オフィーリア<少女>
特別異様ということでもない。
確かにこの森は深い。木々の間隔が狭く、なおかつ天をも突こうかというほど伸びる幹と、その枝に大いに繁る碧が森という空間の密度を高めている。
朝方には霧も出るのだそうだ。
ならばより一層に森は深く遠くなるのだろう。
今は陽が高い。みっしりとした木々の葉が遮断しているが、まあそれでも足下すら見えないというほどの暗さではない。視界は悪いが、周囲三十メートルくらいは見える。
深いは深い。しかし深いというだけ。ただそれだけだ。
異様なものではない。恐怖も畏怖も、己は感じない。
恐らくそれだけなら、深い森というだけのそれだけなら、己でなくてもそういう感情は出まい。
――魔女か。
この森が恐れられている理由は単に『魔女』という存在にある。
森の奥には魔女がいる――。
たったそれだけの言葉がこの森を忌避すべき場所へと変えてしまった。
――くだらない。
魔女なる存在に懐疑を抱いているわけではない。不可思議な力はさておき、魔女と呼ばれる人間は確かにいるのだろう。
だが恐れる気にはならない。いかな業をもって魔女と定義するかはわからないが、それでも人は人。所詮は人の定義に嵌まる人間である。
人ならば――怖くはない。
がさり――と地の葉が音を鳴らす。
目をやると、すぐ近くの木々の間に女が立っていた。
顔は見えない。体の輪郭から女だと思った。いや――瞳か。
女の瞳だけが森の闇に輝いている。
青き妖しい光。藍にも碧にも見える。いや蒼だろうか。凡そ人の輝きではない。しかし獣でもないだろう。いや獣であるはずがない。あれは――。
魔女だ。
「……可愛いお客様。道にお迷いですか?」
何て。
何て澄んだ音色だろう。高すぎず低すぎず、耳を撫でるような柔らかい音。そして、相手を威嚇するわけでもまた受け入れるわけでもない、そう――何とも不可思議な音でもある。
それが、声なのだ。
魔女の。
この時すでに、私は目の前の存在が魔女であると確信していた。
「貴女はこの森の――」
言い切る前に、魔女はええ、と答えた。
もう一度葉を鳴らし、魔女は一歩前へ出る。
そこで漸く女の象が浮かび上がる。
闇夜で染めたような真っ黒なドレス。そして同じ色の髪。
魔女は森の闇に溶けている。輪郭などわかるはずもない。
やはり、私が始めにこの者を女だと思ったのはその――瞳のせいだ。
黒に浮く青い瞳。いや蒼い光。だが瞳だけで雌雄の別などわかろうはずもない。
私はこの者を女だと思ったのではない。きっと――魔女だ――と、そう思ったのだ。
直前に魔女の事を考えていたというのが起因となっているのだろう。
だが。
この女は――魔女以外の何者でもない。そう思う。何故そう思うのか、言葉では説明出来ない。人間を人間と捉える事を説明出来ないのと同じだ。
人間でも獣でもない。
魔女は魔女なのである。
そう、私はこの女を人間、個人として捉える事が出来ず『魔女という種』などという存在しない生物分類に当て嵌め捉えてしまっている。
それほどに、この女は魔女なのだ。
「わたしに何かご用件がございましたでしょうか?」
魔女が微笑み、そしてまた一歩私に近づく。
「――いえ、そういうわけでは」
私は己の中では一歩後退したつもりだったが、実際には僅かにも動いていなかった。
――駄目だ、掌握されている。
体が動かない。動かないというより『動きたくない』という感覚か。
それは――恐怖ではないか。
人ならば――怖くはない。
違う。
この女は――。
「怖れることはございません。わたしはあなたが畏怖しなければならない者ではないのです。確かにわたしは――」
――魔女です。
その一言が私を弛緩させた。体が解放された途端に尻餅をつく。乾いた土の匂いがした。
「ですが怖れる必要はありません。この森に、魔女はもういないのですから。さあお手を、森の外まで送ってあげましょう」
そういって魔女は白やかな手を差しのべる。私はその手を取らず、大丈夫ですと返して立ち上がった。少し眩んだ。
「……貴女が“蒼魔女”なのですね」
「ええ。ですが……もうわたしは魔女ではないのです」
そう言う女の表情は悲哀に満ちていた。
