(3)
「うん。うまい」
「でしょー?」
パフェのてっぺんに飾られた栗の渋皮煮を大事そうにフォークに乗せて、和人がにんまり得意げに笑う。
「よく知ってたね、こんな店」
「デブ犬(克服)講習会で仲良くなったマダムからの情報でさ。一度来てみたかったんだよね」
昔ながらの商店街にある、老舗の青果店と洋菓子店の子供たちが新たにはじめたフルーツパーラーは、住宅街の中にひっそりあってわかりづらいが、地元の人々に愛されている密かな名店。外観もふつうの民家そのものなので、知らなければそのまま通り過ぎてしまいそうだが、よく見れば小さな看板が門柱にかかっており、玄関から中に入ると、昭和モダンな造りが洒落ている。
十畳ほどの喫茶スペースは、板張りの床に、二人掛けの焦げ茶色の木製テーブルが六つ。壁際にはおひとり様席もあり、窓からは手入れの行き届いた庭が眺められる。残念ながら今は暗くてよく見えないが、どうやらささやかなハーブ園もあるらしい。
「広瀬くんのモンブラン、一口ちょうだい」
「いいよ」
かわりの自分の和栗のパフェを差し出しながら、和人はフォークを伸ばし、ケーキの端っこを上手に乗せた。
「うまーい!」
「確かに」
甘党の二人は秋の味覚をしみじみ楽しみ、至福のひとときを堪能する。
「ザマーミロってんだ、バカどもめが。広瀬くん、ぜったいアイツらにはナイショだからね!」
「はいはい」
仕事帰りに落ち合わないかというメールが来て、広瀬はこの店に連れてこられた。会った瞬間から和人の愚痴は止まらなくて、デザートを前にしてようやく機嫌がなおったのだが、それでも腹の虫は収まりきらないものらしい。
まあ、ムリもない、と広瀬も思う。
医者にも診せたことだし、(バカにつける)薬も処方されたし、たとえもっとも不向きな将ひとりだとしても、付き添いもいる。何かあれば連絡があるはずで、ここからなら事務所まで歩いて二十分もかからない。将には少々気の毒だが、夕飯にと買ってきた唐揚げ弁当は、もうしばらくお預けだ。
「ほんっとムカつく。思い出しただけでムカつく!」
「怒りながら食べると、おいしさ半減しちゃうよ」
「それは、困る」
和人は大きく息を吸い込んで、ふーっと一気に吐き出した。
「うん。これで大丈夫」
生クリームとカステラを頬張って、こくりと頷く。
「せっかくだから、もうひとつなんか頼んじゃおっか」
「うん!」
パッと顔を輝かせる和人に、広瀬もやわらかな笑みを浮かべる。
和人は本当によく頑張ってくれた。和人が献身的に澤田の面倒を見てくれたおかげで、広瀬は広瀬で気の済むまで動くことができたのだ。和人に甘えてしまっているのは、澤田だけではない。
「迷うなぁ。秋の果実の三種盛り合わせ(かぼちゃプリン・スイートポテト・柿のロールケーキ)か、タルトタタン(アイスクリーム添え)か、どっちがいい?」
広瀬にも見えるようにメニューを横向きにしたのに合わせるように、和人は真剣な面持ちで首を捻る。
「すみません。この三種盛り合わせとタルトタタン、追加でお願いします」
「え?!」
近くにいた店員ににこやかにオーダーしてから、広瀬は目をまん丸くしている和人に向き直った。
「今日は、和人を甘やかすことにした。俺の奢りだよ」
「なんで?! だって、誘ったの俺だよ?」
「和人には随分負担かけちゃっただろ。もうとっくにキレてもおかしくなかったのに、ここまでよくガマンしてくれた。そのご褒美だよ。なーんて、俺も半分食べるんだけどさ」
広瀬は笑いながら、モンブランの最後の一切れを口に運ぶ。
「俺、負担だなんて、思ってないよ」
和人はメニューを閉じながら、困惑したように眉根を寄せた。
「そりゃ、いっぱい文句言ったけど、イヤイヤ世話焼いてたわけじゃないから」
「ごめん。ヘンな意味で言ったんじゃないよ。和人が率先して見舞いとか付き添いとか買って出てくれるから、安心して頼り切っちゃってたなぁと思っただけなんだ」
穏やかな広瀬の言葉に、うん、と頷く。和人はそのまましばらく俯いて、それから小さく「あのね」と言った。
「その、それこそヘンな風に受け取られると、困るんだけどさ」
「うん?」
「俺、ちょっと、嬉しかったんだよね」
「嬉しかった?」
「そう。俺が入ったときには、津村くんはもうすっかりチームの一員でさ、俺たちにはアニキ風吹かせるし、広瀬くんたちには弟キャラ確立してたでしょ?」
「そうだったね」
広瀬の脳裏を、屈託のない津村の笑顔がふっとよぎる。
