21 騎士
ロッシェは二晩、店に帰ってこなかったのだが、しかしそれがどれほど深刻な事態なのか詩織には判断がつかなかった。
ロッシェは三十を過ぎた大人の男だ。子供が戻ってこないのとは訳が違う。それでもここが日本なら、詩織は一応警察に届け出ただろうが……。
(誰かの所に泊まってるとか?)
その可能性を一番に考えた。例えば女性の家や、友達の家。
「うーん……」
どちらの可能性を考えても、何だか釈然としないものがある。ロッシェはモテるようだが特定の恋人がいる気配はなかったし、『友達』という爽やかな間柄の人物がいるとも思えない。
それに誰のうちに泊まるにせよ、ロッシェの意外と細かい性格を考えると、そういう時は外泊する旨を必ず詩織に伝えて「ちゃんと鍵かけとけよ」くらいは言っていくはずだ。急に二晩も無断外泊するとは考えにくい。
こうなると、ロッシェが何かトラブルに巻き込まれている可能性も考えた方がいい。
昨日はずっと店にいて、彼が戻ってくるのをひたすら待っていた詩織だが、今日は外に出て捜索してみようと決めた。
胸騒ぎがして落ち着かない。詩織はそわそわと店に鍵をかけた。
ロッシェは注意深くて慎重な男だけれど、ちゃんと無事でいるのか心配になる。
店を臨時休業にし、ロッシェを捜索するため、厚手のショールを羽織って外へ向かった。
冷たく乾いた風が路地を抜けていく。詩織は寒さに首をすくめながら、とりあえず店の周りを見て回った。どこかで行き倒れてるんじゃないかと不安になって。
ロッシェは酒に呑まれるような馬鹿はしないし、泥酔するような飲み方もしない。だから、酔って帰ってくる途中で意識を失うなんて事は無いと思うが、一応。
ここ数日で一気に季節が進んだから、道ばたで意識を失ったとしたら、そのまま凍死なんて事も有りうるかも。
嫌な想像に、詩織はぶるりと体を震わせた。
あまり意識はしていなかったけれど、思ったより自分はロッシェの事を頼りにしていたらしい。詩織はそう思った。
ロッシェがこのまま見つからなかったら、これからどうすればいいのか分からない。店は? 仕事は? 詩織がこの世界に来て二ヶ月だ。まだまだ一人ではやっていけない。
もちろん一番心配なのはロッシェの安否だが、それを気にする合間に、自分の事や仕事の事も考えてしまう。
迷子の子供のように、不安で心細くてたまらなかった。
店の周りを調べた後は大通りの方へ向かって、ロッシェの行きつけの店を回った。落ち着いた雰囲気の酒場や小さな煙草屋、外国から珍しい薬草を仕入れている店……。
しかしどこにもロッシェはいなかったし、店主たちの中にも彼の行方を知る者はいなかった。
一日中街を探しまわったが、結局詩織はロッシェを見つける手がかりすら掴めなかったのだ。
「本当に、どこに行っちゃったんだろう……」
途方に暮れて呟いた。赤く街を照らす夕日の色が何だか不気味に映って、詩織は焦燥感を募らせる。
最近では全く感じなくなっていた『異世界にいる心細さ』みたいなものが、今はじっとりと体にまとわりつき、気持ちを暗く重くしていた。
こういう時に相談できる人——詩織と同じ価値観で話を聞いてくれる、親や友達や警察——がいないのが辛い。詩織はこの世界に来て初めてそう思って、軽くホームシックを覚えた。
パン屋の女性や果物屋の息子など、この街で詩織がそこそこ親しくなった人たちはいる。けれど彼らにロッシェの事を相談してみても、「きっとこっそり恋人のところにでも行ってるんだよ」と笑うばかり。
彼らにとっては、いい歳をした男性が二晩いなくなった事くらい、大した問題ではないのだ。「その内戻ってくるから大丈夫」と、のんびり詩織を励ました。
しかしそんな風に言われても、詩織の不安が消える事はない。
他に相談できる人がいないか考えた時、やはり詩織の脳裏には一番にクラストの姿が浮かんだ。
けれどすぐに首を振って、その案を却下する。
クラストは今や、詩織の手の届かないところにいる存在だ。この国の王女と結婚する英雄に、昔のように簡単に会って相談を持ちかけたりすることなど出来ない。
詩織は悲しげにまつげを伏せた。
しばらくしてため息を吐くと、気持ちを切り替えて考えた。行方不明になる直前ロッシェが何と言って店を出たか、それを真剣に思い出そうとしたのだ。
最近では、ロッシェは詩織にいちいち行き先を伝えてはこなかったから、その日も「ちょっと出てくる」くらいの事しか言っていなかった気がする。
「やっぱり、裏のお客さんのところかなぁ」
