第五章 対峙 憎悪と因縁 信念と執念
「これは中々、便利ですね」
カーミラは支配した能力者、ミリア・スカイラインの能力で空中を移動しながら小さく感嘆の声を漏らした。
「よい拾いものをしたものです」
続けてそう呟き、傍らで同じように宙を移動する少女に目を向ける。
少女――――ミリアの表情はうつろで、その目からは生気が失われ、瞳には何も映っていない。万に一つも逆らうことがないように自我が取り去られているのだ。意志の強いジェンキンスにそうすることは不可能だったが、まだ幼いミリアの意志を奪うのはたやすかった。
所属が同じジェンキンスが全く役に立たなかったので不安だったが、このミリアという少女は思いのほか役に立った。隙を突くのも簡単だったし、支配にかかる時間もジェンキンスよりずっと少なくすんだ。そして何より、この空気を操る能力はすさまじく便利である。一度に一種類ずつしか使えない、加減が効かないなどの欠点はあるが、攻撃、防御、探知、さらには移動までこなすこの能力は、カーミラが必要とする要素をすべて満たしている。
「この子がいなければここまでたやすく脱出することは叶わなかったでしょうね」
眼下に広がる工業団地跡を眺めながら、カーミラは呟いた。ここを抜ければ、街から脱出できる。もう数分もかからない。
「この子なら、これから先も飼ってあげてもいいかもしれません」
この能力があれば、これから先の旅もぐっと安全になる。まだ幼いから飼い馴らすのも容易だろう。
そんなことを考えているうちに前方に街境が見えてきた。
(もう少し!)
あと少しで街境を越える、そのとき。
街の外と中が、見えない壁で仕切られているかのように、カーミラたちの身体は空中で突如静止した。
(これは……結界!?)
この街を覆っていた結界は先程消滅したはずである。ヴラドが呼んだ助っ人とやらが邪魔をしているので貼り直されたとも考えにくい。
(ということは――――まずい!)
「能力を解除なさい!」
危険を察したカーミラは、慌ててミリアに命令する。
それと同時に二人を包み込んでいた空気が拡散して、重力に従って落下する。カーミラはこの高さから落ちても危険はなく、ミリアには自分の身を守るように命令してあるので心配はない。
落下しながらカーミラは頭上を見上げる。さっきまで自分たちがいた位置を幾本もの光の筋が通過するのが見えた。何者だろう、カーミラは光の筋の来た方向に目を向けた。
その先には一人の男が佇んでいた。男は夜の闇よりなお黒い外套を羽織り、猛禽類を思わせる鋭い目つきでこちらを睨みつけている。
(あれは、確か……)
カーミラは男が何者であるかを認識し、忌々しそうに顔をゆがめ、呟くようにその名を呼ぶ。
「ハヤミ、シンクロ―……!」
「間に合ったようだな」
空中で制止する吸血鬼たちを見て、真九郎は安堵の息をついた。
正四郎やその従者と同系統の術社である真九郎は、結界の作成にもある程度通じている。しかし、街一帯を覆うような代物を作れるほどの力ではないので、標的が視認できる距離まで近づかねばならない。
吸血鬼たちが街を出る前に追いつき、結界を張ることができたのは幸いだった。これで万に一つも奴らを逃すことなく、戦うことができる。
「……水生木」
結界に阻まれて空中で静止する吸血鬼たちを追撃すべく、真九郎は息もつかずに攻撃のための文言を唱える。直後、何もな虚空から電気を放ち、紫色に輝く光球がいくつも浮かび上がる。
東洋に伝わる五行思想の一つ、五行相生。曰く、木は火を生み、火は土を生み、土は金を生み、金は水を生み、水は木を生む。
真九郎はそれに由来する術を使用し、大気中を漂う水蒸気を木の属性を持つ雷に変化させたのだ。
「貫け」