「馨は馨で、はじめから曰く付きだったんだよね。俺たちはなんにも知らなかったわけだけど」
「その件については……」
「わかってる」
馨がチームに加わったのには、いろいろと込み入った事情があった。しかしそれを知っていたのは澤田だけで、広瀬すらかろうじて馨の素性を聞かされていたにすぎなかったのだという。でも、それにはそれなりの理由があったのだということ。澤田にしても、きちんと納得のいく説明を受けていたわけではないのだということ。さんざんゴネて、悪態ついて、大揉めに揉めた後ではあるが、最終的にはそういうぜんぶを話してもらえたので、よしとしたのだ。
「で、俺と将は二人一緒に採用されたことになってるけど、でも、将だけは別枠なんだよね。俺たちはさ、親会社が母体になってる奨学金を受けていて、それの返済免除と引き替えにここで働くことになったでしょ? 広瀬くんたちは大学、津村くんは高校、俺は専門学校で。けど、将は高校途中で辞めてるし、奨学金なんてもらってないっていうんで、驚いたんだ。じゃあなんでここに来たんだよ、って聞いたら、アイツ、言ったんだよね」
ぶっきら棒に、ぼそりと。
『俺は、澤田くんに拾われた』
ただそれだけ。
「つまり、将は澤田くんに直接スカウトされたってことなんだよね? 本社から通知があって、就職を打診されたとかじゃなくて」
「うん、まあ」
広瀬は曖昧に頷いてみせる。
「それでなのか、将がああいうヤツだからなのかはわかんないけど、澤田くんはアイツに手を焼かされてたよね。すなおじゃないし、ぜんぜん言うこと聞かないし、津村くんと取っ組み合いの喧嘩とかするし」
「あったねぇ、そんなことも」
「それに比べて、俺はいい子じゃん? 従順だし、人当たりはいいし、そつもないし」
「そのぶん口が達者で、だいぶ澤田をやりこめてたけどね」
「そんなのかわいいもんだよ。日常会話のレベル。それでさ、ふと思ったんだ。俺って、澤田くんとちゃんと話したこと、なかったのかもしれないなぁって」
もちろん、ふつうの会話はする。仕事の説明や報告も。冗談だって言うし、ときにはまじめな相談もした。
でも、古馴染みの広瀬や津村とはちょっと立ち位置が違うし、なんだかんだ理由ありの将や馨に比べると、どうしても存在が希薄だった気がするのだ、これまでの自分は。
「それが、こんなことになっちゃって。なんか自然と、俺が見舞いに通うようになって、リハビリにもくっついてって、退院してからもその流れで世話を焼いててさ。なんか、いつのまにか居場所ができてたっていうか、こうしてるのが当たり前になってたっていうか、はじめて俺と澤田くんの関係性みたいなものができあがったのかなぁ、とか思ったりしたんだよね」
澤田の置かれた状況を思えば、それを「嬉しい」と表現するのは、どう考えても間違っているのだけれど。それじゃあ、どう言えば正しいのかは、よくわからない。
「ひとつだけ、先に言わせて」
二人の間に新たなデザートの皿が並べられ、店員が立ち去るのを待ってから、広瀬はふわりとした声で優しく告げた。
「俺も澤田も、和人のこともちゃんと見てたよ。手がかからない子だからほっといても大丈夫、とは思ってなかった。むしろ、澤田は気にしてたよ。どうしても和人が後回しになりがちだから、気にかけてやってくれって、頼まれたこともあったしね」
「……ふーん」
そーだったんだ。と口の中で小さく言って、誤魔化すようにタルトタタンにフォークを伸ばす。
なんだよ、もう。そんなことイキナリ言われると、なんだかムダに照れるじゃないか。
もぐもぐとタルトを咀嚼する和人の赤くなった耳を眺めながら、広瀬は三種のデザートを半分ずつに分けていく。
澤田は筋金入りのバカだけど、心の機微みたいなものを察するのには長けている。そういう風に見せないようにしているけど、和人は淋しがり屋だからなぁ、なんてことも言ってたなんて教えてやったら、この形のいい耳朶はどこまで真っ赤になるのだろう。
内心ニヤリと人の悪い笑みを浮かべてから、広瀬はかぼちゃのプリンを掬い取った。
「うん。これもうまい」
「こっちもマジ最高」
二人はしばし、それぞれの前に置かれた季節の恵みに専念する。そうして充分に味わってから、皿を交代。
「幸せだなぁ」
「同感」
このあと夕飯の唐揚げ弁当が控えてるなんて罪だよなぁと思いつつ、別腹別腹と呪文を唱え、新たな一品と向かい合う。どちらも思わず無口になるほどのおいしさで、しばらく会話が途切れた後、和人はぽつりと呟いた。
「広瀬くんは、わかってくれると思ってた」
