03 いざ城へ
意を決して、詩織は路地裏の陰から人々が行き交う大通りへと出た。ブーツに包まれた足裏に、石畳の固い感触が伝わってくる。
詩織の今の格好はこの街では少し浮くかもしれないが、とくべつ奇妙という訳でもなかった。どういう理由でトリップしてしまったのかは分からないが、そのタイミングが就寝前や就活中でなくてよかったと思う。スーツやパジャマ姿でこの世界を歩くのは、あきらかにおかしいから。
緊張しながら通りを歩いていく。左右には様々な店や屋台が立ち並び、人通りも多い。住人たちは活気に溢れ、街は明るく賑わっていた。
(特に注目は浴びてないよね?)
すれ違う人の中には詩織の事をじっと注視してくる者もいたが、すぐに目をそらし、それ以上のリアクションはせずに通り過ぎていく。心配するほど悪目立ちはしていないらしい。
ふぅと胸を撫で下ろし、詩織は改めて前方を見つめた。
(綺麗なお城……)
ここから少し離れたところに、美しい白亜の城が見えている。今いる場所から歩いて行けない距離ではない。
その城に向かって足を進めながら、詩織は考えた。三年前、日本にトリップしてきていたクラストが、自分の事を『王に仕える騎士』だと言っていたことを。
(もし、あのお城が王様の居城だとしたら、その王様に仕えている騎士……クラストもきっとそこにいるよね?)
確信は持てないが、少なくともこのまま街中を当てもなくうろついているよりいいのでは、と思い、詩織は城へ向かう事を決めた。
一人で歩いている最中、ブツブツと小さく呟きながらこの国の言葉を思い出す。クラストにたくさんの単語や言い回しを教えてもらっていたのだが、残念ながら詩織の学習能力は平均的で、クラストみたいに一度聞いただけで覚える事は出来なかった。
しかしその分、ノートに書き留めて復習したりはしていたのだ。クラストが自分の世界に戻ってからも、それは続けた。
(たぶん私は、クラストがまた戻ってきてくれるのを心のどこかで期待していたんだろうな)
小さな刺が刺さったような、ちくりとした痛みを胸に感じながら、詩織は自分でそう思った。
戻ってきたクラストに彼の国の言葉で話しかけ、喜ばせたかったのだ。
けれどクラストは、二度と日本にやってくることはなかった。
しかし、それは当たり前だとも思う。
(私にもう一度会うなんていうちっぽけな理由のために、異世界トリップという危険を冒すはずがないもんね)
自分の言葉に落ち込み、詩織はがくりと肩を落とした。そして改めて思う。
私クラストの事好きだったんだなぁ、と。
むしろ異性と一つ屋根の下で生活していて、意識しない方がおかしい。しかも相手はイケメンという言葉が陳腐に思えるほどの美形な上、性格も男らしく優しい完璧人間。日本人の男性は恥ずかしがってなかなか出来ないレディーファーストというやつも、彼はさらりとやってのけていたのだ。
こんな男が身近にいて、惚れない訳がない。
恋愛には疎かった詩織も、彼の魅力にまんまとやられてしまった。
今も、もう一度クラストに会えるかもしれないと思うと、勝手に胸が高鳴ってくる。
けれど、今は恋愛感情はとりあえず心の奥にしまっておかないといけない。
異世界トリップなんていう非現実的な体験をしているのだ。恋だの愛だの言ってる暇はない。これからこの世界でどうやって生きていくのか、日本に帰れる方法はあるのか。考えなきゃならない事は他にたくさんある。
クラストに会えても助けてもらえる保証はない。迷惑がられるかもしれないし、あまり期待を持たないようにしなければ。
自分の中の乙女を封印して、詩織は着々と城へ足を進めていった。
時計がないので分からないが、少なくとも二時間以上は歩いただろう。足が痛くなってきたところで、やっと詩織は目的地へと到着した。
広大な敷地の奥に美しい城が見える。繊細だけど迫力があり、優美だ。おとぎ話の中に迷い込んでしまったような錯覚を覚えた。
