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春を待つ日々  作者: 苅野しのぶ
実りの秋(とき)
15/34

(5)

 なんとなく、イヤな予感はあった。

 リハビリから戻ってから久し振りにベッドで休んだのもそのためで、一眠りすれば治まっているかと思った気だるさは、よりひどくなった気さえする。

 文字通り三食昼寝付きで遊び暮らしている身の上で、「夏の疲れが出た」などとどの口が言えるというのだ、ふざけるな。

 自分で自分を叱咤して、無理矢理起き上がる。


 水でも飲めばすっきりするかもしれないと、慎重に立ち上がり、ゆっくりと足を運んでキッチンに向かった。やはり、フラフラというか、ふわふわというか、どこか心許ない感じがする。

「……あ」

 誰もいないと思っていたリビングに、人影があった。

「津村?」

「うん」

 ソファに座っていた津村が、俯き加減のままテヘッと笑って立ち上がる。

「戻ってたんだな。気づかなかった」

 ついに家出娘の捜索の件が片づいたことは、将から聞いていた。隠れ場所の見当がついているにもかかわらず、解決までに思いのほか時間がかかったのは、向こうも手慣れたもので見つかりそうになると巧妙に逃げてしまうからでもあるのだが、こうして手間暇かけてかくれんぼというか鬼ごっこというかに付き合ってやることこそが、重要だからでもあるとのことだ。