「わたしは只の人間にございます。矮小で愚かな者でしかございません。ですからあなたが怖れる必要などないのです」
「私は――」
「いいえ、善いのですよ。わたしは過去に罪を犯してしまいました。それは人様に厭われ拒まれ、そして恐れられるような大罪です。ですから人様にどのような態度を向けられても、わたしはすべて甘受致しましょう。いえ、そうすることが当然なのです。わたしは罪人。何も欲せず、何も求めず、ただ贖罪の日々でこの余生を送るだけ」
「……罪がございましょうか?」
私の問いかけが予想外だったのか、女は一瞬目を細めた。
いや私自身、意外だった。このような妖しい状況で、しかも一瞬前まで恐れおののいていた状態で、問いを投げるなどどうかしている。
いやこの時点では恐怖も何も感じていなかったのだ。むしろ――。
興味が湧いた。
魔女。己の範疇を超える存在。超えていると思う。もはや私の魔女象は過去のあやふやな印象を塗り潰し、すべてこの女に結ばれていた。
この女こそが魔女であり、この女以外は魔女となり得ない。
規定なき定義が結ばれていく。そんな感覚だった。
「――魔女には罪がございましょうか?」
女はいずこかの虚空に視線を泳がせたのち、すっと私の瞳を捉え言葉を返した。
「……魔女には罪がございます。いえわたしに罪があるのです」
さあ――と風が過る。途端に柔らかな芳香が流れる。魔女の、いやこの女の匂い。
「あなたの名を訊ねても宜しいでしょうか?」
名――。私にとってそれは、恐らくこの世で一番大切なもの。
「……オフィーリアと申します」
「オフィーリア。素敵なお名前。わたしは――」
ソラリス――それが魔女の名であった。
「オフィーリア。あなたはなぜこの森に踏み込んだのですか? ここは忌避すべき場所。そう教わっているのでしょう?」
森の奥には魔女が――。
災いをもたらす――。
蒼き害悪――。
けっして近づくことなかれ――。
「――私は」
ただ居場所を求めていただけだ。己の場所を。まるで逃げるように、逐われるように、この森へ――。
いや。
「……貴女に会いに来たのかもしれません」
魔女の棲む森。けっして近づくことなかれ。
だが私は魔女を求めていたのではなかったか。
「残念ながら、もう魔女はいないのです。ここにいるのはわたし一人」
「……一人。貴女は辛くはないのですか」
誰とも関わらず、何にも触れれず、ただ一人で生を全うする。
――辛いんだよ。
それは、何よりも――辛い。
「辛さも贖罪となりましょう。ですが、出来ることなら人様のお役に立ちたいと願っております。多くの人を傷つけたわたしは、多くの人を救わねばならないのですから」
「罪――でございますか」
ええ罪です、とソラリスは再び虚空を見つめる。
「それは、魔女ゆえの罪なのでしょうか?」
「……いえ。わたしの罪は、わたしが愚かだったゆえの結末。けっして魔女ゆえのものではございません。すべてはわたしが犯し、わたしが背負っただけのこと。だからこそわたしは――」
一人で生きるのです。
「そんなわたしは悲しく映りましょうか? 憐れに映りましょうか?」
「……私にはわかりません。私も貴女と同じく罪を背負う者にございます」
それはどんな罪だっただろうか。どんな罰だっただろうか。もはや知るすべなどない。
わたしは延々と、この先の生もずっと、罪を背負い罰を与えられるだけだ。
「……オフィーリア」
優しい声だ。柔らかい音だ。
だがけっして他者を受け入れる音色ではない。この魔女も、きっと怖いのだ。己が存在するというだけで他者の何かを傷つけてしまう事がわかっているから、怖いのだ。
「あなたはとても賢しい。聡明な『お子』です。ですがこれだけは覚えておいてくださいまし」
その賢しさはきっと――。
風が抜ける。深き森のいずこへ行こうと言うのか。
【あなたを傷つけるでしょう】
そして――。
がさがさと葉が揺らぐ。
【選択を誤れば、罪へと変わる】
だから――。
黒き闇がゆるゆるとうねる。
【けっして間違えないで】
心の過ち――。
一際強い風が私を薙ぐ。
【それが魔女の正体です】
耳を侵す豪風が止んだ時、私は森の入り口に立っていた。
ああ、それが。
――魔女だ。