二言目で宙に浮かぶ光球たちに方向性を与える。光球は稲妻へと姿を変え、吸血鬼たちを射抜くべく、空を駆け抜ける。
その攻撃が当たる寸前、吸血鬼たちは能力を解除したのか、自由落下を始め、雷撃は結界に当たり、はじけて消えた。結局、当たることはなかったがかまわない、もとよりこの雷撃は奴らを地に落とすためのもの、目的は果たせた。
標的は二人、一人は地面に接触したと思ったら、闇に溶けるように姿を消した。気配は依然として付近を漂っているので、何らかの方法で姿を隠しただけだろう。もう一方は途中でもう一度宙に浮かび、こちらに向かって直進してくる。
それは真九郎の行く手を遮るような位置で静止し、空中で立ち上がった。
「なんと……!?」
明らかになったその姿に、真九郎は目をむいた。
「ミリア嬢! 何故!?」
正四郎とともにいるはずの彼女が何故ここに、そして何故吸血鬼の味方をしているのか。
空中に佇んだミリアは、うつろな目で真九郎を見つめている。目を凝らすとその生白い首筋に小さな穴が二つ並んで空いているのが見て取れた。
「……操られているのか」
吸血鬼に噛まれ死んだ者は吸血鬼になる。噛まれただけで死んでいない者は吸血鬼の操り人形になってしまう。ジョージの言うには、死んで吸血鬼になるには丸一日かかるという。ならば彼女は後者とみて間違いない。
(ということは、まだ手遅れでない)
彼女を手にかけなくてもよい、その事実に真九郎は安堵した。そして表情を再び真剣なものに変える。
この瞬間より、あれは自分の敵である。退けるためなら、殺害以外のどんな行為も厭わない。そう覚悟を決める。
「……」
先に動いたのはミリアだった。彼女が無言で片手を前に突き出すと、周囲の空気が渦巻き、凶器を形作る。
一つ、二つ、三つ、四つ
平常より小さいが、数ははるかに多い。それらが全て真九郎を貫くために動き出す。
事前に彼女の能力の性質を知らされていた真九郎は、自分に襲い掛かる空気の槍の数に驚いたが、瞬時には認識を切り替え、横に飛びのいてそれらをかわした。しかし、槍の群れは進路を大きく変え、真九郎に向かってくる。
超能力は精神の能力、その性質は使い手の精神状態によって多少変化する。どうやら自由意志を奪われたことで、威力は減少したがその分、感情のムラが無くなり精密性が上昇しているようだ。これらの槍は操っている本体を叩かなければいつまでも真九郎を追うだろう。空気を破壊することなどできはしないのだから。
槍は真九郎を囲む形にそれぞれ曲がり、襲い掛かる。それらの間に人が通れる隙間はない。
回避は不可能、そう判断した真九郎はとっさに両手を地につけた。その瞬間周囲の地面が隆起し、壁を構築して槍を阻む。そして、わずかにできた隙間をくぐり、包囲を抜ける。
「土生金!」
その際、周囲の壁から金属を生み出し、さらに二振りの短刀へと変化させ、両手に握る。
壁で阻んだといっても、それは空気の進行方向を変えるだけである。包囲を抜けてもすぐにまた囲まれてしまうだろう。そうなる前に、真九郎は両手に持った短刀を上空に浮かぶミリアに投げつけた。
狙うは両肩。身体を支配され、自由意志を奪われたとて、肉体の危険信号たる痛覚まで奪われているわけではあるまい。能力を維持できなくなるほどの激痛を与えれば、この空気の槍も霧散するに違いない。肩ならばすぐさま治療を施せば致命傷にはならないだろう。それでも重傷を負わせてしまうのに変わりはないし、最悪両腕が一生使いものにならなくなってしまうかもしれないのが心苦しいが、手加減してどうにかできる相手ではないのでやむおえない。
(拙者の読みが当たっていればそうなることを防げるやも知れぬ……違った場合は、許してくれ)
短刀はまっすぐ失速することなく、ミリアの肩めがけて飛んでいく。