和人が言いたいことを、うまく言葉にできない思いも含めて、広瀬なら理解してくれるような気がしていた。こんな話をするつもりで誘ったわけではないけれど、もしも誰かに話すとしたら、広瀬のほかにはありえなかったと思う。
「俺も、『いい子』だからね」
広瀬は何気ない口調でさらりと言って、ふっと笑った。
「将に言われたことがあるよ。『広瀬くんはなんで辞めないんだよ』って」
「なんだよ、それ」
和人の眉根がキュッと寄る。
「奨学金の返済免除は、五年以上の勤務が条件だろ。俺はもうクリアしてたし、辞めようと思えばいつでも辞められた。澤田とは違ってね」
なぜなら彼には、昏睡状態に陥り回復の見込みはないと見なされた婚約者がいたからだ。ほかに受け入れ先のない彼女を系列の病院に置いてもらっている以上、澤田は彼らの言いなりになるしかなかった。辞めたくても辞められない、不本意であってもつづけざるをえない理由が、彼にはあった。
しかし、広瀬にはない。
「俺はチームの責任者でもないし、翠の恋人でもない。ぜんぶほっぽりだして転職したって、ぜんぜん問題なかったんだ」
「でも、広瀬くんはそんなことしないよ」
そりゃあ、広瀬くんならどこに行ったって立派にやれるだろうけどさ。きちんとした転職先を、ちゃんとみつけられるに決まってるけど。
「広瀬くんが、俺たちを見捨てるわけないじゃんか」
「あくまでも傍観者のくせに、ね」
「『傍観者』?」
和人の眉間が、キュキューッと音がしそうなくらいに顰められる。それを眺める広瀬の表情はいつもどおりに優しくて、どこも変わりはしないのに、なぜだか別人のようだ。
「結局は何もできなくて、ただそこにいるだけだからね、俺は。見ているだけの、傍観者だよ」
「なんでそんな風に言うのかな。広瀬くんがいてくれなかったら、俺たちどうなってたかわかんないのに」
チームの責任者は澤田でも、その彼を支えているのは広瀬だし、無口で無愛想で取っ付きにくい澤田よりも、親切で優しくて感じのいい広瀬の方が、何かと頼られているのは周知の事実。澤田に直接言いにくいことを、広瀬を介して伝えてもらうなんてことも多々あった。
それに。
「広瀬くんは、思いっきり当事者じゃないか」
「え?」
「好きだったでしょ。怜のこと」
広瀬の顔は、見なかった。というよりも、広瀬の顔を見ることは、できなかった。
「俺、ずっと思ってたんだ。広瀬くんが怜と付き合えばいいのにな、って」
そんな簡単なことじゃないのは、わかってるけど。それでも、もしもこの世に彼女を救える人がいるとすれば、それはこの人だろうと思ったから。
「……なんで?」
広瀬らしくもない固い声を耳にしながら、この「なんで?」は「なんで付き合えばいいと思ったのか」なのか、それとも、「なんで怜を好きだってことに気付いたのか」の方なのか、どっちだろうと考える。
たぶん、答えは「どっちも」なんだろう。
「それは……」
「和人が怜を好きだったから」
和人の言葉を遮るように、広瀬が言う。
そう、この話題に触れるなら、当然こう切り返されるのは覚悟すべきだ。
広瀬くんは優しいけど、甘くはない。それを忘れると、痛い目にあう。
「うん。好きだった。すっごく」
彼女は澤田や広瀬と同い年だから、和人より八つも年上だ。でも、そんな風にはぜんぜん見えなかった。「若い」というよりは「幼い」印象で、髪は短く化粧っけもなし、背だって和人より高くって、いつでも男物のシャツとジーンズという格好をしてたから、余計に「男の子」みたいな感じだった。
交通事故に遭って、酷い怪我をして、その後遺症で精神的に不安定なところがある。
そういう説明は受けていた。
初対面の挨拶でもまったく喋らず、その後もぜんぜん打ち解けないというか、目も合わせなければ口も利かない。「内気」とか「人見知り」とか「内向的」とか、そんな表現では済まされないくらい、彼女は人とのコミュニケーションがとれなかった。
世の中には変わった人もいるんだな。個人的に嫌われて無視されてるならムカつくけど、そうじゃないなら、まあいいや。
和人はそれくらいの気持ちで受け止めて、のんびりかまえていた。自分もシャイで対人関係に敏感な将の方はそうはいかなくて、「シカトしてんじゃねーよ!」とキレたり突っかかったりしていたが、そのたびに広瀬や津村が間に入り、宥めていた。彼女はなかなかあとから加わった二人に馴染んでくれなかったが、それでもいつしか緊張は解けて、そうなってみると、むしろ将と気が合うらしいのがおもしろかった。
