09 薬屋
必要なものをあらかた買い終えて、午後からはさっそく仕事に取りかかった。
とはいえ、詩織は素人。ロッシェはまず、店の棚に並んでいる薬を一通り説明することから始めた。言葉の拙い詩織に専門的な知識を噛み砕いて話すのはとても骨の折れることだったろうが、彼は意外にも気が長く、教え方も上手かった。
詩織は思う。ロッシェの事に関しては「意外」と思う事が多いかも、と。
(見た目通りガラが悪いイメージを持ってしまいがちだけど、意外と賢くて、意外とたくさん本を持ってて、意外と料理上手で、意外と優しい……かもしれない)
最後の部分はまだ確証を持てないが。
しかし頭がいいのは確かだ。薬の特徴を順番につらつらと説明していくロッシェに、詩織はストップをかけた。
「メモ、お願い……。覚える、無理」
情けない声を出して訴えると、
「まぁ、確かに。間違って覚えられても困るしな」
ロッシェはそう言って、紐でまとめられた紙の束を渡してきた。ノートのような形をしているそれに、インクをつけた羽ペンを使って、日本語でメモを取っていく。何に効く薬か、使われている薬草は何か、一度にどれくらい使えば効き目が出るのか。副作用はないか。
店の棚に常備されている薬は、よく売れる薬でもあるようだ。冬場になると風邪薬の種類がぐんと増えたりもするらしい。
ロッシェは薬の説明を終えると、この国のお金の種類についても教えてくれた。薬を売る時に絶対必要な知識だから。
「なんとなく分かったか? 次は裏庭の薬草の世話の仕方教えるぞ。それが終わったら薬の調合の仕方な」
「うぅ……はい」
頭からプスプスと煙を出す詩織を見て、ロッシェは意地悪に笑った。何故か楽しそうである。
こんな風にして、一日目は薬についての説明と仕事内容の説明でほとんどが終わった。とにかく覚えろ、という事らしい。
そして二日目からは、いよいよ実際に薬を作ることになった。が、すぐ側についてくれているロッシェの言う通りに調合していけばいいだけなので、それほど難しい作業ではない。
基本は乾燥させた薬草を細かくすりつぶし、さらに他の薬草などと組み合わせてビンに詰めるだけである。どの薬草のどの部分——葉、茎、根など——を何種類組み合わせて、どれだけの量配合するのか。という一番難しい『レシピ』の部分はすでにロッシェが完成させているので、詩織はそのレシピに従えばいいのだ。
薬草の中には乾燥させるとその効果が失われてしまうものもあるので、そういう場合は生のまますり潰したり、煮た上でその汁を濾したりしてエキスを抽出し、薬を作る。
「基本、薬草は天日干しした方が成分が凝縮されるんだけどな。あと、腐りにくくなって保存もきくし」
ふむふむと頷きながら、すりこぎを回す詩織。料理を作る感覚にも似ていて、薬作りは思ったりより楽しい作業だった。
「こうやって薬を作ったり、薬草畑の世話をしながら、客が店にきたら接客もする。それがお前の仕事だ。わかったな?」
ロッシェの言葉に、詩織は「わかった」と返事をした。覚える事さえ覚えたら、仕事はやっていけそうだ。それほど体力がいる仕事でも辛い仕事でもない。
ただ一つ心配なのは、肝心のお客さんの数が少ないという事だろうか。たしかホテルでロッシェは「俺一人では手が足りなくなってきた」などと言っていたはずだが……。
薬は一つ一つの単価が高いものの、このままでやっていけるのだろうかと詩織は不安に思った。この事に関してロッシェが危機感を持たず、余裕な態度を取っているのも心配なところである。
しかし彼はそれほど呑気な性格でもないだろうから、たまたま詩織が働き出したここ二日は客が少なかっただけで、いつもはもっと多いのかもしれない。
+++
あっという間に二週間が過ぎ、詩織はこの世界にも仕事にもだいぶ慣れつつあった。言葉はまだまだだが、それでも最初よりは上達したはず。
メモをとったノートは手放せないが、薬草の名前や種類もなんとなく覚えてきた。実物を毎日のように見て触っているから、試験勉強のようにただ机の上で暗記するだけより、記憶しやすいのかもしれない。
「こんにちは」
店の扉がカランと鳴って、妙齢の女性が一人入ってきた。若奥さん、といった印象である。
詩織は棚の掃除をやめて、カウンターへと向かう。
「いらっしゃいませ。何をお探しですか?」
このフレーズは毎日のように言っているので、訛りは残っているもののスムーズに言えるようになってきていた。
客の女性は、詩織を見て一度瞳をまたたかせると優しげに笑って言った。
「まぁ、あなた新しい店員さん? いつもの男の人……えっと、ロッシェさんだったかしら。彼はどうしたの?」