しかし、ミリアの身体に届く寸前に、彼女の周囲に現れた空気の壁によって短刀は二つとも弾かれてしまった。それと同時に、真九郎に迫る槍の群れも動きを止め、霧散する。
(やはり)
自分が想像した通りの出来事が起こったので、真九郎は小さく頷いた。
ミリア・スカイラインの能力は攻撃と防御を一度に行うことができない。そして、彼女はこちらを攻撃することではなく、自分の身を守ることを優先するよう命令されている。敵が必要なのは、自身が死ぬまで戦い続ける戦闘機械ではなく、相手を疲弊させるまでの時間を稼ぐ人質だということだ。無駄な体力を消費しないよう慎重に戦えば、かえって消耗してしまうだろう。反対に少し危険を冒してでも畳みかけた方が最終的な消耗は少なくすむ。
瞬時にそう結論を下した真九郎は足先に力――――魔力とも気とも呼ばれるエネルギー――――を集め、地面を思い切り蹴った。途端に足元の土が隆起し、真九郎の身体を上空へ押し上げた。そして、隆起した地面を足場に、真九郎は強化された足で、ミリアの浮かぶ高度まで跳躍した。
そして、防御から攻撃に転じようとしていたミリアに、足と同じように力を集めた拳をぶつける。
ミリアはすぐさま槍に転じようとしていた空気を再び壁にし、防御しようとする。拳は空気の壁に阻まれ、ミリアに届かない。しかし、そんなことは真九郎にとっては想定内のことだった。
拳による物理エネルギーは空気の壁によって阻まれてしまう。しかし、体内の気を収束して放たれた超常的エネルギーはそうならない。放たれた力は空気の壁を伝導し、ミリアの体にまで到達する。
ミリアの体に放たれたエネルギーは、彼女の体を直接破壊せず、内部を駆け巡った。
魔力や気といった超常的エネルギーになじんでいない人間はそれを流し込むとその心身に強烈な負担がかかる。超能力を持つということ以外は普通の人間であるミリアの心身は、当然その負担に耐えられず意識を停止させる。
少女を浮かばせていた空気の塊が散り、少女の身体は重力に従い落下し始める。真九郎はとっさに落下するミリアを抱きとめ、そのまま難なく着地した。そして、着地した真九郎は抱きとめた彼女に怪我をさせないよう、丁寧に地面に下し、身体に何か異常がないか確認する。
「うむ、大事には至っておらぬようだ」
彼女の身体に、先程の攻撃による後遺症や吸血鬼の襲われた影響がないのを確認し、真九郎は安堵に胸をなでおろした。
大分手加減したが、耐性のない人間に力を流し込むこと自体が危険なので不安だったが、この分なら二、三日手足がふらつく程度で済むだろう。
後は吸血鬼によっていじくられた精神が心配だが、それは今の自分ではどうしようもないことだ。
ミリアの安全を確認し終えると、再び真九郎は彼女を抱き上げ、歩道のわきにそっと寝かせ、寒さを完全には防げないだろうがせめての気休めにと自分の着ていたコートを優しく被せた。そして、仕上げとして周囲の地面にゾンビを防ぐための魔除けの陣を描く。
「よし」
一連の動作を終えた真九郎は小さく頷くと身をひるがえし、立ち並ぶ工業団地跡を見据え、歩き出した。
「覚悟せよ吸血鬼」
その表情は険しく、その目つきは剣のように鋭かった。
そのとき、ジョージはただひたすらにヴラドが化した霧の塊を追って歩き続けていた。疲労してしまうことも、案内してくれる霧を追い抜いてしまうこともかまわず、前へ走り出したくなる衝動を抱えて。
あと少し、あと少しであいつに会える、あいつを殺せる。そうだ、ジョージ・ハーカーこのときのためだけに生きてきたのだ。あのときから――――
――――十二年前のあの日まで、ジョージは何もかも持っていた。その何もかもが全て死に飲み込まれたあの日まで。
父がいた。母がいた。兄も姉もいた。友人だっていた。
みんな死体になった。動き、喰い、殖え続ける死体の群れに。
