(2)
どうしてこうなってしまうのか、自分で自分が歯痒くてならない。
体温は再び上昇し、四十度近くまでいったところで、広瀬と津村に抱えられるようにして車に乗せられ、病院へ連行された。
「これは苦しかったでしょう。相当ガマンしてましたね? なんでもっと早く来なかったんです。肺炎の一歩手前になってますよ」
運悪くその夜の当直医は饒舌で、本人が口を利く気力もないのをいいことにペラペラとやってくれたおかげで、無理やり入院させられた挙げ句、その後しばらく広瀬と和人にねちねちと責められることになってしまった。
「まあ、言いたくなる気持ちもわかんなくはねーからな」
翌朝――だとばかり思っていたのに、実は翌々朝だった――病院まで迎えにきた将は、並んでバスを待つ間、「和人たちはまだ怒ってるか?」という問いに、そう答えた。
「こうやってさ、タクシーで帰ってこいって言われてんのに、『バスでいい』とか言い張るじゃん。このクソ寒いのにこんな道端で突っ立ってて、また熱が上がったらどーすんだよ」
「五分間隔なんだから、心配しないでもすぐ来るよ。重病人じゃあるまいし、タクシーなんて贅沢だ」
「あともう一歩で重病人だったくせに、よく言うよ」
「大袈裟なんだよ、お前たちは。結局はただの風邪だろう?」
「そうやって風邪を侮ってると、痛い目にあいますよ、澤田さん!」
「……え?」
突然背後から聞こえてきたかわいらしい声に、二人同時に振り返る。
「せっかくよくなって退院したのに、また戻ってきたらダメじゃないですか!」
「ああ、看護師さん」
長く入院していたせいで、こちらが一方的に知られているということも多いのだが、小柄な上に顔立ちも幼く、飛び切り元気で少女のような彼女には、見覚えがある。勤務あけなのか、それともちょうど出勤するところなのか、私服姿なので一瞬わからなかったのだ。
「澤田さんはすぐムリするんだから、お目付役がしっかりしないと!」
「イテッ」
肩の付け根をグーパンチされて、不意をつかれた将が顔をしかめた。何か言いたげに口を開きかけたが、何も言わずにそのまま噤んで、そっぽを向く。
「ときどき、リハビリルームにいるのを見かけてたんです。ここのとこ何日かいないなぁと思ったら、風邪だったんですね」
「ええ、まあ」
「お大事に! また会いに行きますね! そっちの彼も!」
「え……」
将が顔を上げきらないうちに、看護師はかわいらしく手を振って、来たときと同じく唐突に行ってしまった。
「……ヘンな女」
ぼそりと呟く将の頭上で、「ふーん?」という笑みを含んだ声が聞こえた気がした。視線を上げると、澤田がおもしろがるような目をして自分を見ている。
「なんだよ」
「いいや?」
マスクで顔の半分が覆われているため、澤田がからかっているのかどうかはわからない。が、なんとはなく、そんなような予感がして、じわじわと耳が赤くなった。
「今の彼女、名前はなんだっけな」
「知らねーよ!」
「えぇーっと、確か……」
「うるせーな! ほら、バス来たぞ!」
将は澤田の腕をグイッと引きかけ、そうだ、と思いなおして手を添える。澤田は薬と点滴が効いたのか、取り敢えず三七度台まで熱が下がったので帰宅を許されただけで、全快したわけではない。平気そうにしているが、本当は立っているだけでやっとのはずなのだ。
杖を支えにゆっくりとバスのステップを上がる澤田の背中を見守りながら、将は半歩後ろからついていく。この数日で、澤田はさらに痩せてしまった。セーターとコートで着膨れていても、この細さだ。マフラーでグルグル巻きのおかげで誤魔化せているが、首なんてもう、鶴かミイラだとしか思えない。
「さっきのつづきだけどさ」
「うん?」
がら空きのバスの座席に前後となって腰掛けてから、将はぶっきら棒に呟いた。
「俺も、たぶん、言わねーよ」
澤田が心持ち後ろを振り返る。
「だから、わかるよ。澤田くんがなんも言わねーの」
あそこが痛いとかここが痒いとか、そんなのいちいち他人に報告するようなことじゃない。助けを求めるのは最後の最後。いざという事態になるまでは、自分でなんとかするのが当然だ。
「けどまあ、タクシーの方が正解だと思うけどね、俺も」
バス停から事務所まで、歩けなかったらどーすんだよ。そっから電話して支援要請なんてことになったら、俺まで和人に責められる。
「安心しろ。這ってでもたどり着いてみせる」
「ぜんっぜん安心できねーよ」
将がぶすっと答えると、澤田が少し、笑った気がした。顔色は悪いし、疲れているのは明らかだし、体調がよくないのは見え見えだけど、澤田が笑うと、それだけでなんだかホッとする。
将は、窓からの景色をぼんやり眺めた。これといって変哲もない町並みが、当たり前のように流れていく。
こうして澤田を病院から連れて帰るのは、これで二度目だ。
