最後に溶き卵をまわし入れて、醤油や味噌味の雑炊仕立てにするのもオススメです」
「聞いてるだけでウマそうだ。それぜんぶレシピ用意してくれたの?」
「もちろんですよ。と言っても、たいして難しいことはないんですけどね」
「ああ、夢が膨らむなぁ。俺のレパートリーといっしょに、澤田くんの体重がどんどん増えていくってわけだ」
「ヘンゼルとグレーテルみたいに」
「そーゆーこと」
楽しげな二人の会話を聞きながら、澤田は黙々と箸を運ぶ。これからしばらくは粥責めらしい。なんともありがたいことではないか。
「それが済みましたら、しばらく居間の方でお休みになっていてください。その間にお布団を干しましょう。さっぱりしますよ」
「あ、いいね、それ! 俺、ソファベッド用意してくるよ!」
和人はすぐさま反応して、身軽く部屋を出ていった。
あとに残された二人は、なんとはなく目を合わせ、そっと微笑む。
「いい子ですね、みなさん」
澤田はこくんと頷いて、それから、声にならない声で、「馨も」と囁いた。
婦人の目をじっと見ると、お互いにお互いの気懸かりを察しているらしいことが感じられる。
「馨様は、どことなく、お悩みのご様子でしてね。こんなことを伺うのもなんですけれど、何か、お叱りを受けるようなことがございましたでしょうか」
遠慮がちに発せられた問いかけに、澤田は小さく首を横に振って、溜め息をつく。
馨は何も、悪くない。どうすればそれを伝えることができるのだろう。悪いのは、不用意に無責任なことを言った自分だ。何かきっと、彼らの「澤田くん」の思い出を汚すようなことを口走ってしまったのだろう。怒ったのは馨の方で、それには歴とした理由がある。精一杯尽くしてくれた馨を、怒らせたのみならず、傷つけてしまった、その罪は重い。
「馨様も、今の貴方のようなお顔をなさっているんですよ」
婦人の言葉に、俯けていた顔を上げていた。どんな表情をしているものか、自分ではよくわからない。困惑していると、婦人もどこか戸惑うような、それでいて少し安堵したような、そんな笑みを小さく浮かべた。
「なんですか、叱られて悄げているのかと思ったら、仲直りしたいのにうまくできないで、困っていらしたんですね」
そんなことを言う。
仲直りというのは、喧嘩別れした状態でするもののはずなので、この場合は当てはまらない気がする。だがしかし、婦人の言わんとすることは、なんとなくわかる。
「……馨に」
お前は悪くない、なんにも気にしないでいい、心配するな。そういうようなことを伝えてくださいと頼みたいのだが、声が出ない。咳払いし、お茶を飲んで、それでも改善せずに空咳をくり返すと、背中を優しくさすられた。
「それとなく、ご安心なさるようにお話しいたしましょう」
澤田はほっとして、こくりと頷く。その様子をしばし眺め、婦人はおもむろに言葉を継いだ。
「馨様は、お小さい頃からいろいろとご苦労をなされまして」
何事かを言い掛けてから、ふっと言葉を切る。自分を戒めるように首を振り、かわりにサイドテーブルから薬と水を取り上げて、盆に載せた。
なんだろう。今の話のつづきを聞き出さなければ、という気持ちと、それを知る権利があるのは「澤田くん」であって自分ではない、という思いが、同時に心に去来する。
「澤田くん、食べ終わった?」
「今、お薬を飲まれるところですよ」
その台詞を合図に、苦い粉薬を一息に飲み、ついでにお茶も飲み干してしまう。
「それじゃ、あっちに移動しよう」
和人は盆を一先ず置いてきてから、澤田に杖を渡した。
この数日ですっかり足腰が弱ってしまい、ひとりで立つことも覚束ない。杖を支えにした上で、和人に引っ張り上げるようにしてもらってようよう立ち上がると、澤田は一歩一歩確かめるような足取りで居間に向かった。
「そんなに落ち込まないでよ」
平静を装っているつもりだったのに、和人にぼそりと言われてしまう。
「俺が、ちゃんと、元に戻してあげるからさ」
和人の顔は見ないまま、「うん」と頷いた。
「あら、これはいいですね」
二人のあとからついてきていた婦人が、リビングの一番陽当たりのいい場所に広げられたソファベッドを見て感心する。足をまっすぐに伸ばせるように、クッションを積み重ねた簡易オットマンまで用意する周到ぶりだ。
再び和人に助けられてソファベッドに腰掛けたものの、客人を前に横になるのもどういうものかと澤田が躊躇していると、婦人に「さあさあ」と寝かしつけられてしまった。
「俺、布団干してくるね」
和人はさっさか行ってしまい、婦人が当然のようにブランケットを二枚重ねて澤田の上にふわりと広げる。
「お疲れになったでしょう。わたくしももうお暇しますから、どうぞお休みください」
正直なところ、疲れてはいた。急に立って歩いたせいか、軽い貧血気味でもある。
しかし、この婦人がわざわざここまで足を運んできたのは、和人に料理を教えるためだけではないはずだ。伝えたいと願っている何かを、自分はまだ、受け取っていない。
うまく声を出せないもどかしさに、婦人の目をじっと見つめる。
婦人はやはり何か言いたそうにしたものの、ゆっくりとした瞬きをひとつして、頭を下げた。
「馨様を、どうぞよろしくお願いします」
澤田は、そっと肩に置かれた小さな手に、自分の手を重ねることしかできなかった。