澤田は、ほとんど彼女と話さなかった。邪険にしたり、冷淡だったりするわけではない。依頼の内容によっては、コンビを組んで尾行や見張りをすることがある。そういうときは普通に話すし、よきパートナーでさえあった。ただ、その必要がないかぎり、彼女に話しかけることはないし、彼女を見ようとしなかった。そして、彼女の方でもそれは同じだった。
もっとも、彼女から誰かに話しかけるということ自体、ほとんどなかった。彼女は喋らず、笑わず、ひとりでいる。
そんな彼女のために、広瀬はときどき、彼女の好きな食べ物を買ってきた。ケーキ、鯛焼き、豆大福。相変わらず笑うことはなかったけれど、それでも、ほんの少しでも彼女を喜ばせたくて、おいしいもの、珍しいものを探してきていたのだと思う。
そして和人は、仔犬や仔猫を拾ってきた。はじめはただの偶然で、たまたま事務所に向かう途中で捨てられている仔犬を見かけてしまい、気付いた以上、見過ごすことはできず、そのまま連れてきたのがはじまりだ。いきなり室内に入れるわけにもいかなくて、和人が庭で仔犬の世話を焼いていると、ふらりと出てきた彼女が笑ったのだ。和人にではなく、和人の腕に抱かれた仔犬に向かって、はじめて笑顔を見せてくれた。それが嬉しくて、和人はみんなで仔犬を飼おうと提案した。自分が責任を持って面倒をみるから、事務所で飼わせて欲しいと訴えたのだ。
ところが、「ダメだ」と言うかと思った澤田が許可してくれたというのに、彼女の方に拒否された。どうしてなのかはわからないが、犬も猫も飼いたくないと言う。あんなに嬉しそうだったのに、ウソみたいに優しく笑っていたというのに。それで和人は、捨て犬や捨て猫をみつけるたびに、連れてくるようになったのだった。いつか彼女の気持ちが変わるかもしれないし、そうはならなくても、たとえほんの束の間のことであったとしても、彼女を笑顔にするためだったら、その後どんなに貰い手探しに苦労しても、拾ってこずにはいられなかった。
笑わない彼女の、重たい雲の隙間から射し込む光のような、冬の終わりを知らせる春風のような、あの笑顔にやられたのかもしれない。そして、かたく鎧われた心の奥に潜む、繊細さにも。まったくの無関心のようでありながら、彼女は和人や将の内面を深く理解してくれていた。ふとした弾み、極端に口数の少ない彼女のわずかな言葉の切れ端に、ハッとさせられたことが何度もあった。
深い事情を知らないまま、和人は彼女の幸せを願うようになっていた。そうして、いつしか気付いていた。反発しあう磁石のように、常に一定の距離を保ちながら、彼女は澤田を慕っていた。恋とか愛とかそんな言葉じゃ追いつかないくらい、澤田を想っているのが伝わってきた。
澤田には、婚約者がいる。その人のことを、澤田は深く、愛している。
そういう澤田を、彼女は好きで好きで大好きで、だけど、お互いが存在しないかのように振る舞っていた。笑わず、喋らず、ひとりぼっちで、自分の殻に閉じこもっていた。自分がこの世に存在することさえを、否定しようとするかのように。できることなら、消えてなくなってしまいたいと望んでいるかのように。
「俺は、怜に幸せになってもらいたかったんだ」
あんなにたくさんあったデザートは、もう一欠片も残っていない。空っぽになった皿が、なんだか淋しそうにぽつんとしている。
「それで、思ったんだよ。怜を幸せにできるのは、広瀬くんだけだろうな、って」
広瀬くんは誰よりもオトナで、包容力があって、途轍もなく優しいから。親鳥を慕う雛みたいに澤田くんを想っている怜を、そのまま丸ごと愛せる度量のある人だから。
「怜はさ、広瀬くんだけには、甘えることができたでしょ」
自分たち「弟分」とは違い、彼女と広瀬は対等で、なおかつ、すべての思い出を共有している。説明しなくてもわかりあえる、信頼に足る友人。そういう存在がいてくれたからこそ、彼女はなんとか持ちこたえていられたのだと思う。
「甘えてた、のかなぁ」
広瀬はそう呟くと、ティーポットから紅茶を注いだ。これが最後の一杯ずつで、和人に勧めてから、自分のカップにミルクを入れる。
「せめて俺には、もっと甘えてくれればいいのにな、と思ったことしか覚えてないな」
そういう意味では、似た者同士なのだ、あの二人は。
澤田と、怜。
「澤田はね。本当に怜を、かわいがっていたんだよ」
――怜は、弟みたいなもんだから。
犬の仔にでもするみたいに、髪をクシャリと撫でて笑う澤田の隣りで、小さな子供みたいな笑顔を見せていた彼女。
