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春を待つ日々  作者: 苅野しのぶ
山眠る
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(2)

「津村」

「……広瀬くん?」

 救急病棟の夜間出口から出てきたところで、やわらかな声に呼び止められた。駐車場へとつづく通路の脇に、優しげな風貌の男が立っている。

「こんなところで、どうしたの?」

「お前を待ってたんだよ」

「いや、だって……」

 せっかくここまできて、病室に寄らずに帰るなんて、ありえない。こんな薄暗いところで待ってないで、入院病棟まで上がってきてくれればよかったのに。

「……逢ってかないの?」

「面会時間は過ぎてるだろ」

「そうだけど、でも!」

「いいんだよ」

 広瀬は静かにきっぱりと言い切って、駐車場へと歩き出す。

 津村はその後ろ姿と病棟の出入り口とを交互に見遣り、しばらく躊躇った後、広瀬のあとを追った。

「広瀬くん、仕事の帰り? 事務所に戻るの?」

「ああ。でも、その前になんか食べていこう」

「……ああ」

 閑静な住宅街によく馴染んだ、ごくありふれた小さなマンションが住居兼用の彼らの事務所。各階一室だけの三階建てで、事務所として使用している一階には、こぢんまりとした庭もついている。

 普通のマンションの一室だから、そこには当然、キッチンもある。大型冷蔵庫にはいつでも食材がいっぱいで、棚には調味料や乾物のストックがきっちりきれいに並んでいて、いつでも料理に取りかかれるようになっている。

 でも、戻っても、食べられるものはなんにもないんだ。作ってくれる人がそこにいないんだから、当たり前だ。

 そんな津村の感傷を断ち切るように、広瀬が運転席のドアをバンッと閉める。乾いた音ががらんとした駐車場に響きわたり、津村もそれに促されるように助手席のドアを開け、シートに収まった。

 事務所所有の車は2台。津村はもう一台の方にばかり乗っていたから、こちらに乗るのは久し振りだ。

「広瀬くん、わざわざ迎えにきてくれたんだ」

 津村がシートベルトを締めるのを確かめて、広瀬は滑らかに車を発進させた。広瀬のハンドル捌きは慎重で、いつでも安心して乗っていられる。

「わざわざ、ってわけでもないけどね」

 無人のゲートのバーを潜りながら、さり気ない口調で広瀬が答えた。

 でも、そうなのだ。入院している患者よりも、毎日こうして通ってしまう方を心配して、車で拾いに来てくれたに違いない。

「……俺を甘やかしすぎだよ、二人とも」

 ガンバったのに少しだけ語尾が震えてしまって、広瀬の視線がちらりとこちらに送られる。

 ああ、ダメだ。そう思ったから笑ったのに、笑えば笑うほど目頭が熱くなってきて、どうにもならない。

「俺は、大丈夫だから」

「ああ」

「ほんと、大丈夫。ぜんぜん大丈夫なんだけど、でも」

 信号が赤に変わって、広瀬が静かにブレーキを踏んだ。

 まったく、最悪のタイミングだ。

「ごめん。今だけ、いい?」

 うん、と広瀬がまっすぐ前を向いたまま頷くのと同時に、涙腺が決壊した。膝頭をギュッと掴んで歯を食いしばって、それでも嗚咽を抑えられない。

 やがて車が動き出し、ステレオからラジオの音が聞こえてきた。

 いつもなら、ラジオじゃなくってCDをかけるはずなのに。入れっぱなしになってるCDが、きっと、あの人のだからだ。俺がそれに気づかないわけなくて、そしたらまた泣くかもしれないと思って、敢えてラジオにしたんだろう。だけど、広瀬くん。このラジオ局も、あの人が好きなやつだよね。ダメだよ俺たち。ナニを見ても聞いても、けっきょく思い出さずにいられないんだから。

 そう思ったら余計に泣けて、もう一度話せるようになるまでには、随分と長いドライブが必要となってしまった。


 病院から事務所までは、三十分もあれば着く距離だ。途中で食事をして行くにしても、そんなに遠いところへ向かう予定ではなかったはずなのに、広瀬ははじめからの心積もりであったかのように小一時間も車を走らせ、こぢんまりとした定食屋の駐車場に車を入れると、「ちょっと待ってて」と言いおき出て行った。

