(4)
一歩、また一歩、足を運ぶ。ただそれだけのことが、こんなにも難しい。杖とバーとに掴まっていなければ、自分のカラダも支えられない。なのに、萎えた腕は思うように動いてくれず、しっかり握っているはずの指はいつのまにやら命綱を放してしまう。
それでも、一歩、また一歩。歩いていくしか道はない。一歩、一歩。前へ、前へ。
「あ……っ」
「危ね!」
膝から崩れ落ちそうになるカラダを、華奢な腕に抱きとめられた。
「大丈夫かよ」
「……ああ」
いつのまにかすぐ近くにいたらしい、自分より頭ひとつ小さい青年の肩を借りて、カラダを起こす。
「もっとコッチに体重かけろよ。ヘーキだから」
生意気そうな面構えをした青年が、苛立たしげに舌打ちする。
いつもの、アイツらの、ひとりだ。そう確認して、ゆっくりと頷く。
「大丈夫だ。ひとりで、歩ける」
掴っていた腕を放して、杖をしっかりと握りなおし、再び前に向かって歩き出す。一歩。また、一歩。同じ過ちをくり返さないように、慎重に。
青年はやはり小さく舌打ちして、差し伸べたそうに浮かべた拳をギュっと握った。
だからここに来るのはイヤなのだ。できることはナニもない。いや、ホントはいくらでもあるのだが、当の本人がさせてくれない。ムカつく。腹が立つ。頭にくる。
だけど。
「やっぱ、カラダ動かしてる方がいいんだな」
病室に向かうさして長くもない廊下を寄り添うように並んで歩きながら、ボソッと呟く。ベッドに横たわり、魂をどこかに置き忘れたような顔でぼんやりしていたときよりも、歯を食いしばってまっすぐ前を睨みつけている今の方が、ずっと「らしい」。
「『澤田くん』も、そうだったのか?」
「え?」
言われた意味が飲み込めず、一歩前を行く痩せた背中をハタと見つめた。ナニ言ってんだ、他人事みたいに。そう思ってから、気がついた。まさに他人事なのだ、この人にとっては。
「……イヤ。俺が、そうだから」
それも、ウソではない。ツマラナイことをアレコレ思い煩うよりは、カラダを使って解決する。多少の無茶は望むところ。自分もそうだから、彼と同じように。
「そうか」
男が、唇の端でフッと笑った。「澤田くん」が見せたのと、寸分たがわぬ笑み。なのに、この人は彼ではない。そんなことが信じられるか。
確かに、変わってしまったことはたくさんある。一足はこぶたびに傾く背中。ぎこちなく頼りない腕の動き。無様に引きずられる長い足。
だが、そんなのはぜんぜん問題じゃない。そうだろう?
「退院の許可、出たんだってな」
それでようやく、見舞いに来る気になれたのだ。
将がここを訪れるのは、ひと月ぶりだ。
「ああ。週明けに検査して、問題なければ」
男は前を向いたまま、足を運ぶ合間に慎重に答える。
「帰って、くるんだろ?」
固い声で低く問うと、それまでとは違うタイミングで、肩が揺れた。
「帰ってこいよ」
答えようとしない背中を睨みつけると、男はふっと足を止め、ゆっくりとカラダ半分だけ振り返った。
「『母親』にも、同じことを言われたよ」
視線を足元に落としたまま、暗い目をして薄く笑う。
すみません。なにも覚えていないんです。どうしても、なんにも思い出せないんです。
そう言って頭を下げるしかない情けない「息子」に、それでもいいからいっしょに帰ろうと「母」は泣いた。大丈夫だから、お母さんがいるから、なんにも心配しないでいいから。
「息子」の萎えた足に縋りつくようにして泣き崩れる「母」は少しも「大丈夫」じゃなくて、やはり「すみません」と謝るしかなかった。そう言えばそう言うほど泣かせてしまうのはわかっていたが、ほかに言葉がみつからなかった。
「それでも、『帰ってこい』ってお前は言うのか?」
あの人を「母さん」とは呼べないのと同じように、俺は、お前たちの「澤田くん」には戻れないかもしれないのに。
「そうだよ」
歯を食いしばって言い切ると、男もまっすぐに視線をぶつけてきた。
そう。この目だ。すべてを見通そうとする鋭い双眸。どんな偽りも言い逃れも許さない、深い光を湛えた切れ長の眼。
ほら、やっぱりなんにも変わっちゃいない。
「アンタの帰る場所は、あそこだけだ」
閑静な住宅街の中の、ありふれたマンションの一室。澤田の自宅と兼用の、彼らの事務所。
「ぜんぶアンタがはじめたことじゃねーか。アンタがいなくてどーすんだよ」
ずっと言いたくて言えなかったことを、ようやく言えた。