ジョージだけが生き残り、助け出された。
おそらく運が良かっただけなのだろう。たまたま死体たちが川を渡れないことを知っていたから、たまたま両親や兄姉が彼を逃がすために犠牲になってくれたから、ジョージは生き残ることができたのだろう。
その後、天涯孤独となったジョージは、自分を助け出したハンターの一人に引き取られることになった。
養い親となったハンターに明かされたところによるとそもそもの発端は百年前のロンドンにあるという。
その頃のロンドンは一体の凶悪な吸血鬼により脅かされていた。その吸血鬼の名はドラキュラ伯爵。五百年ほど前のルーマニアに生まれた吸血鬼で、長い間東欧で猛威を振るっていたが、産業革命の光に誘われ、海を越えてやってきたのだ。
ロンドンに到着したドラキュラは都市の闇に潜み、ロンドンを死都に変えるべく、少しずつ犠牲者を増やしていった。しかし、その凶行はある五人の人間の手によって阻まれる。
彼らの名はヴァン・ヘルシング、ジャック・セワード、アーサー・ホルムウッド、キンシ―・モリス、そしてジョナサン・ハーカー。彼らは何の力もなく、また知識も乏しい普通の人間だったが、いち早くドラキュラの存在に気付き、彼を倒すために動き出した。そして、仲間の一人、キンシ―・モリスを失いながらも彼を追い詰め、倒した。
そこで、全て終結したかに思えた。しかし、事態はまだ終わっていなかったのである。
およそ百年後、彼――――吸血鬼ドラキュラ、ヴラド・ドラキュルは復活した。
それだけならまだよかった。復活した彼は人が変わったようにおとなしくなり、以前のような大量虐殺は行わなくなっていた。自分を倒した者の子孫に復讐しようとする様子も全くなかった。
ジョージの不幸は、彼がジョナサン・ハーカーの子孫であったことではなく、ジョナサンの妻であり、ドラキュラに噛まれたが、吸血鬼やゾンビになることを免れた唯一の人間、ミナ・ハーカーの墓がある町に住んでいたことだった。
吸血鬼に噛まれ、死ねば吸血鬼になる。しかし、その前に噛まれた元の吸血鬼が死ねば、吸血鬼にはならない。
ならば、噛まれたが助かった人間の死後、元の吸血鬼が甦ったならどうなるか?答えは、遺体が残っていたならば吸血鬼として甦る、である。
もちろん、当時のイギリスは土葬である。十二年前、ヴラドが甦ったと同時に、ミナもまた吸血鬼となって甦り、血を求めて彷徨い出た。そして、ジョージの町を滅ぼしたのだ。
……それは自分に何の関係があったのだろう。その話を聞かされた当時のジョージは怒るでもなく、悲しむのでもなく、ただ呆然とそう思った。
百年前の自分の先祖のことなど何も知らないし、その先祖が戦った相手などもっと知らない。それでも、その相手が復讐のために町を襲ったのならまだ分かる。しかし、先祖が倒したという吸血鬼すらこのことには直接関係していない。そしてそいつはそんなことが起きたことも知らずに、今もどこかでのうのうとしているのだ。
呆然としていた心は時が経ち、家族を失ったという事実を自覚していくにつれ、憎悪に染まっていった。
こんなものはただのとばっちりだ。自分も、自分の周りの人々も百年前の誰とも関係なんてない。
人々を殺したミナが憎かった。その原因を作ったと言える先祖たちも憎かった。……すべての元凶であるドラキュラ伯爵も当然、憎かった。
その中で生き残っているのはヴラド・ドラキュルただ一人。ジョージは自分の心中で燃え盛る憎悪の全てを、今ものうのうと生きている彼に向けた。
必ず奴を探し出し、もう生き返ることがないように殺しつくす。それからのジョージの人生はその一点のみに注がれた。
