(1)
このドアの前に立つと、いまだに少し、緊張する。
馨は軽くノックをし、聞き取りにくいが恐らくは「どうぞ」と言ったのだろう返事を聞いてから、そっと扉を開いた。
「あの、ごめん。いま、ちょっと、大丈夫?」
おずおずと声をかけると、ベッドの中からとろんとした眼差しが向けられる。
「どうした?」
そう問いかけるマスク越しの声は明らかに掠れていて、ただそれだけの発声すらいかにもつらそうだ。
やっぱりムリだよなぁ、困ったなぁ、どうしよう。
いまさらながらに逡巡していると、澤田が再び問うてきた。
「電話?」
馨は自分の手にある子機を見下ろし、うん、と頷く。澤田も頷き返すと、気怠げに上体を起き上がらせた。馨は慌ててそばにより、背中にクッションを差し入れる。そうして澤田の視線を辿り、サイドテーブルに置かれたボトルからコップに水を注いで手渡した。
澤田は軽く咳払いをし、水を飲む。それを何度かくり返して、ようやく子機を受け取り、保留音を解除した。
「すみません。お待たせしました」
先程よりは幾分マシだが、それでも、いつもの澤田の声ではない。
「いえ、大丈夫です。はい。変わりありません。いや。実は、ちょっとうたた寝していて。それでだと思います」
あ。澤田くん、お母さんにウソついたな。
そう思ってちらりと見遣ると、澤田はイタズラが見つかった子供みたいな顔で、苦笑した。そのまますいっと視線をドアに向けたのは、退出を促す合図だろう。馨はすなおに踵をめぐらせて、廊下に出ると、音を立てないようにそっと静かにドアを閉めた。
澤田が熱を出して寝込んでから、三日になる。珍しく「ちょっと休む」と自分から言い出し、これはおかしと察した和人が熱を計らせると、三九度を超えていた。
「イキナリここまで上がったわけじゃないよね? もっと前から熱があったのに、隠してたんだろ!」
ぶち切れた和人に詰め寄られ、澤田はすでに意識朦朧となりながらも、確かに何日か前から風邪気味ではあったが、体温は三七度程度だったのでたいしたことはないと思っていたのだというようなことを、律儀に答えた。
「『三七度程度』ってことは、七度越えてたんだよね? ほんとは八度近かったんでしょ?!」
「いや、そんなことは……」
「ゼッタイあるよ! だいたい澤田くんは人より平熱が低いんだから、七度越えただけでも充分キツかったはずだよね!」
「でもな、ふつう、その程度のことで仕事休んだりはしな……」
「『ふつう』とかはどうでもいいんだよ! 今は澤田くんの話をしてるんだから! 平熱が三六度六分の人の三七度と、平熱が三六度ない澤田くんの三七度じゃ、感じ方がぜんぜん違うのは当たり前だろ! ほかの人が平気だったとしても、澤田くんがムリしてそれに合わせる必要なんてどこにもないんだよ!」
というようなやり取りの後、和人の説教はしばらくつづいたが、澤田からの返答は間遠になっていき、小言を子守歌がわりにして、そのまま寝付いてしまったのだ。
今朝になってようやく、熱は三七度台まで下がってくれた。昼過ぎに計ったときも変わらなかったから、このまま引いてくれるのを願うばかりだ。
本日の看護人を任されている馨は、人気のないダイニングまで来たところで、ふと立ち止まる。
こういうとき、自分は何をしてもらっただろう。何が嬉しかっただろうか。
母親がわりの老婦人は、馨が風邪を引くと、いつも以上に甘やかせてくれた。アイスクリームをねだったり、蒸しパンを作ってもらったり、甘酒を飲ませてもらったり。思い出すのはそんなこと。
だがしかし、澤田は甘いものが好きではないし、アイスは昼食のかわりにすでに出した。桃の缶詰は断られたし、あと思いつくのは、これしかない。
「お茶でも淹れるか」
と言っても、家ではもちろん、ここでも自分でやったことはほとんどない。ちゃんと急須を使うのは澤田と広瀬くらいのもので、ほかはみな、ペットボトルのお茶を買ってくるからだ。
でも、「風邪のときは、温かい緑茶が一番ですよ」と言われたことはよく覚えている。砂糖たっぷりのミルク・ティーの方がいいのにな、と思いつつ、熱々の湯呑みをふうふう冷ましながら飲んだものだ。
