第二章 VS一人軍隊(オウンアーミー)
「このゾンビの数、ヴィクター・ウォードか」
ジョージは目の前のゾンビの群れを睨みつけ、静かに呟いた。その手には一丁の拳銃が握られており、背には自分の背丈ほどの四角いケース――――ではなく、十字架にも似た白銀の長剣を背負っている。
「チッ」
彼はちらりと後方を見返し、舌打ちをする。そこにもまた前方と同規模のゾンビの群れが展開されている。それらが放つ腐臭はすでに毒ガスに近いものとなっている
「てめえらにかまってる暇はねえんだがな……!」
ジョージは吐き捨てるように呟き、自分に群がるゾンビたちをで睨みつけた。その眼はギラギラと凶暴に輝いている。
ゾンビ、それは吸血鬼に噛まれて死んだ、吸血鬼になれなかった者たちがなる、動き、人を襲う死体の通称である。力は強いが思考能力は皆無、再生能力もまた機能しておらず、腐敗が進み動きは遅い。単体としてみれば吸血鬼の足元にも及ばない、取るに足らない存在である。
しかし、この数ではその理屈は通用しない。どんなに弱い敵でも数が多ければそれなりに消耗してしまう。ジョージはゾンビたちの主であるヴィクター含む四人の吸血鬼たちを倒さなければならない。そのため体力や銃弾をこのような雑兵相手に消費するわけにはいかないのだ。消耗を最小限に抑え、かつその後の戦闘の邪魔にならないようできる限り数を減らす方法を考える必要がある。
しかし考えているうちにもゾンビたちはゆっくりと、しかし確実に彼に近づいてきている。
「考えてる時間はねえ、か。とりあえずはここを切り抜けるとするか」
険しい表情で呟き、ジョージは拳銃をしまう。そして代わりに白銀に輝く卵型の物体を取り出した。銀の外殻を持った特別性の手榴弾である。彼はそれを思い切り前方のゾンビたちに投擲した。
手榴弾はゾンビの群れの中央ほどで爆発し、銀の外殻をまき散らす。まき散らされた破片を浴びたゾンビたちは次々と灰になり消滅していく。
西洋の化け物は銀に弱い。吸血鬼もその例外ではなく、触れただけでその部分が蒸発してしまう。ゾンビに至っては胴か頭に触れればそれだけで全身が灰になる。この手榴弾はその特性を利用した対吸血鬼武器の一つであり、投擲することで辺りに銀の外殻をまき散らし広範囲を攻撃できる代物なのだ。
進路ができたことを確認すると、ジョージは背中の剣を抜き、目の前に掲げて走り出した。
運よく銀の雨を浴びずに済み、ジョージの前に立ちふさがるゾンビたちも、彼が掲げた銀製の剣に触れ、手ごたえもなく消滅する。
ジョージはそのままゾンビの群れの中にできた通路を駆け抜け、ついには突破した。
「よし、切り抜けたな」
数十秒間走り切った後、立ち止まって周囲に敵がいないことを確認すると、ジョージは懐から事前に配られた無線機を取り出した。
「こちらハーカー、ゾンビによる襲撃を受けた。速水、ジェンキンス、てめえらの方はどんな状況だ」
彼らの方もまた同様の状況に陥っていることを予想していながらジョージは尋ねた。ジョージは狩人ではない彼らにゾンビの掃討を任せようと考えていた。彼らの実力は未知数であるが、どんな実力者だろうと専門家でなければ吸血鬼の相手は難しい。それならば、比較的対処しやすいゾンビの群れにぶつけて、自分が吸血鬼たちの相手をするのが妥当だろう。
ジョージはその旨を伝えるべく、街中に散らばった仲間たちに伝令を試みる。自分が効率的に吸血鬼を狩るため、二人の身の安全は顧みずに。
「死体共に囲まれてはいるが、問題ない」
自分を取り囲むゾンビの群れを見据えながら真九郎は答えた。その足元には首や胴を切断され、ばらばらになったゾンビたちが転がっている。
首を斬られたものはもう消滅しかかっているが、胴を斬られたものは這いつくばっててでも近づいてきている。
「うむ、ハーカー殿の申していたとおり、首を斬れば死ぬが胴を斬っても死なぬ」
うごめく死体たちを冷たい目つきで見下ろし真九郎は小さく頷きく。そして無線機を持ってない方の腕を真一文字に振り下ろした。
直後、まだ動いていたゾンビたちの首も切断され、動きを止めた。
「貴殿が吸血鬼共の相手をするので拙者らは死体共を掃除せよ、とな? ……承知した」
ジョージの案に真九郎は何の文句もなく同意した。そしてもう一度自分を取り囲む死体たちを、今度は嫌悪と哀れみに満ちた目で睨みつける。
「拙者もこのような醜悪なものを放ってはおけぬ」
言い終えた瞬間、彼を取り囲む死体たちの首が音もなく一斉に切断され、転がり落ちた。
彼は超能力者のように先天的に異能を持つ者ではなく、後天的に異能を手に入れ、人の身で『不思議』を使役する者、魔術師、呪術師に類する者である。