せめて、妹にしておけよ。
そう混ぜっ返しながらも、広瀬もやはり、「弟」の方がしっくりくることはわかっていた。
「怜は、誰でも子供の頃にやったみたいな遊びをぜんぜん知らなくてさ。けん玉、凧揚げ、一輪車。トランプなんかもはじめて触るみたいだった」
彼女が多くを語ることはなかったけれど、幼いうちに両親を亡くして、淋しい子供時代を過ごしたようだった。学校の成績は図抜けていたらしく、高校も大学も一流どころだ。足も速いし、運動能力も優れている。ただ、どうしようもなく不器用で、何をやらせても「なんでそうなる?」という結果に終わる。
「澤田はとにかく器用だから、なんでも人並み以上にできるだろ? それで、何かっていうと怜の師匠になって、手取り足取り教えてやってさ」
それでも、けん玉を持たせれば頭にぶつけ、凧を揚げれば糸を絡ませ、一輪車に乗ろうとしては溝に落ちる。みんなでバカみたいに笑い転げて、おかしくて楽しくてあっという間に休日が終わった。誰の目も気にしなくていい、人に知られてはいけない任務を帯びた四人だけで過ごす、貴重な息抜きだった。
「子供って、自分より少し年上の子に遊んでもらうのが嬉しいんだよね。怜が澤田を慕うのは、そんな感じだった。なんでも上手な兄貴分にかまってもらうのが嬉しくて、楽しくて、夢中になってるみたいな。かわいかったよ」
『澤田くん、澤田くん! ねえ、これどうやるの? すごい、どうやったの?! もう一回やって見せて!』
独楽まわしとかメンコとか、澤田はムダに昭和の遊びに手慣れていて、見ていると広瀬もガマンできなくなってきて、二人で真剣勝負を繰り広げた。澤田が勝ったらビール一杯、広瀬が勝ったら団子一皿。翠が澤田に賭けるから、怜がこっちの味方になる。
『ガンバれ広瀬くん、お団子お団子!』
『裏切り者め、食い気に負けて寝返ったな?』
『待ってろよ、飛び切りうまいのをせしめてやる!』
オトナげの欠片もなく張り合って、もう一回、あともう一回だけと勝負を重ね、最後にはビールと団子で腹がはちきれそうになることになった。
『最終的に勝った人に、一回分だけ奢ればいいのに。バカねぇ』
そのバカバカしさこそが楽しいのに、翠にはそれが理解できない。もう食えない、もうムリだ、と騒ぎながら、公園の売店前で大量のビールと団子を飲み食いしている三人に向けられる目の冷ややかさに気付いていたのは、広瀬だけだったのかもしれない。
「怜は澤田を好きだったけど、同じくらい翠のことも好きだったんだよ」
もしかすると、澤田以上に翠を愛していたのではないかと思うことさえあった。こちらはまったくの一方通行で、おそらく翠は、怜のことを嫌っていたにもかかわらず。表に出したことは一度もなく、仲良く一緒に暮らしていたことになっているが、翠の本心は違ったはずだ。
「あの二人は、境遇が似てるんだよね。翠の両親は離婚して、どちらにも引き取ってもらえなかったらしい。同じような淋しい子供時代を過ごして、なのに一方はきれいで、かわいくて、女らしくて、誰からも愛された。翠は、怜の理想だった。自分の持っていない、幸福の象徴、ってとこかな」
「そりゃ、翠さんはものスッゴい美人だったって聞いてるけどさ。怜だって、充分かわいいのに」
別に、澤田くんのフィアンセを否定するつもりはないんだけど、逢ったことのない絶世の美女よりも、身近にいて苦楽をともにした仲間を贔屓したくなるのが人情だ。
「そうだね。俺もそう思うし、澤田もだろう。ただ、怜だけは受け付けないよ、きっと」
怜は、決して白鳥にはなろうとしないアヒルの子だから。
「とにかく怜は、澤田が好きで、翠が好きで、翠を好きな澤田が好きだったんだ」
「で、そういう怜を、広瀬くんは好きだった」
「……というか、危なっかしくてほっとけなかった」
怜にはどういうわけか、自分の身を守るという感覚が欠落していた。駅のホームから線路に転落しそうになったり、道を歩いていてすれ違う車に引っ掛けられそうになったり、単に鈍臭いというのではなく、本人に自覚のないまま敢えて身を危険にさらそうとしているようで、広瀬も澤田も、いつでも視界の端に怜の姿を入れておかずにはいられなかった。澤田と結婚して翠が退職することとなり、その後任としてあとから加わった津村もあれこれ口喧しく世話を焼いていたから、翠だけがそれに気づいていなかったはずはない。
だが、翠は決して、怜を守ろうとはしなかった。
