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春を待つ日々  作者: 苅野しのぶ
実りの秋(とき)
17/34

(7)

 もしかしたら、と思っていた。

 玄関前で足音が止まり、三人が帰るときにかけていった鍵が、カチャリとまわる音がする。

「おつかれ」

 あらわれた広瀬に声をかけると、そこにいるとは思わなかったのか、ハッとしたような顔をした。

「ああ、うん」

 広瀬は曖昧に頷いて、ダイニングテーブルに歩み寄る。

「外から明かりが見えたからさ。こんな時間に起きてるの、珍しいだろ」

 そうか。

 広瀬が来るような気がして起きていたのだが、向こうからすると、明かりがついているのが不審で覗いてみたというわけだ。

「眠れない?」

「……いや」

 まもなく日付が変わろうとする時間帯。

 普段も室内の照明こそ落としているものの、眠っているわけではない。が、それはそれでバレたら苦言のひとつも呈されそうなので、伏せておく。

 広瀬は重たげなバッグを椅子に置くと、キッチンへと視線を移した。

「お茶でも淹れようか」

「ああ」

 立ち上がろうと肘掛けを掴んだところで、制される。

「淹れてくるから、座ってて」

「……うん」

 今日も一日こんな時間まで働いていた広瀬ではなく、ぶらぶらと遊び暮らしているこちらがお茶のひとつも用意するのが当然だ。しかし、昼間の出来事は、すでに広瀬の耳に入っているはずだった。あの場にいなかった二人には黙っていて欲しいと頼んだものの、「広瀬くんには報告しないわけにはいかないよ」と断られたのだ。

「向こうに隠し事しないで欲しいと思ったら、こっちも秘密はなしでいかないと」

 そう言われてしまうと、従うしかない。

 広瀬はすべてを知った上で、「座ってろ」と言っているのだ。逆らうだけ無駄だろう。

 やかんに注がれる水の音。コンロがポッと点火する気配。茶器の重なり合う響き。

 しんと静まり返ったダイニングに、かすかな物音が聞こえてくる。ここだけぽつんと灯ったオレンジ色の明かりの下で、骨張って干からびたような役立たずの手を、じっと見つめた。あまりにも無力で、無様で、無用な存在である自分そのもので、置かれた現実を思い知らされる。

「はい」

 広瀬はマグカップとともに、ビスケットとチョコレートを乗せた小皿をテーブルに置いた。

「どうせ夕飯もろくろく食べてないんだろ」

「わかってはいるんだが、どうしても、ノドを通らなくて」

 今もまた、食べ物を目にした途端、胃が拒否反応を示している。どうしてこうなってしまうのか、わからない。わからないが、とにかく「イヤだ」とカラダが言うのだ。

「ウマいのになぁ、これ」

 広瀬は無理強いしようとはしなかった。かわりに自分でビスケットを摘み、サバサバと言う。

「和人から、メールが来たよ」

「なんだって?」

「澤田くんはかなり落ち込んでるから、叱らないであげて、だってさ」

「もう叱られたよ、その和人に」

「だと思った」

 広瀬は笑って、次のビスケットに手を伸ばす。

「和人はあれでも、随分ガマンしてるんだよ。あんまりプレッシャーかけたら、ストレスで逆効果になるんじゃないかって」

「ああ」

 言いたいことはたくさんあるのに、抑えている。堪えきれずに言ってしまった後には、言い過ぎたのではないかと悔やんでいる。そういう気遣いは、常に感じていた。

 今だって、落ち込んでいる、という自覚はなかった。それでも和人がわざわざメールしてまで広瀬に伝えたのは、端からはそう見えるからか、それとも自分だったら落ち込むだろう、それなら彼もと、気を働かせてくれたのか。

「本当に落ち込んでるのは、俺じゃないよな」

 少なくとも、自分だけ、ということはない。

「どういうこと?」

「ガッカリさせただろ、お前たちみんな」

 どんどんよくなっていくかと思ったのに、そうじゃなかった。まさに一進一退。もしかしたら、一歩進んで二歩下がっているのかもしれない。退院してひと月あまりが経つというのに、いつになっても半病人の状態から抜け出せないのでは、落胆するのも当然だ。

