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05 ホテルにて(1)

 時刻はおそらく、夜の七時か八時。日は落ちて空には星闇が広がっているが、詩織からすればまだそれほど遅くない時間帯だった。日本ならスーパーだって開いている。


 が、しかし。

 この街で開いている店は、もうほとんどない。昼間あれほど賑やかだった大通りも、今はしんと静まり返っていた。外灯なども日本ほど多くはないようだ。

 夜ってこんなに暗かったっけ? と恐怖を感じた詩織は、それを打ち消すように歩く速度を速めた。

 仕事も、ただで泊めてもらえる宿も見つからず、今夜は野宿で我慢するかなどと思ったものの、やはり無理だと考えを改める。

 夜というのは思った以上に恐ろしい。暗闇の先に何かいるのではないかという不安が、常に胸をよぎるのだ。


 この周辺で明かりがついているのは宿屋と食堂、酒場くらい。しかしそれらの店は、詩織が昼間の内にすでに訪れ、雇うのを断られている店ばかりだった。


(どうしよう。今開いている店で、あと残ってるのは……)


 詩織は目の前にある大きな建物を見つめた。三階建てで窓がたくさんあり、正面の大きな扉やバルコニーの手すりなどには、美しいレリーフが刻まれている。

 この街は広く、場所によっては治安の悪そうな薄暗い雰囲気の場所もあるけれど、ここら辺一帯は静かで洗練された高級住宅地といった感じだった。詩織のいる位置からも、小綺麗な屋敷がいくつか見える。

 しかし目の前にある建物は、普通の屋敷とは違う気がした。


(ホテル……かな?)


 詩織はそう予想する。『宿』ではなく、『ホテル』だ。もちろん日本の近代的なホテルとは違うが、この街の他の宿とは建物の大きさも、雰囲気も違う。

 何となく敷居が高くて、昼間ここを見つけた時は素通りしていた。たぶん雇ってもらうのは無理だろうと。

 けれど今はそんな余裕もない。駄目元でも行かなければ。


 宿泊客を降ろした馬車が敷地内から出るのを待って、詩織はそっとホテルの入り口を目指した。そこにはドアマンのような男性がいたのだが、詩織が無言で軽くほほ笑むと、客と勘違いしたのか普通に扉を開けてくれた。

 アクセサリーを売っていたお姉さんにも言われたが、手入れのされた肌や髪を見れば、詩織はそこそこ良いとこのお嬢さんにでも見えるのかもしれない。

 ただ、妙齢の女性がズボンを履いているのは変だったのか、ドアマンも少し怪訝な顔をしていたけれど。


 中に入ると、大理石のエントランスが詩織を迎えた。思ったほど広くはなく、照明も暗め。しかしそれは蛍光灯などではなくランプや蝋燭を使っているためで、むしろこちらの方が落ち着いていて雰囲気が良かった。

 受付カウンターにいる若い男は帳簿とにらめっこをしていて、こちらには気づいていない様子。

 彼に声をかけてみようかと思った詩織だったが、ふいに鼻をくすぐった美味しそうな匂いに気をそがれる。


(あそこからだ。ホテルに併設されてるレストランみたい)


 エントランスの隣にそれはあった。ちょうど夕飯時なのか、レストランは大いに賑わっている。

 長い距離を移動して腹ペコな詩織は、思わずふらりとそちらに向かった。思い出したかのように、ぐるぐるとお腹が鳴り始める。

 食事をしている人々は皆ある程度着飾っていて、上流階級の紳士淑女といった雰囲気だ。広いレストランはほぼ満席で賑わっているが、街の酒場のように騒がしくはない。


(なんか皆お金持ちっぽいなぁ。もしかして貴族の人とかもいるのかな。お屋敷の物置でもいいから、今晩私の事泊めてくれないかな……)


 そんな事を考えてみるものの、実際に頼んで回る勇気はない。

 客から従業員の方へ注意を移す。お揃いの制服を着た給仕係がテーブルの間を忙しく歩き回り、客に料理を運んでいる。

 そして奥の方へ目をやると、口ひげを蓄え、髪をぴっちりと頭に撫で付けた五十代くらいの男性が、彼らの働きぶりを監視するように見つめていた。

 背筋もピンと伸びていて、厳しそうな人。おそらくこのホテルの中で人を指導する立場にある、偉い人なのだろう。


(雇ってもらえるか聞くのなら、あの人と直接話をした方が早いよね。厳しそうで、かなり緊張するけど……)