 津村はその後も、依頼が舞い込むたびに担当に名乗りをあげ、休む暇なく働いている。事務所に顔を出すのは、久し振りだ。

「珍しいな。今日は空いてるのか?」

「あ、うん」

 津村は広げていた新聞をガサゴソと畳みながら、こちらに来る。

「はい、夕刊」

「ああ」

「お茶淹れよっか」

「うん」

「なんか食べる?」

「いや」

「夕飯は広瀬くんが買ってきてくれるって」

「そうか」

「あ、ごめん。すぐにお茶淹れてくるから、座って待ってて!」

「なあ」

「そうそう、そろそろ電気もつけないとね」

「津村」

「そうだ、洗濯物も取り込まないと!」

「なあ、津村」

 あれこれ口にするものの、何一つ手につかないで右往左往している津村の腕を、そっと掴む。

「どうした、何かあったか?」

「なんにも! なんにもないよ! あるわけないじゃん!」

 津村はやはりテヘッと笑って腕をほどき、逃げるようにしてキッチンに向かう。

「緑茶と紅茶、どっちがいい? 焙じ茶もあるけど」

「津村」

「もしかして、コーヒー? 俺、淹れるのあんまりうまくないんだよね。大丈夫かな」

「津村、ちょっと待てって」

 引き止めようと、咄嗟に大きく一歩踏み出し、少しだけ無理をして腕を伸ばした。

「あ…………っ」

 いきなり目の前が真っ暗になったかと思うと、全身の力が抜け落ちる。

「澤田くん?!」

 床に激突せずに済んだのは、すんでのところで津村が抱き留めてくれたからだ。

「ちょ、澤田くん! しっかりしてよ、澤田くん! 澤田くん!!!」

 耳は聞こえる。しかし、指一本動かせない。言葉を発することもできなかった。大丈夫、心配するな。そう伝えたいのに、声が出せないのだ。

「救急車! 救急車呼ぶから!」

 いや、いい。必要ない。

 早く言わなければ、本当に病院送りになってしまう。気は焦るのにカラダはついてきてくれず、どうにもならない。

 と、今まさに番号を押そうとしていた津村の手の中で、携帯電話が震えだした。

「も、もしもし! 広瀬くん!」

『津村? どうした?』

「澤田くんが倒れた! 今、たった今! 急に倒れて、ぜんぜん動かないんだ。どうしよう、俺。救急車呼んだ方がいいよね?!」

『落ち着け、津村。呼吸はしてる? 脈は?』

「え、えっと、息はしてる。みゃ、脈も、ある。けど、顔が紙みたいに真っ白で、す、すっごく、冷たいんだ」

 そう、呼吸はちゃんとできてるんだから、大丈夫。落ち着け、自分。

 津村の声を聞きながら、自分自身に言い聞かせると同時に、金縛りのような状態がふっと解けた。

「つ……む…ら」

「澤田くん?! 澤田くん、気がついた? 大丈夫?!」

 ああ、大丈夫だ。ごめんな、驚かせて。ぜんぜん大丈夫だから、心配するな。

 そう言いたいのに言えなくて、かすかに頷く。

『もしもし、津村? 意識戻ったのか?』

「うん、そうみたい! そうだよね?」

 もう一度、ほんのわずかに頷いてみせる。

『わかった。俺もすぐ帰るから。三十分かからないと思うけど、その間に急変したら、すぐに救急車呼んで。いい?』

「うん!」

 ガンバって首を横に振ったのに、伝わらなかったのか、津村は首肯し電話を切った。

「どうしよう。動ける?」

 尋ねてみたものの、無理そうだと判断したのだろう。

「ちょっと待ってて」

 膝に乗せていた頭をそうっと床に下ろし、どこかに行ったかと思うまもなく戻ってきて、畳んだタオルを枕のかわりにしてくれた。

「苦しくない?」

 ああ。どうしようもなく怠いだけで、苦痛はない。

「広瀬くんが帰ってきたら、ベッドに運ぶから」

 うん。悪いな、面倒をかけて。

「何か欲しいもの、ある?」

 そうだ。水を飲もうと思ってたんだ。

「水? 水だね。持ってくるよ」

 声にはならなかったはずだが、津村はうまく察してくれて、コップではなく、入院中に使っていた吸い飲みに水を入れてきた。ああ、またここに逆戻りか、と暗澹たる気持ちになるものの、コップからではまともに飲めず、ほとんど零してしまったであろうこともまた事実だ。津村に支えてもらってなんとか水を口に含むことはできたが、唇を湿らす程度で疲れてしまって、再び床に横たわる。

「……澤田くん」

 ああ、この声だ。素朴で飾り気のない、ぼそぼそとした話し声。好きなんだな、この声が。ずっと聞いていたくなる。

「ごめんね。俺、本当に、ごめん」

 バカだなぁ。謝るのは、こっちだろ。よりによって、お前の前で倒れるなんてな。驚いただろ。ビックリしたよな。でも、ぜんぜん大丈夫だから、心配するな。ちょっと疲れが出ただけで、なんてことないんだ。ほんとだよ。すぐに治るから、安心しろ。

 右手をようよう持ち上げたら、ちょうど津村の頭にふわりと被さり、そのまま重力に引きずられるようにして腕を下ろしたおかげで、仰向けに横たわる自分の胸に、津村の頭を抱くような形になった。

 な、大丈夫だろ? ちゃんと心臓が動いてる。だから、泣くことなんて何もないんだ。お前は笑ってる方がずっといい。顔を上げて、まっすぐ前を向いて、笑ってくれ。罪人みたいに俯くな。俺から逃げようとしないでくれ。