「もしかして、それが理由?」

「え?」

「俺たちをガッカリさせたんじゃないかと思って、それで落ち込んでたの?」

「……いや。そうじゃない。そんなんじゃない。自分で自分に、失望しただけだ」

「ふーん」

 広瀬はまったく信じていない顔つきで、素っ気なくマグカップを指し示す。

「せめて、お茶だけでも飲みなよ。胃が空っぽなのは、よくないだろ」

「うん」

 カップの中には、ちょっと変わった匂いのミルク・ティーが注がれていた。

「……甘い」

「少しハチミツを入れたから。カモミールには鎮静作用があるんだよ。眠れるようにと思ってさ」

 いちおう用意はしたものの、どうせビスケットにもチョコレートにも手をつけないだろうと見越した上で、牛乳とハチミツ入りの栄養価の高い飲み物にしたわけだ。

「ほんとはホットミルクにしたかったんだけど、温かい牛乳、キライだろ?」

「よく知ってるな」

 冷やした牛乳なら問題ないが、温められると匂いが気になって飲めなくなる。クリームシチューなんかもちょっと苦手だ。しかし、そんなことを誰かに話した覚えはないし、そもそも自分でも言われるまで忘れていた。

 広瀬はマグカップの影でそっと笑って、静かに告げる。

「長い付き合いだからね」

 ふわりとやわらかな声が、広いダイニングテーブルの端と端に座る二人の間に、優しく浮かんで、消えていった。

 なぜだろう。

 その瞬間、何か熱いものが迫り上げてきて、どうしようもなく胸が締め付けられた。

「……俺は」

「澤田?」

「本当に、俺……」

 同期入社なのだという。共同生活をし、チームを組んでともに働き、その後いっしょに新しく仕事をはじめたのだと。

 なのに、何も覚えていないのだ。

 記憶を失うということは、自分ひとりの問題ではない。相手の過去をすべて否定し、共有した思いや感情、何もかもを消し去ってしまう。

 かつての自分は、広瀬が自分を知るように、この男を理解していたのだろう。分かり合い、信頼し、ともに立たんと思える相手だった。

 そういう人間を、自分は広瀬から奪ってしまった。この世から葬り去ってしまったのだ。

「…………っ」

 テーブルに叩きつけようと振り上げた右の拳は、その寸前で広瀬に掴まれ、阻まれた。

「苦労して繋ぎ合わせた骨を、自分で砕くバカがあるか」

 それこそもう一度折られそうな力で掴まれて、テーブルの上に戻される。

「あのねぇ」

 骨張った右手首を握ったまま、背後に立った広瀬が、左の肩をそっと掴んだ。

「自分ではわからないかもしれないけど、澤田はぜんぜん、変わってないよ」

 そうして、溜め息がひとつ。

「むしろ、せっかくだから少しは変わればいいのにと思うところも、そのまんまだから」

 薄く笑う気配がして、肩をそっと叩かれる。

「もういいよ、そのままで。大事なことは、俺たちがみんな覚えてるから。澤田はいてくれるだけでいいんだよ」

 そんなわけがない。それでいいはずがない。

 俯いたまま、ふるふると首を横に振ると、再び強く肩を掴まれた。

「いいんだって、本当に。少しは俺たちを信じろよ」

 そうじゃない。信じてないわけじゃない。そうじゃなくて、俺は俺が許せないんだ。

 そう言いたいのに、声が出せない。何か一言でも口にしたら――。

「そうやって、他人のために泣くんだよな、澤田は」

 広瀬の重みが、背中にかかる。

「いっつもそう。泣くのも落ち込むのも、ほかの誰かのためなんだ」

 苦笑まじりの溜め息が、またひとつ。

「まあ、いいよ。泣けないよりは、泣いた方がずっといい。そうして少しは楽になって、なんにも考えずにゆっくり眠って、それから、そうだな。やっぱり、澤田はここにいてくれれば、それでいい」

 広瀬はもう一度力をこめてから、掴んでいた手をそっと離した。

 声を殺してはいるものの、静寂が訪れると、不自然な息遣いが耳につく。

 広瀬はお茶を飲み干して、使った食器をカチャカチャいわせて重ね合わせ、キッチンに姿を消した。たいした量の洗い物があるでもないのになかなか戻ってこないのは、気を使ってくれているのだろう。もしかしたら、明日の朝食の下拵えをしているのかもしれない。

