32 英雄、壊れる
クラストによってシラバスのいる医務室に運ばれた詩織は、その奥の病室のベッドで熱にうなされ続けた。
そしてクラストは国王からの許可をもらい、ずっとその側に付き添うことにした。
「……クラ、スト」
詩織は熱に浮かされながらも時々意識を浮上させ、涙に濡れた瞳をうっすらと開けてクラストを呼ぶ。
「ここだ。ここにいる」
そしてその度、クラストはそう答えて詩織の手を握ってやるのだ。そうすれば詩織は安心したように息をつき、
「よかった……まだ……消えて、ない」
か細く呟いてまた眠りに落ちる。
(消えてない? 詩織も俺の事を幻だと思っているのか?)
最初、自分も目の前にいる詩織を幻だと思っていたように?
クラストは詩織の手を握ったまま、苦しげな彼女の寝顔を見つめた。先ほど薬は飲ませたのだが、熱はまだ下がりそうもない。用事があって今は病室を離れているシラバスの診断によると、安静にしていればこれ以上悪化する事もないらしいのだが。
「酷い男だね、君って」
唐突に背後から聞こえてきた声にも、クラストは振り返らなかった。声の主がガレルである事はすぐに分かったし、何より詩織から目を離す時間が惜しかったから。
なにせ彼女の姿を見たのは三年ぶりなのだ。三年分の『詩織不足』を、今クラストはとりあえず目で見て補っていた。
本当は彼女の体を抱きしめてキスをして、その他諸々して補いたいのは山々であるが、本人の許しも得ずにそれをしては犯罪だ。そう思い留まる理性は一応残っている。
「いたのか」
クラストはベッドの詩織をじっと見つめながら、後ろにいるであろうガレルに言った。
ガレルは呆れたように答える。
「いたよ。結構前からね」
「……俺がなぜ酷い?」
「だって君、熱にうなされるシオリを見てずっとニヤニヤ笑ってるじゃないか」
そう言われて初めて、クラストは自分の表情に注意を向けた。確かに頬が緩んで、口角が上がっているようだ。目の前の詩織は、熱のためにとても辛い思いをしているというのに。
クラストは意識して顔をしかめた。
「別に苦しんでる詩織を見て笑っていた訳じゃない」
「わかっているよ。彼女がここにいるのが嬉しくてたまらないんだろう?」
ガレルは肩をすくめて言った。
クラストは素直に認める。
「そうだ。……そうだな。この三年、散々夢みてきた事が、今現実に起こっている。詩織が俺の世界にいるんだ。その事については喜ばずにはいられない」
詩織が熱を出して苦しんでいるのは、もちろん心が痛むが。
「それに……」
クラストは呟いたが、しかしその続きは言葉にはしなかった。
——それに、詩織が自分を求めてくれている。
クラストにはそれが何よりも嬉しかった。
「クラ、スト……」
かすれた声で名前を呼ばれ、クラストはハッと意識を戻した。詩織のまぶたは閉じられたままなので、起きた訳ではないらしい。
今のは寝言だ。
詩織の手を握ったまま、クラストは感動したように瞳をキラキラと輝かせ、ガレルを振り返った。
「今の聞いたか? 詩織が寝言で俺の名前を呼んだ」
抑えきれないというように、クラストの表情はまた崩れてしまっている。
もう、ゆるっゆるだ。
ガレルは軽く片眉を上げた。クラストの気持ちは知っていたつもりだが、それでも我が目を疑う。クラストは王の近衛騎士に昇進した時も、魔物を討伐した時も、その後の凱旋パレードで国民から賞賛と尊敬をもって迎えられた時ですら、こんな顔をしなかったのに。
それが想い人の寝言一つであっさりと……。
しかしガレルはそんな彼の変化を嬉しく思った。思わずこちらも笑顔になってしまう。
ガレルは、自分と同じく周りから”天才”と呼ばれ、ある意味孤独な存在であるクラストの事を勝手に同士認定している。クラストが嬉しそうだと自分も嬉しい。
