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春を待つ日々  作者: 苅野しのぶ
実りの秋(とき)
14/34

(4)

 朝の散歩を終えて事務所に顔を出した和人と、朝食をとる。

 一休みした後、財布に交通機関用のICカードが入っているのを確認し、少し早めに出発。バス停までは普通に歩いて二、三分だが、杖を突きながらだとその倍はみておく必要があるからだ。幸いなことに病院行きのバスは本数が多く、通勤通学の時間帯ではないからか空いてもいて、いつでも座ることができた。

 無事に到着し、リハビリのメニューをこなした後は、病院内のカフェテリアで休憩がてらの昼食。

「こんなところがあるなんて、知らなかったな」

 天窓からの陽射しが降り注ぐ明るい店内を見回していると、眩しそうな表情をした和人が、俯き加減に小さく笑った。

「俺、決めてたんだ」

「うん?」

 つづきの言葉を待っていると、下を向いたままヘヘッと笑って、一息に言う。

「澤田くんが元気になったら一緒に来ようって、決めてたんだよ」

 いつか必ずそういう日が来るんだから、ガンバろう。今は包帯ぐるぐる巻きで、意識もないけど。一日中眠ってばかりで、ろくに話もできないけど。ベッドに寝たきりで、頭を動かすこともできないけど。

 時間がたてば、きっとよくなる。動けるようになって、歩けるようになって、食べられるようになる。

 そうしたら、病院の中だとは思えないお洒落ですてきなカフェテリアに一緒に行って、ほんとにもう、どうなることかと思ったよ。でも、こんなに元気になって、よかったね。そんな話をしようと決めていた。毎日毎日、横目でちらりと眺めながら、いつか必ずと誓っていた。

 その「いつか」が、ついに訪れたのだ。

「よかったね、澤田くん」

 よかったね、俺。

 和人は胸のうちでそっと呟き、ボリューム満点のミラノ風カツレツに「いただきます」と手を合わせた。

 ついさっき朝食を腹一杯に詰め込んだにもかかわらず、小柄で華奢で、少女のようにほっそりとした体型をしているにもかかわらず、相変わらず旺盛な食欲をみせる和人をテーブル越しに眺めながら、嘆息する。

「……かなわないな」

 決してひけらかされるわけではない。むしろ、素っ気なさで装われ、表に出ないよう隠されている。しかし、彼らの献身は本物だ。この熱意と誠意に、応えないでいいわけがない。どんなに圧倒されても、困惑を覚えたとしても、裏切ることは不可能だ。現在のみならず過去においても、自分がそれに値する人間だとは到底信じられないとしても。

 いや、だからこそ。

 彼らの善意を受け入れ、彼らの望みを叶えてやりたい。彼らの「澤田くん」を奪ってしまった、せめてもの罪滅ぼしに。

 そんな会話の交わされた初日以来、カフェテリアでのランチも日課に組み込まれた。


 帰りもバスでまっすぐ事務所に戻り、カラダを休めるだけのつもりが一眠りしてしまい、気づけばすでに夕方となる。その間に誰かが必ず事務所にあらわれ、散歩に出掛ける和人とお目付役を交代。ジュースかスポーツ飲料で水分と栄養を補給しつつ、時間をかけてゆっくり新聞を読み、暗くなったら出来合いの弁当か何かの夕飯を食べる。アクシデントに備えて人の目と手があるうちにシャワーを浴び、無事に寝支度を整えたところで、就寝。


 はじめの一週間はそんな感じだったが、カラダが慣れてくるにつれ休息の必要が減っていき、その分、時間が余るようになった。

「ナニやってんの?」

 ほかにはやれることもやるべきことも思いつかず、こっそりキッチンの様子を探索していると、胡散臭げな顔つきをしながら将がのっそりとあらわれた。

「いや、その。煮干しがどこにあるか、知ってるか?」

「煮干し?」

「うん。冷凍庫に大根を下茹でしたのがあったから、味噌汁でも作ろうかと思ってさ」

 胡麻や干し椎茸、高野豆腐などの入った乾物入れはあったのだが、肝心の煮干しがみつからない。

「ないんだったら、たぶん、馨が持って帰ったんじゃねーかな」

「馨が? なんでまた、煮干しなんて」

「水無月の気を引こうってんだろ。澤田くんがいつもやってたからさ」

 水無月というのは、確か、馨の飼い猫だ。賞味期限が切れる前に、猫に与えることにしたのかもしれない。それならそれで納得だが、煮干しがないとなると、さて、どうしたものか。

「てゆーかさ。それ、食いたいわけ?」

「ん?」

「自分が食いたくて、味噌汁作ろうと思ったの?」

 改めて問われ、ハタと考える。

 何か作れそうなものはないかと在庫を確認し、下処理済みの大根を発見した。味噌もある。味噌汁程度だったら、今の自分にもなんとか作れそうだ。そう判断したから、やってみようと思い立った。特に大根の味噌汁が飲みたいな、と思ったわけではない。