 そうしてひとりで取り残され、感情の波が静まるのをじっと待つ。

 しっかりしろ、自分。いつまでも甘ったれてんじゃねぇ。

 何度も何度も言い聞かせ、ようやく普通に呼吸ができるようになった頃、広瀬はテイクアウト用の四角い容器とペットボトルのお茶を提げて、戻ってきた。

「前に一度来たことあるんだけど、うまいんだよ、ここ」

 差し出されたのは、親子丼と、かき揚げ丼。店内で食べることもできたのに、津村が明るいところで泣きはらした顔をさらさないですむように、持ち帰りにしてくれたのだ。

「ありがと」

 受け取った親子丼は、温かかった。ちょっと気を抜くとそんなことにさえ涙腺が弛みそうで、パチパチ瞬きをくり返す。

「許可はもらってきたから、このままさっさと食べちゃおう」

「うん」

 広瀬はぜんぶ気づいているくせに、なんにも気づいていないみたいにしていてくれる。だから津村もいつもどおりの自分の振りして、箸を取った。

「ほんとだ。うまいね」

「でしょ?」

 鶏肉はやわらかく、玉ねぎは味がよく染みて、ふんわり卵がとろけるようだ。ちょっとだし汁が濃いめに感じるのは、きっと、泣きすぎて味覚が変になってるせいだろう。

「ここの天丼は塩で食べるんだ。さっぱりしてて、おいしいよ」

 広瀬はそう言いながら、自分のかき揚げの一角を割いて、津村の丼の端に乗っけた。

「……なんだよもう。だからそうやってさぁ」

 俺を甘やかさないでくれよ。

 確かに年下ではあるけれど、たった四つだ。なのに、いつでもこうなのだ、この人たちは。


 『四つ下ってことは、俺らが高校行ってた頃に、まだランドセル背負ってたんだろう?』

 『ぜんぜん話になんねーな』

 『いつの話してんだよ! いつまでも十二と十六じゃねーんだぞ! 二六と三十じゃあ、たいして違わねーよ!』

 『あ。俺まだ二九だぞ。そっちのオッサンと一緒にするなよ』

 『半年しか違わねーのに、ナニ言ってやがる』

 『だって、俺が生まれた頃にはもう首が据わってたんだろ? 人生の大先輩だよ』

 『だからいつの話をしてるんだよ!』


 いつだってそんな調子で、バカばっかり言い合っていた。出逢った頃は二一と二五で、高校を出てからふらふらしていたフリーターとサラリーマンだったから、年齢以上にオトナとコドモで、それで余計にこんな関係になってしまった。

 オトナと、コドモ。甘やかす者と、甘やかされる者。

「泣いてたんだ、あの人」

 津村はごしごし乱暴に顔を擦りながら、ボソリと言った。

「いつの間にか、目を開けてて。ああ、気がついたんだなって思ったら、泣いてたんだ」

 なんにも映していないような、空っぽな目をして。この世にひとりぼっちでいるみたいに、静かに涙を流していた。

「なのに、俺が泣きそうだって言って、慰めようとするんだよ」

 前髪のあたりに気配を感じて顔を上げると、不自由な右手をどうにか持ち上げ、髪を撫でるような仕草をしていた。苦しそうに顔を歪めて、なのにそんなのぜんぜん問題じゃないみたいに、一心に指を伸ばしていた。包帯の端からわずかに覗く指先は、誰よりも器用だったはずなのに、髪に触れることさえうまくできずに震えていた。

「バカだから、アイツは」

 広瀬は丼の容器を手に、まっすぐ前を向いたまま、優しげな声でバッサリと切り捨てる。

 いつだってそうだ。

 柔和で、穏やかで、優しくて、そんな広瀬があの男にだけは辛辣になる。一番の古馴染みで、互いの右腕のような存在で、今だって誰よりも心配しているくせに、広瀬はそんな素振りをぜんぜん見せない。

 助手席から、広瀬の横顔を盗み見る。

 冷静な表情、的確な状況判断、安定した感情。

「広瀬くんだったら……」


 あのとき、運転していたのは津村だった。

 もう一台の自動車で、助手席にあの男を乗せて、片側二車線の一般道を走っていた。まだ混み始める前の時間帯で、上りも下りもスムーズに流れていて、自分ひとりだったらもう少しスピードを出していたかもしれないが、そういうことには口喧しいのが隣りにいたから、安全第一、模範的なドライビングにつとめていたつもりだった。