 自分の情けなさに、顔を上げることができなかった。何もかもが情けなくて、腹立たしくて、やり切れない。

 それでもいつしか呼吸は落ち着いて、頬も乾き、どうにか普通に話せそうになってからしばらくして、広瀬は水の入ったボトルを片手に何食わぬ顔をしてあらわれた。

「俺、もう少し仕事してから帰るから」

 嗄れたようなおかしな声で、「ああ」と肯う。

「病院で薬もらってるんだろ? 一度も飲んでないのは知ってるけどさ、そういうのに頼るのは好きじゃないってのもわかってるけどさ、どうしても眠れそうになかったら、今夜くらいは飲んでみなよ」

「うん」

「で、何かあったらすぐ電話する。わかった?」

 手渡された水を受け取り、頷いてみせる。

「それじゃ、おやすみ」

「ああ」

 すっかり強ばってしまった筋肉を軋ませながら、ゆっくりと立ち上がった。右手に水。左手に杖。

 広瀬に見守られながら、慎重な足取りで廊下に向かう。

 本当は、こんな時間に事務所に残る必要などないのだろう。心配して、眠りにつくまで見届ける気なのだと思う。

 広瀬というのは、そういう男だ。それは、はじめから知っていた気がする。

 「澤田」の右腕だという男。現在は、彼が実質的にこの事務所を動かしている。シフトを組んで、仕事を割り振り、指示を出して、報告を受けて。朝から晩までよく働き、それとは別に、何かひとりで動いている気配もある。つねに冷静で、有能で、仲間たちからの信頼も厚い。優しげな風貌のままに穏やかだが、けっこう辛辣なところもある。「澤田くんにだけだよ」ということだが、かつての相棒のあまりの不甲斐なさを思えば、それもムリはない。

 自分には、広瀬がいる。広瀬の「澤田」はどこにもいないのに、広瀬はちゃんと、ここにいる。

 そんなことが、許されていいはずがない。

 3LDKのさして広くもないマンションの一室、ダイニングから寝室までどれほどの距離があるでもないが、これ以上、広瀬の前で無様な姿はさらせない。そう自分に言い聞かせ、一歩一歩、慎重に足を運んでいった。


 澤田の私室のドアがかちゃりと開き、何事もなくパタンと閉まる。

 広瀬はいつの間にか詰めていた息を、ふうっと吐いた。

 あのどうしようもなく頑固で強情で意地っ張りの男には、きっと、届いていない。どんなに言葉を尽くしても、どんなに本気で向き合っても、自分を許すことを知らない者の耳には、響いてくれない。

 もっと酷い状態だったときを散々見てきたが、今夜ほど憔悴した澤田を見るのははじめてだ。まさに尾羽打ち枯らしたように悄然として、ひとまわりもふたまわりも小さく見えた。

 澤田は、よくやっていると思う。ついこれまで通りの調子でつけつけと遠慮のない物言いをしてしまうが、すでに十二分以上に努力をし、成果を出しているのだ、あの男は。相当キツいはずなのに、よく耐えている。もっと荒れてもすさんでもおかしくないのに、自分を律し、保っている。

 だからこそ、そういう澤田を丸ごと受け止め、甘えさせられる誰かがいてくれたらと、そう願わずにはいられない。

 そして、思いは当然、ここに繋がっていく。


 ――もしも彼女が、生きていたら。


「でも、きっとダメだよね。そういうタイプじゃないもんな、(あきら)は」

 カバンから取り出したファイルに向かい、そっと囁く。

 美しい女だった。楚々としながら華もあり、誰が見ても美しく、自分でもそれを弁えている女。澤田を虜にして、翻弄し、思うがままに操っていた。

 いや、そうではない。正確には、それだけではない。

 澤田は彼女に惹かれ、恋をしながら、彼女の抱える闇を見ていた。彼女の思いはほかにあると気付きつつ、それでも彼女を受け入れ、愛そうとしていた。仕掛けられた恋だと悟った上で、偽りを真実に変えようとしていたのかもしれない。

 澤田と彼女の関係は、見た目ほど単純なものではなかった。彼女が掌の上で澤田を転がしているようでいて、そういう彼女を、一歩離れたところから見守る澤田がいた。二人の間には、一種の緊張感が常にあったといってもいい。

