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春を待つ日々  作者: 苅野しのぶ
実りの秋(とき)
11/34

(1)

 迷いがなかったわけではない。今でもまだ、本当にこれでよかったのかという問いは、消えていない。

 しかし、結局、来てしまった。

 文字通りに自立するべきなのはわかっている。だが、部屋を借り、生活をして、仕事をみつける。そうしたことを今すぐひとりで行うことは困難で、どう足掻いたところで誰かの助けがなくては生きていけないのは明らかだ。

 提示された選択肢は二つ。そのうちの、「家族」のもとに帰るという案は、考えるまでもなく退けていた。「自分」というものをなくしたまま、彼らの濃密な関係性の中に入り込むというのはどうしてもできない相談だし、けっして若くはない「両親」に、これ以上の負担をかけたくもない。

 そうすると、残された道はひとつだけ。


「とうちゃーく!」

 和人は明るく言って、助手席からすばやく降りると、後部座席のドアを開けた。足下に寝かせておいた杖を邪魔にならないように取り出して、ゆっくりと慎重に車から降りようとする男を見守り、両足が地面に着くのを確認すると、左手にしっかり杖を持たせ、自分は右側についてカラダを支える用意をする。

「俺に掴まって、大丈夫だからね」

「ああ」

 と、すなおに頷いたくせに、男は一瞬の間ののち、杖だけを頼りにすっくとまっすぐに立ち上がった。杖さえ持っていなければ、まったくの健康体にしか見えない立ち姿だ。だが、杖の支えがなかったら、いつ崩れ落ちるかわからないのもまた事実である。

「おかえりなさい、澤田くん」

 マンションのエントランスまで出迎えにきた馨が、はにかむように笑って言った。男は視線を落とし、うん、と頷く。

 おかえり、ただいま。

 そういう言葉を使うことに、躊躇いがあった。それが許される関係なのだということを、どうしても信じきれない。

 馨も黙って頷き返すと、トランクから着替えや身の回りの品が入ったスポーツバッグを取り出して、肩に担いだ。

「荷物はこれだけ?」

「そう。俺は車駐めてくるから、よろしくね」

「わかった」

 広瀬が運転席から声をかけ、後部座席に残っていた婦人に会釈する。

「すぐに戻りますから、先にご覧になっていてください」

「お母さん、こっちこっち!」

 和人に手招きされて、婦人が息子の傍らにそっと降り立つ。

「この一階が、俺らの事務所で、澤田くんの自宅でもあるんだ」

 エントランスホールには集合ポストとエレベーター、その裏側に階段と、駐車場につづくドアがある。各階一室だけの作りだから、ほかにはドアは、ひとつだけ。

「ささ、どうぞどうぞ」

 和人はドアをいっぱいに開けると、室内に向かって声を放った。

「帰ったよー!」

 促されて男がドアの前まで進み出ると、小さな玄関に津村と将の姿があった。

「おかえりなさい」

 照れくさそうにテヘッと笑う津村の後ろで、将が「うん」と頷き明後日の方角を向いてしまう。男はここでも頷き返すことしかできなくて、視線を伏せた。

「ここ、狭いから大丈夫かな。椅子持ってきた方がいい?」

「いや、いい」

「それじゃあね、頼むから澤田くん、今だけ俺に掴まって。津村くん、そこのタオルで杖拭いて! 馨はそのバッグを将に渡して、左足の靴、脱がせてくれる? ちゃんと俺が支えてるから。澤田くん、もう杖使っていいから、上にあがって。今度は右。そう、OK!」

 和人の指示のおかげでわずか10センチほどの玄関を無事に上がることができ、その場にいた全員がホッと胸をなで下ろす。

「お母さんも、どうぞ上がって。この左のドアがバスルーム、向かい側がキッチン、ダイニング、そしてリビング!」

 二人掛けとひとり掛け、それぞれのソファが二脚ずつ、四角いガラステーブルを囲んでいる向こうには、こぢんまりとした庭が見える。大きなガラス窓のおかげで、とにかく明るいリビングだ。

