08 路地裏の店
召移魔術は失敗したと思っているガレルとクラスト。彼らは、召喚位置がズレただけで詩織がちゃんとこの世界にやって来ているとは知る由もなかった。
「どこ、行く?」
闇の中、前を歩く男の背中に問いかける。詩織の心には不安しかない。
「俺の店だ」
男の名前はロッシェというらしいが、教えてもらったのはそれだけだ。何の店なのかと尋ねても、「ついてくれば分かる」と返されるばかりで。
(絶対健全な商売じゃないと思うんだよね……)
そう警戒する詩織の予想通りに、ロッシェは治安の良さそうな高級住宅街からずんずんと離れていった。一般的な住宅や店が建ち並ぶ地域へ出ると、迷路のように入り組んだ路地に入り、さびれた民家の角を曲がって、ゴミを漁る野良猫の横を通り過ぎた。
普通、店を出すとしたらなるべく人目につく場所を選ぶと思うのだが、ロッシェの店は違うようだ。地元の人間じゃなければ見つけられないような奥まった場所に、彼の店はあった。
「ここだ」
赤いレンガの、こじんまりとした二階建ての建物。一見普通の家にも見えるが、入り口の扉の上には、ここが店である事を表す小さな看板が掲げられている。
しかし詩織にはその文字が読めなかった。こちらの文字で分かるのは数字くらいだから。
「字、何、書いてある?」
看板を指差して聞くと、
「薬屋」
ロッシェは入り口の鍵を開けながら答えた。
「……薬?」
詩織が呟く。この刺青男が薬屋をやってる? 『薬』と書いて『ヤク』と読む方のじゃなくて? などと失礼な事を思いながら。
小さな鐘がカランと鳴って扉が開くと、ロッシェに続いて詩織も恐る恐る中へと足を踏み入れた。
入り口から一番近い位置にあるのは木製のカウンターだ。向かって右側の壁には小さな引き出しがいくつも並んでいて、左側の壁の棚には、薬が入っているであろうビンがずらりと置かれている。
薬は液体のものもあれば粉状のものもあり、何かの木の実みたいな粒が入れられているものもあった。天井近くには草花の束もつるして干してある。
カウンターの奥には作業台と椅子が置かれていて、その隣にはかまどと鍋類。床には汚れたバケツや木の葉が落ちており、少し散らかっている印象だ。
手狭な店内の一番奥には、裏口の扉と二階へと続く階段も見えた。
(本当に薬屋さんなんだ……)
詩織は壁に並べられた大量の薬ビンを、感心したように眺めた。ここにある薬は、ほとんどが植物からできているようだ。
「私、仕事、何する?」
詩織が聞くと、ロッシェは「ほとんど全部」と言い切った。
「薬草の世話から薬作り、接客まで。……そんな不安そうな顔したって、やってもらうぞ。大丈夫だ、覚える事は山ほどあるが作業は単純だから」
作業は単純って言ったって……と、詩織は心の中で呟いた。こんな素人が薬を作ってしまっていいんだろうか?
「ま、仕事は明日からだ。今日はもう遅い」
言いながら、ロッシェがかまどに火をつける。店内がぼうっと明るくなって、空気がじんわり温まってきた。ゆらゆらと揺れる炎を見ていると、何故かとても安心する。
と同時に、眠くもなってきた。
「問題なのは、急だったからお前の分のベッドが無いって事だな。明日中古品でも探すとして、今日は——」
ロッシェの言葉はほとんど右から左へと抜けていった。頭がぼーっとして、思考が鈍る。思えばトリップしてからまだ一日も経っていないのだ。今日の疲れや心労が、一気に襲ってきたかのようだった。
まぶたが重くなり、足に力が入らなくなって……。
「……おい!?」
ロッシェの慌てたような声を最後に、詩織の意識は途絶えた。
+++
「ん……」
温かくて心地いい布団の中で寝返りを打とうとして、詩織の体は何かにぶつかった。しかしそれを避けて反対側に寝返りを打ったら、今度は壁らしきものにぶつかる。
(なんでこんなに狭いの……)
夢うつつにそう思って苛立つ。身動きがほとんど出来ないじゃない、と。
自分の動きを邪魔する障害物を確認しようと詩織は目を開き、
「…………」
固まった。
どうしてこんな状況になっているのか頭を整理するのに、かなりの時間をかける。
ここは確かにベッドの上だが、詩織のマンションのベッドではない。目の前にはくせ毛の茶髪の刺青男が、肩をむき出しにして眠っていた。服、着てない……?