自分を引き取ってくれたハンターに弟子入りし、彼の所属する組織に入り、肉体を極限まで鍛え、それでも飽き足らずまだ未調整の新兵器にまでで手を出し、吸血鬼を倒すための力を蓄えた。そして、抑えきれない憎悪のはけ口として数多の吸血鬼を葬りながら、ついに彼にたどり着くことができた。
「……着いたのか……」
今の自分の原点と今日まで進んできた道のりを思い返しているうちに、自分の前を移動していた黒い霧が動きを止めていた。
その前方には、いかにも吸血鬼の類が潜んでいそうな古びた洋館がそびえていた。
「ここだ」
黒い霧はそう一言だけ告げると、告げると文字通り霧散する。
「ここか……」
ヴラドの言葉をかみしめるように呟き、ジョージは館を見上げた。
……ここに奴がいる。やっとたどりついたのだのだ。もう逃がしはしない。必ずあの男を殺す。いや、それだけでは足りない。ヴィクターが見せた、この世の全てから見放されたような絶望に満ちた表情をさせてから息の根を止めてやる。そのためなら死んでしまってもかまわない、ジョージは心の底からそう思い、ゆっくりと歩を進め、館の中へ入っていった。
速水真九郎は、ミリアを真九郎にぶつけ、姿を消した吸血鬼の気配を追い、工業団地跡の一つの内部を進んでいた。その両手には新たに生み出された短刀が握られており、どこから何が襲ってこようと対応できるように身構えている。
そうして道すがら、真九郎はこの先で待つ標的のことを考えていた。ジェンキンスをなぶり殺しにし、ミリアを辱め利用した卑劣な吸血鬼。他者を弄び、自らは闇に潜むこの邪悪を決して許してはおけない、と真九郎は義憤する。
速水の家はその名を名乗り始めたのは九代前、流派自体は千年前から続く退魔の家系であり、その家訓は『守るべきものを守れ』。
真九郎もその家訓に従い、また共感し、これまでの人生を歩んできた。そんな彼にとって、この先で自分を待ち受けているであろう吸血鬼は絶対に倒さなければならない敵だった。
得体のしれない相手に対する不安も感じてはいたが、真九郎はもう後戻りのできない決断をしていたし、自身の安否よりもこの吸血鬼を逃がすことによって死んでしまうかもしれない人々の命の方が重要だった。
(相手が何であろうと、それが人に仇なすのであれば打ち倒すのみ。その果てに自らの死が待っていようと、それも本望)
真九郎はそう心の中で呟いて思考を打ち切り、足を速める。
そして、しばらく進んでいって、真九郎は一直線に続く廊下の側面に並ぶドアの一つの前で立ち止まった。気配は目の前のドアの向こうに続いている。
間違いなく、いる。
おそらく隠れているわけではない、真九郎を殺さなければこの団地からは逃れられないのだから、出来得る限り自分に有利になるように場所を整え、待ち構えているのだろう。
「……」
真九郎は決してドアに手をかける――――ようなことはせず、ただ目を見開いてドアを睨みつけた。直後、金属でできたドアは目に見えない刃によって細切れにされた。
真っ正直にドアを開ければ、ドアから手を離し武器を構えるまでの間、無防備な胴体を相手にさらすことになる。よって真九郎は手を使わずに部屋に入ることを選択した。
「……貴様がそうか」
細切れになって崩れ落ちるドアの破片の向こうを見据えて真九郎は言った。
廃棄された居住空間、家具の一つもないその部屋の中央にそれは佇んでいた。それは美しい少女の姿をしていた。ゴシックロリータのドレスに身を包み、物憂げに顔をうつ向かせ、上目遣いでこちらを見つめている。その瞳は深い海の底のように暗く、冷たい。
「女子の吸血鬼……カーミラ嬢か」
真九郎はジョージに聞いて知っていた名を口にした。
「ええ、その通りです。ハヤミシンクロー」
カーミラはうつ向けていた顔を上げ、表情と同じ冷たい口調と声で返した。
同じく名を呼ばれた真九郎は眉をひそめ、表情を険しくした。
何故、自分の名を知っている?
