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06 ホテルにて(2)

「おいひい〜……!」


 ほっぺいっぱいに男から貰ったアップルパイを詰め込んで、詩織は幸せな声を上げた。

 砂糖がたっぷりと使われているそれはとても甘かったが、今の詩織にとっては最高のごちそうだ。血糖値の下がった体に、エネルギーがぐんぐん行き渡っていくような感覚。

 

「俺のもどうぞ、お嬢さん」


 あまりにも美味しそうにパイを頬張る詩織を見て、小太りの男の隣に座っていたもう一人の男も、自分のデザートを差し出してきた。

 

(がっついてると思われたかな……)


 詩織は顔を赤らめながらも、しかしデザートの誘惑には逆らえなかった。礼を言っておずおずと……しかししっかり皿を受け取る。くれるというのなら、遠慮なく頂こう。もう返さないぞ。


 そうして二つ目のパイを口に運びながら、詩織はもう一人の男を改めて観察した。正直に言って、あまりガラはよろしくない。

 歳は三十代くらい。ウェーブがかかった茶色い髪は無造作に整えられており、顎髭が似合う男前だった。

 しかしまくられたシャツからのぞく肌には両腕ともタトゥーが彫られていて、どこかカタギではない雰囲気を感じた。


(でも、パイくれたし……見かけによらずいい人なのかもしれない)


 詩織は無理矢理自分を納得させた。

 この茶髪の男は、小太りの男の部下なのだろう。あるいは護衛。歳も違うし、友達という雰囲気には見えなかったから。

 小太りの男は酒を飲みながら、詩織の体を上から下まで舐めるように見つめて言った。


「きっとキミの事を気に入る客は多いだろう。ドレスを着て化粧をすれば、今よりもっと色気も出る。しかしどうしてズボンなんて履いているんだい?」


 太い指でそっと太ももを撫でられて、詩織はパイを落っことしそうになった。

 クラストもそうだったし、この世界の人はスキンシップが多めなのかもしれない、と思いつつ質問に答えようとする。

 えっと、『どうして』『ズボン』『履く』とか何とか言ってたな。


「持ってる服、これだけ」

「そうかそうか。しかしこれからうちで働けば、もうお金の心配はなくなるだろう。ドレスや宝石だって、上手く客にねだればすぐに買ってもらえるさ」


 わはは、と笑って、小太りの男は詩織の肩に腕をまわした。強いアルコールの匂いがつんと鼻をつく。


「ところでキミは夜の経験はあるのかい?」

「経験……夜?」

「無いなら無いで構わないんだよ。そういう子に教えたいという男もいる」

「教える……」


 甘い林檎を呑み込んで、詩織は表情を曇らせた。この人さっきから、何だか変な話をしてない?

 もしかして……いや、もしかしなくても、彼の言う仕事って、体を売るお仕事なのでは?


「不安なら、わたしが練習相手になってあげてもいいんだ」


 グラスの酒をぐびりと飲み干し、下品な笑みを浮かべる小太りの男。彼はきっと娼館のオーナーなのだろう。最初に見せた、人当たりのいい穏やかな仮面は剥がれかけているようだ。

 肩を撫で回してくる男の手に耐えながら、詩織は考える。背中には嫌な汗をかき始めていた。

 

(今の私には余裕が無い。仕事を選んでいる余裕が。それにもしかしたら異世界人の私がここでお金を稼げる方法なんて、本当に体を売る事くらいなのかも)


 だけどそれでも、自分の性格や夜の仕事に対するイメージ、性行為に対する慣れなんかを考えると……。

 詩織はフォークを置いて、自分の肩に回されていた男の手をはらった。


「私……無理、です」


 この男について行くくらいなら、今日は野宿をした方がマシだ。しばらくホームレス生活を送ったって構わない。必死で仕事を探して、もしどうしても見つからなかったら、その時改めて娼婦という選択も考えよう。だけどそれは、最後の最後の手段。


「無理だって? 大丈夫さ、何も不安に思う事はない。ちょっと男と遊んで金が得られるんだ。これほどいい仕事はないだろう?」

「ごめんなさい。無理、本当にっ……」


 顔を伏せて、詩織は首を横に振った。

 と、そこで急に小太りの男の雰囲気が変わる。目つきが悪くなって眉がつり上がったかと思うと、ドスの効いた声で脅すようにこう言った。


「ああ、いいだろう。嫌だと言うならそれでいいさ。しかし、だったらこのデザートの分の代金はきっちりと返してもらうぞ」


 と、空になった皿を指差す。アップルパイは二つとも、すでに詩織の胃の中だ。


「そんなッ……!」


(アップルパイは私から欲しいと頼んだ訳じゃないし、だいたいさっき「甘い物は苦手だ」って言ったくせに! 私が手を出さなくてもどうせあなたは食べなかったんだろうし、別にいいじゃない。ごつい金の指輪なんかしてるくせに、パイの代金ぐらいでケチケチと……!)