「澤田くんの部屋は、こっち」

 和人は二人を従えて、リビングを突っ切り短い廊下に案内する。開けるよ、と男に声をかけてから、ピタリと閉じていたドアを開いた。

「なんにもないのねぇ」

 思わず、といった風に「母」が呟く。

 ノートパソコンの置かれたサイドテーブルとスタンドライト、マガジンラックとステレオセットのほかは、ベッドだけだ。シンプルというよりは、殺風景に近い。

「洋服とかは、備え付けのクローゼットの中だから。CDとか本とか、細々したものも多少はあるみたいだよ」

 私物を勝手にのぞき込んだりはしてないから、よく知らないけど。と、和人は肩を竦めてみせる。

「それから、澤田くん。澤田くんが使ってたソファベッドは、取り敢えずリビングに移動して、これをレンタルしたんだよ」

 和人は六畳間のほとんどを占拠するベッドを指さした。

「勝手にごめん。相談したら、ゼッタイ必要ないって言うからさ。でもね、あんな寝心地の悪そうなベッド、使わせられないよ! それに澤田くんは、ちょっと枕の高さをなおして欲しいとか、クッションを入れてとかはずしてとか、そういうの俺たちに頼めないでしょ? いいよ、わかってるよ、ゼッタイなんにも言わずにガマンするよ。澤田くんはそういう人だから、俺たちは『大丈夫?』とか『なんか困ってない?』とか、ついつい気になって声かけちゃうんだけど、それがまた、澤田くんはイヤなんだよね。俺たちの負担になってるとか迷惑かけてるとかそういう風に考えちゃって、俺たちじゃなくて澤田くんの負担になっちゃうわけ」

 和人は男に口を挟ませず、一息に言う。

「そこで、多機能ベッドの登場ですよ。俺たちに頼まなくても、ボタンひとつで高さや角度の調節ができるんだよ? 澤田くんが快適に過ごしてるんだと思えば、俺たちだって安心できる。これから先、ひとりで留守番しててもらうことだってあるかもしれないんだからさ。取り敢えずレンタルしてみて、必要なければ返せばいいだけなんだし、まずは使ってみてよ。ね?」

 それでなくても愛嬌のあるかわいらしい顔をして、和人は小首を傾げてみせる。反論の余地はすでになく、勢いに押されたこともあり、男は「わかった」と頷いた。

「よかったー」

 口調ほど強気だったわけでも自信があったわけでもないらしく、和人はふうっと安堵の溜息をもらす。

「ね、和人くん。費用はうちで持つから、言ってちょうだい。ほかにもいろいろ、あるんでしょ? それも、ぜんぶ」

「ベッドのレンタルは僕たちが勝手にやったことですし、はじめの二週間は経費で落とせそうですから。そのほかは自力でなんとかしたので、材料費しかかかってないんですよ」

 戸口から顔を覗かせた広瀬が、にこやかな笑顔を婦人に向ける。

「でも、そんな」

「だってお母さん、俺たち、こーゆー仕事もやってたりするんだよ? この程度のリフォームは楽勝だって」

 取り敢えず、バスルームと廊下に手摺りを取り付け、あとは本人と要相談。車椅子は使わないということなので、本当に最低限のことしかしていない。

「それよりタイヘンだったのは、掃除なんだよ」

「掃除?」

「そ。澤田くんが帰ってくるのにこの状態はマズいだろうって、季節はずれの大掃除をやったんだ」

 はじめはハウスクリーニングを頼もうかという話にもなったのだが、換気扇や排水溝などの清掃を請け負うこともあるくせに、自分たちは余所の業者に依頼するというのも外聞が悪いというか、信用問題にかかわるのではないかということになり、急遽五人総出でLDKとそこから見える庭の草むしりに取り組むこととなったのだ。

「仕事だと掃除もやらないわけじゃないんだけど、自分ちだと思うとどーしてもやる気にならなくて、あっという間に無法地帯になっちゃうんだよねぇ」

「きれいに片付いていて感心してたんだけど、そんな事情があったのね」

「澤田くんがいるときは、もっとずっときれいだよ。てゆーか、そもそも散らからないんだ、澤田くんがいると」

 片付けないと叱られるからでもあるが、片付けていなくても片付けておいてくれるからでもある。

「夜中にこっそり働いてるこびとみたいなんだよね、澤田くんって」

 ぼんやりと室内を眺めている男に、三人の視線がすっと集まる。

「え?」

「なんでもないよ。お母さん、あっちでお茶にしよ」

 何を見ても、聞いても、記憶が呼び覚まされる様子はない。でも、そんなことくらいで失望なんかするもんか。

 和人の言葉を受けて、広瀬が婦人をリビングに誘い、和人は男に付き添って、ゆっくりとそのあとについていく。

「大丈夫? 疲れてない?」

 和人の問いに、男は「ああ」とわずかに頷いた。そんな返事がまったくあてにならないのは学習済みで、和人は男の様子を確認し、それから「まあ、いいでしょ」といった風に頷き返す。

