(6)
それからの日々は、これまで以上に用心を重ねていた、つもりだった。
「とにかく無理は禁物です」
と、集中治療室にいた頃から担当してくれていた理学療法士に、釘を差されたからでもある。
「今だから言いますけどね。正直なところ、ここまで回復するとは思っていませんでした」
「そうなんですか?」
大丈夫、ちゃんと元の生活に戻れますから、一緒にガンバりましょう!
そう励ましてくれていたではないかと、同年輩の凄腕療法士の顔をちらりと見遣る。
「だって、あれだけの怪我だったんですよ? 気力をなくしたら終わりですから、こっちも必死にモチベーション上げてきますけどね。そもそも運ばれてきたときは生きてるのが奇跡みたいな状態でしたし、自力で呼吸して、話すことができるってわかったときは、驚愕でしたよ」
「はは……」
誰彼となくくり返し聞かされてきたことではあるが、改めて真顔で言われると、笑うしかない。
「運が良かった部分も、もちろんあります。澤田さんはまだ若いし、回復力が早いというのもある。でも、それだけじゃないのは、僕らが一番わかってますから」
明るく朗らかで誠実な、担当チームの頼れるリーダーがいつになく真剣な顔で言う。
「こちらの目標以上に、努力しましたよね、澤田さん。痛くてもキツくてもツラくても、絶対に弱音を吐かなかった。なかなか上達しないときでも、投げ出さずにガンバった。長い入院生活で、体力も落ちてるし気持ちも沈む。そういう中でコツコツと人の何倍も努力してきたのを、僕らはずっと、見てましたから」
気さくだし感じもいいが、普段は専門的なことのほかはほとんど話さない、職人肌の療法士の思いがけない長口上に、戸惑った。自分は自分にできる唯一のことをしたまでで、なんとも返事のしようがない。
「……俺は、アイツらを裏切れないから」
浮かんできたのは、それだけだった。
そんな義務はまったくないのに、献身的に支えつづけてくれる五人に、応えないわけにはいかない。今日の一歩が、明日の一歩にきっと繋がる。そう信じて、足を運びつづけることしかできないではないか。
理学療法士は、小さく何度か頷いて、宥めるような笑みを浮かべた。
「よく言うじゃないんですか。『自分で自分を誉めてあげる』。あれですよ、澤田さん」
思わず眉を顰めると、療法士はおもしろそうな顔をする。
「やっぱり、好きじゃないんですね、そういうの」
「好きじゃないっていうか……」
「おかしいな。澤田さんは、あんなに誉め上手なのに」
「え?」
「僕らのこと、いつも誉めてくれるじゃないですか。だから、やたらと張り切っちゃうんですよ、澤田さんの担当のときは」
医師、看護師、理学療法士、作業療法士、言語聴覚士からなるチームは、常に複数の患者を抱えている。疾患も心理状態も人それぞれ、前向きにリハビリに取り組む患者もいれば、そうはなれない患者もいる。どういう場合であっても仕事のしがいはあるし、特定のひとりを特別扱いすることはもちろんないが、自然と入ってしまうスイッチは、切るに切れない。
「いくつになっても、嬉しいもんですよね、誉められるのって。うちのスタッフは若いのも多いから、うまく乗せられてその気になったり、自信をつけてもらったり、おかげで効果抜群なんです」
「そんなつもりは、ないんですけど……」
「うん、そうなんでしょうね。狙ってやってるんだとは思いませんよ。澤田さんは、そういう人なんだ。相手のいいところをみつけて、伝えてくれる。わかる気がしますよ。和人くんたちが、澤田さんを慕う理由」
今度こそ言葉に窮して、視線を逸らした。
そんな大層なものじゃない。親切にしてもらった。あり得ないくらいによくしてもらった。こちらが一方的に恩を被っているだけのことなのだ。
「なんでそんな顔をするんですか」
よほど情けない表情をしていたのだろう、理学療法士は大きく笑って、再び言った。
「ちゃんと、自分のことも誉めてあげてください。本当によくガンバってきたんですから」
そうはいっても、今もまだ、左手の杖は手放せない。すべての動きがぎこちないし、何をするにも時間がかかる。改善する余地は大ありなのだ。
「もちろん、これからも一緒にガンバりましょう。でもね、オーバーワークは逆効果ですから。『過ぎたるは及ばざるがごとし』ってヤツですよ」