そしてこれこそが彼が刃の魔術師と呼ばれる由縁、視認できず予備動作も殆どない切断術、『不可視の刃』である。
「死してなお尊厳を踏みにじられた人々よ、拙者が貴殿らを解き放とう」
消滅していく死体たちに向かって一礼すると、真九郎は夜の街を駆け出した。
「ちょいと待ってくんな兄ちゃん、今取り込み中だぁ!」
ジェンキンスは片手で無線機を持ち、ジョージと連絡を取りながらゾンビの群れと交戦していた。もう片方の手にはジョージと同じ型の拳銃が握られ、その銃口から白銀に輝く銃弾を発射している。銃弾を受けたゾンビは煙を出しながら崩れ落ち、消滅していく。
「はっはァ、効いてる、効いてるねえ! オレの能力『偽悪製品』は一度見たものの粗悪品を生み出す。兄ちゃんに見せてもらったのをコピーした粗悪な銀弾が効くかどうか不安だったが、重要なのは品質じゃなく材質だったようだなァ!」
ジェンキンスは不敵に笑い、群がるゾンビたちを確実に仕留めていく。彼の能力は体力精神力の続く限り物体をコピーすることができる。その消費量は材質に関係なく大きさ、複雑さに比例する。銃弾ほどの小ささ、単純さなら一晩中でも生産し続けることが可能である。つまり彼に弾切れは存在しないのだ。消耗を
気にせず戦えるという点で、ジェンキンスはジョージや真九郎に戦闘力や場数で劣る点をカバーしていた。
銀の弾幕が徐々に死体の波を薄くしていく。そしてある程度減らした時点でジェンキンスは両手いっぱいに銀の手榴弾を生産し、四方八方に投擲した。それらは一斉に破裂し、彼の周りのゾンビたちを一掃する。
「おう、待たせてすまねえな」
周囲にゾンビがいないことを確認するとジェンキンスは一息つき、ジョージたちに連絡をかけなおした。
「要するにオレと速水の旦那に面倒おっかぶせて自分は本命とやりあおうってか? まあ、いいさ。オレもモノホンの怪物と戦える自信はねえ。だが、いい考えがあるんだ。あんたの案と組み合わしゃいい線いけると思うぜ。聞いてくれるか兄ちゃん、旦那」
ジェンキンスは自信がないという言葉が嘘に思えるような不敵な笑みを浮かべて言葉をつづける。
「ハハハハハハッ! 思い知れ、下等な人間共! 見さらせ、怖気づいた老いぼれ共! これが吸血鬼の力だ! これが俺の力だ!」
高層ビルの屋上に佇む青年、吸血鬼ヴィクター・ウォードは吠えるように叫び、哄笑する。彼の足元からは幾重もの影が伸び、眼下の街に続いている。
この影こそがヴィクター・ウォードが一瞬にして大量のゾンビを出現させた力の正体、ゾンビたちを排出する入口である。
元々吸血鬼には影の中に潜り込む、自らの影に物体を出し入れするという能力が備わっている。彼はそれを極め、何百何千ものゾンビを自分の影の中に収容、その影を自分の周囲数十キロに広げることでゾンビの大群を広範囲に展開することを可能にしたのだ。言うなれば彼は、一つの意志で統一された軍隊をその身に内包する、人のかたちをした移動する領土。人呼んで『一人軍隊』。
この力で彼はいくつもの町や村を滅ぼし、力を蓄えてきたのだ。吸血鬼ヴィクター・ウォードは真実、人類を脅かす世界の敵なのである。
「身の程知らずの人間共、てめえらが下等なりにどう俺に立ち向かうか、見物させてもらうぜ。せいぜいあがいて楽しませてくれよ?」
ヴィクターは眼下に広がる惨状にほくそ笑みながら、自分に挑む愚かな獲物たちの姿を探す。そして、ほどなくしてゾンビたちを相手に街を駆け回るジョージたちを発見する。
「東洋人、変な髪型の茶髪、カウボーイ野郎、こっから見えるのは三人だけか。魔弾の奴がセイシローとかいうのを相手してるらしいから四人、結界を張ってる奴を合わせて五人。東洋人は確実に何かの異能だが、他の二人は銀の武器を使ってる。無能力者は網に引っ掛からねえから二人ともヴァンパイアハンターだろうな。ってことは最大でもあと二人異能力者がいるってことか」
ヴィクターは事前に得た情報と今目視で得た情報を合わせて、冷静に敵方の戦力を分析し始める。そこにさきほどまでの傲慢な態度は微塵も無い。彼にとって、人間はあらゆる面で自分たちに劣った存在であるが、それが人間を殺すのに全力を尽くさない理由にはならない。強者は弱者の考える策など全て看破し、かつそれら全てをひねりつぶして勝利しなければならない、というのが彼の持論であり、それを実行するためにジョージたちの行動を予測しているのだった。
ヴィクター・ウォードに慢心はあるが油断はない。その点ではカーミラは彼を見誤っていた。
