(1)
いつからだろう。
ずっと聞こえていたらしい物音が、意識をゆっくりと浮上させる。
聞くともなく聞いていたそれは、「音」ではなく「声」のようだ。
ぼそぼそとした掠れ声が、呟くように、囁くように、語りつづける。淡々として、抑揚はない。誰かに話しかけているというよりは、自分自身に言い聞かせているかのような、語り口。
単調なリズムが心地よい。
いつまでも聞いていたいと思わせる、声だった。
静かで、穏やかで、温もりがある。
聞いていると、なぜだか胸が苦しくなって、熱いかたまりがグッと奥からこみ上げてくる。
「どうした?」
「声」がはじめて「言葉」となり、白一色の殺風景な天井を背に、見知らぬ青年の顔があらわれた。
心なしか眉を顰めた表情に浮かんでいるのは、なんだろう。怯え? 不安? ほんの束の間、希望、という言葉がよぎりかけたが、それはあまりに場違いだ。
どう答えたらいいのか、わからなかった。ただただぼんやり、思い詰めたような憂い顔を見返していると、青年は何か物言いたげな様子をして、しかし何も言わず、俯いてしまう。
「……泣かないでよ」
ようやく絞り出された小さな声は、震えていた。肩を丸めて椅子に座る姿は急に縮んで、置いてきぼりにされた幼子のように頼りない。
無意識のうちに、右手を伸ばそうとしていた。
実際には腕を持ち上げることはできなかったが、それでもどうにか、指先がそちらに向いてくれる。
「え?」
青年の前髪に触れたかどうか、自分ではよくわからなかったが、彼の視線が上がったところをみると、どうやら届いたものらしい。
包帯を巻かれた右手はただそれだけで力尽き、シーツの上にぽとりと落ちた。
「なんか、泣きそうだから、お前」
ほとんど空気だけではあったけれど、どうにか声になってくれた。照れ隠しに笑って見せたつもりだが、自分が思ったような表情をできているのか、心許ない。
「なに、言ってんの」
青年はくしゃりと歪んだ顔を背けて、ベッドサイドの椅子から立ち上がった。そのまま視界から消えてしまったが、気配はそのまま残っている。
数歩ほど離れたあたりで、深く息を吸い込む音がくり返し聞こえた。何度も何度もしゃくりあげるような音がして、やがて静かになっていく。
「俺は、泣かないよ。泣くようなこと、なんもないから」
再び聞こえてきた声は、明るくて、哀しかった。無理に明るくしようとしていることが丸わかりで、余計に泣いているようにしか聞こえない。
だが。
「そうだな」
やはりほとんど音のない声で、そう応じた。そう応えるべきだと、今度ははっきりわかっていた。
青年は、ひゅぅと笛の音のような声を漏らし、それから、うん、と頷いた。
――涙なんて、必要ない。だって、悲しいことなんか、ないんだから。
ここは、病室だ。
頭を動かすことはできないが、ベッドヘッドがわずかに上げられていて、足元まで見渡すことはできる。直接カラダに触れないようにという配慮なのか、寒々しいほどにまっ白な上掛けは四角い枠の上に被せられ、その下の肉体を覆い隠してしまっている。ベッドの周囲は機械とコードに埋め尽くされて、その隙間に、青年が座っていた丸椅子が、いかにも居心地悪そうに置かれていた。
自分は、ほとんどの時間を眠って過ごしているらしい。
知らぬ間に眠り、知らぬ間に起きる。そうして再び眠ってしまう。
定期的に医者や看護師、医療スタッフが姿を見せているようだが、そしてそのときには会話もしているようなのだが、ほとんど何も覚えていない。
「なあ」
青年に声をかけたつもりだが、本当にそうしたのか、そんな夢を見ているのか、曖昧になってきた。
だから、言えた。
「お前、誰?」
そちらを見ることはできなかった。青年は視界の向こうにいたままで、ここからは影すらも見えない。
返事は、なかった。
いなくなってしまったのだろうか。それともやはり、これは、夢の中の出来事なのだろうか。
そうなのかもしれない。夢から醒めた夢を見て、誰かと話したつもりになっていただけなのだ、きっと。
そう納得しかけたところに、ひび割れた声が聞こえてきた。
「俺は、俺だよ。誰でもない」
姿の見えない青年が、笑おうとしているのがわかる。笑おうとして、笑えなくて、泣かないようにして、泣きそうになっている。
髪を撫でてやりたいのに、腕を持ち上げることがどうしてもできない。そちらに顔を向けることさえかなわずに、こうして天井を見つめていることしかできないのだ。
短い覚醒の間、ぽつりと置かれた小さな丸椅子に、座っている男たちがいる。見舞い客、なのだと思う。この青年と同じような年格好、20代から30代の、まだ年若い男たち。自分のことをよく知っているらしく、親しげに声をかけてくる。取り立てて何を話すということもないが、ぶっきらぼうだったり、素っ気なかったり、ぞんざいだったりする口振りが、気の置けない間柄であることを雄弁に語る。
それなのに、彼らが何者なのか、わからない。
懐かしい気がする。夢うつつで彼らの声を聞いていると、そうして共にいることを、自然と受け止めている自分がいる。
ちょうど今、薄らぎはじめた意識の狭間で、青年の言葉を受け入れているように。
――そうだな。お前は、お前だ。そんなの、当たり前じゃないか。バカだなぁ、俺は。
いつしか瞼が閉じていた。眦から熱い雫が伝わり落ちて、そうして何もわからなくなった。
また、無明の闇に絡みとられる。