「……はい」
そういうわけで、密かに行っていた自主練はペースダウンし、休息の時間を増やすようにした。そうはいっても、多少キツくなければトレーニングとはいえず、どこまで自分を甘やかしてよいかの匙加減も難しくて、模索しているところはあった。
そして、その日。
なにやら賑やかだと思ったら、将と和人、馨の三人が、ダイニングテーブルに雑誌やチラシを広げていた。馨が家庭教師をしている中学生を、「課外学習」に連れ出そうということらしい。
「高尾山に紅葉狩りなんてどうかと思って」
「なんか、ジジむさくない?」
「ぜんぜん! いま人気なんだよ、高尾山。歴史の勉強にもなるしさ」
「辛気くせーよ。どうせ狩るなら、食いもんだろ」
「いいねー!」
「いきなりジビエ? それはハードル上げ過ぎでしょ」
「桃とか梨とか、そーゆーのだよ!」
「ああ、観光農園ね。今の時期だと、何があるのかな」
そんなことを言い合いながら、旅行代理店のパンフレットやガイドブックを取っ替え引っ替え眺めている。
と、そのうちの一枚が、テーブルの端からふわりと音もなく滑り落ちた。話に夢中の三人は、気づいていない。
ちょうど足下で止まったそれを、拾い上げようと身を屈める。右手を伸ばし、中指の先が光沢のある紙に触れようとしたとき、不意に小指と薬指が引き攣れる感じがした。本格的に攣らないうちにと、右手の平を足に押しつけ、指を伸ばす。そのとき、中途半端に前屈みになっていたせいか、右の脇腹にも攣りそうな気配が起こり、急ぎ姿勢を戻して伸ばそうとしたところ、今度は背中の左側の筋肉が反乱を起こした。
「澤田くん?」
不自然な体勢で固まっているのを見咎めて、和人が席を立って近づいてくる。
「……右手を、引っ張ってくれないか」
まずはそこから、なんとかしよう。指の痙攣をといて、肩から持ち上げるように引いてもらえば、腹筋と背筋を同時に伸ばすこともできるのではないか。
「右手って、こう?」
太股に置いていた手を和人に取られた瞬間、わずかに崩れたバランスを保とうと、反射的にカラダに力が入った。
「く……っ」
全身の筋肉が、一瞬にして引き攣れる。支えにしていた左腕に比重がかかりすぎ、堪えきれずに杖が滑った。
「ちょ……っ」
「澤田くん?!」
派手な音を立てて床に倒れ伏すのと同時に、将と馨が飛んでくる。
「な、なに?」
「どーしたんだよ!」
「攣……った」
「どこが?!」
「ぜ……ん…ぶ」
「はあっ?!」
右手の指からはじまったそれは、腕全体から腹筋、背筋へと広がって、臀部からふくらはぎ、脛の方にまで進んでいった。
とにかく収縮しようとする筋肉を、逆に伸ばせばいいのだというのはわかっている。だがしかし、腹筋も背筋もふくらはぎも脛もというのでは、どちらの方向へも伸ばしようがない。
「ああーーーっ」
床にうつ伏せに倒れた状態で、たまらずに声を上げていた。
筋肉が攣ったくらいで、死にはしない。長くても数分で治まるはずだ。
自分にそう言い聞かせはするものの、その数分が途轍もなく長い。永遠に終わらないではないかと思えてくる。
「俺は手を離せないから、馨が肩を押さえて、将は足を引っ張って! どう? 少しはマシ?」
ぎゅーっと縮こまる指を無理にも引き剥がし、腕全体を引き伸ばしながら出す和人の指示に、将と馨がてきぱきと動く。
両肩を床に押しつけられることによって、上体の筋肉が広がった。が、足の方はそう簡単にはいかず、掴まれた足首の向きひとつで、脛にもふくらはぎにも激痛が走る。
「どうすりゃいいんだよ? どっちに引っ張っても筋肉がピクピクしてて、メチャクチャ痛そうなんだけど!」
「わかんないよ! わかんないけど、とにかくまっすぐ引っ張って! そんなに長くはつづかないはずだから!」
そうだ。十分も二十分もということはないのだから、耐えろ。現に、右手の痙攣は治まってきた。あと少し。もう少しだ。
「……ちょっと、よくなった?」
おそるおそる、和人が右腕を掴む力を緩めていく。
「こっちは、まだだ」
固い声の将に頷き、用心しながら右腕を床に下ろすと、和人は薬箱を抱えて戻ってきた。
「気休めかもしれないけど、湿布しよう」