自分はジョージに話を聞き、彼女の素性を知っていたが、この女には自分のことを詳しく知る仲間などいないはずだ。
「何を驚いているのですか? これから向かい合おうという相手の素性くらい、知っておくのが当然でしょう?」
真九郎の表情を見て、カーミラは呆れたように言う。
それが問題なのではない、どうやってそれを知り得たのかが問題なのだ。そう心で呟いて、真九郎はますます表情を険しくする。
「しかし、ノックぐらいしたらどうですか? いきなりドアを壊すなんて、失礼な男ですね」
そんな真九郎の態度など気にも止めていないように、カーミラは呆れた口調のまま続ける。
「人でないものに人の礼など必要なかろう?」
険しい表情のまま真九郎は言い返す。その言葉には迷いがなく、心底からそう思っているのだということが見て取れた。
「……本当に、失礼な男……!」
カーミラは忌々しげに牙をむき、表情をゆがめる。しかし、すぐさま思い直したように表情を戻し、落ち着き払った態度で口を開いた。
「ふん、まあいいでしょう、男とは総じて失礼な生き物です。さて、私が今こうしているのはあなたと殺し合いをするためでも、ましてや口喧嘩をするためでもありません。一つ、あなたに提案をしたいのです」
「提案、だと?」
カーミラの奇妙な申し入れに、真九郎はいぶかしげに眉をひそめた。
「ええ、単刀直入に言いますと、私を見逃してもらいたいのです。」
「断る」
何の逡巡も無く、真九郎はカーミラの提案を一言で斬り捨てる。そして、そのまま大声で叫ぶ。
「見逃せだと? ふざけるな! 今貴様を逃せば、大勢の人間が貴様を生かすための餌となって死ぬ! それだけではない、これまでもどれだけの人々を殺してきた!? 数百年だ、千や二千ではあるまい! 今もまた一人をなぶり殺し、一人を弄んだ。その様な邪悪を見過ごすことなどできるはずがない!」
その声は大気が震えているかと錯覚するほどすさまじく、目の前の相手に対する激しい怒りと殺されてしまった人々に対する深い哀しみが感じられた。
いきなり激しい感情をぶつけられたカーミラは一瞬戸惑うように身をすくませたが、すぐに何も知らぬ子供に諭すかのように笑みを浮かべ、穏やかな口調で語りかける。
「邪悪、ですか。ずいぶんな言いようですね。しかし、シンクロー、あなたは、いえ、あなたたちは勘違いしています。私はヴィクターのような考えなしに殺し、考えなしに仲間を増やす輩とは違う。私が殺すのは生きるために必要なだけ――――ひと月に二、三度程度の食事と、私に危害を加えようとする者たちに対する自衛の結果だけです。前者の数はあなたたち人間が『一日』に食べる牛や豚の数よりずっと少ないですし、後者は向かってくる輩に非がある。それに、あのジェンキンスという男は確かに私が半殺しにしましたが、こんな時のために虫の息のままで死なないように処置してあります。何なら今からでも治療して差し上げてもいいですよ? ミリアとかいう子も自我を奪っていただけで、心身ともに無傷です。……ねえ、これでわかったでしょう? 私は私利私欲のために同族をも殺す人間とは違う。ただ生きるために必要なことを為しているだけです。ただ生きているだけの獣をあなたは邪悪と呼ぶのですか?」
カーミラはそこで一旦言葉を切り、浮かべていた笑みを消す。
「もう一度言いますよ。私を見逃してくれませんか。私は静かに暮らしたいだけなのです。だから、どうか」
真剣な表情で懇願するように、カーミラは問いかける。
「……そうか、二人は無事か。よかった」
押し黙ってカーミラの言葉を聞いていた真九郎は聞き終わると同時に微笑んだ。
その表情を見たカーミラは信じられないというように目を見開いた。
「な、ならば」
もしかしたら、うまくいったかもしれない、期待を込めた表情でカーミラは口を開く。
「しかし」
だが、彼女の期待を断つように真九郎は厳しい口調でカーミラの言葉を遮る。