 ひっくひっくとしゃくりあげる津村の髪を撫でるうちに、眠ってしまったようだった。


 気づいたら、津村の重みはすでになく、気難しい顔をした広瀬に見下ろされていた。

「……よう」

 無事に声が出てくれて、ほっと胸を撫で下ろす。

「どうなの?」

「治まった、と思う」

 右手を差し出すと、広瀬は何も言わずに引っ張り上げ、上体を起こすのを助けてくれた。背中を支えられたまま様子をみて、異常がないのを確認する。

「悪い。もう一度、水をもらえるか?」

 広瀬の後ろで赤い目をして立っていた津村がこくりと頷き、今度はコップに入れた水を運んできた。

「ありがとな」

 声をかけると、津村は目を合わせないまま、うん、と頷く。

 時間をかけて、コップ一杯の水をゆっくりとぜんぶ飲み干した。噎せることなく飲み込めたし、倦怠感も薄れた気がする。

「うん。大丈夫だ」

 コップを返したついでに、二人の手を借り立ち上がった。まだ多少ふらつくようなので、取り敢えず近くの椅子に座らせてもらう。

「いちおう、病院に行っておく?」

「いや。ただの貧血とか、軽い脱水症状とか、そんな感じなんだと思う」

「それにしては、随分派手に倒れたみたいじゃないか」

「そうでもないさ。杖を放したから転んだだけで、意識はちゃんとあったんだ。手足の痺れなんかもないし、ちょっと休めば問題ない」

「今はよくても、あとから問題が出てきたらどうするんだよ」

「どっちにしろ、明日も病院には行くんだ。リハビリのときに、こういうことがあったって報告するよ。それで必要だってことになったら、検査でもなんでもしてもらう」

「もしくは、明日の朝起きてみてリハビリに行くような体調じゃなかったら、即刻、診察室行きってことだね」

「大丈夫、そうはならない」

「どうだかな」

 広瀬はまだ多少ためらう気持ちもあるようだったが、結局は意思を尊重してくれた。


 夕飯は食べられそうにないと辞退したものの、貧血にしろ脱水症状にしろ、何も食べないのは絶対によくないと迫られて、野菜と果物がたっぷり入った特製ジュース入りステンレスボトルを渡された。

「これは?」

「一度にぜんぶとは言わないから、一晩かけて飲むように。眠って、目が覚めたら水分補給。OK?」

「水分補給なら、水でもよくないか?」

「水は水で、用意してある」

 広瀬に死角はなく、ベッド脇のサイドテーブルに色違いのボトルが仲良く並べられる。

「何かあったら、すぐに電話しろよ」

「わかった」

 ひとりで歩けると断ったのだが、飲み物を運びがてら部屋まで付き添ってきた二人に頷いてみせてから、改めて頭を下げた。

「悪かったな」

「そう思うんなら、さっさと元気になれ」

 素っ気なく言って背中を向ける広瀬に隠れるように、津村は顔を俯け佇んでいる。

「せっかくの休みだったのに、ごめんな」

 声をかけると、津村はぷるぷると首を振って、視線を伏せたままテヘッと笑い、「おやすみなさい」と出て行った。


 どんなカラダの症状よりも、津村の思い詰めた表情が、胸に痛い。

「……最悪だ」

 ゆっくりとベッドに横たわり、目を閉じる。

 なんとはなく、津村に避けられているようなのは感じていた。滅多に事務所に顔を出さないし、たまに会ったとしても、絶対に目を合わせようとしない。話しかけてもほとんど口をきかずに逃げてしまうか、中味のないことを一方的に喋りまくって、はぐらかされる。まともな会話が成立しないのだ。

 それが、津村の抱いている罪悪感ゆえだということはわかっている。

 しかし、そもそも津村に罪はないのだ。

 自分が居座っているせいで、津村に居場所がないと感じさせているのなら、本末転倒だ。ここにいるべきなのは津村で、自分ではない。

 そう。二人がともに存在するためには、「澤田くん」を取り戻す必要がある。津村だけではなくほかの四人のためにも、なんとしてでも過去の記憶を甦らせたい。本気でそう願っている。

 でも、ダメなのだ。どうしても病院で意識を取り戻す前のことを思い出せない。ゼロに何をかけてもゼロのままで、取っ掛かりさえ掴めずにいる。

 だからせめて、健康だけでも手に入れて、少しでも負担を減らしてやりたい。そう思っていたのに、この一件で、台無しだ。違和感はあったのだから、ほんのちょっと気をつければ回避できていたかもしれないだけに、悔いが残る。