彼のこの顔が見たくてガレルは詩織をこちらへ喚んだと言っても過言ではない。
けれど一方で、辛そうに荒い呼吸を繰り返す詩織を見て、ガレルは申し訳ない気持ちになる。召喚しておきながら約二ヶ月もそれに気づく事が出来ず、彼女はその間どれだけ苦労したのかと思うと胸が痛むのだ。
二ヶ月前、召喚は失敗したと思い、「残念だなぁ」などと呟きながらも優雅にティータイムを楽しんでいた自分から、温かな紅茶の入ったカップを取り上げてやりたい。お茶なんて飲んでいる場合じゃないよと。
ガレルはぽつりと言う。
「彼女には本当に悪い事をしてしまったね。さすがの僕でも反省す——」
言葉は不自然に途切れた。
「…………何やってるの?」
目に映ったクラストの奇行に、注意を逸らされたからだ。
ゴン、ゴンと鈍い音が病室に響き渡る。
クラストは自らの頭を壁に打ち付けていた。
「やめなよ、怖いよ、どうしたのさ」
本音を漏らしつつ、ガレルが訊く。自分の奇行——奇抜な衣装や発言——で他人を引かせてきた事は山ほどあると自覚しているガレルだったが、他人の奇行で引いたのは人生初めてのことだった。……いや、クラストに対しては二度目だ。詩織から貰った服を金庫に保存していた時にも実は若干引いていた。
クラストはゆっくり振り向いて答えた。
「痛みでも感じていなければ、どうしても顔がにやけてしまう」
と、クラストはベッドの上の詩織を見て、片手で口元を覆った。にやけているのを隠すように。
「詩織が熱で苦しんでいるのに、再会が嬉しくて笑ってしまう自分が憎い」
「……いや、素直でいいじゃないか。シオリもきっと許してくれるさ」
ガレルは適当に言って慰めた。とりあえず頭を打ち付けるのは止めてほしいと思って。
けれどクラストは自分を責めるのをやめない。今度は苦々しい顔をして、ぎりりと奥歯を噛む。
「俺には再会を喜ぶ資格なんてない。俺が呑気に普段通りの生活をしている間、詩織はこちらの世界でどんな辛い目に遭ってきたか……それはさっきまで彼女が獄舎に捕われていた事からも簡単に想像ができる」
言いながら、クラストはぐっと眉間にしわを寄せた。
「二ヶ月前の自分を殺してやりたい。詩織がこちらの世界に来たことに気づけなかった、愚かで鈍感な自分を」
「やめてよ。君が自分を責める言葉は、全部そのまま僕に突き刺さってくるんだから!」
ガレルはたまらず言って、開き直る。
「ぜーんぶ僕が悪いんだよ、もう! 僕が勝手にシオリを喚んで、勝手に失敗したと思い込んだんだから! 君も本当は僕に怒っているんだろう? 責めてくれてもいいんだよ。全ては、君の意見も聞かないままシオリをこっちに喚び出した僕のせいだって」
二人が再会した瞬間から、いつクラストの怒りの矛先がこちらに向くか、ガレルはずっと警戒していたのだ。
何で二ヶ月も詩織の召移に気づかなかった! そうなじられても仕方ない立場にいると自覚しているから。
ばつが悪そうに眉を寄せるガレルに、クラストは緩く首を振った。
「俺がいつまでも詩織の事を引きずっていたから、お前は彼女をこちらへ喚ぼうと思ったんだろう? 俺のためを思ってしてくれた事を責める事は出来ない。未練がましい俺が悪かったんだ。普通に振る舞っていたつもりだったが、詩織と離れて俺がどれだけ気落ちしているか、ガレルには見抜かれていたんだな」
そう言って、自分を恥じるように笑う。
「君って……」
ガレルはため息をついた。
「……いい子だね。子どもの時から変わらず」
小さい時からクラストはこうだ。だからこそ応援したくなるのだが。
詩織との恋も成就すればいいのに、と思う。
けれどそれはガレルが世話を焼く必要もないかもしれない。何故なら——
しばらくの沈黙の後、ガレルは眠っている詩織を見て呟いた。
「彼女も君の事が好きなんだね」