「……見えねえ奴らのことは警戒しておくに越したことはねえが、見えねえ以上はどうしようもねえ。今は見えてる三人が何をしているかだ。東洋人はゾンビどもを片っ端から殺して移動してる、後の二人は大勢のゾンビ共を引き連れて逃走中。東洋人は広範囲を同時に攻撃できるが他の二人はできねえようだな。回り道や方向転換を繰り返してて一見分かりにくいが、三人とも確実に一つの地点で合流しようしている。奴ら一人一人の距離からみておそらく、その場所は街の中心にあるでかい通りの集まった十字路。東洋人は余計なことはせずにまっすぐに向かってやがるから、二人より先に着くな。二人はこのままの調子だとほぼ同着」
ヴィクターは街を駆け回るハンターたちの姿を目で追いながら、推測した事柄を並べていく。
「とすると、だ。おそらくひとところにゾンビ共を集めて一掃しちまうつもりだな。先に着いた術師が大規模な攻撃術式を設置しといてその場を離れ、残りの二人がゾンビ共を引き連れて到着したと同時に発動させようってことか」
そこまで分析し終えると、ヴィクターは牙をむき出しにし凶暴な笑みを浮かべる。
「単純だが、結構いい考えだ。ゾンビ共をまともに相手してたらきりがねえ。俺を倒そうと思ってもゾンビが邪魔だ。ゾンビは足が遅えからひきつけるのは楽だしな。――――しかし、そんなにうまくいくかなァ?」
心底楽しそうにヴィクターは呟いた。
眺めているうちに真九郎はヴィクターの読み通りに十字路にたどり着き、何らかの処置を行ってその場を去っていく。そのすぐ後に、ハーカーとジェンキンスがゾンビを引き連れて到着し、合流する。ゾンビたちは十字路を構成する道路をびっしりと埋め尽くし、ゆっくりと十字路の中心へと向かってきていた。
「ほう、もうそろそろか?」
ヴィクターはこれから起こる出来事を見逃すまいと十字路を凝視する。
するとどうであろうか、ゾンビの一体が中央に足を踏み入れようとした瞬間、ゾンビたちの足元に淡く光る奇怪な紋様が浮かび上がり、そして、一斉に爆発した。両側合わせて数千はいるであろうゾンビたちを爆発で生じた煙が包み込む。
「すげえな、こりゃ跡かたもねえぞ」
自分の戦力が大幅に失われたにも関わらず、ヴィクターは歓声を上げた。
「これで邪魔な雑魚を少し減らせた思ってるんだろーが、そうはいかねえぜ?」
ヴィクターがそう叫ぶと同時に辺りを覆っていた煙から、のそりと何十人もの人影があらわれた。爆発を生き残ったゾンビではない。一見ただのゾンビだが、その手には短機関銃が握られている。
ヴィクターが新たに影から取り出した武装ゾンビである。ゾンビは知能が低く、武器を扱うようなことは不可能だが、主人が命令すれば銃を持ち、引き金を引くくらいのことはできる。もちろん、狙いを定めたりすることはできないが、このように相手を取り囲んだ状態ならば何の問題もない。
ゾンビたちが一斉に引き金を引いた。機関銃から放たれた弾丸を、ハンターの二人は避けることもできずに全身に浴び、音もなく倒れ、ピクリとも動かなくなった。
「まず二人……。ハ、ハハハハハハ!」
ヴィクターはその惨状を見つめ、満足そうに目を細め、喜びを隠そうともせず狂ったように笑った。
(……爆音……銃声……あっちはけっこう派手にやってるみたいだね。だが、音だけじゃどっちが優勢かわからないな)
正四郎は遠くから聞こえる轟音を聞きながら、建物の屋上からへと飛び移っていた。
戦っているジョージらの安否を心配しているわけではない。正四郎にとって彼らは吸血鬼を迅速にかつ周囲に被害を出さずに倒すための駒にしか過ぎない。重要なのは彼らがすぐに敗北してしまわないかどうかである。
正四郎にはこの街にいる吸血鬼たちをまとめて相手しても勝利できる実力がある。しかし、それには相応の時間がかかる。その間に周囲に対して甚大な被害が出れば、吸血鬼を含む異常の存在が世間に知れ渡る危険性が生じてしまう。異常が常識を、常識が異常を侵すのを防ぐ『死神』である正四郎にはそれは避けたい事態であった。だから彼は、ジョージたちに生かしておけば多大な被害を出すヴィクターをぶつけ、暗殺によって世界に悪影響を及ぼす魔弾を自分が倒すまで時間稼ぎをさせようと考えたのだ。倒せたのならそれで良し、時間を稼げれば計画通り、彼が危惧するのは時間稼ぎにもならなかった場合のみである。
「……何余計なことを考えてるんだ、僕は。使えると判断したから任せたんだ。心配する必要はない。それに、余裕もないってのに」
正四郎は杞憂でしかない危惧を振り払うために小声で自分を叱責する。そして意識を前方に向ける。