翠が会社を辞める直前、津村が二人の婚約を祝おうと言い出して、五人で海へと出掛けた最初で最後の一泊旅行。このときも、怜は彼らが目を離した隙に、ひとりで遥か沖まで泳いで行ってしまった。気付いたときには肉眼で確認できるギリギリのところにいて、追うのを止めれば見失ってしまいそうだった。
怜は恐らく、自分がどこにいるのかわかっていない。ふっと我に返ったときにパニックにでもなれば、溺れてしまいかねなかった。連れ戻して来るとすぐさま海に入った澤田を、津村も即座に追っていった。
翠が怜といっしょにいたから、広瀬たちはビーチを離れていたのだ。けれど翠は、放っておけば帰って来れないほど遠くへ行ってしまうとわかっていて、怜を引き止めてはくれなかった。
『わざと行かせたんだ』
断定とも質問ともつかぬ口調の広瀬に、翠は、パラソルの影から謎めいた微笑を向けるだけで、何も言わなかった。
翠は、そういう女だった。美しくって棘があり、しかもその棘を隠すことも見せつけることも自在にできる。澤田には見せない顔を、なぜか広瀬の前には敢えてさらした。広瀬が澤田には告げられないことを承知の上で、おもしろがっているかのように。
怜に対しても、そうだった。翠は怜がどこまで許すかを試すように、偶然を装い意地悪をした。あるいは、怜がすべてを許すとわかった上で、善意を隠れ蓑に傷つけていた。
澤田が、気付いていなかったはずはないと思う。しかし、気付いた素振りは一度も見せず、擦りむいた膝小僧を洗ってやり、ぶちまけられた荷物を一緒に片付けてやっていた。余計なことを言って、翠の仕打ちがエスカレートするのを恐れていたのかもしれない。それとも、澤田と怜には、翠の振る舞いの意味がわかっていたのか。
澤田と、怜。あの二人には。
「危なっかしいっていうのは、わかる」
和人はカップをソーサーに戻すと、右手を開き、自分の掌をそっと眺める。
和人が知っている彼女は、どこかが少し、壊れていた。
『怜のそばに、刃物を置くな』
事務所にはじめて出勤した日、澤田から受けたちょっと変わった忠告は、意味も理由もわからなかったが、見渡してみると、確かに事務所の中には出しっぱなしになっている刃物類がひとつもなかった。包丁もハサミもひげ剃りも、きちんと戸棚や引き出しにしまわれている。ナイフやフォークも使い終わったら即片付け。部屋全体もきれいに整理整頓されていたから、この人ほんとに片付け魔なんだな、くらいにしか思わなかった。
それが、ある日のこと。
ガシャンと大きな音がして、振り返ると床一面にガラスの破片が散らばっていた。津村がグラスを落として割ったらしく、慌てて箒とちりとりを探しに行く。そこにすっと怜があらわれて、ごく自然に身を屈め、大きなガラス片をひとつ、拾い上げた。そうして和人が見ている前で、そうするのが当たり前みたいに、なんの迷いも躊躇いもなく、ガラスの切っ先を自分の首にあてがった。
『怜!』
何が起こったのか、和人が理解する前に、澤田がガラスを素手で受け止め、そのまま怜の手から静かに奪った。怜はぼんやりとして、自分が何をしたのかわかっていないようだった。
和人は、怜を広瀬に任せ、バスルームに向かう澤田を追った。澤田はちらりと和人を見たが、何も言おうとしなかった。
澤田の右の掌は、ざっくりと大きく切り裂かれていた。傷口を洗う間に、同じような傷痕がほかにもいくつもあるのが見て取れた。
『怜のそばには、刃物を置くな』
澤田はなかなか血の止まらない傷口にタオルを押し当て、俯いたまま低く言った。
どうしてなのかは、尋ねなかった。どうなるのかがわかっただけで、充分だった。ぜんぜん話しかけないし、ろくろく顔を見ようともしてないし、冷たい人なんだな、と思っていた澤田が、本当はどれだけ怜を大事に守っているのかわかっただけで。
「そろそろ行こうか。将が餓死する」
広瀬の声で時計を見ると、いつの間にか七時半をまわっていた。将はともかく、まもなく閉店の時間になるはずなので、和人もすなおに席を立つ。
レジの脇には小振りのガラスケースがあって、お持ち帰り用にカットフルーツの盛り合わせやカップ入りのデザートが並んでいた。
「澤田くん、果物だったら食べられるかな」
「澤田はともかく、将が食べるよ」
「将はどーでもいいんだよ! 広瀬くん、将に甘すぎ!」
「だって、どう考えても諸悪の根元は澤田だろ? 将は巻き込まれただけじゃないか」
「澤田くんはあーゆー人なんだからゼッタイに言うこと聞くなって、俺は何度も何度も念押したんだよ! なのにまんまと言いなりになってこのザマなんだから、自業自得だろ!」