 いつまでもボーッと突っ立っている訳にもいかず、詩織は口ひげの男性の元へと向かった。軽く髪を整え、コホンとひとつ咳払いをしてから、恐る恐る話しかける。

「あの、すみません」とか、「お仕事中申し訳ありません」とか、そういう言い回しの言葉が分からないので、


「私、仕事欲しい」


 ……いきなり本題に入るしかなかった。

 言葉が不自由なのは本当に不便だ。常識のない奴と思われたかもしれない。


「何ですって? 仕事?」


 片眉を跳ね上げて、口ひげの男性が返す。その刺だらけの声が詩織の心にザクザクと刺さった。

 しかしここでひるんではいけない。野宿は嫌なのだ。

 

「お願い、です。掃除洗濯、何でもする」


 詩織は懇願したが、男性は冷たくこう返すだけだった。


「無理ですよ。異国の方にうちの仕事は勤まりません。お引き取りを。まったくどこから入ってきたんだか」


 追い払おうと腕を引っ張られたが、詩織は足を踏ん張って抵抗した。日本語で必死に訴える。


「お願いします。人が嫌がるような大変な仕事でも、汚い仕事でも何でもやります。お給料も贅沢は言いません。お願いです、雇って下さい!」

「何を言っているのか分かりませんよ。諦め、なさい、この……」

「嫌、で、す……」


 腕を引っ張る男性と踏ん張る詩織が、お互い一歩も引かずに綱引き状態になっていると、


「ちょっとキミ、キミ」


 突然第三者の声が割って入った。話しかけられたのは口ひげの男性だったが、詩織も一緒に振り向いた。

 すぐ後ろの、奥まった場所にあるソファー席——他の席が普通のテーブルと椅子なのを見ると、こちらはVIP席なのだろう——に、声の主はいた。


「その子はわたしの知り合いだ。離してやってくれ」


 ニコニコと人のいい笑みを浮かべた小太りの中年男性が、そう言って詩織の事を手招きする。彼の隣にはもう一人男がいて、二人で食事をとっていた最中のようだ。


「……それは失礼致しました」


 口ひげの男性は詩織と争ったことで吹き出た汗を拭きながら、客の男に頭を下げた。詩織のことをチラリと睨んで、さっさと厨房の方へ引っ込んでしまう。

 詩織は客の男の方を見つめながら考える。彼はもちろん知り合いではない。ということはもしかして、助けてくれたのだろうか。

 

「やぁ、お嬢さん。こっちに来て座らないかい?」


 笑みを崩さずに小太りの男が言う。身なりはきちんとしていてフレンドリーな雰囲気だったし、他にどうすることも出来ないので、詩織は黙って彼の席に向かった。指に金の指輪をはめていたりして成金チックな印象だが、悪い人ではないのかもしれない。

 そんな詩織の考えを裏付けるように、男は言う。


「ちょっと聞こえたんだがね、お嬢さん仕事を探しているんだって? どうだろう、よければわたしの所で働かないかね?」

「……!」


 嬉しい申し出に、詩織の瞳は大きく見開かれた。このチャンスを逃すまいと、詩織は『うんうん』と首を縦に大きく振り、答える。


「働く、です! 仕事欲しい」


 言ってから、「あ、でも……」と付け加える。


「私、家ない。住み込みの仕事、嬉しい」


『厚かましいようですが、できれば住み込みで働かせてもらえると非常に有り難いです』という想いを少ない単語でたどたどしく伝えると、小太りの男はあっさりとそれを了承した。


「ああ、大丈夫だよ。うちはほとんど皆、住み込みで働いているからね。お嬢さんの部屋も用意するよ」

「本当!? ありがとう。あと私、言葉、下手……平気?」

「問題ないさ。言葉がつたないのも、可愛らしくていいものだ。キミのそういう所に魅力を感じる客も大勢いるだろう」

「よかった……!」


 どうやら客商売らしいが、カタコトでも問題にはならないらしい。詩織はホッと息をついて尋ねた。


「仕事、内容、教えろ」


 笑顔で言う。詩織の言葉の先生はクラストだったので時々男言葉になることもあるのだが、残念ながら本人はそのことに気づいていない。

 突然の命令口調にも小太りの男は怒ることはなく、一緒に席についていた男と共に吹き出した。


「わはは、いいね。特殊な嗜好の客からもウケるかもしれない」

「……?」

「まぁ、仕事の話は後でじっくりしようじゃないか。それよりキミは腹が減っているんじゃないかい? これを食べるといい。わたしはまだ手を付けていないから」


 そう言って、男は自分のデザートを詩織に差し出した。アップルパイにクリームが添えられたもののようだ。


「コースで出てきたんだが、わたしは甘い物は苦手でね」


 詩織に新しいフォークを渡し、自分はグラスに入った酒をあおる。


「あ、ありがとう!」


 ちょうど空腹で死にそうだったこともあって、詩織は喜んで皿に乗ったパイを受け取った。この人、すごくいい人だー! などと思いながら。

 食べ物をくれる人は、無条件に詩織の中で『いい人』に分類されるのである。


 

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