 しつこい怠さと疲労感が巣くっているから、眠れることは眠れるだろう。しかし、安逸な睡眠は、望めそうもなかった。


 それでも、幸いなことに、翌日は無事に起きられた。

 広瀬があらわれる前に着替えをすませ、朝食の準備を整えることもできた。ジュースと水、どちらもきれいに空になったボトルを見せると、「その程度で自慢するな」とにべもない返事だったが、いつもどおりにリハビリに行くことは認められた。

 約束どおり、担当の理学療法士に事情を説明したが、熱もなければ血圧も正常だったため、「また同じようなことがあったら、そのときは連絡を」ということで、念のため少し軽めのメニューにはなったものの、こちらも何事もなく終えることができた。

 ただ、久し振りに付き添ってきた和人のご機嫌が、なかなか治ってくれない。カフェテリアにやってきても、鮪アボガド丼を前に、ムスッとしたままだ。

「本当にたいしたことはなかったんだから、そんなに怒るなって」

「別に、澤田くんに怒ってるわけじゃないよ。自分で自分に腹が立つってだけだから、気にしないで」

「そう言われてもなぁ」

 和人の機嫌を取ろうとしたわけでもないが、いつものオレンジジュースと海藻サラダというヘルシーメニューにかえて、コーンポタージュとポテトサラダという、なかなか腹にたまりそうな品を選択してみたのだが、肝心の和人がいつもの食欲を見せてくれないので、こちらも食べようという気分がわいてこない。

「なんで、お前がお前に腹を立てるんだよ? そんな必要、まったくないだろ」

 和人はますます不機嫌そうに眉根を寄せて、割り箸をパシッと二つにした。

「俺的には、あるんだよ。なんかとにかく、ムカつくの!」

 子供みたいなことを言って、本当に子供みたいに丼飯をかっ食らう。

 まあ、余計な心配をかけてしまった。それが原因なんだろうことは、間違いない。

「ごめんな。今後はもっと、気をつけるよ」

 意を決してポタージュにスプーンを沈めると、和人は口いっぱいに頬張った鮪とアボガドを飲み込んでから、尖った声でぼそりと言った。

「澤田くんに謝られると、余計ムカつく」

 スープ皿から視線を上げると、和人が拗ねたような顔をして俯いている。

「いいよ、わかってるよ。これは俺の問題なんだから、気にしないでってば」

「うん」

 何がどう問題なのか、気にならないわけではない。が、とにかくここは一歩引いて、話題を転じた。

「それ、ウマいのか?」

「うん、なかなかイケる」

 和人もすなおに応じてから、丼をずいと前に押し出す。

「一口食べてみてよ」

「いや、遠慮しとく」

「そう言わずに、一口だけ」

「じゃあ、ポテトサラダ半分やるよ」

「それっておかしいだろ! 一口でいいよ、一口で」

「遠慮するなよ」

「してないよ! ちゃんと食べて、少しは肉をつけろって! ズルすると、広瀬くんに言いつけるぞ」

「それは、困るな」

 思わず苦笑すると、和人もようやく、少し笑った。そうして鮪とアボガドを一切れずつポテトサラダの脇に乗せ、かわりにポテトサラダを掬って大きく一口頬張り咀嚼してから、小さな声で、ぽつりと言う。

「ごめんね、澤田くん」

「なんで謝る?」

「なんか、そういう気分なんだよ。守ってあげられなくて、ごめん」

 実際ずっと年下で、その年齢よりもさらに幼い顔立ちをして、体つきまで少女のように華奢であるにもかかわらず、妙に男気溢れる和人の言葉が、すっと胸に入ってくる。

「充分、守られてるよ、俺は」

 パッと顔を上げた和人のくるんとした眸を真っ正面から向け止めて、頷いた。

 本当に、守られているのだと思う。心身ともに、おそらくは自覚しているのよりももっとずっと、彼らの庇護を受けているのだ。

 和人も「うん」と、頷いた。少しだけ、肩の荷を降ろしたような、そんな表情をしていた。



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