オフィーリア・レヴァン<娘>
オフィーリア。
その名だけが、母から貰った唯一の『愛』だったのかも知れない。
母が私を見る時の表情は、まるで下婢を見下すような、とても厭な表情だった。
母は、私を嫌っていた。絶体的に、徹底的に嫌っていたのだ。
凡そ母の優しい面は見たことがない。
語れば無視され、怯えれば怒られ、泣けば殴られ、逃げれば追われる。そんな日々を十年過ごした。
いや物心つく前のことは流石にわからない。もしかしたら赤ん坊の時は愛されていたのかも知れない。しかし遡れるだけ遡って見ても、私の記憶の中の母に、愛は携わってなかった。
私は十年の人生を父から授かった。父が、私を育ててくれたのだ。
母に叱られ、食事を与えられなかった時も、父が母の目を盗んで食事を持って来てくれた。殴られて頬が腫れた時も、薬を塗ってくれた。勉強も常識も知識も知恵も何もかも、父に教わった。
父はとても、優しかったのだ。
だけれど。
父は、私に冷たくあたる母を責めることはなかった。
母が私を叱る時、父は私を慰めてはくれるものの、母を責めることはしなかった。殴られた時も、薬を塗ってはくれるけれど、何故殴るのか、母を問い正すこともしなかった。
不思議だと感じていた。
いや、可笑しいと感じていたのか。
愛さない母。許す父。
何だ――『ソレ』は。
そんな関係が親子と言えるのか。そんな壊れた関係を親子と言えるのか。
何なのだ――『私と云う存在』は。
何故母は私を――子供を愛さない。何故父は愛する癖に――守ろうとしない。
そんな因果関係など有ってたまるか。
親は子に無条件な愛を与えるものだし、また絶対的に守るものだ。親と子の因果などそれ以外ない。有ってはならない。
なのに。
なのに何故――。
こんなにも『壊れている』。
私は何故母に愛されない。何故父に守られない。
普通ではない。
いや。
普通ではないのは――。
――私の方か。
《お前はあの人をたぶらかす》
いつだったか母がそう言った。
始めは何の事なのかわからなかった。
《お前が生まれてから、あの人は振り向かない》
またそんな事を言われたこともあった。その時は私にも男と女の関係というものが薄々とは理解出来ていたから、母の言葉がある程度は理解出来た。
《毒婦だよお前は》
それはごく最近言われた言葉である。
その時に漸く。
私は母が私を嫌う理由がわかったのだ。
母は――。
私が父を『奪った』と思っていたのだ。
馬鹿馬鹿しい。
本当に、厭になる程馬鹿馬鹿しい理由で、私は母に疎まれていたのである。
私が母から父を奪える筈がない。私は父の子供だ。決して愛人などではない。いや愛人どころか、私は父の娘以外の女にはなれないのである。
馬鹿げた理由だ。ふざけた理屈だ。
――ふざけるな。
しかしそうはわかっていても、結局どうすることも出来ず、三年経った。
そして、私と母と、そして父の関係は、完全に破綻した。
私はある夜、父に犯された。
何の切っ掛けなどあろうか。いやきっと何もない。
あったとすれば、私が、私の体がより『女』に近づいていた、ということだけだ。
いや、それで十分だったのだろう。
父は、それまでの父の優しさは、ただ単に私を、私の体を育む為だけに注いでいただけのものだったのだ。
早く熟せと。早く自分の精を受け止めれるようになれと。
ただソレだけのことだったのだ。
父に犯され、父の気持ちを知り、父の歪んだ愛を受け止めた時、私はむしろすっきりとした。
それまでのもやもやとした厭な不可解さが、蜘蛛の子を散らすように消えたのだ。
母の懸念通り、私はどうやら娘以外の『女』であったらしい。
母が愛さぬ理由がわかった。父が守らぬ理由がわかった。
そう。何もかも。
私が悪かったのだ。
母から父を奪った私が。父をたぶらかす私の体が。
――すべては私が。
悪いのだ。
そう思った。