(いや、実際その通り。おとぎ話の中に迷い込んじゃったようなもんなんだけどね)
夢なら醒めてほしい。心からそう思った。
正面入口と思われる大きな門に進むと、そこには槍のような武器を持った二人の衛兵が立っていた。隣にある小さな詰所の中にも男が一人いるのが見える。彼らも騎士なのだろうか。
(着ているものはクラストが着ていた制服に似てるけど……微妙にデザインは違うかな。でも胸の紋章とかは同じだし)
門番たちを一通り観察してから、詩織は勇気を出して彼らに近づいていった。刃のついた槍をこちらに向けられやしないかとヒヤヒヤしながら、門の脇に立っていた一人に小さく声をかける。
「あの、すいません」
「……?」
思わず日本語で話しかけてしまい、怪訝な顔をされた。槍がちょっと動いた気がして冷や汗が流れる。
この国の言葉で話さなきゃ。さっき散々復習したんだから。そう思うものの、緊張からか頭が真っ白になって、言葉が飛んでしまっていた。
「あの、あの……」としどろもどろになっている詩織に、門番の方が話しかけくる。
「異国人か?」
その声には少し警戒が滲んでいた。
が、特に裏の無さそうな詩織の様子を見て、次には門番の声もやわらかくなっていた。槍も動かない。
「もしかして迷子かい?」
彼は詩織の年齢を5歳ほど若く勘違いしているようだ。言葉遣いは気軽で、少なくとも大人の淑女に対するものではなかった。眉毛を描くくらいの化粧しかしていなかったので、幼く見えたのかもしれない。
「迷子、違います」
詩織は首を振って否定する。ある意味盛大な迷子だけれども。
「質問、いいです?」
「どうした?」
一呼吸置いて、単刀直入に聞く。
「あなた、クラスト、知ってる? クラスト・オーフェルト」
名前だけでは分からないかも、と思ってフルネームを出してみる。けれど同じ騎士だったとしても、その数は百や二百じゃ収まらないはず。この門番がクラストを知っている可能性は低い。
「知らない」と言われる事を覚悟して質問してみたものの、有り難い事にそれは見事に外れた。クラストの名を聞くと、門番はピクリと片眉を上げたのだ。
「クラスト・オーフェルトだって? もちろん知ってるさ」
「本当!?」
詩織の表情がパッと華やぐ。まさかこんなに順調にクラストを知る人物に出会えるとは。
「私、クラスト、会いたい。お願い」
しかし興奮気味に詩織がそう頼むと、門番の表情は急に険しくなった。「はぁ」とため息をつかれ、軽くあしらわれる。
「駄目駄目。クラストさんは忙しいんだ。いちいち君たちの相手をしている暇はないんだよ」
言われた言葉を、詩織は必死に脳内で処理する。「クラスト」は「忙しい」から「駄目」だと断られた。けれど「君たち」という複数形になっているのはどういうことだろう。自分の他にもクラストに会いにきた人物がいるのだろうか?
「私、クラスト、知り合い、です」
「そんな嘘ついたって駄目だ。だいたい本当に知り合いだというなら、きちんと約束を取り付ければいい」
「嘘、違う。私——」
「さぁ、もう帰った帰った。クラストさんは君には会わないよ」
すげなく追い払われ、詩織は渋々諦めた。ねばってもクラストには会わせてもらえそうにないし、槍がこわい。
彼の事を知っているなら、ちょっと呼んできてくれたっていいのに。そう思ったところで、待てよと気づく。
(もしかしてクラストって結構偉い立場にいる人なのだろうか? だから簡単には呼んでこられないし、会わせてももらえない?)
けれど彼はまだ若い。年齢も詩織より2つ上なだけだったはず。騎士たちの中でもそれほど権力のある地位にいるとは思えない。
(でも日本でも若い社長とかいるからなぁ。……それとこれとは違うか。うーん、よく分からないや)
詩織は頭をひねりつつ、城から離れた。クラストを頼るのはどうやら難しそうだと分かったので、とりあえず今晩泊まれる場所を探すため、街へと戻る事にしたのだ。ぐずぐずしていたら、あっという間に日が暮れてしまう。