「食べる食べないより、作ってみたいという方が大きいな。でも、そうだ。味噌汁だったら、なんとかいけそうな気もする」

「ふーん」

 将はいまひとつ納得していない様子で、口をヘの字に曲げている。なぜだろう、と首を傾げて考えて、ああ、とようやく思い至る。

「この暑いのに、味噌汁なんて飲む気しないか」

 ほとんどの時間を冷房のきいた室内で過ごしている自分とは違い、将は家出娘を探して方々歩きまわっているのだ。湯気の出るものなど見たくもないという心境だとしても、不思議はない。

 ところが将は、思いがけないことを耳にしたかのように平然と答える。

「や、あればもらうけどさ、俺は」

 それならいったい、何が問題なのだろう。

「今日の夕飯は、なに買ってきたんだ?」

 仕事帰りに事務所に顔を出す面々は、それぞれ自分の食べたいものを購入してくることになっている。将はダイニングテーブルの方を振り返り、そこに置いてあるレジ袋を顎先で示した。

「カツ丼だよ」

「それなら、味噌汁でも合わないことはないな」

 夏バテで食欲が減退しているということもないらしい。若さというのはよいものだ、と自然と笑みが浮かんでくる。

 手のかかる厄介者のためには、豆腐を一丁、頼んであった。夜と翌朝に、半丁ずつ食べることにしている。これが広瀬だとスープやサラダ、ときには肉味噌なんぞを一緒に持ち帰り、少しでも多く食べさせようとするので油断できないが、将はすなおに豆腐だけを買ってきてくれるので、キッチンにあったワサビや生姜、鰹節などを薬味にして食べることになる。今夜はそれに、味噌汁が加わるというわけだ。

 そうだ、煮干しがないなら鰹節でだしを取るか、と乾物入れを再び覗く背中に、将がぼそりと問いかけた。

「なあ。元気になって、なんでも食えるようになったらさ。澤田くんは、ナニ食いたいの?」

「んー?」

 鰹節のパックを取り出しながら、首を捻る。

「難問だな、それは」

「なんでだよ。好きな食いもんくらい、なんかあるだろ」

 将は無造作に言ってから、ヒヤリとした。もしかして、それも忘れたなんてことはあるのだろうか。自分の好物を思い出せない、なんてことが?

 動揺する将に背を向けたまま、そうだなぁ、と呟く声はのどかなもので、なんの屈託も感じられない。

「なんだろう。白い飯かな、取り敢えず」

 散々考えたあげく、浮かんできたのはそれだけだった。

 炊き立ての白米を、普通にウマいと感じて食べられるようになりたい。まずはそこからだ。

「将は? なんでもいいから好きなものあげろって言われたら、なんて答える?」

「俺は……オムライス、かな」

「オムライス?」

 いかにも生意気そうな面構えをして、随分かわいらしいことを言うんだな、とちょっと意外だった。何かもっと、ガッツリ肉食系な答えが返ってくるのかと思っていたのだ。

「そうか。オムライスか」

 「澤田くん」が、彼らに振る舞ったりしたこともあったのだろうか。そんなことを考えたのが伝わったのか、将の眉がひょいと上がった。

「作ってくれんの?」

「いや。今すぐには、ちょっとムリそうだ」

 材料も揃っていないし、フライパンを振れるだけの筋力は戻っていない。そもそも大所帯用の鉄のフライパンを持ち上げるだけの握力があるのかも怪しいところだ。

「でも、そうだな。オムレツだけだったら、もしかしたら」

「マジで?」

 卵は冷蔵庫に入っていたし、広瀬が毎朝使っている卵料理用の小振りのフライパンなら、なんとかなるかもしれない。

「手伝ってくれるか?」

「え。でも俺、料理とかぜんぜんできねーよ」

「それは、大丈夫だ」

 冷蔵庫から卵とバターと牛乳、道具入れから小振りのボウルと菜箸を出してもらう。流し台のすぐ脇にボウルを置いて、右手で軽く、卵を持つ。

 頼む、うまくいってくれ。

 そう念じてから、こつんと卵を角に当てた。

「すげー!」

 右手ひとつでぽとりと卵を割り落とすと、見守っていた将が歓声を上げる。

「いや。殻が入った」

 グシャリと握り潰すことも、黄身を崩すこともなかったのには安堵したが、やはり動きはぎこちない。微妙な力加減がきかないのだ。

「こんなもん、取ればいいんだろ?」

 将はこともなげに言い、菜箸で小さな欠片をつまみ上げる。そんな些細なことも、自分でやろうと思えば一仕事だ。

 ボウルに牛乳を少し、それから塩と胡椒を振り入れて、将から菜箸を受け取り、かわりにボウルを支えてもらい、卵白を切るようにかき混ぜる。洗い籠に立てかけてあったフライパンをレンジに置き、サラダ油とバターを熱して、卵液を流し入れたら一呼吸。フライパンが動かないように将に持たせておいて、固まってきた卵を混ぜる。ここからが肝心、フライパンを揺すって卵の形を整えたいが、どうにも思うようにいってくれない。仕方がないので菜箸を使って卵を寄せて、どうにかこうにか、それらしい代物を完成させた。