「それでも貴様を逃すことはできない……貴様が私利私欲で人を殺す邪悪でなかったとしても、これからも人を喰い続けるのであれば、許すことはできない」
先程までの激しい怒りはないが、それでも迷いのない口調で真九郎は告げた。
「そう、ですか……」
カーミラは表情をさっきまでの不機嫌で無機質なものに戻し、心底がっかりしたような口調で言った。
「では、残念ですが、ハヤミシンクロー、あなたを殺さなくてはならないようですね」
淡々と語るその姿は、まるでスイッチが入ったように冷たい殺気をまとう。
真九郎は両手の短刀をかまえることでその殺気に応じた。
最初に仕掛けたのはカーミラだった。手を拳銃のようにかまえ、真九郎に向ける。その指先から銃弾のような物体が何発も撃ちだされ、真九郎を襲う。そして、カーミラ自身も床を蹴り真九郎に襲い掛かる。
「……!」
真九郎はまずすさまじいスピードで自分に迫りくる物体を両手の短刀で防御した。物体は短刀に弾かれ、火花を上げて次々と床に落ちていく。
弾くたびに短刀の形が変形していくが、なんとかすべて弾き落とすことができた。
そして、すべて防ぎ終えると同時に、すぐ目の前まで迫ってきているカーミラを眼光鋭く睨みつけた。その途端、見えない刃がカーミラを襲う。
不可視の刃に反応することができず、カーミラの身体は切り刻まれた。首や心臓を含む全身を切断されたカーミラは、断末魔の声を上げることもせずに消滅する。
「倒した、のか……?」
真九郎はカーミラが消滅するのを見届けると、かまえを解いて大きく息をついた。敵を倒した、はずだが、真九郎は釈然としない表情のまま、辺りを見回す。
あっけなさすぎる。
吸血鬼は不死性は高いが化け物としてはあまり強い方ではないらしい。しかし、これではあまりにあっけない。
されど、現に辺りを漂う気配は薄れていっているし、自分の攻撃は吸血鬼が復活できなくなる急所を確実についていた。
やはり、倒せたのだろうか。そう結論付けようとした真九郎はふと、自分の足元に何か白い物体が転がっていることに気付いた。それはカーミラが撃ち出し、真九郎が弾き落としたものである。
「骨?」
それは人の指の骨だった。
――――何故、本体が消えたのに残っている?
そのことに気付いた途端、真九郎は血相を変え、瞬時に短刀をかまえて背後を振り返った。直後、かまえた短刀は今まさに真九郎に向かって振り下ろされようとしていた刃を受け止めた。
骨の弾丸を防いだせいで消耗していた短刀は、自身よりはるかに硬いと思われる刃に砕かれる。しかし、その反動を利用し、真九郎は後ろに飛びのき、刃の回避に成功した。
「あと少しだったのに」
目の前に佇む刃の主――――消滅したはずのカーミラはさほど悔しくもなさそうな口調で呟く。
その姿は異様の一言に尽きた。まず体の右半身が何かにかじられたように歪に欠損しており、その断面の周りに無数のとても小さな羽虫がまとわりつき、断面を覆い隠している。そして欠けていない左腕も、二の腕から骨が飛び出ており、それが真九郎を襲った刃を形成していた。
「虫……骨……その変形、そうか、貴様は」
真九郎はその異様な姿に驚愕しながらも、得心がいったという様子で言葉を発する。
「そう、あなたの推測通り、私は自分の身体を自由自在に変形、分裂させることができます。また、その応用により身体の一部、または全部を人間以外の生物に変えることも可能」
話している間に、カーミラの肉体は完全に再生を終え元通りの無傷の姿に戻る。
つまり、カーミラは日が落ちてから姿を現すまでずっと自分の身体を羽虫に変化させ、街中に分散させて情報収集を行っていたのだ。ジェンキンスとミリアをほぼ同時に襲えたのも分散させた羽虫を二か所に集め、同時に身体を再構成させただけのこと。さっき消えたように見えたのも、身体を分散させて姿を隠していただけに過ぎない。
「だが、しかし」
「だが、しかし先程は確かに心臓と頭をとらえ、破壊したはずだ、でしょう? ええ、確かにさっき私は吸血鬼の急所である心臓と頭を破壊されました。しかし、私は肉体を極めた吸血鬼、その程度の弱点、すでに克服しました」
