04 クラストは英雄
「徒歩って不便だわー……」
せめて自転車でもあれば、時間と疲労も大幅に削減できたのに。また二時間以上かけて街へと戻った詩織は、もうクタクタだった。最近こんなにたくさん歩いた事はない。
けれど休んでいる暇もなかった。詩織は街の中心部まで戻り、きょろきょろと周囲を見回した。夕方になって、昼間より人気は少なくなっている気がする。
(泊まり込みで仕事をさせてくれるところがあれば一番良いんだけど……)
この街で生活しながら、クラストに会えるまで城に通う。それが最善の方法に思えた。
そしてクラストに会えたら、彼の知り合いの魔術師を紹介してもらうのだ。三年前、彼を異世界トリップさせた魔術師を。
(その魔術師ならもしかしたら、私を日本に帰せるかもしれない。というかそもそも、私がこっちの世界に来ちゃった原因って何なんだろう?)
詩織は首をひねったが、自分の身に起きた超常現象の原因を突き止めることは難しかった。
まぁ、すでに起こってしまった事をあれこれと考えていてもしょうがない。これからの事を最優先で考えないと。そう気を取り直して、詩織は仕事と寝床を探す事に集中したのだ。
布生地や服を売っている店に、鍋なんかを扱う金物屋、果物や野菜、花を売る屋台、小さな食堂、古びた宿……。日本でも就職難に苦しんだ詩織だったが、この国でも同様に苦労する事になるとは。
街を歩き、異世界人の自分でもなんとか手伝えるんじゃないかと思える仕事を見つけては、店の主人に「雇ってほしい」と頼み込む。それを何度も繰り返したのだが、結局頷いてくれる者は現れなかった。
断られる理由としては、人手が足りてるとか、他人を雇う余裕がないというものが多かった。おまけに詩織は言葉が不自由だ。会話を交わした人は詩織の事を外国の人間だと思うらしく、それも仕事を得る枷になっているらしい。どうせ雇うなら、言葉も常識も通じる自国の人間の方がいいのだろう。
(心が折れそうなんですけど……)
詩織は肩を落とした。雇うことを断られただけなのに、自分の人としての価値まで否定されたような気持ちになる。日本にいた時から何度も経験してきた事だけど、続くとやっぱり辛い。
すでに太陽は山の陰に隠れようとしており、人々の帰りをせかすように真っ赤な夕日が街を照らしている。人通りは見る間に減っていき、周囲の店も閉店の準備を進めていた。
お菓子を買ってもらった子供が嬉しそうに親の手を握り、家のある方向へと歩いていく。素朴な青年が花売りの娘に「明日もまた来るよ」と声をかけ、手を振る。
そんな人々の様子を詩織は黙って眺めていた。みんな誰かと知り合いで、みんな誰かと繋がっている。
(どうしよう、なんかすごい寂しい。ホームシック?)
涙をこらえて唇を引き結ぶ。
暗く沈んでしまいそうな気持ちを切り替えようと首を振った。
(こんな事で泣いてどうするの。日本にトリップしてきたクラストが、「寂しい」「帰りたい」って泣いた事があった? 弱音を吐いた事があった?)
自問し、答える。「いいえ、ない」と。
なら、私も頑張らないと。
「よしっ!」
詩織は気合いを入れ直すと、再び歩き出した。泣いてたって仕事は見つからないのだ。日本の厳しい就活を経験してきた私をなめるなよ!