 リビングに戻ると、馨が茶菓子の用意をしていた。

「こっちが葛まんじゅうで、こっちが抹茶の水羊羹。甘さ控えめだから、これなら澤田くんも食べられるんじゃないかって、持たされたんだ」

「てことは、これもお手製? なんでも作れるんだね、清さんは」

 それぞれきれいに箱詰めされた水菓子をうっとり眺め、そのままソファに導き婦人の隣りに座らせようとする和人を、男は制した。

「俺は、そっちの椅子にしておいた方がいいと思う」

「あ、そっか」

 座面が低く、弾力があってカラダが沈むソファに腰を下ろしてしまうと、次に立つときに余計に筋力が必要となる。柔らかなクッションも、腰や背中に負担をかけそうだ。ダイニングテーブルの椅子の方が、立ったり座ったりがスムーズに行えるのは間違いない。

 男は慎重に向きを変え、和人に付き添われてはいるものの、自分でダイニングまで歩いていくと、一番奥まった椅子の前で立ち止まった。左手に杖を持ったまま、右手だけで椅子を引き出すのは難しそうで、ふっと顔を上げると、なんとも言えない奇妙な表情を浮かべた五人の視線に射竦められる。

「え……」

「そこ、澤田くんの席なんだよ」

 六人掛けのダイニングテーブルの、一番キッチンに近い場所。六人全員が揃ってテーブルに着くなんてことは滅多にないから、みんなその時々によって空いている席に適当に座るのだけど、澤田の席だけは決まっていて、そこだけは澤田が不在であっても誰も使おうとしない。食事をするのも、新聞を読むのも、コーヒーを飲むのも、いつもそこ。澤田の気配がもっとも色濃い、ダイニングの一角。

「いや、俺は……」

 この席ならば、リビングに背中を向けなくてすむし、部屋全体を見渡すこともできる。一番奥で、誰の邪魔にもならない。そう思ったから選んだだけで、他意はない。記憶が甦ったとか何か特別な感覚があったとか、そういうことではまったくないのだ。

「いいよ、わかってるよ」

 余計な期待を抱かせてはならないと警戒する男に、和人は声を上擦らせながらもぞんざいに応じる。そうして椅子を引いて男を座らせると、自分もそのまま隣りの席に落ち着いた。冷茶と菓子箱を運んできた馨も向かいの椅子に座り、所在なさげにしていた津村と将までもがダイニングテーブルに着いたから、ソファで客人と向かい合うのは広瀬ひとりとなった。


 朝一番での退院だったから、最高気温に達するにはまだ早い時刻だが、それでも外は充分に暑い。弱めの冷房と扇風機をかけた室内にいても、庭に降り注ぐ陽射しの強さにたじろぐほどだ。

 よく冷えた焙じ茶でノドを湿らせ、程良い甘さの水菓子を味わいながら、広瀬と婦人の視線がふっとかち合う。

「広瀬さんは、智行と一緒に入社されたんでしたよね」

「そうです」

 広瀬はちらりとダイニングに目を向けてから、婦人に向き直る。

「同期入社で、同じ部署で働いていました。このマンションはもともと社員寮みたいなもので、澤田くんと僕は、この部屋で一緒に暮らしてたんです」

「そうですってね。もっと合宿所みたいなところなのかと思っていたら、ちゃんとしたマンションで驚きました。それにね。会社を辞めたって聞いたのに、そのまま社員寮に住んでいるっていうのも、ずっと不思議に思っていたんです」

「それはですね」

 広瀬は一旦、言葉を切り、グラスを手に取る。

 澤田は、家族にどこまで話していたんだろうか。まあ、あの男のことだ、恐らくはほとんど話していないだろう。だとすれば、広瀬としても伝えられることは最低限、あとは聞かれたら答えるというスタイルでいくしかない。

「入社して四年目に、ちょっと特殊な部署に配置転換になりまして。広義での社員の福利厚生というか、公私両面どちらでも、持ち込まれたトラブルの処理を担当するようになったんです」