私は父の『行為』が終わるのをただ耐え、ただ待って、そして、その夜に家を飛び出した。
泣いていたような気がする。いや泣いていた。
泣きながら、夜の街をただ駆け抜けた。何も考えず、ただひたすらに駆けていた。
どこをどう走ったのか、どこに向かっていたのか、何もわからない。
気づけばどこか知らない路地裏に迷い混み、疲れ果て、私は座り込んで一人声を殺して泣いていた。
悲しいのか。
哀しいのか。
憐れなのか。
切ないのか。
怒っているのか。
憤っているのか。
遣りきれないのか。
憂いているのか。
その時の、私の胸中を苛める感情は説明出来ない。今でも出来ない。
ただ破壊的衝動、あるいは自虐的衝動のような瞬発的で、そして強い強い衝動が私の心を侵していた。
ただ何もしなかった。いや、何も出来なかった。何か物にあたろうにも、物がない。そこは暗くて寒くて狭いだけで、何もなかった。自分の体を傷つけようにも、傷つける道具もない。出来るのは、唇を切れる程噛み締めることくらいだった。
そこで一晩明かした。
日が登り、街が目覚めてから私は路地裏を出たのだが、そこで思い悩んだ。
帰るべきか、帰らぬべきか。
帰りたいとは思わない。だけれどいくら足掻いた所で、自分は所詮ただの家出娘。成人でもない。
このまま逃げ続けることなど絶対出来やしない。
わかっていた。自分という人間が現状社会的にどれ程矮小で無価値か、十分過ぎる程に理解していたのだ。
それでも。
帰りたくはなかった。
父はどうしているだろう。焦っているか。自分の罪に苛まれているか。
母はどうだろう。もしかしたら父のやったことに気づいていないかも知れない。
気づいたとしたら、父を殺すだろうか。
あり得る。
あの母なら――。
父を殺し、自分も果てる道を選ぶかも知れない。
もしかしたら、今帰れば、あの家は二人の死体が転がっているだけの空間になっているかも知れない。
それでも。
帰る気にはならなかった。
心のどこかでは、そんなことあり得ないと思っていたのだろう。
結局。
私は街をさ迷った。
行く宛などない。目的もない。
ただ、ただ、歩いた。
しかし、やはり目立つ。目立つと言うより見つかる可能性がある。そんなことはないと思うが、もし父が探しているのだとしたら、見つかる可能性は十分にあるのだ。
私は極力人の目を避けて街を出た。
郊外には森がある。そこを目指した。
だけれどそこは。
魔女の棲む森。そう言われている。
――魔女。
それは、悪しき者。
――私も、同じか。
どうでも良い。ただ、人目を避けたかった。
私はそこで――。
そこで魔女と出会った。
※ ※ ※
それからさらに一年経った。
――あの日。
深き森の暗き闇の中で、魔女に出会ったあの日。私の心の中には魔女が根付いた。
闇色の魔女。いや蒼き魔女。
――ソラリス。
結局あの後、私は自宅に戻った。
父も母も――死んではいなかった。
どころか、大事にすらなっていなかったのである。
母はそもそも私のことなど眼中になかったし、“あんなこと”をした父すらも、実のところ差ほどの焦燥を見せなかったのである。
父は「心配させるな」という言葉だけで私の逃避を片付けた。片付けてしまった。
それからは――何も変わらない。
ことあるごとに怒鳴り散らす母。慰める父。何も変わっていなかった。
一つ変化が有るとすれば、それは週に一回か二回、父が『欲する』ということだけである。
私はただ黙って父を受け入れた。いや受け入れるしかなかった。
もう何もかも、私にはわからなくなっていた。
何が罪で、何が罰なのか。
ただ漠然と、自分がすべて悪いのだ、と――そう思っていた。
父に抱かれた夜は、何故かソラリスのことを思い浮かべていた気がする。
魔女。
ソラリスは自分には罪が有ると言った。そしてそれを償うことが、残りの人生だとも語った。
