表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
春を待つ日々  作者: 苅野しのぶ
山眠る
1/34

(1)

 いつからだろう。

 ずっと聞こえていたらしい物音が、意識をゆっくりと浮上させる。

 聞くともなく聞いていたそれは、「音」ではなく「声」のようだ。

 ぼそぼそとした掠れ声が、呟くように、囁くように、語りつづける。淡々として、抑揚はない。誰かに話しかけているというよりは、自分自身に言い聞かせているかのような、語り口。

 単調なリズムが心地よい。

 いつまでも聞いていたいと思わせる、声だった。

 静かで、穏やかで、温もりがある。

 聞いていると、なぜだか胸が苦しくなって、熱いかたまりがグッと奥からこみ上げてくる。

「どうした?」

 「声」がはじめて「言葉」となり、白一色の殺風景な天井を背に、見知らぬ青年の顔があらわれた。

 心なしか眉を顰めた表情に浮かんでいるのは、なんだろう。怯え? 不安? ほんの束の間、希望、という言葉がよぎりかけたが、それはあまりに場違いだ。

 どう答えたらいいのか、わからなかった。ただただぼんやり、思い詰めたような憂い顔を見返していると、青年は何か物言いたげな様子をして、しかし何も言わず、俯いてしまう。

「……泣かないでよ」

 ようやく絞り出された小さな声は、震えていた。肩を丸めて椅子に座る姿は急に縮んで、置いてきぼりにされた幼子のように頼りない。

 無意識のうちに、右手を伸ばそうとしていた。

 実際には腕を持ち上げることはできなかったが、それでもどうにか、指先がそちらに向いてくれる。

「え?」

 青年の前髪に触れたかどうか、自分ではよくわからなかったが、彼の視線が上がったところをみると、どうやら届いたものらしい。

 包帯を巻かれた右手はただそれだけで力尽き、シーツの上にぽとりと落ちた。

「なんか、泣きそうだから、お前」

 ほとんど空気だけではあったけれど、どうにか声になってくれた。照れ隠しに笑って見せたつもりだが、自分が思ったような表情をできているのか、心許ない。

「なに、言ってんの」

 青年はくしゃりと歪んだ顔を背けて、ベッドサイドの椅子から立ち上がった。そのまま視界から消えてしまったが、気配はそのまま残っている。

 数歩ほど離れたあたりで、深く息を吸い込む音がくり返し聞こえた。何度も何度もしゃくりあげるような音がして、やがて静かになっていく。

「俺は、泣かないよ。泣くようなこと、なんもないから」

 再び聞こえてきた声は、明るくて、哀しかった。無理に明るくしようとしていることが丸わかりで、余計に泣いているようにしか聞こえない。

 だが。

「そうだな」

 やはりほとんど音のない声で、そう応じた。そう応えるべきだと、今度ははっきりわかっていた。

 青年は、ひゅぅと笛の音のような声を漏らし、それから、うん、と頷いた。


 ――涙なんて、必要ない。だって、悲しいことなんか、ないんだから。


 ここは、病室だ。

 頭を動かすことはできないが、ベッドヘッドがわずかに上げられていて、足元まで見渡すことはできる。直接カラダに触れないようにという配慮なのか、寒々しいほどにまっ白な上掛けは四角い枠の上に被せられ、その下の肉体を覆い隠してしまっている。ベッドの周囲は機械とコードに埋め尽くされて、その隙間に、青年が座っていた丸椅子が、いかにも居心地悪そうに置かれていた。

 自分は、ほとんどの時間を眠って過ごしているらしい。

 知らぬ間に眠り、知らぬ間に起きる。そうして再び眠ってしまう。

 定期的に医者や看護師、医療スタッフが姿を見せているようだが、そしてそのときには会話もしているようなのだが、ほとんど何も覚えていない。

「なあ」

 青年に声をかけたつもりだが、本当にそうしたのか、そんな夢を見ているのか、曖昧になってきた。

 だから、言えた。

「お前、誰?」

 そちらを見ることはできなかった。青年は視界の向こうにいたままで、ここからは影すらも見えない。

 返事は、なかった。

 いなくなってしまったのだろうか。それともやはり、これは、夢の中の出来事なのだろうか。

 そうなのかもしれない。夢から醒めた夢を見て、誰かと話したつもりになっていただけなのだ、きっと。

 そう納得しかけたところに、ひび割れた声が聞こえてきた。

「俺は、俺だよ。誰でもない」

 姿の見えない青年が、笑おうとしているのがわかる。笑おうとして、笑えなくて、泣かないようにして、泣きそうになっている。

 髪を撫でてやりたいのに、腕を持ち上げることがどうしてもできない。そちらに顔を向けることさえかなわずに、こうして天井を見つめていることしかできないのだ。

 短い覚醒の間、ぽつりと置かれた小さな丸椅子に、座っている男たちがいる。見舞い客、なのだと思う。この青年と同じような年格好、20代から30代の、まだ年若い男たち。自分のことをよく知っているらしく、親しげに声をかけてくる。取り立てて何を話すということもないが、ぶっきらぼうだったり、素っ気なかったり、ぞんざいだったりする口振りが、気の置けない間柄であることを雄弁に語る。

 それなのに、彼らが何者なのか、わからない。

 懐かしい気がする。夢うつつで彼らの声を聞いていると、そうして共にいることを、自然と受け止めている自分がいる。

 ちょうど今、薄らぎはじめた意識の狭間で、青年の言葉を受け入れているように。


 ――そうだな。お前は、お前だ。そんなの、当たり前じゃないか。バカだなぁ、俺は。


 いつしか瞼が閉じていた。眦から熱い雫が伝わり落ちて、そうして何もわからなくなった。

 また、無明の闇に絡みとられる。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