 婦人の表情を見るかぎり、どうやら初耳であるらしい。

「依頼の内容によっては、同じ社の人間だと気づかれない方がいいこともあったりして、あそこにいる彼らを加えて、新しくチームを組むことになりました」

 津村と、将と、和人と、馨。それぞれが神妙な顔付きで聞いている。四人にはいろいろ端折りすぎていることが丸わかりだが、大筋では嘘ではないし、間違ってもいない。

「結論から言うと、このチームが思った以上に機能したというか、手応えがあったというか、いっそのこと独立しようということになったんです。そして、実はですね」

 広瀬は婦人に、どこかイタズラっぽい笑みを向ける。

「この葛まんじゅうを差し入れてくれた貴田馨くんは、創業家の御曹司で、未来の後継者だったりするんですよ」

「えぇ?」

 パッと振り返った婦人のみならず、その場にいる全員の注目を浴びて、馨は居心地悪そうに身動ぎする。

「そんなわけで、独立祝いにこのマンションを丸ごと譲ってもらうことができまして、そのまま事務所として使ってるんです」

「まあ」

 婦人は耳まで赤くなった馨の顔をしげしげと眺め、同じように驚いているらしい息子の顔も目に留めてから、きちんとソファに座り直した。

「智行からは、会社を辞めて、仲間と新しく仕事をはじめたとしか聞いていなくて」

「うん、まあ、つまりはそういうことなんです」

 その過程であった諸々をすべて取り除いて説明しようとすれば、ほかに言い様はないだろう。

「ここを事務所として使うようになってからは、僕は二階に移りました。今は津村と二人暮らしです。なので、何かトラブルが起きたとしても、すぐに駆けつけることができます」

「俺も将も、近くに住んでるから大丈夫だよ!」

「そんなこと言ったら、うちだって案外ここから近いよ?」

 和人と馨が、ダイニングから口を挟んでくる。

 今日、婦人がここにやってきたのは、広瀬がそうするように勧めたからだ。

 退院にあたり、澤田の落ち着き先をどこにするかという話になったとき、本人の意向がどうあろうとも、婦人は息子を自宅に連れて帰ると主張した。もうとっくに実家を離れている三十過ぎの男なのだから、本人の好きなようにさせればいいと窘めた夫に対し、「お父さんは黙ってて!」と一喝した迫力に一同気圧される思いであったが、広瀬は落ち着いて、一度、自分たちの暮らしぶりをご覧になってみませんか、と提案したのだ。どんなところで、どんな風に生活しているのかがわかれば、少しは安心していただけるのではないでしょうか、と。

「というわけで、人手は充分にあります。体力にも自信があるし、設備面で改善すべき点が出てきたとしても、ノウハウがあるので問題ありません。リハビリに通うのにも車を出せますし、バスで行くことも可能です」

 広瀬はやわらかな声で淡々と語り、ふわりとした笑みを婦人に向けた。

「澤田くんを、僕たちに預けてみてくれませんか」

 婦人はキュッと口元を引き締めて、広瀬と向き合う。

「お願いだよ、お母さん。俺たち、ちゃんとするから。めちゃくちゃガンバるから!」

 和人が椅子から立ち上がり、捨てられた仔犬のような表情をして懇願する。津村も将も馨も、無言で頷く。

 婦人はダイニングを振り返ると、津村や将の向こうで、ひっそりと腰掛けている息子の眼差しを捉えた。

 迷い、躊躇い、恐れ。はじめに目に付くのはそういった感情が綯い交ぜになった覚束なさだが、にもかかわらず、この場の光景に馴染んで見えるのはどうしてなのか。ただ単にテーブルを囲んでいるだけなのに、四人の青年たちは、一番奥に座る息子を守ろうとしているようでもあり、息子は戸惑いながらもそれに甘んじ、受け入れているようでもある。彼らの醸し出す空気には、まだなんとも名付けようのない、淡く儚い何かが潜んでいるように見えなくもない。

「……智行を、よろしくお願いします」

 ここに足を運ぶことになったときから、こうなることはわかっていた。

 ふぅっと嘆息して、ひとまわり小さくなってしまったように肩を落とす婦人に、広瀬は優しく微笑みかける。

「ご覧のとおりのむさ苦しい男所帯で、なんのおもてなしもできませんが、いつでもいらしてください」

「そうだよ、お母さん! 別に澤田くんを独り占めしようとかいうんじゃないんだから、いつでも遊びに来てよ。大歓迎なんだから!」

 和人はすばやくリビングにやってくると、婦人の手を取り、「ありがとう」と言った。「ありがとうございます」と頭を下げて、ギュッと抱きつく。

「よろしくお願いします」

 婦人も再びそう言って、和人の背中をポンポンとした。小さな子供をあやすようでもあり、任せたわよ、と励ますようでもあった。




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