私も償い続けるのだろうか。犯してしまった罪を。
ならば――。
私も――魔女だ。
いや。魔女に罪が有るのではない。罪を認めぬ卑しき心こそが――魔女なのだ。
ソラリスは最後にそう言ったのではなかったか。
――私は。
この一年の間、私は時間が許す限りあの森へ出向いた。
魔女との邂逅を再び――とそう願っていたのかも知れない。いや確かに願っていた。私はもう一度魔女に会いたかったのだ。
会って、そして――。
だがあれから幾度となく足を運んでも、結局ソラリスには会えなかった。住んでいる場所すらも特定出来ない。
ただ。
ソラリスの“世話人”――と自称する少女と知り合うことが出来た。
クランという少女である。
クランは初め、私を迷子だと思ったらしい。
無理もない。
私はその時も魔女を探して東へ西へと、森の中をただ宛もなく歩いていたのだから、端から見れば迷子以外の何者でもない。
私は何を言っていいかわからなかった。辿々しく、迷子ではない、ということだけは言った気がする。
思えば同じ年頃の人間と交流を持ったことがないのだ。
そう言うとクランは大層驚いた。一体どこから来たのか、帰り道はわかるのか、両親はどこにいる、学校には行っていないのか、そんなことを矢継ぎ早に質問された。
それが、普通なのだ。それが常識なのである。
クランは丸い瞳を踊らせ、とにかく私のことを聞き、始終において私のことを心配してくれた。
それこそが、クランの与えるそれこそが――“人”の本当の優しさだったのだろう。父の優しさとは違う。決して違うものだった。
私は。
すべて打ち明けた。
何故そうしたのかはわからない。
いや。
成り立ちも過去も現在も罪も罰も目的も何もかも一切合切、打ち明けた。
それにはクランを足掛かりにソラリスとの接触を謀ろうなどという打算的な考えが、少なからずあったのかも知れない。
クランは私のすべてを知ったのち一言――。
「難儀な人生ですねえ」
と言った。不思議と嫌味には聞こえなかった。むしろ表面的な慰めの言葉より遥かにマシな回答である。
クランはそう言って暫し思案に暮れていたが、何か思い付いたように口を開いた。
「いやねえ、会わせてあげたいのは山々なんですけど、ソラリスさんは今屋敷を空けておりましてねえ。いや、何でも旧友から連絡があったとかなんとか言って、先週の始めに日本へ行っちゃったんですよお」
日本――。
余りにも遠いその地名に、私は落胆した。
「日本人のお友だちがいる魔女なんて可笑しいでしょう? あたしゃそれ聞いた時、お腹を抱えて笑いましたよ」
その時のことを思い出したのか、クランは頬を緩ませた。
「まあ、あたしゃあの人とはまだ一年にも満たない付き合いですからね。なんだかんだ言っても知らないことの方が多いんですわ。今回だって日本に行くとは聞いたものの、日本のどこなのか、何をしに行くのか、何日くらい滞在するのか、そのお友だちの連絡先もお名前も何も知らないんですよ」
つまり、ソラリスがいつ帰ってくるのかもわからないらしい。
そうか。
魔女には会えないのか。
そんな気はしていた。漠然と、あの人には二度と会えないのだと、私は感じていたのだ。
「どうしようかねえ。連絡先さえ教えてくれれば、ソラリスさんが帰られたことをお知らせしますが……?」
いや。
もう良いのだ。
どうせ二度とは会えまい。本来なら、一生会うことのない関係だったのだろう。
私と、あの魔女は。
だから。
もう良いのだ。
クランは私の気持ちを察したのか、
「なら“手紙”を書いてみてはいかがでしょう?」
と言った。
「差し支えなければあたしがお預かりして、ソラリスさんにお渡ししますよ」
――手紙。
手紙なら――。
「あたしはまあ、いつでもおりますし、待ち合わせ場所さえ決めて頂けたらお受け取りに行きますよ?」