一度目は、澤田と一緒に彼女を見舞った、その帰り。将が澤田の婚約者に逢うのは、あれが最初で最後となった。
あのとき、澤田は精神的にもう限界で、ひとりで歩くことさえ覚束なくて、引きずるようにしてタクシーに乗せ、事務所に戻った。
そう。あの頃に比べれば、「タクシーはイヤだ」と意地を張り、こうしてバスに乗っている今の方が、ずっといい。澤田はずっと、生きている。
「澤田くん」
「ん?」
「馨と、なんかあった?」
澤田の肩が、ピクリと揺れた。
「馨が、何か言ってたか?」
返ってきた声も、どこか強ばっているような感じがする。
「じゃなくて、澤田くんが言ったんだよ」
「俺が?」
「澤田くん、昨日はずっと、魘されてただろ」
「……覚えてない」
「そうだったんだよ。で、ときどき譫言みたいに、馨を呼んだんだ。馨、馨って、何度も」
澤田はしばらく躊躇うような素振りを見せてから、小さく首を横に振った。
「馨が、ガンバってお茶を淹れてくれたんだ。それが頭に残ってて、夢でも見たのかな」
「あの、抹茶みてーなスゲーやつ? よく飲めたね、あんなもん」
「そう言うなって。見た目よりはウマかったよ」
「馨もなんか気にしててさ、和人に『確かにマズいけど、致死量に達するほどのマズさじゃない』って慰められてた」
「慰めてるのか、それ」
澤田は呆れたように言ってから、ふぅっと息を吐き出した。
「悪いことしたな」
「馨?」
「自分が留守番のときに俺が熱出したんで、気にしてるんだろ」
それで、澤田が馨の名を口にしたということは、充分ありえる。お前のせいじゃない、心配するな、というようなことを伝えようとして、馨を呼んでいたのか。
でも、なんとなく、そうじゃない気がする。
高熱に浮かされて、意識が朦朧とする中、澤田は何か必死に馨を呼んだ。どうしたんだよ、何があったんだよ、俺じゃダメなのかよ、といくら問いかけても、聞こえているのかいないのか、澤田は「馨」とだけくり返し呼んだ。
もしかして、澤田は何か、思い出しかけているのではないだろうか。
自分ひとりですべてを背負い込み、馨を助けようとしていた頃のこと。ほかの誰にも知らせずに、なんとか守ってやろうと心を砕いていた、当時のこと。
澤田は詳しい事情を自分の胸ひとつにすべて留め、なんにも教えてくれなかったが、もしもあのときの澤田の声が聞こえたとしたら、それはあんな風だったのではないかと思うのだ。
――馨。
突然あらわれた異色の新入り。おもに面倒をみていたのは広瀬で、澤田はむしろ、ほったらかしにしているようにしか見えなかったが。
「澤田くんは、馨のこと、すっげー大事にしてたんだよな」
そして、それは自分も同じだ。
ぜんぜん気付かずにいたけれど、ずっと澤田に守られていた。何年間も悟らせず、澤田は見守っていてくれたのだ。それを理解し、受け入れられるだけオトナになるまで、ずっと。
澤田は姿勢を元に戻し、まっすぐ前を向いたまま、何も言おうとしなかった。
うん。澤田くんは、ぜってー認めたりしねーよな。
将はククッと、小さく笑った。
なんとか無事に事務所に帰り着くと、和人が玄関で仁王立ちになっていた。
「また、言うこときかなかったね?」
「いや、その」
「タクシー乗ってきたにしちゃ時間かかりすぎだし、車が止まる音も聞こえなかった」
「や、だからな? タクシーに乗ると、酔うんだよ」
「ウソばっかし」
「ほんとだよ。昔から、あの臭いが苦手なんだ」
「昔から?」
和人と将のハッとしたような顔を見て、自分が口にしたことの重みに思い至る。
「……ああ。そうだな。どうしてだろう。子供の頃から、ダメだったような気がしたんだ」
二人は声を揃えて「ふーん」と言い、どちらも何か言いたげな様子をしながら、あえて無関心を装い明後日の方角をそれぞれ向いた。
それでなんとはなく玄関を上がることを許されて、手洗いうがい、着替えを済ませ、さっそくベッドに横になると、まずは検温。澤田はピピッという合図を受けて体温計を取り出すと、おもむろにスイッチをオフにした。
「ちょっと! なんで消しちゃうんだよ!」
「大丈夫、七度しかなかった」
「ウソつけ! ぜってー熱上がってたんだよ。だから言っただろ、タクシーで帰ってこいって! お前はナニしてたんだよ、将!」
「いや、だからさ、澤田くんがタクシーは酔うっつーから……」
「さっきはじめて聞いたくせに、適当なこと言ってんじゃねーよ、この役立たず! もう知らないからな! お前ら二人まとめて地獄に堕ちろ!」
和人はバン! とドアを叩きつけるように閉めると、足音荒く行ってしまった。
「あーあ」
「ああ」
二人は顔を見合わせ、溜め息をつく。
「澤田くんが悪いんだぞ」
恨みがましく呟く将に、澤田が苦笑しつつ、頷いた。
「あとで、謝っておくよ」
あの様子だと当分許してもらえそうにないが、身から出た錆なので致し方ない。根気よく謝罪するしかないだろう。