そこには建物の上を飛ぶように移動する小さな影が一つ。吸血鬼『魔弾の射手』である。
正四郎はその姿を目で捉えると、懐から紙の束――――人の形をかたどったもの――――を取り出し、それに向かって投げつけた。それらは独りでに散らばり、宙に浮かぶと、すさまじい速さで魔弾に向かって飛んで行った。飛行する人形たちは瞬く間に魔弾を取り囲み、一斉に襲い掛かった。人形は魔弾に直撃すると同時に音を出して爆発する。
(確実にとらえた、けど)
爆発による煙が晴れると、無傷の魔弾の姿が現れる。
「ミリアちゃん、攻撃!」
正四郎はその様を冷静に観察すると、後方のミリア――――こちらは空気を操り、宙に浮かんでいる――――に指示を下す。
「はい」
指示を受けたミリアは小さく頷き、片手を魔弾に向かって突き出した。すると手の先に空気が集まり、渦を巻いて槍のように前方に伸びていく。
これこそが『天空戦線』のただ一つの攻撃法、空気の槍である。この攻撃は自分の体の先端部を軸にして竜巻を起こし、それを相手にぶつける、というものだ。この攻撃法の長所は、相手との距離が離れていればいるほど辺りの空気を巻き込み、威力を増していく点である。一方でその際、相手だけでなく、その周りにある全てに被害が及ぶので扱いづらいという欠点でもある。
しかし、ここには被害を受ける第三者はいない。故に、ミリアはためらいなく空気の槍を魔弾に向かって撃ち込んだ。槍は避ける暇もないほどの速さで魔弾を貫く――――かと思われたが、空気の槍が通り過ぎた後を魔弾は悠々と駆けていた。
「やっぱり、無傷か」
正四郎は先程から何度も見た光景に舌打ちをして、忌々しげに呟いた。その次に来るものも正四郎には予想できている。
「……」
前方を駆ける魔弾が顔だけ後方を振り向き、片手に持った軽機関銃を正四郎たちの方に向けもせずに引き金を引いた。その直後、正四郎とミリアの周囲に無数の弾丸が現れ、二人を襲う。
ミリアは瞬時に空気の壁を作り出してそれらを弾き、正四郎は紙一重でかわす。その際何発か避け損なって彼の体をえぐるが、正四郎は気にも止めない。
魔弾はすでに前を向き、足を進めている。
戦闘を開始してずいぶん経つが、ずっとこの調子である。正四郎たちは未だ魔弾に傷一つ負わせることができず、魔弾の方もまた正四郎たちに有効打を与えられていない。正四郎たちの攻撃が通用していないのでは、おそらくない。
ほんのわずかに、しかし決して命中しない位置へ移動し、すべてかわしているのだ。現に攻撃の前と後では座標が若干ずれているのが分かる。
(精密な幻影かそれとも……)
相手の攻撃方法からも考察すると大体の見当はつくが、まだ確証は取れない。
(予想が当たっているかどうか、試してみるか)
このまま同じことを繰り返していてもらちがあかない。正四郎はそう判断し、懐から見た目は先程と変わらない紙の束を取り出し、辺りにまき散らす。
「今度のは一味違うよ!」
宙に浮かんだ人形が魔弾を取り囲む。そこまでは先と同じ。
「囲んで、閉じろ」
そこから、人形の群れは魔弾に突っ込もうとはせず、間隔を狭め、瞬く間に魔弾の姿をすっぽりと覆い隠してしまった。
「これで身動きをとることはできない」
正四郎は、魔弾を包み込んだ紙の塊を見つめ、不敵に笑った。そして傍らのミリアに指示を下す。
「ミリアちゃん、攻撃。一直線じゃなく少し角度を変えて」
ミリアは無言で頷き、空気の槍を放った。空気の槍は少しだけ弧を描き、紙の塊へと向かう。
槍が塊の側まで到達すると、塊は迎え入れるように表面に人間の頭程の大きさの穴をあけた。槍は吸い込まれるように穴に入っていく。その直後穴は閉ざされ、閉じ込められた空気が内部で荒れ狂う音が辺りに響き渡る。
「これで無傷ではいられないはずだ、けどッ!」
荒れ狂う空気を内包しながら微動だにしない紙の球体を見つめながら正四郎は淡々と呟いた。そして、突如として頭上から襲い掛かってきた影が放った一撃を、まるで予知していたかのように片腕を振り上げ、こともなげに受け流す。
奇襲に失敗した襲撃者は、正四郎の迎撃を受け吹き飛ばされたが、隣の建物の屋根に無事着陸し、その矮躯を立ち上がらせる。
「やっぱりそうか」
立ち上がる襲撃者――――無傷の魔弾――――を見据え、正四郎は得心いったと頷く。
「視界内のどこへでも物や自分を転送できる瞬間移動。それが君の能力か。今、実力で劣るミリアちゃんじゃなく僕を攻撃したのも、あの穴からは僕の姿しか見えなかったからだ。特別なのは弾や銃じゃなくその眼だったわけだ。さしずめ『魔弾の射手』ならぬ『魔眼の射手』ってところかな?」