澤田のところに持って行くなら、やっぱり、ペットボトルのお茶をレンジで温めるのではなく、ちゃんとやかんでお湯を沸かして淹れなければ。
そんな使命感にかられてキッチンへ行ったものの、まずは茶筒の保管場所を探すのに一苦労し、茶葉を急須にどれくらい入れたものかも大いに迷い、お湯を注いでからどれくらい待てばいいのかも見当がつかず、それでもどうにか淹れたお茶は、やけに色が濃いのが不穏な感じで、試しに一口飲んでみたらやっぱり渋くて閉口したが、それでもいちおう、澤田の湯呑みにそそぎ入れ、盆に載せた。
ダイニングとリビングの境に置かれた電話を確認すると、通話中のランプが消えている。
再び澤田の私室の前に行き、ノックをしてからドアを開けた。
「あのさ。お茶、淹れてみたんだけど……」
先程と同じ姿勢のまま、澤田がゆっくりと視線をこちらに向ける。
「悪いな。気を使わせて」
「使ってないよ…っていうよりも、俺、ほんと気が利かなくて、ごめんね」
「ん?」
澤田は先を促すように、首を傾げた。
「お母さんからの電話。取り次がない方がよかったよね。ちょっと散歩に出てるとかなんとか、誤魔化すんだった」
澤田の母は、退院の日以来、十日に一度ほどの頻度で事務所に電話をかけてくる。澤田はその都度、丁寧に礼儀正しく応対しているものの、元々無口な質だけに、あまり話はつづかない。本人としては精一杯努力しているらしいのだが、そもそも愛想のない人なので、どうにも素っ気ないこととなる。それでも、「母」というのは子供の声が聞けるだけで嬉しいものなのか、ほんの数分の短い会話をするために、遠慮がちながらも近況確認の電話がかかってくるのだ。
「居留守を使っても、また後からかけ直すことになるだけだ」
澤田はそっと笑って、首を振った。
「でも、具合が悪いの、お母さんにバレちゃったでしょ?」
この声を聞いたら、誰でも察しがつくだろう。澤田が余計な心配をかけまいと配慮しているのは知っているのに、台無しにしてしまった。
「電話に出なくても、それはそれで、ヘンだと思われただろ。それに、俺が何を言っても言わなくても、結局はぜんぶ見抜かれてる気もするしな」
変わりありません、問題ないです、大丈夫です。
いつ何を尋ねても、ほとんど代わり映えのしない返答に、「母」がしつこく問いを重ねたり、追求したりしてくることはない。しかし、けっして真に受けているわけではなく、薄々異変を感じ取っているのだろうな、という気配は伝わってくる。そして恐らく、広瀬か和人あたりが影ながらフォローして安心させてくれているんだろうことも、察しはついた。
「『みなさんによろしく』って、伝言を頼まれたよ」
澤田は照れくさそうにそう言って、手にしたままだった子機を差し出した。馨はそれを受け取るため、お盆をサイドテーブルの上に置く。
「起きてて大丈夫? クッションはずそうか」
「いや。もう少しだけ、こうしてる」
「そう? 疲れたら言ってね」
本当はもっと早く、電話を取り次いだときにこうするべきだったんだなと反省しつつ、椅子の背にかかっていたカーディガンを澤田の薄い肩に着せかける。
「ありがとな」
ふぅっと大儀そうな息をついて、澤田はクッションにカラダを沈めた。
なんだろう。
どこがどうというわけではないが、自分たち三人の前で倒れて以来、澤田は少し、変わった気がする。そうなってはじめて気付いたのだが、ピンと張り詰めていたのが和らいだというか、気負っていた何かが取り除かれたというか、分厚い障壁の向こうがちらりと透けて見えたというか。ほんの少しだけ、距離が縮んだように感じるのだ。高熱でぼーっとしているせいか、今はそれがよりハッキリ表面にあらわれている。
「お茶、もらおうか」
掠れた声はつらそうなのに、カーテン越しのやわらかな日溜まりの中から馨を見上げる眼差しは、ひどく優しい。
「はい」
なんとはなく気恥ずかしいようで、視線を合わせないまま湯呑みを手渡すと、すらりと伸びた長い指が、慎重にそれを包み込んだ。澤田は温もりを確かめるようにしばらくそうしていてから、ゆっくりとお茶を口に含む。
「正直、あんまりおいしくないよね。渋いでしょ」