「あのさ。和人に見捨てられると、澤田くんの世話すんの、俺だけになるんだけど……」
「心配するな。俺はおとなしくしてるから、お前はもう帰っていいよ」
「そーゆーわけにはいかねーだろ」
「ペットボトルのままでいいから、水を置いといてくれると助かる」
「それはベツにいいけどさ」
「悪い。寝る」
「え」
澤田は人形か何かのようにパタリと目を閉じ、そのまま意識を手放したようだった。
ああ、そっか。ホントにもう限界ギリギリだったんだな、澤田くん。
前髪とマスクで顔のほとんどは隠れていて、おまけに顎先まですっぽり毛布にくるまっているから、覗いているのは頭のてっぺんくらいなものだ。そうして無防備に横たわる澤田をしばし見下ろし、将はすとんと傍らの椅子に腰掛けた。
もしかしたら、また昨日みたいに魘されるかもしれないし。あっちの部屋にいたら、気付いてやることができないし。
それに、もしかしたら――。
――やめとけよ。クダらねぇ。
将が澤田とはじめて出会ったのは、深夜の公園だった。
将には、いかれた輩を引き付ける妙な臭いがあるらしい。これといった理由やキッカケがあったわけではなく、気づいたときには、鉄パイプだのなんだの、物騒な得物をチラつかせる図体のデカイの五、六人に囲まれていた。
自分が殴り殺される姿が、将にははっきりと見えた。向かって行くことはもちろん、逃げることも、避けることもできなかった。まさにいま現実に晒されている光景は、どうしても消し去ることのできない過去の屈辱を呼び覚まし、将からカラダの自由を奪い取った。
そこに、澤田は忽然とあらわれたのだ。素手だったし、特に威嚇するようなこともしなかった。
『やめとけよ。クダらねぇ』
地を這うような低い声で、突き放すように、ほっぽり出すように、そう言っただけだ。
ただ、春先の薄ら寒さに皮ジャンを羽織った姿は、安っぽい蛍光灯の作る陰影のせいで、そういった稼業の人間に見えなくもない雰囲気があった。今から思えば、彼女が事故に遭ってから半年あまりといった時期で、澤田は精悍というよりは、荒んだ顔付きをしていた。
男たちはつまらない捨て台詞を吐いて、それ以上はかまうことなく散って行った。
『こういうのは、タイミングとハッタリなんだよ。出鼻を挫けばこっちのもんだ』
いつでも走り出せるように身構えたまま、警戒を解こうとしない将に、澤田は苦笑混じりに話しかけた。
『お前、ナニやってんだ? こんなことやってて、おもしろいか?』
『……アンタには関係ねぇだろ』
震えそうになるのを必死に堪える将に、澤田は、まあな、と、もう少しはっきり笑みを見せた。
『やることがないんなら、俺たちと働かないか? お前みたいなイキがったのを探してたんだ』
澤田は気が向いたら連絡しろと名刺を渡すと、あっさり去って行った。
もらった名刺は即座に捨てた。しかし、捨てきれない何かは残っていて、その後、同じ公園で何度か澤田の姿を見かけた将は、あるとき思い切って話しかけた。
『なんで俺なんだよ』
唐突に切り出され、澤田は少し驚いたように、自分より頭ひとつ小さい将を見た。将の真意を推し量ろうとするようでもあり、ただ単におもしろがっているようでもあった。
『やけに小さいのが、ひとりでツッパってるからさ。つい、茶々を入れたくなった。それだけだよ』
やがて澤田は、唇の端をクイッと持ち上げ、そう答えた。
『偶然だって言うのかよ』
『偶然だよ。当たり前じゃねぇか』
どうしてそんなことを尋ねられるのかわからない、澤田はそう言いたげに笑っていた。
確かに、あの夜、あの公園で澤田と将が出会ったのは、偶然だった。澤田が将を勧誘したのも、その場の思いつきだったのかもしれない。
だが、澤田は偶然出会うことになるずっと前から、将のことを知っていた。将の過去も、荒んだ暮らしも、何もかも。知っていて、それを悟らせずにいてくれた。知られたら、死ぬ。そう思い定めていた将のために。もう二度と、将から居場所を奪わないために。
――やめとけよ。クダらねぇ。
自分だって、つらかったときに。幸せの絶頂からどん底に突き落とされて、つらくて、苦しくて、ボロボロになっていた、まさにそのときに。
救おうとしてくれたのだ、この人は。そんな必要などどこにもない、赤の他人を。そのためにどれだけの犠牲が払われたのか、何も知らない、知ろうともしない、生意気で反抗的で扱いづらいクソ餓鬼を。「クダらねぇ」人生から引きずり出し、もう一度まっとうに生きる道を与えてくれた。
「ペットボトルの水。ほかに、なんかあったかな」
いま、自分が彼のためにできること。
あのときの恩返しにはならないけれど、それでも、何かをしたいから。
将は澤田の呼吸に合わせて浅く上下する毛布を眺めながら、椅子の上で膝を抱えた。