「やっぱり、澤田が悪いんじゃないか」
広瀬はフルーツ盛り合わせのほかにプリンを二つ頼み、会計を済ませた。
秋の終わりのひんやりとした夜の町を、おいしいデザートで満たされた二人が歩いていく。
「あのさ。思ったんだけどさ」
「うん?」
「澤田くんは、ぜんぜん変わってないよね、やっぱり」
自分を傷つけようとする怜のかわりに怪我したときも、病院で傷口を縫ってもらった方がいいといくら言っても聞かなくて、タオルを二枚、ぐっしょり血塗れにしてからようやく重い腰を上げた挙げ句、付き添おうとする和人を「大丈夫だ」の一言で切って捨てた。そんなんじゃ自分で財布も出せないし、だいたいまわりの人がビックリするから! と、和人は強引にくっついていったのだ。
「ぜんぜん大丈夫じゃないのに、『大丈夫』『大丈夫』ってさ」
古い傷痕だらけの自分の掌を見て、澤田くんはどう思ったんだろう。彼女たちのことをなんにも覚えていない、今の澤田くんは。
「バカは死ななきゃなおらないって、言うからね」
「それって洒落になんないよ、広瀬くん」
「そうかな」
とにかく澤田は生きている。ぜんぜん変わらず、あのままで。本人がなんと言おうと、彼らの知る澤田自身が。
「少しは利いてくれるといいんだけどな、バカにつける薬が」
「そんな劇薬、いつのまに調達したの?」
「いつのまにもナニも、目の前にいるじゃないか」
「……俺?」
自分の鼻の頭を指さす和人に、広瀬はふわりと笑みを広げる。
「和人のありがたみを思い知って、反省してるといいんだけどね」
「別にその、なんて言うか。澤田くんは、感謝してくれてるよ、ちゃんと」
イヤ、してもらいたいわけじゃないんだけど。ありがたく思え! とか、ぜんぜんまったく思ってないし。
照れているのか困ってるのか、もごもごと言う和人をちらりと見遣り、広瀬は明るく照らす月を仰いだ。
今ここにある現実は、あの頃に願ったものとはぜんぜん違う。
だが、それでも。
ここからまた、新たに歩きはじめるしかないではないか。
「今度はカノジョと行くの? さっきの店」
「え?!」
和人は弾かれでもしたかのように、隣りを歩く広瀬をパッと見上げた。
「デートにもよさそうな感じだったよね。定休日、いつだっけ。来月のシフト組むとき、考慮してあげるよ」
「ちょ、え? な、なんで知ってるの?!」
「ふーん。やっぱりか」
「え?!」
「あれでしょ。和人が風邪ひいて、寝込んだ頃。まだ夏になる前だっけ?」
「違っ、あのときはまだ付き合ってはなくって……って、ちょっと! もしかして、カマかけた?!」
そして、見事に罠にかかっちゃった? 俺。
「わかりやすいからな、和人は」
広瀬は人の悪い笑みを浮かべ、「そうかそうか」とひとりで頷く。
「で、どんな子なの? 出逢ったのはもう少し前ってことは……」
「広瀬くん!」
「うん?」
和人はくるんとしたつぶらな瞳を大きく見開き、口をパクパクさせてから、ようやく言った。
「ほかの、みんなは?」
「さあ。気付いてないんじゃないかな、たぶん」
「ってことはもちろん、澤田くんも?」
「気付くわけないだろ、あの朴念仁が」
「よかったー」
大仰に胸をなで下ろす和人に、広瀬は不思議そうに首を傾げる。
「ナニ。澤田に知られたくないの?」
「知られたくないって言うか……」
和人はしばらく躊躇ってから、上目遣いに広瀬を見上げた。
「なんかさ、不謹慎だと思わない?」
「はい?」
「こんなタイヘンなときに、ひとりだけチャラチャラしやがって、とか」
「ちょっと待て」
「人の気も知らないで、のん気に浮かれてんじゃねーよ、とか」
「和人くん?」
「所詮は他人事なのかよ、薄情者め、とか」
「本気で言ってるわけじゃないよね?」
思いがけず強い語気で遮られ、和人は視線を逸らして口を噤んだ。
「バカだなぁ」
広瀬は心底呆れたようにそう言って、和人の背中をポンと叩く。
「イテッ」
「喜ぶよ、澤田は。決まってるだろ」
こんなときだからこそ、自分のこと以上に喜んで、祝福するに違いない。
「そうだけど、でも……」
「どうしちゃったんだよ、らしくもない」
和人はなおもグズグズと言いたげにして、足下に視線を落として歩いている。何か言いたいらしいことは見て取れるが、何を言いたいのかまでは察しがつかない。
いつでも明るくて茶目っ気たっぷりに振る舞う和人は、実は繊細で、自分が傷つきやすい分、人の痛みにも敏感だ。
澤田もいつか、言っていたっけ。
『和人はちょっと考えすぎるところがあるから、気をつけてやってくれ』
