弐 740円
目が覚めるとそこはいつもの風景。見慣れた部屋。そうだ、ここは俺の部屋だ。
なんてことはなく。学校帰りにある行き着けの小さな中華料理店で天津飯とチャーシュー麺…じゃない、ラーメンを食ってまったり帰路についていたら、唐突に命の危機に晒され、なんだか知らない間に白いパンツ…じゃない、怪物に襲われて気を失ったこの道。
そう、この道。
ここで気絶したんだから、ここで目が覚めるのは至極当然だ。
特に目立った傷も見当たらない。涎でできた、間違いなく心地よい匂いはしないであろう水溜まりも、その涎の主から解き放たれ、自由な鳥のように空を舞った腕も、月を背負った少女も、どれも見あたらない。
ただひとつ、いつも通るこの道にある変化と言えば、いつもは月が見下ろす山道なのが、今は眩しいお日様が真上から見守ってくれているくらいだ。
…真上?
のっそりとした動きで、ポケットから携帯を取り出す。着信履歴は最大数を越え、受信メールもいつもからは考えられないような数になっている。
それらを確認する前に目に入った四つの数字。まだ朦朧とする意識を急激に現実に引き戻す魔法の数字。
11時38分。
どうやら学校には遅刻らしい。いや、それはどうでもいい。遅刻自体は日常茶飯事なんだから。問題はタイミングだ。昨日俺は記念すべき50回目の遅刻を見事記録した。担任教師はまさに烈火の如く怒り狂い、次に遅刻したら停学も考えると殺し文句をぶち当ててくれた。
我ながら実に短絡的で、現実から目を背けた逃避行であるとは思うんだが、如何せん昨日の今日でいきなり遅刻は有り得ないだろう。この場合、体調不良で寝込んでいましたとか適当な理由をでっち上げて休んでしまうのが得策だと思うんだが、どう思う?俺。
うんうん、確かにその通りだ。言われてみれば俺は昨日化け物に襲われたんだ。一家団欒で食卓を囲み、テレビの芸人を見て仲良く笑っている家族がいたりいなかったりする時間に見るのを果たして白昼夢と呼んでいいのかはわからないが、まぁそれで無い限り、俺は命の危機に直面していたんだ。
1日くらい学校をサボって何が悪い。
と、自分の脳内会議での議題が尽きてきて、最近注目のグラビアアイドルの話題に移り始めた頃、いつもなら毎日の昼食を調達するパン屋の前に着いていた。仕方ない。今日の昼食もここで調達しよう。
「ちょうどいいトコに来たわ。コーヒー牛乳と玉子サンドとチョココロネ代、合計370円。あんた貸してくれない?」
これが新手の逆ナンなら、その斬新さではギネス級だと思う。
自動ドアを開けた途端、俺の胸元くらいしかない少女が、小さな手をこちらに差し出していた。どうやらこの手に、彼女の要求である370円を乗せてやれば満足するらしい。新聞にも雑誌にもネットにもそんな情報は流れていなかったが、恐らくそれだけは間違いないだろう。
「…おじさん。この娘は何なんですか?」
「何でもいいから早く!」
「いやぁ、どうやら財布を忘れちゃったみたいでね。後でお金は持ってくるから、とにかくパンをくれって言ってるんだよ」
なるほど。事態は理解した。パン屋の店主も困り果てているようだ。
「ちょっと聞いてるの?」
おじさんには悪いが俺は腹が減ってるんだ。とりあえずこの空腹を満たしてから問題に取り掛かりたいと思い、トングの剣とトレーの盾を両手に構え、並み居るパンというモンスターをバッサバッサと打ち倒していった。
「無視するなんて、あんた礼儀ってものを知らないの?ちゃんとお金は返すから、とりあえずあたしに370円貸しなさいよ」
昨日あんな事があった後だ。あんな事の内容については後々考えるとして、とにかく体調が悪い…ような気がしないでもない。今日の昼食は控えめにしておこう。
「せめてあたしと目を合わせなさいよ! これじゃああたしがただ一人で騒いでるだけじゃないの」
トレーをおじさんに手渡す。店主はどうにも少女が気になるようで、チラチラと横目で見ているものの、俺という正真正銘の純度100%な客を前に、会計を済ませるしかなかったようだ。
「ああ、いつもより少ないね。370円だよ」
予め計算しておいた料金を支払い、商品を受け取る。
「少しお金が多い様だけど、これはそういうことでいいのかな?」
気恥ずかしいので、小さく頷いて、片手に持った袋を少女に差し出してやった。
「え? 知らない間におじさんと交渉でもしたの?」
念願の物を受け取った少女は、きょとんとした顔で俺とパン袋を交互に見比べている。壊れかけたブリキの玩具のようで、なんだか可愛らしい。
店主に支払ったのは740円。
まぁ、そういうことだ。
「あんた、なかなか物わかりがいいわね。やるじゃない」
パン屋から出た途端にチョココロネにかぶりつく少女。
別に感謝されたい偽善心でも、この後どうこうといった下心でもなかったが、お礼のひとつくらいはあっても罰せられたりはしないと思うぞ。
「もうちょっと早く状況を把握できれば1人前ね。ま、頑張って精進しなさいよ」
極々平均的で一般的な林檎すら頬張れなさそうな小さな口で、学校の体育館三つ分ほどの大きな台詞を吐く。
法律とモラルと一般常識がなければ、彼女は2、3発殴られているだろう。誰かに。あくまでも誰かに。
少女は引き続きチョココロネをもにもにと食べている。なんだか食欲が一気に失せた代わりに、得体の知れない疲れがどっとあらわれた。