 そう言いたかったのは山々だが、不自由なこちらの言葉で啖呵を切るのは難しく、結局詩織は、ぐむむ、と唇を噛んで黙るだけだった。

 それに男も、代金など実際はどうでもいいのだろう。詩織に支払い能力がないことも分かった上で発言しているのだ。


「さぁ、自分が食べた分の代金は払ってもらおう。それが出来なきゃうちに来て、その分の金を稼いでもらわないとな」


 なかなかにゲスい笑みを浮かべる小太りの男。「この人でなし」と心の中で叫んで、詩織は相手を睨み上げた。

 だけど本当は不安で怖くて仕方がない。自分が娼婦になって知らない男相手に体を許している場面を想像し、泣きそうになった。まだそうやって金を稼ぐ覚悟はできていない。

 だけどパイの代金も払えないし、このままでは……と、詩織が体を震わせた時だ。


 

 小太りの男が、詩織の目の前でいきなり倒れた。


「……え?」


 急に男の体の力が抜けたかと思うと、ソファの背もたれに寄りかかるようにして気を失ったのだ。


「な、なに? 大丈夫なの?」


 日本語で問いかけ、ゆさゆさと体を揺するが、男はまぶたを閉じたまま動かない。酒のせいで顔はほんのり赤く、気持ち良さそうな表情で——


「眠ってる?」


 詩織はパチパチとまばたきをした。

 そう、小太りの男は、いびきをかいて眠っているだけだった。

 心配して損したと思いつつ、何故急に寝てしまったのだろうと首を傾げる。


「おい、ちょっと」


 と、それまでほとんど喋らなかったもう一人の男——茶髪の刺青男だ——が、手を挙げて給仕係を呼んだ。自分の主人が突然意識を失ったというのに、とくに焦る様子もない。


「どうされました?」


 給仕係が二人やってくると、茶髪の男は、寝ている小太りの男の上着の内ポケットから勝手に鍵を取り出して言った。


「酔って眠っちまったようだ。このホテルの十六号室に部屋を取ってあるから、運んでやってくれないか?」


 鍵には薄い金属の板がついていて、そこにこの世界の文字で『16』と彫ってあった。

 給仕係が苦労して小太りの男を運んでいくのを見送ると、詩織は茶髪の男に向き直って聞いた。


「彼、大丈夫? 酔って、寝る、本当?」


 確かに酔ってはいただろうが、直前まで詩織を陥れようとするくらいには意識もはっきりしていたし、あんな風に急に眠ってしまうほどだとは思えなかった。なにか別の病気なのでは? と、少し気になったのだ。

 詩織の質問に、茶髪の男はニヤリと口角を上げた。そして隠し持っていたらしい小さなビンを詩織に見せ、中の透明な液体をちらちらと揺らした。


「なかなか鋭いな。奴が急に眠ったのは、この薬のせいさ。俺お手製の睡眠薬だ」

「睡眠、やく?」

「そう、眠くなる薬、と言えば分かるか?」


 眠くなる薬……この人、自分の上司に睡眠薬を盛ったの? 詩織は思わず身構えた。この男の目的が分からない。

 薬はきっと、小太りの男の酒のグラスに入れられていたのだろう。彼は終始詩織の方を向いて話をしていたから、詩織とは反対側に座っていた茶髪の男がその隙をつくのは容易いはず。


「どうして、薬、入れた? 彼、あなたの、主人……」

「主人? いや、違う。あの男は俺の店のお得意さんでね。今日もお前が来るまでは、食事をとりながら商談をしてたんだ」


 茶髪の男が小太りの男の部下だというのは、詩織のただの勘違いだったらしい。この男もまた、自分の店を持っているのだ。


「明日あの男が目を覚ましても、酒の効果もあって眠る直前の記憶は飛んでるかもな。お前の事もきっと記憶に残ってないだろうから安心しな」

「なんで……」

「なんでこんな事をしたのかって? 簡単な事だ。奴にお前を奪われたくなかったからだ」


 男が愛する女に言うようなセリフを告げられて、詩織は一瞬面食らった。しかしもちろんそこに甘い感情などは無く、


「最近、店の方が好調でね。俺一人では手が回らなくなってきてた。で、ちょうど誰か……働く意欲が旺盛な、真面目で扱いやすい人間を雇おうと思ってたとこだ」


 茶髪の男はそう言うと、詩織の方を見てニッと笑う。

 たしかに働く意欲はあるし、日本人らしく真面目で扱いやすいかもだけど、と思いつつ、


「嫌……です」


 冷や汗をかきつつ、詩織は言った。だってこの男の店も、たぶんろくな店じゃない。娼館で働いた方がマシと思える仕事かも。

 男は立ち上がってソファに掛けていた上着を羽織ると、


「いいだろう、断ったって構わないさ。ただし、お前が食べた俺の分のデザートの代金を今ここで払えるならな」


 余裕の笑みを浮かべてそう言い放ったのだ。

 この男……! と歯ぎしりしながらも、詩織の負けは決まっていた。タダ食いして逃げる訳にはいかない、と、真面目で扱いやすい性格がばっちり出てしまったのである。


「さぁ、来い。お前に仕事をやる」


 さっさとレストランを出ていく男の後を、詩織はとぼとぼと気の進まない様子で追っていった。

 デザート含め、二人分のコース料理の代金を前払いしていたのは小太りの男の方で、おごられていた茶髪の男に詩織が金を返す必要など無いのだということには、気づける訳もなく……。


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