「……"シークレット・サービス"、か」
男の強い眼差しが、ふっと揺らいだ。
わからない、なんにも。自分が何をやったのか、どうやって生きてきたのか。こうしてカラダの機能が回復しても、思い出せることは何もない。
「やめるんならやめたっていい。でも、ちゃんとアンタが終わらせてくれ」
将は男をジッと見上げたまま、低くかすれた声でしっかりと言った。
俺たちは「なんでも屋」だ。澤田はそう言っていた。もともとは一流企業にお勤めのエリートサラリーマンだったのだという。詳しいことは知らないが、産業スパイの摘発のようなことをやっていて、何か大きな事件に巻き込まれたのをキッカケに、担当部署が変わったのだと。人探しとか、浮気の調査とか、探偵っぽいこともやりはするが、ひとり暮らしの老人の話し相手やペットの散歩の付き添いまで、頼まれればなんでもやる。そういうチームを新たに作り出したのは澤田で、自由気ままに好き勝手やらせているように見せながら、その実、舞い込んだ依頼の裏を取ったり予備調査を行ったり、危険を回避するために動いていたのも澤田。
――ゴミみてーに生きてた俺を拾ったのも、アンタなんだ。
「俺は……」
男は何か口にしかけて、しかし、小さく首を振るとゆっくり前に向き直った。
一歩、一歩。前へ、前へ。それ以外にできることは、何もない。
グッと奥歯を噛みしめたまま、将も男の後ろを歩いていく。澤田も自分も無口な性質で、いつでも必要最低限しか語らなかった。それでも充分にわかり合えていた、これまでは。なのにどうして、こんなにも「届かない」と感じるのだろう。いったいナニが違うというのか。悔しい。もどかしい。腹立たしい。
「澤田さん?!」
突然、かわいらしいソプラノが響きわたり、廊下の先から年若い看護師が駆け寄ってきた。
「ダメじゃないですか、勝手にひとりで出歩いちゃ!」
「いや、その……」
「用のあるときは、ナースコールを押してください! リハビリは、リハビリの時間に、リハビリルームで、理学療法士とやってください! せっかくここまでよくなったのに、何かあったらどうするんです!」
まだ幼さの残るような顔をして、ピシピシと決めつけ叱責する。大のオトナの澤田が、少女のような看護師に叱りつけられているのがおかしくて、将が思わずニヤリとすると、くるりと振り返った看護師に睨まれた。
「笑ってないで、ちゃんと見張っててください!」
「俺?」
たまたま来あわせただけというか、エレベーターから降りたらちょうど澤田の背中が見えて、追いかけてきただけだというのに、理不尽ではないか。そんな思いがそのまま顔に出てしまい、ムカつきついでにちらりと澤田の様子を伺うと、向こうも共犯者めいた笑みを薄く浮かべて将を見ていた。
「ほんとにもう、油断も隙もないんだから! いいですか? お部屋に帰りますよ!」
看護師は将を脇に追いやり、自分がサポートする位置について促したが、澤田は立ち止まったまま、穏やかな声で静かに言った。
「少し、座って話したいんですけど、いいですか」
看護師は澤田の視線を辿り、将と、ナースステーション前の応接スペースを見比べる。病室のパイプ椅子よりはこちらに置いてある椅子の方が座り心地がいいし、仕事の合間に監視もできる。自分がその場にいなくても、ほかの誰かの目があるから安心だ。
「あまり長い時間はダメですよ。疲れたらすぐに言ってくださいね」
澤田は「はい」とすなおに頷き、将にも目頭で頷いてみせると、看護師に導かれて応接スペースへ歩いていった。将もその後ろから、ゆっくりとついていく。
澤田が椅子に落ち着くのを確認すると、看護師はすぐに立ち去った。将は少し迷って、斜向かいの席に腰を下ろす。
「そうか」
「え?」
「病室だったら、冷蔵庫に飲み物があったんだ」
「なんか飲みたいの? 持ってこようか?」
「俺はいい。お前のだよ」
「俺もいいよ」
「そうか」
「うん」
そうして不意に、沈黙が落ちる。どちらも目の前の白い丸テーブルに目をやりつつ、言葉の接ぎ穂を見つけられない。
そう、これだ。この感じ。
将はふっと笑って、ぼそりと呟く。
「久し振りだな、澤田くんと話すの」
思えば、もう半年近くになる。事故に遭う前、最後に話したのはなんだったか。たぶん、たいしたことじゃない。今みたいな、なんてことない会話だったはずだ。
「悪いな。何度か来てくれてたんだろ? はじめの頃のことは、ほとんど覚えていないんだ」