スウェットの裾が捲られて、両足全体にひんやりとした湿布薬が張り付けられる。すぐに効き目があるわけではないが、少しでも鎮静効果があるのなら、試すだけの価値はある。
和人の手が、背中に置かれた。ゆっくりと様子を見ながら、さすっていく。
「ほんとにもう、ぜんっぜん肉がないんだから」
文句を言いながらも手つきは優しく、左側の痙攣している箇所までくると、「ここにも貼っとくね」と、セーターとTシャツの裾をめくり上げられた。
ハッと息を飲む気配がしたのは、いまだ縫合の痕が生々しいからか、それとも骨が浮き出るほどに痩せてしまっているからか。
「ほかは? どこか貼って欲しいとこ、ある?」
「腹筋。右の方」
「仰向けになれる?」
「いや。動いたら、また攣りそうだ」
「わかった。じゃあ、このままで」
ちょうど和人のいる側だったので、床との隙間から器用に湿布薬を貼り付けてくれた。
両足の痙攣も最悪の状態は脱したが、いつ次の波がやってきてもおかしくないように、ヒクヒクと筋肉が蠢いている。
「倒れたとき、どっかぶつけなかった? 怪我とかしてない?」
「ああ」
「フローリングのままじゃなくて、絨毯敷いとけばよかったね」
馨は椅子の背にかかっていたブランケットを手繰り寄せると、頭の下に差し入れてくれた。首をわずかにもたげただけで背中の筋が攣りそうになり、急いで元の姿勢に戻る。
「ちょっと、これって血だよね? 澤田くん、唇が切れてるよ!」
「やっぱりぶつけたんじゃないか! なんでそんな見え見えの嘘つくんだよ!」
嘘をついたわけじゃなくて、痺れてて感覚がないだけだ。
そう言いたかったが、余計な動きひとつで鎮まりかけた痙攣が復活する気配が濃厚で、じっとしていることしかできない。
「まったくもう!」
馨が唇の端にティッシュをあてがう間に、和人は足の方に移動し、ごく軽くさすりはじめた。
「まさか、前にもこんな風になったこと、あったりしないよね? 俺たちに隠して、ガマンしてたんじゃないよね?」
「ああ。これは、ムリだ」
ほとんど吐息だけで答え、目を瞑る。
「澤田くんの痩せ我慢にも、限界はあるんだ」
馨が言うと、将が呻いた。
「痛いのダメなんだよ、俺」
「ダメじゃないヤツなんて、いるのかよ」
「そーだけど、見てるだけで鳥肌が立ってさ。ふつーに腓返りだけでも死ぬほど痛えのに、こんないっぺんにアチコチやられたら、心臓止まる」
「やめろよ、縁起でもない!」
「大丈夫。まだ、生きてる」
安心させるつもりで言ったのに、和人の声はさらに尖った。
「当たり前だよ! わかってんの? 言っても言ってもぜんぜん食べないで、そのくせリハビリばっかり熱心にやって、疲労に体力が追いつかないのが原因なんだよ、きっと!」
いや、こういった痙攣のメカニズムは、解明されていないはずだ。とは思うものの、科学的に証明されているかいないかはさておいて、理屈としては一見筋が通って聞こえるので、逆らわずにおく。
「いい? 今日からはしっかり食べてもらうからね!」
「まあまあ、和人くん」
「説教は後にしろよ。これって相当キツいぜ」
馨と将が揃って宥め、和人は「ふん」と鼻を鳴らした。
肩を押さえていた馨はまもなく離れたものの、足を持ってもらっている将と和人には、そのまましばらく付き合ってもらった。ようやく動く勇気が出たのは三十分近くも後のことで、それも二人の手を借り横向きになり、肩を貸してもらって上半身を起こし、立ち上がるのには馨も呼んで、三人がかりで引っ張り上げてもらわなければならなかった。
「大丈夫そう?」
「なんとか、な」
そうは言ったものの、しばらく立ったままで様子を見た。歩くのも椅子に座るのもベッドに横になるのも恐ろしく、拾ってもらった杖を手に、じっと立ち尽くす。
「……参ったな」
用心していたつもりだったのに、こんなことになる。
ここのところ、逆風つづきだ。
順調によくなっていたはずが、負のスパイラルに陥っている気すらする。
「そんなに凹むなって」
「そうそう。こういうのを乗り越えた先に、明るい未来があるんだよ」
とてもそうは思えなかったが、それでも「うん」と頷いた。項垂れた、と言った方が近かったかもしれないが、三人とも、それ以上は何も言わずにいてくれた。