 面倒くさい男と、厄介な女。あれはあれで、似合いの二人だったというわけだ。

 だが、今の澤田に必要なのは、彼女ではない。打算や駆け引きなしに、澤田を愛し、求める者。

 そこで目交に浮かんだもうひとつの面影を、広瀬は即座に打ち消した。

 今回のことで救いがあるとすれば、澤田が過去の呪縛から解き放たれたことなのだ。澤田は自分に婚約者がいたことも、その人の身に起こったことも、何一つ覚えていない。それならそれで、よいではないか。澤田はもう充分に苦しんだのだ、理由はどうあれそこから逃れることができたのなら、喜ばしいと言うほかない。その思いは共通しているものとみえて、示し合わせたわけでもないのに、誰ひとりとして彼女たちの話を口にしようとしなかった。澤田の耳に入れてはならないと、意識的に避けているのだ。

 それは、彼女にとっても同じことだろう。

 過去など忘れて、幸せになってもらいたい。もう二度と逢えないのだとしても、どこかで誰かと心穏やかな日々を過ごしていてくれるのなら、それでいい。

 いまさらここに呼び戻して、なんになる。それで澤田の記憶が甦ったとしても、みんなが不幸になるだけだ。

 過去の事件と、今回の事故と、いまだに接点は見つからない。もうそろそろ、「不幸な偶然」だと認めてもいい頃合いだ。たとえそうでなかったとしても、真実を暴くことが最良だとはかぎらないのならば、なおさらだ。

 もういいだろう。

 過去に囚われ今が見えていないのは、自分の方かもしれない。


 五年前、なんの前触れもなく突然歩道に乗り上げ突っ込んできた乗用車が、ひとりの女性を跳ね飛ばし、もうひとりを押し潰した。

 加害者は社内の人間で、跳ねられた彼女と一時期同じ部署にいたことから、彼女に対する個人的な怨恨による犯行であり、澤田の婚約者はその巻き添えとなったのではないか。そんな憶測が瞬く間に広がった。加害者は即死だったため、真相は永遠に闇の中。あとにはあやふやな疑惑だけが残された。

 彼女たち二人がチームの一員であり、密かにある任務を帯びていたことを知る者は、かぎりなくゼロに近い。それでいて、もしかしたらことの本質を的確についているのではないかと思われる噂が取り沙汰されたのは、どうしようもない皮肉だった。

 それから三年、澤田の婚約者は生きつづけた。

 「植物人間」、あるいは「生ける屍」として。

 そして、ある日突然、生きていることをやめてしまった。

 病室に駆けつけたとき、ベッドを取り囲む医療機器の輪の中に、彼女がひとり、立っていた。呆然と、ベッドに横たわる人を見つめて。禍々しいほどに美しい、彼らの「眠り姫」に魅入られたかのように。

 なぜ、どうして。

 彼女がその場にいた理由も、まさにそのとき、ひとつの命が生を刻むのを終えた原因も、わからない。

 医者は、こちらのミスではない。ここまで保ったことが奇跡であり、こういうことがいつ起こっても不思議はない状態だった。あくまでも自然死なのだから、事を荒立てないのが一番だ。そういう趣旨のことを言い、幕引きをはかった。

 澤田は、逆らわなかった。もうすでに、そんな気力は尽きてしまっているのが、傍目にも明らかだった。

 澤田は事務手続きを淡々と進め、しめやかに彼女の葬儀を執り行った。早くに離婚し、それぞれ新たな家族を築いていた彼女の両親とは、けっきょく連絡がつかないままとなった。本当に、澤田ひとりの肩にすべての責任が課せられていた。

 事故の元凶ではないかと目され、終わりのないはずだった「眠り姫」の最期に居合わせた彼女を、澤田が責めたことは一度もない。彼女のせいなどではないことは、誰よりもよくわかっていたのだと思う。

 けれど、まるで仲のよい兄弟のようだった二人の関係は、あの事故によって失われたまま、ついに元には戻らなかった。

 責める者などひとりもなかったが、誰に責められずとも自分を責めて責めて責め抜くことしかできない彼女を、どうしたら救えるのか。

 本人が放棄したその問いの答えを探したのは、広瀬たちだった。何が彼女にとって最善なのか、誰にも正解がわからない中、ただひとつ「距離を置くべき」という意見だけが一致した。存在するだけで互いを傷つけてしまう澤田と彼女を、引き離す。深く関わり合った自分たちも、彼女の目の前から姿を消す。そのためにはどうすればいいのか、具体的な解決策を提示したのは、馨だった。