「店主、今、外出してる。私、新人だけど、薬の事、聞いて下さい」
「そう。だったら……実は私、”月のもの”が重くてね。いつもここの薬を使って痛みを和らげているの。だけど前回買ったものがそろそろなくなりそうだから、同じものが欲しいと思って来たんだけど……あなた分かるかしら」
女性は不安げに詩織を見た。彼女からすると、ロッシェに比べて詩織が頼りなく見えたのだろう。
しかし詩織は「大丈夫」というように大きく頷く。
「分かる。店主から聞いてる。お客様、名前、マリーさんです?」
「ええ、そうよ」
「なら、これ。前の薬と同じの。体温めて、頭痛、腹痛に効く。一回一包。一日三包まで」
詩織はカウンターの内側から、茶色い紙袋を取り出した。中には小分けにした生理痛の薬が入っている。ロッシェから、そろそろマリーが来るかもしれないから用意しておけと言われていたのだ。彼女は、二、三年前からここに通っているらしいから、薬がなくなるタイミングも分かるのだろう。
「まぁ、ありがとう。よかったわ」
マリーはホッとしたようにほほ笑み、代金を払って薬を受け取った。
「私、本当に痛みがひどくてね。薬が手に入らなかったら一日中ベッドで寝ていなければならないところだったわ」
「それは、大変。とても」
詩織は深刻に頷いた。私は軽い方だけど、友達の中には病院に注射打ちに行ってる子もいたなぁ、なんて思いながら。
マリーは言う。
「だけどここの薬は本当によく効くのよ。副作用もほとんどないし、毎月助けられているわ」
『ここの薬はよく効く』。それは詩織が接客しているとしょっちゅう言われる言葉で、言われるたびにロッシェのすごさを思い知る言葉でもあった。彼が作る薬のレシピは、それほど優れているのだ。
詩織はそれを教わった訳だが、門外不出のそのレシピは、もちろん他の誰にも言ってはいけないことになっている。
「でも女の子がいるといいわね」
と、唐突にマリーが言う。詩織が首を傾げると、続けてこう説明した。
「私の場合もそうだけど、異性には言いにくい症状ってあるでしょう? しかもロッシェさんはかっこいいから、月のものの話なんてするの恥ずかしくって」
「分かります」
詩織の返事は『ロッシェがかっこいい』という部分ではなく、『異性には言いにくい症状がある』という部分にかかっていた。
「私でいいなら、また相談どうぞ」
「ええ、ありがとう。助かるわ。それじゃあまた」
「お大事に」
マリーが帰ると、詩織は掃除を再開させて、それが終わると休憩を取る事にした。もうお昼なので、ごはんを食べるのだ。
かまどの上で野菜炒めを作りながら、フンフンと鼻歌を歌う。マリーに限らず、客から「ありがとう」と言われると嬉しくなる。人の役に立っているんだと実感できるのだ。
(なんだか最近いい感じ。毎日が楽しくて充実してるっていうか)
詩織はそう感じていた。この世界での生活も、薬屋の仕事も、思った以上に自分に馴染んでいる。
そしてロッシェも予想よりずっと良い上司だった。分からない事は質問すれば丁寧に教えてくれるし、たまにヘマして”鞭”をとばされる事もあるけれど、それを挽回しようと詩織が頑張れば、”飴”という名のクッキーやマフィンを買ってきてくれる。
ただ不満があるとすれば、最初の三日間仕事を教えてくれただけで、それ以降はほとんど外出しているという事だろうか。
新人の詩織に店を任せっきりで、ロッシェは朝から「薬草の仕入れ」だとか言って外へ出ていってしまうのだ。実際に仕入れもしているのだろうが、それにしては時間がかかり過ぎているとも思う。
どこかで油を売っているのかもしれないが、しかし詩織にはちゃんと毎日の賃金が支払われているので文句は言えない。相変わらず客は少ないのに、ちゃんとお給料をもらえているのが不思議ではあるが。
最初はロッシェとの共同生活も心配だったのだが、彼は今では保護者のような存在になりつつあり、仲も良好だ。
仕事にはやりがいを感じ、同居人兼上司との仲も悪くなく、毎日新たな事を覚えてチャレンジしている。テレビや携帯がなくても、詩織は今の生活にとても満足していた。
(やっぱり自分に合った仕事が見つかったっていうのが大きいよね。覚える事は多いし大変な事もあるけど、心は満たされてる感じ)
野菜炒めを皿に盛りながら、ふふふと笑ってそんな事を思う。
しかしそこで、詩織はハタと動きを止めた。
ていうか、私——
「なに普通にこっちの世界に馴染んでるの……!」
二週間目でやっと気づいて、声を上げた。
「そしてクラストの事も忘れてた!」