真九郎が言おうとした言葉を先読みして、カーミラは淡々と説明する。
「心臓を突いても、頭と胴を切り離しても、私には何のダメージもない。銀や白木の杭を使えば話は別ですが、あなたはそのどちらも持っていない。中々に絶望的でしょう?あなたが私に力で優っていても、私は無限に甦る。あなたはいずれ疲労し私に殺される。さぁ、私を見逃しなさい。そうすれば、あなたは死なないし、私は余計な時間を使わなくて済む」
カーミラは小首をかしげて提案する。
「そうだな、実に絶望的だ」
真九郎はそれに自嘲気味に笑って答える。そして、一転真剣な表情でカーミラを睨みつける。
「だが、それでも貴様を見逃すわけにはいかない。今貴様は無限と言ったが、そんなものはこの世に存在しない。貴様の再生にも限度があるはず、ならば拙者にも勝機はある!」
いうが早いか、真九郎は身構え、戦闘態勢を取った。
「愚かですね。だとしたらどうだというのです。私に限界があったとしても、それは限りなく遠い。状況は何も変わらない、あなたに勝機は微塵も無い!」
またしても提案を拒否されたカーミラは表情をゆがめ、牙をむき出しにして叫ぶ。
「かまわん、やらぬよりマシだ。貴様を完全に滅ぼすまで何千回、何万回だろうと殺し尽くしてやる!」
それに対し、真九郎は不敵に笑い、高らかに宣言する。
「この、わからずや……!」
苦虫を噛み潰したような表情で呟くと、カーミラもまた戦闘態勢を取り、殺気を放つ。
――――かくして、この街における最後の戦いの一つが幕を開けた。
「やあ、ハーカー君。やっと来たね、待ちわびたよ」
館の最奥、他の部屋より二回りほど大きな部屋でヴラドは待っていた。
部屋はこの国の学校の教室と同程度の面積で、様々な書籍の入った本棚、ゴシック調の家具、床に散乱した銃器のカタログなど部屋にあるものにまとまりはなく、部屋の持ち主がどんな人物であるか推測できない。どうやら、吸血鬼たちが共同して使用している部屋のようだ。
ヴラドはその部屋の中央にあるいすに悠然と腰かけ、部屋に入ってきたジョージに向かってにこやかに話しかけてきた。
「ふむ、かすかに何かが弾ける音がする。この館に火を放ったようだね。私を逃がさないようにするためかな?」
黙ったまま自分を睨みつけるジョージに気を悪くした様子もなく、彼は立ち上がって耳を澄ませるようなしぐさをする。
「この館はカーミラ嬢の物なので燃えてしまうのは心苦しいが……まあ、いいか。さて、これからどうする?私は君と仲良く会話したいと思うのだが、きみはどうかね?」
ヴラドは無言で佇むジョージに向かって、成長した孫に話しかける祖父のような穏やかな口調でジョージに尋ねた。
「……お前を殺す」
そこでようやくジョージは口を開いた。とても乾いていて冷えきり、まるで刃物のように鋭い声だった。そして県の切っ先をヴラドに向ける。
「お前を殺す! 次は肉体だけじゃねえ、何百年経とうが甦らねえように魂の一欠けらも残さず滅ぼしてやる!」
鬼気迫る表情でジョージは叫んだ。その憎悪の激しさは彼の周囲の空気がゆがんでいるように見ている者を錯覚させる。
「そうか、それはいい。私と会話をしてくれるというのだね?」
その叫びを聞いてヴラドは笑って、まるで見当違いのことを口にする。
「そうだろう? 私と話している間に館はどんどん燃えていき、逃げ場が無くなり、私が死ぬ確率は増していくのだから」
ヴラドは両腕を広げ、嬉しそうに語りかける。
その姿を暗い目つきで睨み、それから嘲るようにジョージは笑った。
「……いいぜ、てめえが話してる間にてめえを斬り捨ててやってもいいのならな」
そして、剣をかまえ、あふれんばかりの殺気をヴラドに向ける。
「私が話し終えるのが先か君が私を殺すのが先かということか、よろしい、受けてたとう」
ヴラドもそれに答えてみがまえる。
そして、この街における最後の戦いのもう一つが幕を開ける。
、