「いや。そんなことない。うまいよ」
「ムリしなくていいよ」
「してないよ。熱で味覚がおかしくなってるから、これくらい濃い方がいいんだ」
澤田くんは愛想はないけど気遣いの人だから、どこまでほんとかわかりにくいんだよな、と用心しつつも、内心やっぱり、安堵する。そのまま椅子を引き寄せ腰掛けると、澤田がわずかに眉を顰めた。
「あんまり側にいない方がいい。風邪がうつるぞ」
うん、と頷きつつも動こうとしない馨に、澤田の視線が深くなる。
――やっぱり、ぜんぜん変わってないんだな、この人は。
言葉にされない意図や思いを、澤田はこうして読み取ろうとする。強い光を湛える切れ長な双眸に射竦められると、嘘や欺瞞や、取り繕っていた感情のすべてを見透かされてしまいそうで、たまらなく恐ろしかった。
「澤田くんとはじめて話したのも、この部屋だったね」
馨は床に視線を落とし、そっと囁く。
初対面は、その数日前。本社の会議室でだった。
居並ぶ重役連の端に連なる澤田は、大学生の馨から見ればもちろん充分に大人だったが、それでもひとりだけ飛び抜けて若く、居心地悪そうに俯き加減で座っていた。
『彼が直属の上司ということになる、澤田くんだ』
そう紹介されて、頷くような会釈を送ってよこしたほかは、楕円状に並べられたテーブルの向かいに座る馨をろくに見ようともせず、馨の方でも気後れしてしまって、まともに澤田の顔を見ることができないまま、面談は終わった。そうして後日、この事務所にやってくると、ほかの面々との顔合わせののち、この部屋に呼ばれたのだ。
スーツではなく、ラフな普段着で馨を出迎えた澤田は、本社で会ったときよりもさらに若く見えた。愛想のなさにも拍車がかかって、簡単な決まりごと――まずは学業優先、必ず卒業すること。仕事が入っていないときは、いつ来ても来なくてもまったくの自由。ただし、常に連絡が取れるようにしておくこと。事務所内では好きにしていてかまわないが、澤田の私室であるこの部屋だけは、出入り禁止――などを淡々と告げただけで、突き放すかのように素っ気なく、退出を促された。
馨が澤田のもとで働きたいと願ったのは、「なんでも屋」をやるためではない。というよりも、ここに来るまで、澤田が「なんでも屋」になっていることを知らなかった。澤田たちのチームが担っていたのは、もっと違う性質の仕事だったはずなのだ。
そのことを問いただそうとする馨の口を、澤田は半ば脅すようにして、強引に封じた。
彼らの過去に、触れてはならない。
それもまた、有無をいわさず約束事に加えられたのだった。
「怖かったな、あのときの澤田くん」
でも、それだけではなく。
ふっと表情を和らげ、恐らくは不安と疑問ではちきれそうになっていたであろう馨の髪をクシャリと撫でて、澤田は静かに言ったのだ。
――よろしくな。お前なら、うまくやっていけるよ。
その声も表情も、じわりと染みるように優しくて、胸を突かれた。あの、低く艶やかな声の深い響きも、唇の端にそっと浮かんだやわらかな笑みも、馨の脳裏に刻まれている。
あれが、本来の姿なのだと思う。
愛想はないが、穏やかで、懐が深くて、情に篤い人。
それが、こんな孤独な人間になってしまったのは、自分のせいだ。自分と関わってしまったばかりに、澤田は歪められてしまった。明るさをなくし、笑いを忘れ、希望を失い、憂愁のうちに囚われた。自分が、「澤田智行」という人物を求めたばかりに。
「ごめんね、澤田くん」
なんの関係もない諍いに、巻き込んでしまってごめんなさい。
澤田には届かないであろうことを知りながら、それでも言わずにはいられなかった。こんなことになる前から、伝えなければと思っていたから。すべては自分のせいなのだと、愚かで無力な自分のせいだったのだと、懺悔しなければならないのだから。
秋の日は釣瓶落とし。
いつしか射し込む夕日が赤みを帯び、加湿器の音だけが室内に静かに響いている。
手にした湯呑みを大事そうに撫でながら、澤田が掠れた声で小さく言った。
「どうしてだろうな」
「え?」
「どうしてみんな、俺に謝るんだろう」
「それは……」
「謝らなきゃならないのは、俺の方だろう」