 これといって、変わったことは何もなかった。

 しかし、あの男は言ったのだ。

 前の車の様子がおかしい、気をつけろ、と。

 え? と聞き返すまもなく助手席から長い腕が伸びてきて、やっぱり、え? え? と戸惑ううちに突然逆走してきた車ごと緩衝帯のガードレールに突っ込んでいた。

 たぶん、しばらく気を失っていたのだと思う。

 気づいたときには小さな窪みにカラダがすっぽりはまっていて、どこにも痛みはなかったけれど、ピクリとも動くことはできなかった。

 ああ、やばい、事故ったんだ。なんかもうグシャグシャに潰れてるけど、ここはまだ車の中で、それで――。

 その空間を作っていたのは、津村に覆いかぶさるようにして人ひとりがいられる隙間を守っていたのは、助手席にいた男だった。

 視界の端にとらえたハンドルには、男の腕が乗ったままになっていた。あのとき、いきなり奪われたハンドルは思いっきり右に切られて、だから突っ込んでくる車の正面に助手席が向いて、そちら側がまともに衝撃を受けることになって、それで――。

 恐る恐る、ねえ、と声をかけてみたけれど、返事はなかった。

 男の顔は津村の頭のすぐ横にあったのだが、あんまり近すぎて、かえって見ることができなかった。

 ああでも、顔がここで、カラダがこうで、腕があそこにあるって、おかしいだろ。人間のカラダは、そんな風に動くようにはできていない。

 怖くって、恐ろしくって、もう一度「ねえ」と呼んでみたけれど、やはり答えは返ってこなかった。せめて呼吸しているのを確かめようと、無理にもそちらを向こうと身動ぎすると、ぽた、っと首筋に何かが落ちた。

 なんだろう、燃料漏れとかだと危ないな。

 はじめに浮かんだのはそんなことで、そういう気をまわす余裕が生まれたせいか、駆けつけたらしいサイレンの音や、「大丈夫ですか」と外から尋ねる声や、さっそくはじまったらしき救出作業の物音などが聞こえてきたが、意識はぽた、ぽたっと滴りつづける何かから離れなかった。

 その「何か」は津村の首筋を辿り、Tシャツの襟刳りを濡らして広がっていった。いつまでも、いつまでも。どんどん染みは大きくなって、津村のお気に入りのTシャツは、肩口から身頃まで、みんな真っ赤に染まってしまった。

 あり得ない。人間は、こんなにたくさんの血を失ったらいけないはずだ。

 ようやくドアがこじ開けられて、まず血塗れになった津村を引きずり出した救急隊員は、怪我の状態を確かめようとあちこち見るも、実際にはかすり傷ひとつないのに驚いていた。

 津村は自分は大丈夫だと言い、救助のつづきを見たい、見せろ、ぜったい見るんだと言い張って、慎重に慎重に、壊れた人形みたいになった男が潰れた車内から運び出されるのを見守った。そうして救急車に同乗して、一緒にあの病院に運ばれたのだ。

 病院に着くなり、必要ないって言ってるのに津村まで精密検査を受けさせられて、案の定、どこにも異常はみつからなくて、だから言ったじゃねぇか、バカヤロウと言い捨て手術室に駆けつけた。それから待っても待っても手術は終わらなくて、長い長い時間を廊下で過ごして、結局そのまま朝になった。

 あんなに祈ったことはない。あんなに願ったこともない。

 ただ、もう、ひとつ。それさえ叶えてくれるなら――。


「誰が運転してたって、同じだよ」

 箸を握り締めたまま動かなくなった津村に、広瀬がふわりとやわらかな声を向けた。

「いきなり逆走してきた車に真っ正面から突っ込まれて、避けられるはずないよ。目撃証言も、現場検証の結果も、津村に落ち度はまったくないってことだったろ」

「そうだけど、でも」

 どうしても考えてしまうのだ。

 何かちょっと、もう少しだけでも違ったら、こんなことにはならなかったんじゃないか。運転していたのが自分じゃなかったら。同乗していたのが別の誰かだったら。

「もしも運転してたのがアイツだったら、ハンドルを左に切っていた。それだけのことだよ」

 そうして運転席で衝撃を受け止め、自分をクッションにして津村を庇って、同じ結果を招いていた。乗っていたのだが別の誰かだったとしても、間違いなく同じ行動をとっていた。