 そうして彼女は、行ったのだ。海の向こうへ。自分たちとは無縁の世界へ。

 あれから二年。

 幸せになっていて欲しい。見知らぬ場所で、見知らぬ誰かと。

 それが、ただひとつの願いだ。


「……おっと」

 ポケットの中で、携帯が震えた。

 メールの送り主は津村で、件名はなく、本文に「なんかあった?」とだけ書かれている。

 時計を見ると、午前一時を過ぎていた。どうやら本人は二階にいるらしく、広瀬がいつまでも事務所から上がってこないのを、不審に思ってメールしたらしい。澤田に何かあったのではと、心配なのだろう。

 『書類整理してただけ。もう戻って寝る』

 すぐに返信し、結局開かなかったファイルをバッグに片づけた。

 澤田の部屋は静まり返ったままで、ちゃんと眠れたのかどうかまでは確かめようがないものの、異常はなさそうだ。


 ――どうしよう、広瀬くん。澤田くんが、澤田くんを、俺……!


 手術室前の薄暗い廊下で、頭を抱えるようにして蹲っていた津村。どうしよう、どうしようとくり返しながら、広瀬の足に縋りついて慟哭した。

 澤田は、バカだ。

 広瀬だったら、あんな助け方はしない。もちろん何にかえても救ってみせるが、津村にも骨のひとつや二つは折ってもらう。あれだけの大事故だ、それくらいはやむをえまい。

 しかし澤田は、自分のすべてをなげうって、完璧なまでに津村を守った。その結果、確かに津村の肉体は傷つかなかったが、心は今にも壊れんばかりに押し潰された。それがどんなに残酷なことか、澤田にだってわからないわけではないだろう。しかし、何度あの場面をやり直したとしても、同じように津村を守るのだ、あの男は。そうせずにはいられないのだ。

「バカなヤツ」

 ほんと大バカものだ、どいつもこいつも。そんなヤツらに付き合っている、自分自身も。


 ――お前には、苦労ばっかかけてるよなぁ。


 あの日、どうして澤田はあんなことを言ったのだろう。

 『このヤマ片付いたら、なんかウマいもん食いに行こう。奢ってやるよ』

 『なんだよそれ。「死亡フラグ」?』

 『バーカ。どっかいい店探しておけよ』

 当たり前に笑っていたのだ、あの数時間後に澤田が澤田でなくなってしまうとも知らないで。ヘーキで笑っていたのだ、自分も澤田も。浅はかに、能天気に、怖いもの知らずに。

 『なになに、なんの話? 俺も入れてよ!』

 そうして、津村も笑っていた。元気に、無邪気に、屈託なく。

 澤田と津村、どちらのためにも、あの笑顔を取り戻す必要がある。津村が自分を責めつづけるかぎり、澤田は記憶を取り戻せない自分を許さない。そうして澤田がもがけばもがくほど、津村は傷つき病んでいく。

 このままでは、津村は彼女の二の舞になってしまう。しかし、そうはさせない。ゼッタイに。


「ほんと、苦労かけられっぱなしだよ、俺は」

 広瀬は「よっこらしょ」と立ち上がると、薄暗い廊下をちらりと見遣り、重たいバッグを持ち上げた。自分の部屋に戻り、シャワーを浴びて、寝たと思ったらもう朝だ。まあ、何事もなく朝を迎えられれば、それだけで御の字なわけではあるが。

 『ほんとにねぇ、タイヘンだったんだよ、澤田くん。やっぱり、相当ムリしてるんだよね、あの人』

 澤田に聞かれないように、こっそり外から電話をかけてきた和人の声は、しょんぼりしていた。

 全身の筋肉が一度に攣るという状態をうまく想像できないのだが、あの澤田が堪えきれずに助けを求めたというのだから、かなりなものなのだろう。本人が心身ともに疲弊しているのはともかくとして、その場にいた三人がそれぞれショックを受けているらしいことからも、衝撃の大きさが窺われようというものだ。そこに津村が居合わせなかったのが、不幸中の幸いだったというしかない。

 ムリをするなと言ったところで、聞く耳をもつ相手ではないが、それでもさすがに少しは懲りて、幾分かでも自重してくれればいいのだが。

 焦りは禁物。

 熟した果実が自然と枝を離れるように、そのときがくれば、自ずとよりよい結果がもたらされる。

 そう信じ、どんと構えて待つしかないではないか。

 半分は強情で面倒くさくて扱いにくい男に向けて、もう半分は、自分自身に向けて言い聞かせ、広瀬は事務所をあとにした。




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