澤田もテーブルの表面に視線を置いたまま、ぽつりと言う。
将は「だろうな」と頷いた。
「俺さ、すげーな、人間ってこんなになっても生きてるんだって、驚いたもん。覚えてない方がいいよ、あんなの」
そうか、と澤田が苦笑する。
「それより、俺がぜんぜん、来なかったんだ」
そんなつもりはなかったのに、気がつくと、口の中で「ごめん」と小さく言っていた。
「謝るようなことじゃない」
ハッとして顔を上げると、澤田がこちらをまっすぐ見ている。
「それが、ふつうだよ」
無愛想なくせに、目つきも悪いくせに、こんなとき、澤田は胸が痛くなるくらい優しい表情をする。深く豊かな声が、心に響く。ずるいと思う。
「だとしても、来ればよかった」
だから、言えた。
「和人が、正しかった」
アイツに甘えてた。なんにもできなくても、なんにもさせてくれなくても、こうして来るべきだったのだ。
「俺には、わからないけどな」
澤田は静かに、穏やかに言う。
「アイツも、お前も、自分にとって正しいと思うようにしたんだろ。それでいい。というか、そうじゃないと、俺が困る」
眼差しを伏せて、ひっそりと笑う。
ああ、この笑い方。こういう風に笑う人だったな、と将は思う。誰かのためには、優しく笑う。楽しそうに笑うことだって、もちろんある。でも、淋しくて苦しくて悲しくて、そういう笑みを浮かべることの方が、ずっと多かった。心の底から本当に、カラッと明るく笑う澤田を、自分はまだ見たことがない。笑えないわけではないことは、わかっている。古いアルバムの中の澤田は、笑っていたから。嬉しそうに楽しそうに幸せそうに、眩しいくらいに笑っていたから。
「俺たちも、困るんだよ」
将はグイッと顔を上げ、澤田を見た。
ひとりでは立ち上がるのも難しいし、杖がなければ歩けない。それでも、Tシャツにスウェットパンツという格好で、ふつうに椅子に座って、話をしている。いつもの声で、いつもの口調で、いつもの表情で。
もう、いいだろう。いいじゃないか。
「澤田くんが戻ってきてくれないと、困るんだ」
和人から「全員集合」のメールが一斉送信されてきて、何事かと集まってみれば、澤田の退院の見通しが立ちそうだという話だった。
今のところ、澤田の記憶は戻っていない。
澤田の家族は、当然、実家で静養するものだと考えている。
自分たちとしては、どうするべきか。
どうするもナニも、澤田は当たり前に自分たちのもとに戻って来るものだと思っていた将は、ビックリした。本人の意向はどうなのかとか、家族の気持ちを考慮するととかいう話が交わされて、なるほど、そういうもんかとは思ったけれど、でも、将の答えは変わらない。終始無言でいた津村も、同じ気持ちなのだと思う。そして、難しい顔をしてあれこれ言っていた広瀬も和人も馨も、けっきょくのところ、ここで暮らすなら段差をなくしたり手摺りをつけたり、いろいろリフォームしないとな、なんて話に一番熱が入っていたあたり、思いは同じだ。
「帰ってきてよ、澤田くん」
ちゃんと伝われ、きちんと届け。
そう念じて送った言葉に、答えはない。
澤田は、立てかけてあった杖を手に取ると、すっと意識を集中させて、立ち上がった。
「ちょっ!」
将も慌てて席を立ち、いつでも支えられるように傍に寄る。ちらりと見ると、ナースステーションに先程の看護師の姿はなさそうだ。ほかに、誰か気づいたような様子もない。
澤田はあんなに従順な受け答えをしていたくせに、ひとりで歩き出した。壁の手摺りに掴まるまでの数歩が最大の難関で、しかしけっして将の肩を借りようとはせずに、慎重に一歩一歩、踏み出していく。
ほんっと、ムカつく。
そう思う一方、あんまり「らしく」て、泣けそうでもある。
「本当に愛されてたんだな、『澤田くん』は」
「え?」
ギシギシとポールが軋む合間の、くぐもった呟き。
「教えてやりたいな。お前はこんなにも大切にされてたんだぞ、って」
一足ごとに大きく傾く痩せた背中。今にも折れてしまいそうに骨ばって、それでも必死に歩いている。
「……心配ねーよ。ちゃんと知ってたから、あの人は」
かすれた声が、「そうか」と言った。こちらをチラとも振り返らず、ただただまっすぐ前を見つめて。
――本当は知ってんじゃねーか、アンタだって。
どこかで誰かが病室の窓を開けたらしい。
耳を聾するような蝉の声が、ぐわんと二人を包み込んだ。
もう、外の世界は夏の盛りだ。