澤田は湯呑みから視線を上げて、馨を見る。
「ごめんな。何も思い出せなくて」
何もわかってやれなくて。
馨が何かを抱え込んでいるのはわかるのに、力になってやることはできない。
創業家の跡取り息子だという青年。まさに「眉目秀麗」といった顔立ちをして、いかにも育ちの良さそうな雰囲気を身にまとい、おっとりとした笑みで周囲を和ます。
そんな彼が、暗い眼をして俯いている。背負った重荷に押し潰されそうに、華奢な背中が丸まっている。
手を差し伸べたいのに、届かない。馨の苦悩の理由も原因もわからなくて、どうしてやることができるだろう。
「ごめん、俺、そんなつもりじゃなくって」
澤田くんを困らせるために、こんな話をしたんじゃない。
二人きりになるのなんて退院してきてからはじめてで、熱で弱っている澤田くんはほんの少しだけいつもより話しかけやすい雰囲気で、それでつい、言わなくてもいいこと、言わない方がよかったことを、言ってしまった。
「もう横になった方がいいよ、澤田くん。また熱がぶり返したりしたら、俺が和人くんに絞められる」
馨は徐に立ち上がると、あまり中身の減っていない湯呑みを受け取り、サイドテーブルに置いた。澤田が特に逆らわないところをみると、やはり、起きているのがつらくなってきたのだろう。カーディガンとクッションを脇にどかし、横たわるのに手を貸して、枕や布団を整える間、馨は澤田の顔を見られなかった。
「何か欲しいものない?」
「ああ」
「それじゃ、俺はあっちにいるから。何かあったら、すぐ呼んでね」
肩まで毛布にくるまって、うん、と頷く澤田に、馨もこくりと頷き返す。そうしてそのまま部屋を出ようとドアを半分開けたところで、呼び止められた。
「馨」
少し掠れ気味ではあるけれど、低くて深い、静かな声音。
澤田は、ただ一言でその場の空気を変える力を持っている。
澤田が「なあ」と声をかけた途端、のんびりしていたムードが引き締まり、「お仕事モード」に切り替わる。いい年齢をした野郎どものバカ騒ぎを、読みかけの新聞から目も上げず、「おい」と短く言っただけで鎮めてしまう。声を荒げるでもなく、怒気を発するでもなく、むしろそこにいたことすら気付かないくらい、ひっそりとしたままで。
口数の少ない澤田の発する言葉には、重みがある。名前を呼ぶ、というのは、その最たるものだ。
澤田に己が名を呼ばれたら、立ち止まらざるをえない。
馨がゆっくりと振り返ると、まともに視線がぶつかった。すべてを見透そうとするかのように、少し伸びすぎた前髪の向こうから、まっすぐな眼差しが向けられている。
そうして澤田は、低く掠れた声で、静かに告げた。
「きっと、お前が謝るようなことじゃない」
質量の感じられそうな強い視線は少しも揺るがず、馨にひたと当てられている。
馨は、自分の頬がピクリとするのを感じた。
こういうとき、自分はいつも、「そうじゃない」方を選んでしまう。いつもいつも、同じ過ちをくり返す。間違っているとわかっているのに、そちらに引きずられてしまうのをどうにもできない。
「……なにも覚えてないくせに」
まるで唇が引き攣れたかのように、醜い笑みが浮かんでいくのが自分でわかる。
なによりも澤田を傷つける言葉。自分を救おうとしてくれている人を、突き放し、溺れさせようとする、最低の一語。
もうひとりの自分が、自分を責める。
誰かいてくれたらよかったのに。将に殴られ、和人に詰られ、「ごめんなさい」と謝りたいのに、それができない。
澤田がグッと奥歯を噛むのが見て取れた。キツく唇を引き結び、呼吸を整えるようにしてから、先程よりもさらに低い声で、静かに言う。
「それでも、だ」
澤田は眼差しだけで頷いて、最後の気力を振り絞るかのように、掠れた声で囁いた。
「お前は、謝らなくていい」
馨は視線を足下に落とし、拳を握る。
きっと、澤田くんなら、そう言ってくれただろう。
お前は悪くない。謝るな。
澤田くんなら、きっと。
「……向こうに、いるから」
でもね、澤田くん。
澤田くんは、知らないんだ。覚えてないんじゃなくて、はじめから知らないんだよ。
馨はそのまま背中を向けて、扉の向こうに姿を消した。