私は少し思案した末、ならお願い申し上げます、明日同じ時間、同じこの場所に参りますので、その時に――。
クランにそう告げ、私はそそくさと森を抜けた。
※ ※ ※
オフィーリア。
その名だけが、母から貰った唯一の『愛』だったのかも知れない。
いや――それだけだった。
私は便箋を閉じた。封筒に入れるかどうか迷ったが、結局そうはせず、折り畳んだだけのそれを懐にしまった。
形式など無意味。私と魔女の関係は、決して人の世の習いには嵌まっていない。そう思った。
――手紙。
いやこれは恐らく手紙という形式にも嵌まっていない。だけれど、渡そう――渡したい。たとえ読まれることがなくても。
その夜も。
私は父に抱かれた。
オフィーリア。オフィーリア――。
母の愛を叫びながら、娘の体に満たされながら、父は己の欲を吐き続ける。
――ああ、これは罰だ。贖罪だ。私が犯した罪への償い。ならば償おう。それで罪が許されるなら、何度でも償おう。その罪が消えるまで、私の体が朽ち果てるまで。
それが。
それが魔女の。
――【 】――なのだから。
翌日。
私はクランとの約束の日時に森へ入った。
もう何度目になるか。幾度も幾度もこの暗く深い森の道なき道を踏みしめた。だが魔女と出会ったのはたった一度だけ。
この森が、魔女を隠しているのか。この闇が、ソラリスを守っているのか。
ならば。
――どうか永遠に。
私はみっしりと茂る木々に祈りを込める。
約束の場所に、まだクランは来ていなかった。
静かだ。とても、穏やかだ。何も怖くはない。何も畏れるものもない。このままずっと、微睡んでいたかった。
がさり――と地の葉が音を鳴らす。
――クラン?
振り返る。
木々の間に立っていたのは――。
母だった。
「――母さま」
母は、凡そ人の顔と思えない程険しい表情で私を見下していた。
ひしひしと感じる。
暗く、重く、激しく、濃い、とても濃い――“殺意”を。
「母さま――」
母は何も言わず語らずゆっくりと私に歩み寄る。その手には小瓶が強く握られていた。
ああ。
私は“すべて”を悟った。
母の“罪”も私の“罪”も母の“罰”も私の“罰も”母の“憎悪”も私の“憎悪”も母の“殺意”も私の“殺意”も母の“悲しみ”も私の“悲しみ”も母の“愛”も私の――“愛”も。
瞬間的に爆発的に破壊的に駆け巡る感情と思惑と絶望が電気信号に変換され体を徹底的に痛め付けて行く。
私は脱力しその場に落ちた。
四肢が瞳が唇が心が、ぶるぶると振動する。私の何もかも、どこもかしこもが私のいうことを聞かない。
眼前まで来た母が、唇を動かす。
「生まなければ良かった」
私は崩壊した。
開いた唇からどろどろと唾液を垂らし、性器から尿を漏らし、瞳から涙を溢す。
母は小瓶を開け、その中身を私の中にすべて流した。
噎せて。噎せて。噎せた。
胃が熱を帯び食道が伸縮し嘔吐する。嘔吐してもしても苦しみは治まらず、私は自身の吐瀉物の上で足掻き、悶えて転げ回る。それでも苦しみが終わることはなく、口から夥しい程の血液が溢れ出た。
そして――。
そこまでだった。
痛みも苦しみも、遠退く意識と共に蕩けていった。
私は私の吐瀉物に濡れた枯れ葉の地面に背を預けて、母を見上げた。
ぼやけた視界に映る母は。
とても。
とても。
優しい顔だった。
ごめんなさい。
迷惑ばかりかけました。
ごめんなさい。
おかあさん。
もう魔女はおりません。
この森に魔女はもういないのです。
だから安心してください。
何も、恐れることはないのです。
だから。
どうかお幸せに。
オフィーリア。
貴女がくれた愛だけ連れて。
去りましょう。
深い森。暗い暗い森。闇色の森。そして、魔女の森。
木々の間に、魔女が立っていた。
青色。藍色。碧色。いえ、蒼い瞳の魔女。
でもそれは。
瞼の裏の、幻だった。
ねえ――ソラリス。
「魔女には罪がございましょうか?」
私は。
そこで果てた。