「悪いねぇ、うちはあたし一人で十分さ」
「そう……」
地べたに布を広げて、石を繋げたようなアクセサリーを売っていたお姉さんに声をかけた詩織だったが、やはりあっさりと断られてしまった。商売の規模からして、断られる覚悟はしていたのだが。
「あんた異国の人間かい? 黒髪はこの国でも珍しくないけど、手入れされてて綺麗だし、肌も白くて荒れてない。おまけに服も上等そうだ。なのに住む家も仕事もないなんて、何か訳ありなんだねぇ?」
お姉さんは詩織の外見をじっと観察して、そう言った。
「助けてやりたいのは山々だけど、生憎あたしも自分の事で手一杯なのさ」
お姉さんが言っている言葉の意味はなんとなくしか分からなかったが、自分を気にかけてくれた事は分かって、詩織は嬉しくなった。
「平気。ありがとう」
トリップしてから初めて表情を崩す。この世界にもきっと、優しい人は大勢いるのだろう。
そろそろ家路につこうとアクセサリーを片付け始めたお姉さんに、詩織は何となく聞いた。
「質問ある。あなた、クラスト・オーフェルト、知ってる?」
知らなくて当たり前の、何の期待もこもっていない質問だった。
ただ詩織は、あの門番の言葉がずっと気になっていたのだ。まるでクラストが有名人かのような、そして詩織が彼のミーハーなファンであるかのような言い方だった。
「クラスト・オーフェルト? もちろん知ってるよ」
当たり前でしょ、というふうに答えたお姉さんに、詩織は大きく目を見開く。
「な、なんで知ってるんですか? クラストは、ただの一介の騎士でしょう? 門番が彼の事を知っているのは分かるけど、どうしてお姉さんみたいな普通の人が……」
予想とは違う答えに驚愕して、思わず日本語が出てしまった。「何言ってんのか分からないよ」とお姉さんに制され、こう説明された。
「クラスト・オーフェルトの名前を知らないやつなんて、この国にはいないよ。彼は英雄さ」
「え、英雄……」
その単語は知っている。けれどそれがクラストとイコールで繋がっているなんて。
「二年ほど前のことかねぇ。この国が多くの魔物に襲われた事は、異国人のあんたでも知ってるだろう?」
詩織が反応を返すのを待たずに、お姉さんは続ける。
「魔物なんて、深い森へ行けば出くわす事もあるけどさ、普通に生活してりゃまず出会わないだろ? 人間や動物に比べて、ずっと数は少ないんだからさ。それでも百年だか千年だかに一度、何故だかわからないが、魔物が同じ場所で大量に生まれることがある。それがちょうど二年前にこの国で起こっちまって、一番最初に被害を受けたのは南部の小さな村だった」
話を聞きながら、詩織はごくりと息をのんだ。
クラストからこの世界の話を聞いた時、確かに魔物が出るということも言っていた。そしてその時は「へー、怖いねぇ」なんて人ごとのように思っていたけど、今は実際その世界にいるんだから恐ろしい。思わずきょろきょろと周囲を確認してしまう。
「魔物は人間を襲い、建物を破壊する。町を壊滅させたら、また次の町へ。南部の方はそりゃあヤバい状態になっててね、この王都周辺に魔物たちがやってくるのも時間の問題だった。あたしも、もうこの国は駄目だなんて思ったもんよ」
腕を組んで目をつぶり、しみじみと語るお姉さん。
「だけど国王陛下が派遣した精鋭部隊の一団によって、魔物たちは倒されたのさ。今まで戦ってきた騎士や魔術師、傭兵たちでは、まったく歯が立たなかったってのにだよ。それであたしら国民はその一団を讃え、その中でも特に活躍したというクラスト・オーフェルトを、国を救った『英雄』と呼ぶようになったのさ。あたしも彼は大好きだよ。凱旋パレードの時に見たけど、ほれぼれするような良〜い男だったしねぇ」
うっとりとした声で、お姉さんは話を締めくくった。
詩織は頭を高速回転させて、今の話を自分なりに噛み砕いていく。知らない単語もたくさん出てきたけど、重要な部分は読み取れたと思う。
『魔物を倒し、この国の危機を救ったクラストは、英雄と呼ばれるようになった』
それが二年ほど前の出来事という事は、つまり彼が英雄になったのは、日本から戻った後ということ。日付や時間の数え方は、この世界も地球もほとんど同じだったはずだから、それは確かだ。
詩織は思う。クラストが帰ってしまった後、私が寂しいながらも平凡な大学生活を送っている間、彼はこっちで魔物相手に戦い、英雄になっていたのね、と。本当に『世界が違う』のだ。
そして、こうも思う。
(クラストがそんなに強いなんて知らなかったな。体は鍛えられていたし弱そうには見えなかったけど、あっちじゃ戦う機会がなかったから)
詩織の狭い部屋にクラストがいる状況は、強くて大きな狼が窮屈な檻に閉じ込められているような状況にも似ていたのかもしれない。彼の銀髪は目立つから、余計な注目を浴びぬよう「あまり外に出ないように」と詩織が頼んだのだ。
今更ながら、彼が自分の世界に戻れてよかったと思う。日本ではクラストの戦闘能力も宝の持ち腐れだったのだ。
(狭い私の部屋での生活も退屈だっただろうなぁ。帽子を被ってもらって外へ出る事もあったけど、近所を散歩するくらいだったし……)
過去に想いを巡らせながらしんみりしている詩織に、荷物を畳んだお姉さんが言う。
「そろそろあたしは帰るよ。あんたを一晩泊めてやりたいけど、あたしも今は宿暮らしでね。野宿が嫌なら、とりあえず宿だけでも探さないと、もう日が沈んじまうよ」
じゃあね、と手を振って行ってしまうお姉さんの後ろ姿を眺めながら、詩織はまだクラストの事を考えていた。
(ちょっと待って。クラストがそんな有名人になってるなら、彼に会って話をするのは不可能に近い事なんじゃないの? となると彼の知り合いの魔術師にも会えなくなって、私が日本に戻れる可能性も低くなる?)
詩織の表情が、さっと曇る。
(クラスト……なんで英雄なんかになっちゃったの……)