男の体臭なのか香水なのか、ムスクみたいな香りと、うっすら煙草のような匂いもする。不快ではなく、どちらかというと詩織の好きな匂いだった。
「ええっと……」
男の名前はロッシェだ。そうそう、段々思い出してきた。
だけど裸の彼と一緒のベッドで眠る理由が見当たらない、などと思いつつ、詩織は上半身を起こす。
よかった、ポンチョは脱いでいたけれど、服はちゃんと着ていた。
詩織はこの状況に少しデジャブを感じていた。クラストがトリップしてきていた時、一番最初の夜は二人一緒に狭いベッドで眠ったのだ。詩織の狭い部屋にはベッドの代わりになるようなソファーも、予備の布団も無かったから。
クラストは床に敷かれたラグの上で十分だとジェスチャーで伝えてくれたのだが、匿うと決めた以上、真冬に彼を床で寝かせる事はできなかった。
まだ言葉も通じなくてクラストのことも完全に信用してはいなかった時なので、見知らぬ人間に対する警戒感にも似たドキドキと、素敵な異性に対するドキドキとで、よく眠れなかった記憶がある。
それでも朝になって目を覚ませば、何故かがっつり抱きしめられて眠っていて、思わず悲鳴を上げた思い出。
「んー、もう朝か……」
と、詩織が過去の記憶に想いを巡らせているうちにロッシェも目を覚ました。あくびをこぼし、眠そうに髪をかきあげながら起き上がる。下半身がズボンに包まれているのを確認し、詩織は密かに胸を撫で下ろした。
「あのー、何でこんな事に……あ、違った。なぜ、一緒、寝る?」
寝ぼけたまま日本語で喋ってしまったのを修正する。
「何故って、ベッドが一つしかねぇからだよ。昨日急に眠っちまったお前を床で寝かせずに、ここまで運んで俺のベッドに入れてやったんだから感謝しろよ」
ベッドから降りたロッシェが、コキコキと首を鳴らす。狭いベッドで寝たから凝ったんだと言わんばかりに。
「あ、ありがとです。ごめん」
詩織も昨夜の事を思い出してきた。かまどの炎を見ていたら眠くなってしまったんだった、と。
「ここ、ロッシェ、部屋?」
「ああ、店の二階だ。お前の部屋は屋根裏にする。狭いけど文句言うなよ」
「平気、言わない」
そう答えてから、改めて部屋を見回す。全体的に落ち着いた色合いで、綺麗でも汚くもない部屋だ。
意外なのは本が多いこと。薬に関する本なのかもしれない。
「下行くぞ。顔洗ってメシだ」
服を着たロッシェを追って、詩織もベッドから降りた。
「いたたた……」
昨日、城までの行き帰りと仕事探しで街を歩き回った代償である、ひどい筋肉痛と戦いながら。
店の裏口から外へ出ると、みっしりと薬草が植えられた小さな畑があった。その隣には風呂場とトイレのある小屋、そして井戸。お風呂やトイレに行くためには一旦外へ出なければならないらしく、それは少し面倒かもしれない。
しかしトイレは思ったより清潔だった。和式トイレに似た便座が設置されていて、下水施設もある程度整っている様子。しかし詩織が何より嬉しかったのは、トイレの隅にちゃんと紙が置いてあることだった。日本のトイレットペーパーとは違い、四角くて固くったって文句はない。この世界でも何とかやっていけるんじゃないかと、そこで少し自信を持てた。
「ほらよ」
詩織が慣れないブラシで歯を磨いている間に、ロッシェは朝食を作ってくれた。
かまどと作業台は、キッチンとダイニングテーブルとしても利用しているらしく、二人はそこに椅子を持ってきて食事をとった。内容は、スクランブルエッグに豆を加えたような卵料理に、カゴいっぱいに盛られたフルーツとパンだ。
お腹の空いていた詩織は、遠慮なくそれらを頬張った。ロッシェは意外と親切だし、予想外に料理が上手い。手先が器用なのだろうか。
「そういや、お前、国はどこだ? 出身は」
先に朝食を食べ終えたロッシェが、煙草——形状は日本によくある紙煙草に似ているが、色が茶色い——を吸いながら詩織に質問した。
「……すごく、遠く」
パンをかじる手をとめて、一瞬考えてから返す。真実を話すべきか迷ったが、言うにしても、もっと後にした方がいいと詩織は思った。ロッシェが確実に信頼できる人物か見極めてから。そして異世界トリップをちゃんと説明できるだけの言語能力が自分についてからの方がいいと。
「ま、いいけどな。出身なんかどこでも」
ロッシェは煙を吐いてから、続けた。
「とりあえず今日の午前中は買い出しにいくぞ。お前のベッドとか代えの服とか、必要なもん探しに」
「え……でもお金……」
「金は俺が払う。初期投資だ。後でお前が働いた分の給料から引くから安心しろ」
いや全然安心じゃないですけど、と思いつつも詩織は頷いた。お金を貸してもらえるのは有り難い。財布はあるけれど中身は二千円ほどしかないし、おまけに日本円なのだから。
詩織が空のお皿にフォークを置くと同時に、ロッシェは立ち上がった。
「じゃ、行くぞ。えーっと、そういや名前を聞いてなかったな」
「詩織、です」
「シオリね。変わった名前だ。行くぞ、シオリ」
「ま、待って……!」
シオリはガタガタと椅子から立ち上がると、せっかちなロッシェの後を追って店を出た。