「アイツは、ほんとにバカだから」

 広瀬は笑ってそう言った。

 笑っているのに冷ややかで、この人は怒ってるんだと、津村ははじめて気がついた。凄く凄く怒っていて、だからさっきも病室に顔を出そうとしなかったのだ。

 誰だって、本能的に自分の身を守ろうとするものだ。咄嗟に頭を庇うとか、衝撃を和らげようとするとか、考える前にカラダが動く。

 そうしないのは、バカだ。エゴだ。傍迷惑以外のナニモノでもない。

「……そんなこと、言わないでよ」

 津村が掠れた声で呟くと、広瀬はハッとしたような顔をして、それから「ごめん」と、いつもの広瀬らしく優しい声でふわりと言った。

 どちらからともなく途中になっていた食事を再開し、うまいね、そうだね、というだけの会話にしばし戻る。


 突っ込んできた車を運転していたのは、まだ学生にしか見えない入社したての会社員だった。

 職場に馴染めなくて、仕事も楽しくなくて、生きているのがイヤになって、死のうと思ったのだそうだ。ひとりでは怖かったので、誰かと一緒がいいと考え、ああいう方法を選んだのだという。通院歴があり、薬も服用中だったことから、責任能力は問われないことになりそうだとも聞かされた。

 津村は、ふうん、としか思わなかった。

 なんでもいいよ。どうでもいい。

 いいから、あの人を返してよ。ちゃんと元通りにして、返してくれよ。

 あのとき、そうお願いしなくちゃいけなかったんだ。

 元通りにしてください、って。ちゃんと返してください、って。

 生命を助けてください、だけじゃ足りなかった。


「大丈夫、だよね」

 無意味な問いだと知りながら、気づいたらそう口にしていた。

 そんなことを尋ねられても、困るだけだ。

 それに、広瀬の答えは聞かなくてもわかっている。

「ああ。大丈夫だよ」

 ほかに、どう答えられるというのだろう。

 大丈夫だよ、きっとよくなる。何もかも、ちゃんと元通りになるから心配ない。

 彼らには、そう信じることしかできないのだから。

 今はまだ、事故のショックで混乱しているだけ。これは一時的なことにすぎず、いずれ必ず快復する。

 当然だろう。今だって、目覚めたときに話しかければ返事もするし、ふつうに会話も成立するのだ。今日がいつかはわからなくても、九日だよと教えれば、昨日は八日で明日は十日だと当たり前に答えるし、曜日だってきちんと理解できている。首相の名前も言えれば消費税の計算もできて、去年のワールドシリーズのチャンピオン・チームだって覚えている。

 なのに、自分に関する記憶だけが消えてしまった。名前も、家族も、年齢も、何度尋ねられても答えられない。質問の意味すら把握できていないかのように、ただぼんやりとした眼差しを向けてくる。


 ――お前、誰?


 憎まれてもいい。恨まれてもかまわない。

 だけど、忘れられてしまうのだけは耐えられない。

 これまでの時間が、ともに築いてきた関係が、ぜんぶなかったことにされるのは。


「俺、本当に……」

「大丈夫。大丈夫だよ」

 広瀬は幼い子供に言い聞かせるようにくり返し、それからふっと、顔を背けた。

 何が大丈夫なのか、大丈夫じゃないのか、なんにもわからずにいるくせに。まともに向き合うことすらできず、仕事にかまけて避けてるくせに。顔を合わせる勇気が出せなくて、こうして逃げてばかりいるくせに。

 なんでもない振りをして、平気でいるような顔をして、無責任なことを言っている自分に腹が立つ。

 でも、思うのだ。

 たぶん、本当はわかっている。

 たとえ事故のショックですべての記憶をなくしても、ナニかをなくしたことには気付いている。津村のことも。俺たちのことも。何もかもぜんぶ。

 だから、泣くんだ。なんにも覚えていないくせして、なくしてしまったものの大きさに、涙を流す。そうなんだろう?

「大丈夫だよ」

 もう一度くり返すと、津村の縋るような眼差しが向けられた。それを左の頬に感じながら、静かに言う。

「俺たちが、覚えているから」

 俺たちは、ナニがあっても忘れないから。なんとしてでも、思い出させてみせるから。

「うん」

 津村はこくりと頷いて、それからテヘッと、小さく笑った。

 そうだ。それでいいんだ。

 アンタという人間を、俺たちはゼッタイ忘れないから。

 いつまでだって、待っているから。

 ゆっくり、ゆっくり、戻ってきてくれればそれでいい。



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