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アベル・レヴァン<父>

 


 鬱蒼と生い茂る木々。黒々とした闇。

 一寸先も覆い隠す、どろどろとした闇夜。

 深き森。

 振り返る。

 誰の姿も見えない。と、言うより何も見えない。ただ枯れ葉を踏む乾いた音と、微かな息遣いだけが聞こえる。その闇の中で存在するのはその音だけだ。

 私は足を止めた。

 途端に背後の気配も途絶える。音すらも幽かな存在となった。

 生ぬるい風が過る。と同時にあの柔らかい匂いが鼻を掠めた。

 私は目を凝らし前方の闇を臨む。

 微かな灯りが見えた。ランタンの灯りだろうか。弱々しい光はゆるゆるとこちらに向かい、やがて止まる。

 ランタンの灯りは森の闇を退け、そしてもう一つの闇を浮かび上げていた。

 夜色のドレス。闇色の髪。そして――蒼き瞳。

 ――魔女。

 ソラリスがそこにいた。


「……ここで、良いのですね?」


 私はソラリスに問う。ソラリスは静かに、ええ、とだけ答えた。


「ここは――」


 震えた男の声が背中に掛かる。


「ええ。ここが約束の場所です。レヴァンさん」


 レヴァン氏は黙する。厭な沈黙でもあった。

 私は何を言うべきか思案した。その沈黙を破ったのはレヴァン氏の――妻女だった。


「……あちらの方が――魔女でございますか?」


 妻女は一歩踏み出し、私の横に並ぶ。ランタンの灯りに照らされたその表情がとても妖しく見えた。


「初めまして。ソラリス・エンジュと申します」


 魔女はそう言って深々と頭を垂れる。妻女は何も言わなかった。ただ闇がランタンの灯りでぐらぐらと揺れていた。

 私は何だか居心地が悪くて、さっと手をかざしレヴァン夫妻を紹介する。


「……こちらが依頼者であるレヴァン――」


「――娘を、娘をお願いします!」


 遮ったのは息を潜めていたレヴァン氏だった。レヴァン氏は私を押し退け魔女の前へ出ると、地に頭を伏せ何度も何度もお願いしますと言った。

 魔女はどこか悲しげな瞳でその光景を見つめる。


「……確かに承りました。しかし“再生の儀”の前に、ご息女が残された“手紙”を拝見したいのですが」


 レヴァン氏はそこで私を見る。

 ああ、遺書の事か――。

 遺書は事前に私が預からせてもらった。目は通していない。

 私は懐から遺書を抜く。畳まれた便箋。封筒には入れられておらず、裸のままのそれは遺書らしくはなかった。確かに“手紙”と言っても差し支えないように思える。

 私はそれを魔女に差し出す。ソラリスは礼を述べた後、丁寧に折られたその便箋を開いて中の文章を瞳で追った。

 また暫し沈黙が支配する。

 闇が、濃くなる。


「……ありがとうございます」


 ソラリスは一言そう言って便箋を元の形に折り込むと、丁寧な所作でレヴァン氏に返還した。

 一瞬。

 本当に一瞬の幻。

 私は、ソラリスの目尻に浮かぶ雫を見た。

 錯覚だ。きっと。


「そ、それで――」


 レヴァン氏は息を呑む。


「では――始めましょうか」


 ソラリスはレヴァン氏の視線を無視するようにランタンを近くの木の枝に掛け、そして――。

 ふっ――と息を吹き掛け、灯りを消した。

 暗黒が再来する。

 ただそれだけの事なのに、酷く不安になる。

 どす黒い闇。森の静寂。どくどくと脈打つ血管。張り裂けん程高鳴る心臓。

 ああ――厭だ。

 誰もいない。何もない。魔女も夫妻も森も風も音も自分すらも、深き闇が溶かしていく。


「――恐れることはありません」


 私はその声にびくりと体を震わす。


「生も死も、時の中では等しく平等」


 魔女――。

 ソラリスの声。


「生きるものはいずれ死で終わる。だけれど恐れることはありません。永遠の生がないように、永遠の死もまたないのです」


 ――すべては平等。

 始まりが終わるように、終わりからまた始まるのです。

 ソラリスの言葉だけが、この場に存在しているようだった。


「しかし生と死には境界がございます。進んだ針は決して戻りません。それはその狭間に垣根があるからにございます」


 境界。垣根。


「その垣根を一度越えれば、決して戻ることは叶いませぬ。生は垣根を越えて死に向かいます。だけれど戻ることは叶いませぬ。生死は垣根に寄って不可逆となるのです」


 ――ならば。


「垣根を行き来することが出来るのなら、生も死も思うがままになるでしょう」


 ――しかし。


「人には決してどうにも出来ません。人は垣根を一方通行で進むのみ」


 ――不可逆を可逆に出来るのは。


「“魔女”のみにございます」


 魔女――。

 ああ、魔女だ。

 今、この闇を支配しているのは。

 ――魔女。