その言葉に、クラストは大きく目を見開く事で答えた。
「なにを、急に……」
「君の一方通行だったらどうしようかと思ったけどさ。それだけ一途に想っててあっさり振られたりしたら、哀れ過ぎるし。けれど再会の時の反応を見るに、シオリは君の事を好いているよね、間違いなく。まぁ、僕は人の心の機微には疎いけれど、ただの知り合いには、あんな風に情熱的に抱きついたりしないでしょ?」
普段の調子を取り戻し、饒舌に話し出したガレル。
その推測を受けて、クラストは険しい顔をした。頬が緩みそうになるのを必死に押しとどめたせいで、逆に怖い顔になってしまったらしい。
しかしどんなに平静を装おうとしても、期待に輝く瞳が全てを語ってしまっていた。
「……そう思うか?」
慎重にこぼされた言葉に、ガレルが頷く。
「今の彼女を見てもわかるでしょ。寝言で君を呼んだり、君が側にいると安心して眠ったり」
「それは……単に俺が”知り合いだから”じゃないか? ”好きだから”じゃなく。彼女がこの世界で頼れる相手は俺くらいしかいないんだ」
「それだけじゃないと思うけどなぁ。何なら開心術をかけてきいてみようか? 君の事好きかって。術をかけるとニホン語しか話さなくなるけど、君なら彼女がどう答えたかわかるだろう? だけど術をかけるまでもないと思うけど。絶対シオリは君の事好きだもの」
「術なんてかけなくていい……!」
クラストは少し声を荒げて言ったが、その顔は嬉しそうに紅潮している。そしてそれを隠すように自分の両手で顔を覆うと、「そうか……ガレルもそう思うのか」とか、「他人から客観的に見てもそうなのか」とか、「俺の勘違いじゃなかったのか……」などと独りでぶつぶつ呟き始めた。
両想いかもしれないのが嬉しくてたまらない一途男子の図である。
英雄クラストに憧れる老若男女には見せたくない光景だなと思いつつ、ガレルは話をまとめようとする。
「ま、シオリの体調が回復したら告白でも求婚でも何でもして、さっさと幸せになってよ。君はニホンでは全くの役立たずだったようだから、二人でこちらで生きていくのをお勧めするよ。前にも言ったように、”英雄”をやすやすとニホンに送り出す事は出来ないし。シオリが元の世界を恋しがるようなら、彼女が望むだけ里帰りさせてあげればいい。それはもちろん僕が魔術で協力する。その責任があるしね。知らない人間を移動させるのは難しいんだけど、僕はもうシオリと実際に会ってその姿を見ているから、送召移魔術を成功させるのは難しくない。術の精度も高めるし、二ヶ月前のように着地位置がずれるような失敗は起こさないさ。いつでもニホンに戻れるのなら、シオリもこちらの世界で生きる事への抵抗は少なくなるんじゃないのかな」
つらつらと紡がれる、男にしては少し高めの歌うようなその声を聞きながら、クラストは両手を顔から離した。その頬はまだ喜びに上気していて、どこか色っぽい。
彼は眠る詩織の手を強く握って、決意を固めた。ガレルに言われるまでもなく、想いを伝えるつもりだった。
日本にいた時から詩織の事を想ってはいたが、あそこでは自分で金を稼ぐ事も出来ず、剣も役には立たず、あまりに男として情けない状況だったので、告白する勇気などなかった。
詩織に頼りっきりの生活をしていながら愛を囁いても、まるで媚を売っているように聞こえるのではないか。そんな不安もあった。
けれどこの世界でなら、素直に想いを伝える事ができる。詩織を守れるという自信と、幸せにできるという自信もある。
「詩織、早く良くなってくれ……」
そして願わくば、この想いを受け入れてほしい。
けれどその二日後、寝込んでいた時にはあれほどクラストを渇求していた詩織は、回復するにつれて何故かクラストを避けようとし始めたのだ。