魔弾の射手、もとい魔眼の射手は正四郎の言葉に肯定も否定も返さず、ただ無言で顔を隠したマフラーをはぎ取った。露わにされたのは耳まで裂けた大きな口。背後のミリアが動揺のあまり息をのむ声が聞こえる。。
魔眼はその口を、何らかの言葉を紡ぐように数度動かした。すると彼女の周囲に無数の光球が出現する。
「中々いかした素顔をしてるじゃないか。もう正体を隠す気はないってことかい? ……ありがとうミリアちゃん、君の役目は終わった。あの球は物理法則の通用する代物じゃない。空気の壁はたぶん役に立たない。君を失いたくないからね、下がっていてくれ。そして、安全を確保して戦いが終わるまで待ってるんだ、いいね」
「はい……わかりました」
ミリアは少し震えた声で答え、二人から距離を取る。魔眼の素顔におびえているのはもちろん、二人が放つ先程までとは比べものにならないほどの殺気に圧倒されたのだ。
「よし」
正四郎はミリアの答えに満足げに頷き、身構える魔眼に彼女の素顔と同等、もしくはそれ以上に凄惨な笑みを向ける。
「能力が分かってしまえば、いくらでも戦いようはある。もう、君の好きにはさせやしない」
その瞬間、正四郎の背後からおびただしい量の人形の紙があふれだし、白い波となり二人を呑み込んだ。
「さあ、これで君の能力はまともに使えない……そしてここなら僕も少しだけ本気で戦える」
そう正四郎が口にした瞬間、人肌の色と質感をした包帯が弾け飛び、その下から禍々しい気配を放つ奇怪な紋様が刻まれた腕が現れる。
「さあ、ここからが本番さ。跡形もなく滅ぼしてやる」
少年の姿をした死神は少女の姿をした怪物にそう宣告した。
「ハハハハハハ!どうだ、もう二人も殺したぞ! なぁにが恐ろしい生き物だ。鉄砲玉が当たったら死ぬようなひ弱な生き物じゃねえ、か!?」
眼下に広がる惨状に、ヴィクターは勝ち誇り、自分に忠告したカーミラの言葉を一蹴する。しかし、言い終わる前に背後から銃声が響き、弾丸がヴィクターに襲いかかった。
「何、だぁ!?」
ヴィクターはとっさに横に跳び、直撃を免れたが避けきることはできず、弾丸に左腕をもぎ取られてしまう。傷口に出血はなく、ただ白煙を上げて肉が焼けている。吸血鬼が銀によって傷をつけられたときの症状である。その傷はそのままでは治らない。
間髪入れず、今度は続けて数回銃声が鳴り響いた。
放たれた弾丸は一片の狂いもなくヴィクターを襲うが、彼が何度もまともに銃弾をくらうわけもなく、すべて回避する。
「て、めえ、は!」
自分を打った襲撃者を見るために振り返ると、そこには眼下の地面に死体として転がっているはずの敵の一人、ジョージ・ハーカーが建物の内部に続く扉を背に佇んでいた。
「何で、ここにいる……!」
見間違いではない、確かに目の前の男は機関銃で撃たれ、死体をさらしていた。では何故、この男はこうしてここに立っている?
「何でてめえが生きてるんだってか?」
驚愕に目を見開くヴィクターを睨みつけながら、死んだはずのヴァンパイアハンター、ジョージ・ハーカーは口を開いた。
「答えは簡単だ。てめえが見ていたのは俺たちの偽物、そして、人間をなめくさったてめえを釣るための餌だったんだよ。どうやって用意したのかは俺も知らん。何でも『偽悪製品は物だけじゃなく、生物も造れる』んだそうだが」
ジョージは油断なく銃口をヴィクターに向けながら、淡々と説明する。口調は穏やかだが、ヴィクターを睨む視線にははっきりとした憎しみがこめられている。
「そんなことはもうてめえには関係ねえよな。てめえはここでおしまいなんだからよ」
ジョージは平坦な声でそう言うと、銃を持った方とは逆の手を背負った剣の柄ににそえる。
「……へえ、そうかい」
ジョージの言葉が終わると同時に、ヴィクターは驚愕に表情を固めたまま冷え冷えとした声で呟いた。そして一転狂ったように笑い出す。
「ハ、ハハ、ハハハハハハ!俺がもうおしまいだと? 笑わせてくれるじゃねえか! ああ、確かにてめえらは下等生物にしちゃよくやったよ、俺の片腕をもぎ取ったんだからな……だがよぉ……その程度で調子乗ってんじゃねえぞ! クソカスが!!」
ひとしきり笑ったかと思うと、次の瞬間には表情を憤怒にゆがめ、烈火のごとく怒声を上げる。
「……死ね」
最後に酷薄な声で吐き捨てる。そして影から巨大な機関銃を取り出すと、常人では扱えぬそれを軽々と持ち上げ引き金を引いた。
ジョージは瞬時に身をひるがえし、建物の内部へ駆け込み、扉を閉めて弾丸を遮った。扉の向こうから階段を駆け下りていく音が聞こえる。