「わたしは“蒼魔女”。魔女は垣根に立つ人外。垣根に立ちて、生と死に手を差しのべましょう」


 ――さあ。

 魔女は妖しく誘う。


「死の中の少女よ。わたしの手を取り、垣根を越えなさい」


 瞬間。

 強風が駆ける。

 私は思わず瞳を閉じた。

 豪々と強く薙ぎ行く。今度は、風の音しか聞こえなくなった。

 豪々。

 一瞬の事だったのか、はたまた永遠の時だったのか、私は風が止んでいる事に気づかなかった。

 瞼の裏の闇に、灯りが灯った。

 瞳を開ける。

 ランタンに再び灯りが灯っていた。

 刹那。


「い、いやああ――!」


 雄叫びが上がる。

 横を見ると、妻女が腰を抜かし、青冷めた顔で一点を見つめていた。

 そのさらに横にいたレヴァン氏は体全体を震わし、ああ、ああ、と唸っている。


「ああ――オフィーリア」


 レヴァン氏が立ち上がり、ゆっくりと前へ踏み出す。

 私はその行く先に目を向ける。

 先程魔女が立っていた場所。ランタンの幽かな光が照す淡い闇の中心。

 そこには。

 

 金色の髪の――少女が立っていた。


「オフィーリア。ああ、オフィーリア」


 あれがレヴァン氏の娘――。

 まだ幼さを残した体躯。闇に映える白肌。金糸の髪。触れば壊れてしまいそうな、脆弱な細工。

 美しい――少女だった。

 頬には微かな紅が浮かび、微細な肌はその下の青い血管をも透かしている。

 ああ――生きている。

 私は、ただそう思った。


「父さま。母さま。オフィーリアにございます」


 オフィーリアは眼前の親を前に、ただ微笑み、ただそう言った。


「……再生の儀はここに成りました」


 ランタンを持ったソラリスがオフィーリアの横に立ち、そう告げる。


「ああ、魔女さま、魔女さま、ありがとうございます」


 ありがとうありがとうと繰り返し、レヴァン氏はゆっくりとオフィーリアに近づき抱き締める。


「父さま……泣かないで」


「ああ、ああ――もう、泣かないよ」


 これは夢幻か――。

 死者の再生。

 そんなものが起こったと言うのか。


「夢でも幻でもございません。確かにオフィーリアは“蘇りました”」


 ソラリスが私に近づき囁く。

 そして。

 ――さあ、ここからです。そう呟く。


「父さま、そんなに強く抱いたら痛いわ。それに、母さまにもお話させて」


「ああ、すまない。そうだね。お母さんも心配してる。行ってその姿を見せてやりなさい」

 

 オフィーリアはレヴァン氏から離れ、妻女の下へ歩み出す。


「……母さま。オフィーリアにございます」


 妻女は娘を前に言葉を失っている。ガクガクと体を震わせ、ぶるぶると唇を揺らす。

 その姿は。

 まるで。

 まるで――恐怖におののく者の姿だ。


「ねえ母さま。オフィーリアよ? どうしたの。何か言って。優しく抱き締めて」


 妻女はその瞬間、失禁した。あうあうと声にならない音が唇から漏れる。


「どうしたの母さま? 何をそんなに怯えているの? オフィーリアよ。貴女の娘よ」


「――ち、違う。あの娘はあの娘は」


 妻女はそう言いながら尻を引き摺り後ずさる。


「私が娘よ。母さま」


 オフィーリアはゆっくりと前へ踏み出す。


「違う――違う!」


「怯えないで。怯えることなんかないわ、私――“怒って”なんかいないのよ?」


 ああ――と、オフィーリアのその言葉を皮切りに、妻女は壊れていく。


「大丈夫よ。怒ってなんていない。大丈夫」


「あうあ――や、やめ、て」


 どうしたんだ――。成り行きに不審を抱いたレヴァン氏が駆け寄る。

 そのタイミングを合わせたように――。


「母さまに“殺されたこと”――私は全然怒っていないのよ」


 オフィーリアはそう言った。


「うああ――!」


 その言葉で、妻女は完全に壊れた。

 レヴァン氏が妻女に駆け寄る。

 オフィーリアが微笑む。

 そして――。


「魔女を恐れなさい」


 ソラリスがそう結んだ。

 その言葉で。

 妻女は失神した。

 レヴァン氏はその妻女を介抱することはせず、ただ背を向けて、オフィーリアの方を見る。

 だが。

 オフィーリアはそこにいなかった。

 煙のように、消えてしまった。

 そして。

 ソラリスの姿もなくなっていた。


「……オフィーリア」


 レヴァン氏は遠くの闇を見つめている。

 まるで、闇に溶けた娘を探しているようだった。

 深き森の深淵は、父の儚き願いも悲しみも、そして母の暗き思惑も、何もかも、一切合切呑み込んだ。

 闇の中。

 残されたランタンの幽き灯りが、私達三人を、ただ――妖しく照らしていた。



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