「悪い。やっぱり、うまくいかなかったな」

「どこかだよ?!」

 心底驚いたように、将が黒目がちの眸を丸くする。

「見場が悪くて不味そうだ。火も通りすぎて、固いだろ」

「あのさ。店に出すとかじゃなくて、俺が食うんだぜ? 充分だろ、これで」

 黄色い楕円は多少いびつではあるものの、家庭料理としては上々な出来にしか見えない。

 フライパンにそのまま菜箸を伸ばそうとするのを押し止め、これも洗い籠にあった皿の上にオムレツを滑り落とすと、将も渋々といった顔つきでフォークに手を伸ばした。

「洗い物が少ない方が、よくね?」

「だらしがないのはイヤなんだ」

「ちょっと元気になると、すぐこれだよ」

 文句を言いつつも、将がどこか嬉しそうな口振りなのは、おそらく、いかにも「澤田くん」が言いそうな台詞だったからなのだろう。だとしたら、「澤田くん」も洗った食器をそのまま放置しておくことに対して異論があるタイプだったのかもしれない。下手に触って割っても困るのでそのままにしてあるが、両手を使えるようになったら、きちんと棚に収容するように習慣づけよう。

「ああ、でも、そうか」

 右手ひとつで洗い物をするのは、難しい。すべて他人の手にゆだねなければならないのだ。そんな根本的なことを、うっかり忘れていた。

「ん?」

 ダイニングテーブルの椅子を引いてくれた将が、顔を上げる。

「お前の仕事を増やしたんだな」

 皿もフォークも自分で洗えないのだったら、フライパンから菜箸で食べるのを許すべきではなかったか。そもそも、調理をするということは洗い物を増やすということでもあるのだ。

 悪かったな、とつづけようとすると、ふん、と鼻先で笑われた。

「いいよ、こんくらい」

「でも」

「期待してっから、オムライス」

 みなまで言わせず、将はニヤリと笑って向かいの席に腰掛けた。そうしてオムレツにフォークを突き刺すと、ぱくりと頬張る。

「うん、ウマいよ、やっぱり」

「あー! ナニそれ、ちょっと、どういうこと?!」

 物音を立てないように静かに帰ってきたらしい和人が、ダイニングテーブルについた二人を目にした途端、素っ頓狂な声を上げる。

「だって、将のはずないよね? てことは、澤田くん? うそ、マジで? ちょっと、俺にも一口!」

「ウルセーなー。もうこれしか残ってねーんだから」

「くれたっていいじゃん! 将はもう食ったんだろ?」

「俺が手伝ったんだから、ぜんぶ俺のなんだよ」

「一口くらい、いーじゃんか!」

「あ! てめー!」

 仔犬のじゃれ合いのようなものだが、放っておくとキリがない。

「そんなものでよければ、明日の朝、また作るよ」

「ほんとに?!」

 そんなにキラキラの笑顔を向けられるほどのことだとも思えないが、食べてくれる人がいるなら作る甲斐もあるし、オムライスに向けてのいい訓練にもなる。広瀬の分と、和人の分。毎朝二つずつオムレツを作るのも、日課としよう。

 一休みした後は和人も手伝いに加わって、無事に味噌汁も完成した。


 翌日からは、ひとつ手前のバス停で降り、スーパーで夕食と朝食用のちょっとした買い物をしてから事務所に戻るということも許可された。買い込んだ食材は和人に持ってもらうことになるし、体調によってはフードコートでの休憩を余儀なくされたりもするが、それでも、寝て、起きて、だけの生活に比べれば、大いなる進歩だ。

 杖は今も、手放せない。

 体重もなかなか戻ってくれず、うっかり着替えているところを見られたりすると、「だからちゃんと食べろって言ってるだろ!」と囂々たる非難を浴びせられる。もともと太りにくい体質らしい上に、多少は増えた食事量以上に運動量が増しているため、骨に皮が張り付いている状況を脱せないのだ。

 しかしそれでも、ようやくしつこい残暑が終わりを告げて、秋らしい風が吹くようになると、いかにも、誰が見ても、どこをどうとっても、一目瞭然で「病み上がり」といった様子からは抜け出せた。ベッドのレンタルを解約することとし、和人に説得されて、シンプルだが寝心地の良さそうなベッドを新調したのも、そのあらわれのひとつだ。

 もどかしいくらいに遅々たる歩みではあるが、少なくともカラダは順調に回復している。彼らとの共同生活も、いつしか馴染んで板についた。

 完璧ではないにしても、望みうるかぎり、すべてがうまくいっている。

 穏やかに過ぎていくように見える日々の中、自分で自分にそう信じ込ませるようになっていった。




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