「ハッ、結局逃げんじゃねーか。さっきの大口はどこ行ったんだろーなぁ?」
不敵な宣言をした割にためらいなく逃走したハンターを見て、ヴィクターはつまらなそうにぶつぶつ呟き、機関銃を持った腕を下ろした。腕は機関銃を無理に撃った反動でおぞましく変形していたが、吸血鬼の再生力により瞬く間に何事もなかったように再生する。
「あー、やっぱすげーなぁ! この体は! あんなぐちゃぐちゃになっても元通りになんだからなぁ。片方はまだ再生できねーようだが、あいつの血を飲みゃなおるだろうさ」
両腕の様子を見回しながらヴィクターは感嘆の声を上げる。そしてジョージが去っていった扉に目を向けると再び獰猛な笑みを浮かべる。
「さーて、奴は中で罠とか仕掛けて待ち構えてんだろーなぁ。これで万全ッ!て感じでよぉ。たーのしみだぜ、下等生物のやることなすこと全部ぶっ潰して殺すのはよ……」
「……一撃で仕留められなかった、か……」
高層ビルの屋上から四階下の階層の小部屋の一つに隠れたジョージはひっそりとそう呟いた。口調は冷静だが、声には若干の焦燥が見られる。
作戦は完璧にはまっていた。速水もジェンキンスも想像以上に役に立ち、ゾンビの殲滅とヴィクターの探知、そしておとりといった自分たちの役割を果たしていた。しくじったのはジョージだ。
ヴィクターの反射神経と注意力は予想以上だった。確実に仕留めるはずだったが、腕を一本吹き飛ばすだけで終わってしまった。
銀でできた傷なので、血を吸わねば元に戻ることはないが、おそらくヴィクターは影の中にストック――――まだ血を吸いきっていない人間――――を持っているはずだ。もうすでに腕の再生を終えているに違いない。
人間が吸血鬼と真っ向から戦って勝つ確率はほぼゼロである。だからこそ不意打ちやだましうち、罠などを駆使して戦わなければならないのだ。
不意打ちは失敗した。罠も警戒し始めたヴィクターには通用すまい。
ここから勝利するのは難しい、しかし確実に勝てないかと言えばそうでもない。
「ちくしょう、あんな野郎を倒すためなんかに手の内さらしたくねえぜ」
ジョージは自らの手に目を落とす。勝つ方法はある。しかしジョージの目的はこんな未熟な吸血鬼だけではない。切り札は最後まで温存しておきたい。
「だが、出し惜しみしてる状況じゃねえな……」
ジョージは忌々しげに自らの手を睨み、思い通りにならない戦況を呪った。
カツーン カツーン
ジョージの耳に部屋と外を仕切る扉の向こう、廊下の奥からこちらに近づいてくる足音が聞こえてきた。「!」
ジョージはとっさに体を縮め、息をひそめた。警戒した吸血鬼の感覚はすさまじく、吐息の音すらあちらの耳に届きかねない。
カツーン カツーン……
足音は時折止まり、そしてすぐに何かが破壊される音が聞こえてくる。目についた扉を手あたり次第蹴破っているのだ。
しばらくすると陽気で楽しげな声も聞こえてきた。
「どーこかなぁ? こそこそ隠れやがってよぉ。恥ずかしくないのかねぇ。ま、これが吸血鬼たちと人間の正しい関係なんだよ、弱いものは隠れ強いものは追い立てる、決して逆はあっちゃならねえのさ! 俺はな、作ってみせるぜ、王国を! 吸血鬼が人間に脅かされねえ正しい世界を! この国はその足掛かり、てめえらはそれにすら及ばねえ石ころだ!」
言い終わると同時に、けたたましい笑い声が辺りに響き渡る。
(……完全に自分に酔ってやがるな)
その狂ったような笑い声にジョージは気づかれない程度にひっそりと嘆息した。
人間を超越した力を得た万能感、不老不死の肉体を手に入れた高揚から来る自己陶酔、若い吸血鬼にはよくいるタイプである。こういうタイプの吸血鬼は人類にとって最も危険だが、人間をなめているので成って数年で痛い目を見て自分たちが決して万能ではないと自覚するか、さもなくば死ぬ。
吸血鬼としては比較的倒しやすいタイプと言えるが、ヴィクター・ウォードに関してはそうとも言い切れない。彼はその性格で七十年以上生きてきたのだから、それに足る実力を備えているはずだ。
(まずいな、罠は通用してねえみたいだし、俺の逃げ場もねえ。あいつがこの前に来たときに攻撃するしかねえが、それで仕留められなかったら打つ手が無くなる)
ジョージは苦々しげに表情をゆがめる。
「――――――――ッ!」
不意にジョージは自分の背後に何かが立ち上がる気配を感じた。
(マズイッ!)
振り向くと同時にジョージは背中の剣を抜き、背後の何かに向けて斬りつけた。
背後に立ったものの正体はゾンビだった。銀の刃を直接体に受けたゾンビは一瞬で灰になり消滅する。
(ちくしょう! はめられた!)