『いいけどさ、なんで俺に言うわけ?』
『俺より、お前の方がよくわかってやれるだろ』
『なんでだよ?』
『お前もあるから、そういうとこ。優しすぎて、考えすぎる。お前と和人は、ちょっと似てるよ』
自分ではぜんぜんそうは思わないが、もしもそういう部分があるのだとすれば。
「カノジョのこと、教えてよ」
「え?」
「どこで知り合ったの? わんこ友だちのひとりとか?」
「違うよ。あの、病院のそばに、ハーブとか置いてる店があるの、知ってる? 苗もあるし、紅茶とか、石鹸とか、香水とか」
「知らないなぁ」
「俺、どんな小さいことでもいいから、なんかできないかなぁと思って。澤田くんはまだ眠ってばっかで、動けないし、食べられないし、なんにもしてあげられないんだけど、それでもなんかないかなぁって思ってて、なんとなく、その店に入ったんだ」
ハーブならカラダに良さそうだし、寝たきりでも、意識が曖昧でも、香りを楽しむことならできるかもしれない。ほんのちょっぴりだけだとしても、苦痛を忘れさせてくれるかもしれない。
「ひとりでイロイロ見てたら店の人に話しかけられて、よくわかんないから、こういう事情なんだけど、なんかいいものないですかって相談するみたいなことになって、そしたら親切に一緒にあれこれ考えてくれて」
「気付いたら、恋に落ちてた?」
「……そんなすぐにじゃないけどさ」
理学療法士にも助言を求めたところ、かろうじて無事だった指先のマッサージを勧められ、それならばと、アロマオイルを使ってみることにした。
「考えてみたら、澤田くんの好きな香りなんて知らないしさ。取り敢えず、リラックス効果があるのとか、一般的に人気が高いのとか、いくつか試してみて、これを使ったら反応がよかった気がしますとか、こっちはちょっとビミョーでしたとか、報告したわけ」
まあ、澤田本人からは「ああ」とか「うん」ばかりではかばかしい回答はなかったのだが、「澤田さんていつもいい匂いがしますよねー」だの、「指とかスッゴいきれい! 羨まし~」だの、病院スタッフからはたいへんご好評をいただいた。
「で、自然と澤田くんの状態も話題になったりするでしょ? よかったですね、とか、心配ですね、とか、言葉にするとそれだけなんだけど、なんかどんどん親身になってくれたっていうか、自分は逢ったこともないのに澤田くんのことにすっかり詳しくなっちゃって、なんかもう昔っからの知り合いみたいな感じがしてきてさ」
「で、恋に落ちたと」
「だから、そんなすぐにではないんだけど!」
「最終的には、そうなったんだね」
「……うん。まあ」
「ということは、澤田が恋のキューピッドだったわけだ、柄にもなく」
「キューピッドっていうか、なんかダシに使っちゃったみたいでさ」
「それで気にしてるの?」
「そういうわけじゃないんだけど……」
カノジョはすっごくいい子で、知識が豊富で尊敬できて、お洒落でかわいくてほんとにステキで、大好きだなーって思う気持ちにウソはなくても。
早すぎないかな、と囁く声が聞こえるのだ。
あれから、二年。
もう二年なのか、たった二年なのか、どっちだろう。
次の恋に進むタイミングとしては、適切なのか否なのか。
「広瀬くんは、今も怜のことを好きなのに」
ああ。和人が引っかかっていたのは、やっぱりそこだったのか。
「バカだなぁ」
泣きたくなるくらい優しい声が、ふわりと和人を包み込む。
「言っただろ? 澤田はきっと、喜ぶって。澤田が喜ぶってことは、怜も喜ぶってことだよ」
自分は幸せになろうとしないくせに、他人の幸せは誰よりも喜ぶ、似た者同士の二人だから。
「怜は、水無月といたときみたいに笑ってくれるよ。和人が一番好きな笑顔を、きっと、見せてくれる」
それはまるで、雲間から射す一条の光のような眩い微笑み。凍てつく冬日にふと感じる、春風のようなやわらかな笑顔。
和人は俯きがちに歩きながら、すん、と鼻を啜った。
広瀬くんは、ほんとになんでもお見通しなんだ。誰にも言ってなかったのに、自分ひとりの秘密だったはずなのに、ぜんぶ見抜かれてたんだな、なにもかも。
「……逢いたいなぁ」
「そうだね」
逢えないことは、わかっているけど。自分たちにできることは、彼女をそっとしておいてやることだけなのは承知しているのだが。
せめて、広瀬くんだけでも逢いに行ける日が来ればいいのに。
そうして、二人が幸せになってくれたらどんなにいいか。
和人は冴え冴えと照る月を見上げて、静かに祈った。