ジョージは自分の不用心さを嘆いた。ゾンビに背後を取られたことではない、それを倒すために振り回した剣の音が間違いなくヴィクターに察知されてしまっただろうからだ。
おそらく、こちらをなめくさったようなことを言いながら探しているように見せかけ、人ひとりが隠れていそうな場所全てにゾンビを一体ずつ出現させていたのだ。罠が通用していないのもゾンビたちを先に行かせ、身代わりにしたからだろう。
どうする? ジョージは考える。
見つかったからといってのこのこと出ていけば、すぐに蜂の巣にされてしまうだろう。かと言ってこのまま隠れていてもらちがあかない。奥の手を使うにしても接近しなければならない。
「聞こえたぜ、剣を振る音がよぉ。そこにいるんだな」
廊下の向こうからヴィクターがほくそ笑むのが聞こえる。
「聞こえてんだろ? もうバレちまったんだ、早く出て来いよ、どっちにしろ死ぬんだから」
続けて、まるで聞き分けのない子供を言い聞かせるような優しい声音で呼びかけてきた。
もちろん、ジョージは返答もしなければ行動も起こさず、息を殺したままである。
「今更気配を消したっておせーんだよ。往生際が悪いなぁ……いいぜ、どーしても出てこねえんなら、出てきても来なくてもいいようにしてやる」
そう聞こえたかと思うと、突如として小部屋の扉が爆砕し、飛び散ったガレキがジョージを襲った。
(何らかの爆発物か!? くそ、すぐ二発目が来る!)
とっさに特殊繊維で編まれたコートの中に首をすぼめ、飛び散る破片から身を守ったジョージは、コートでは防げない痛みをこらえながら、必ず来るであろう二発目に備えて身構える。
案の定身構えたと同時に黒っぽい色をした円筒形の物体が立ち上る煙を散らして撃ち込まれる。
「――――ロケットランチャー!?」
円筒形の物体――――ロケット弾――――は床に接触すると同時に爆発した。
爆発は大きく、ジョージはその爆風に巻き込まれてしまった。
「ハハハハハハ! 死んだか、死ん、だ、かぁ!?」
ヴィクターは爆発により吹き飛んだガレキと巻き起こった粉塵を見て、満足そうに高笑いする。
しかし、直後には笑みを消して横に跳んでいた。それが合図だったかのように、ヴィクターが立っていた場所を銃弾が通過する。
「……さっきからキンキンうるせえぞ、化け物」
立ち込める煙の向こうから冷え冷えとした声がし、ボロボロの布きれを手に持ったジョージが現れた。
「てめえのせいでコートが使いもんにならなくなっちまったじゃねえか。気に入ってたのによ」
ジョージは手に持った布きれ――――ボロボロになったコートを無造作に床に落とし、特に気にしていないような口調で呟いた。その手足には小さなガレキが突き刺さっているが、大事ではないようだ。
先程の爆発時、回避は不可能だと判断したジョージはとっさにコートで身をくるみ、爆風から身を守ったのだ。吸血鬼の怪力にも耐えうるよう作られたコートは爆風やガレキを見事に防ぎきり、被害を最小限に留めてくれた。
「さて、不本意だが真っ向から戦わなくちゃならねーようだな」
そう言ってジョージは銃口をヴィクターに向けなおす。そして、何かに気付き怪訝そうに首をかしげた。その視線はヴィクターの失われた左腕に注がれている。
「てめえ……その腕、治してねえのか?」
「てめえ一人殺すにゃ腕一本で十分だろ?」
ジョージの問いかけにヴィクターは小馬鹿にしたような笑みを浮かべて答える。
「そうか……」
その答えにジョージは小さく頷く。
「なら勝ち目はあるかもな!」
引き金を引いた。それと同時に銃を剣と持ち替え、前方に向かって駆け出した。
「ハハッ、口だけはでけえなぁ! てめえはッ!」
襲い来る銃弾を避けながらヴィクターはあざ笑う。続けて畳みかけるようにジョージが斬りかかるが、それも後ろに跳んで回避する。
「ほーらな! てめえは片腕だけの俺に傷一つつけられやしねえ!」
着地したヴィクターは即座に影から機関銃を取り出し、引き金を引いた。
――――かに思われた。
「……遅い!」
ヴィクターが機関銃を取り出したときには、すでにジョージはヴィクターの目の前に迫っており、人とは思えぬ腕力で機関銃を殴りつけた。銃口は大きくそれ、銃弾はあらぬ方向に飛んでいく。
「何、だぁ!? そりゃあ!?」
「驚いてる暇はねえぜ」
ヴィクターは口を大きく開け、驚愕の表情を浮かべたが、ジョージはそれを構いもせず、片手の剣で斬りつけた。
「ぐ、があぁ!」
剣はヴィクターの胴体をとらえ、両断しようとした。しかし、その直前にヴィクターの身体は消失し、斬撃は空を斬っただけに終わる。
「!」
ジョージは体勢も整えず、前方へ跳んだ。
振り返ると先程まで立っていた場所のすぐそばにヴィクターが立っていた。
ヴィクターは剣が彼を両断する直前に自分の影の中に逃げ込み、そのまま影を伝ってジョージの背後に回り込み攻撃しようとしたのだ。
「ふん、自分も入れたのか」
「……くそが……」
ジョージの言葉をまるで無視して、ヴィクターは呟いた。致命傷こそ負わなかったが、完全に回避することもできなかったらしく、わき腹に大きな火傷を負っている。
「てめえ、は、何者だ!?」
呼吸は荒く、その表情にもはや余裕はなく、ただ純粋な殺意のみが存在している。
「ただの人間さ。てめえの言う下等生物のな」
ヴィクターの問いに淡々と答えると、ジョージは剣を構え、ヴィクターに再び斬りかかった。
「くそ、馬鹿にしやがって!」
ジョージの答えにならない答えにヴィクターは激昂し、叫ぶ。それと同時に
二人の間に大量のゾンビが現れ、ジョージの行く手を遮る。
「数で押さなきゃ何もできねえのか? どっちが下等だか分かりゃしねえな」
「うるせえ!てめえがどう言おうと最後に勝つのはこの俺だ!」
ジョージの挑発に、ヴィクターは開き直ったように答える。
ジョージは街中でゾンビと戦っていた時とはまるで違う、鬼神のごとき速さで立ちふさがるゾンビたちを斬り伏せていく。最後の数体まで切り捨てたところで、ジョージはヴィクターの姿がどこにも見当たらないことに気付いた。
(どこだ?)
ジョージは辺りを見回したが、ヴィクターの姿はどこにも見当たらない。
(また影の中に逃げたのか? とすると……やばい!)
ジョージはヴィクターが何をしようとしているのか気づき、対峙している。ゾンビの足元に目を向けた。
その瞬間、ゾンビの足元にできた陰からヴィクターが音もなく姿を現し、ジョージに向かって飛び掛かってきた。そのスピードは今までよりずっと速い。
(やはり、な!)
そのスピードにかろうじて反応できたジョージは剣を構え、ヴィクターに斬りかかる。このままいけば、正面から突っ込んでくるヴィクターを一刀両断できる。
しかし、その直前にヴィクターは差し出すように腕を前に突き出した。当然突き出された腕は切断される。しかし、ゾンビのように何の抵抗もなく、というようにはいかず、質量を持った物体を斬ったことにより剣のスピードはわずかに鈍る。
「腕はくれてやる」
ヴィクターはなんなく斬撃をかわし、一瞬にたりと笑うと、大口を開けてジョージに迫る。
狙いはジョージの首。血を吸えばすべて元通りになるのだから、腕の一本や二本失ったところで問題ない。余裕を失ったヴィクターのまさに捨て身の一撃。
剣は腕を斬り落としたことで振り下ろしてしまった。持ち上げていては間に合わない。
ヴィクターは勝利を確信した。むき出しにした牙が首に届く――――――――
「が……は……!?」
そう思った直後、ヴィクターは自分の心臓に剣が突き立てられていることに気付いた。もう数センチ口を近づければ勝利できるのに体が動かない。
「ギリギリか、腕がもう一本ありゃやばかったな」
自分の心臓を貫いた人間が淡々と呟くのが聞こえる。
自分は確かにこの男の首に牙を突き立てる寸前まで到達したはずだ。なのに、この男は、あごの筋肉を上下に動かす、そんな単純な動作よりも速く剣と身を引き、さらに自分の心臓を貫いた。
何故だ? 何故、この男は人間よりも、吸血鬼よりもはるかに速く動ける?
「パワードスーツってやつさ」
そんなヴィクターの心を読んだかのようにジョージは口を開いて話し始めた。
「装着した者の身体能力を十数分ほど吸血鬼並みにまで上昇させる。二分程度ならそれをはるかに超えることもできる。人間はな、弱いさ。だがな、人間は進歩してきたんだ、てめえらよりずっと速く、ずっと前から、戦うための進歩を、な」
ジョージが疑問の答えを解説している。しかし、すでにヴィクターの聴覚からはそれを聞き取れるほどの機能は失われていた。
「……何で……何で、だ……」
突き刺されたところから吸い取られていくように力が失われていく。今まで蓄えてきた力が、糧としてきた命が流出していく。
今まで生気に満ちていた肌からは色が抜け土気色になり、瞳は白く濁った死体のそれへと変わる。思考力は失われていき、意識が薄れていく。
その心にあるのは、自分はもう消えてしまうのだという絶望のみ。
「……俺、は、死ぬ、のか……? このまま、なにも、しない、まま、しぬ、の、か……?」
ヴィクターはわずかに機能している声帯から絞り出すようにかすれた声を出した。数十年前、彼が初めて死んだときの記憶が甦る。
戦場で瀕死の重傷を負い、もう助からないと仲間たちに置き去りにされた。仲間たちが去ったあと、しばらくして『彼』がヴィクターの目の前を通りがかった。
ヴィクターは何故だか分からないが、一目で彼が吸血鬼だと分かった。幼い頃寝物語に聞いた『夜を彷徨う怪物』だと。そして彼に懇願した。
こんなところで死にたくない、自分はまだ何もしていないのだ、もう一度だけでいい、自分に命をくれ。
――――――――そしてヴィクターは吸血鬼になった。
それから数十年、ヴィクターは強くなった。やっと世界の頂点に立ち、自分の名をこの世に轟かせることができると思ったのに、なのに――――――――
「いーや」
ヴィクターの末期の嘆きを、ジョージは冷酷に断ち切った。
「このまま生きていても、てめえには人を食う以外何もできねえさ。てめえは一度死んでるんだからな。生き返ったわけじゃない、死んでるのに動いてるだけだ。この世で何かできるのは生きている奴だけだ」
そう言ってジョージは突き立てていた剣を引き抜いた。
引き抜かれたヴィクターは支えを失い、体勢を傾け、地面に倒れることもなく灰になり、消えた。