ロッシェの用事のほとんどは、そっち関係だ。
詩織は眉根を寄せてうなった。彼の失踪に裏の顧客が関わっているのだとしたら、少し面倒かもしれない。なんせ詩織は裏の顧客の事を何一つ知らないのだ。媚薬や精力剤作りは手伝っていたが、それを売りにいくのはロッシェの担当で、今までついて行った事などない。
裏の顧客のリストみたいなものってあったっけ? と、詩織は唇に指を当てて考えた。店の方では見た事がないが、ロッシェの部屋を漁れば出てくるかもしれない。
しかし例えリストがあったとしても、そこに載っている客は、貴族や力のある商人が多いはず。詩織がいきなり訪ねて行っても、ロッシェの事を聞けずに追い返される可能性も高い。
が、今詩織に出来る事といったら、それくらいしかない。
日が暮れてきたこともあり、詩織はとりあえず店に戻ることにした。裏の顧客リストを探すのだ。
それに、もしかしたらロッシェがひょっこり帰ってきているかもしれない。そんな淡い期待も込めて。
黄昏時の街を早足で横切り、狭い路地に入って慣れた道を進む。角を曲がって店が視界に入る位置まで来たところで、詩織はピタリと足を止めて固まった。
(店の扉が、開いてる……)
ロッシェが帰ってきたのだろうかと思って駆け出した詩織だが、しかし聞こえてきた物音にもう一度足を止めた。体をこわばらせて耳を澄ます。
店からは、誰かが物を漁るような音が漏れ聞こえてきていた。
少し遠いので、詩織のいる所から店内の様子は覗けない。けれど、どうやら中では複数人が動き回っているようだ。
ロッシェではない。詩織は直感的にそう思った。
「泥棒……?」
ささやくように呟く。
と、開け放たれたままの店の扉から、若い男の声が耳に届いた。
「早くしろ。日が暮れる」
角のある、少し高慢な雰囲気の声だった。詩織には聞き覚えがない声。
時折、ガラスとガラスが当たるような音も聞こえてきて、詩織は眉をひそめた。薬の入ったビンを動かしているのだろうか?
「いっぱいになった箱から、通りに待機させてる馬車まで運んでいけ。まったく、ここは不便な場所だな」
男がうんざりしたようにため息をつく。
「全部持っていくんですか?」
別の男が質問をし、
「ああ、全部、全てだ」
高慢な声が答えた。
店の物を盗むつもり……? 耳をそばだてながら、詩織の中にふつふつとした怒りが沸き上がった。
泥棒らしき見知らぬ男たちが店を荒らしているのだ。そこで生じる感情は恐怖のはずだと詩織は思った。男たちに気づかれぬよう悲鳴を抑えながら、緊張と混乱と恐怖に震える足でこの場から逃げ出し、誰かに助けを求めにいく。それが普通の女性としての正しい行動のはずだと。
けれど詩織は、怒りのまま店の方へと足を進めた。
大事な薬やお金を盗られるのが許せない。それはもちろんそうだが、『ロッシェの店』を荒らされるのが何より嫌だったのだ。彼が行方不明となっている今だから、尚更そう思うのかもしれない。
それに、ロッシェの代わりに自分が店を守らなければという責任感もあった。
手のひらにじんわりと汗が滲んで、耳の裏の動脈がドクドクと脈打っているのが分かる。詩織は確かに緊張していた。
しかし、危険きわまりない向こうみずな行動だ、などと自分を諌める冷静さもなかった。視界が狭くなった感覚がして、目線は店の入り口に縫い止められる。足が勝手に動き出し、店を荒らす許しがたい男たちの元へ詩織を運んでいく。
「何してるのっ!」
やはり内心では恐怖を感じていたのだろうか。店の入り口に立った詩織が中に向かって叫んだ声は、普段より高く震えていた。
「店の物を置いて出ていきなさい!」続けてそう啖呵を切ろうとした唇は、しかし薄く開いたまま動かす事が出来なくなった。
詩織は目を丸くして、店にいた男たちを見つめる。
「な……何で?」
予想外の光景に思考が停止してしまった。意味が分からなくて混乱する。
薄汚れた服を着た人相の悪い男たちが店を荒らしている。詩織はそんな場面を想像していたのだ。
けれど今、目の前にいるのは——
「…………騎士?」
日本語で呟く。信じられない、というように。
店に侵入していた男は四人。皆、騎士の制服を着て帯剣している。体格のいい男性が四人もいると、狭い店がますます窮屈に感じた。
彼らの視線を感じながら、詩織は固まってしまっている眼球を動かして店内を確認する。
左側の棚に置かれていたはずの薬や、吊ってあった薬草の束は、いくつかの木箱に全て詰められ、床に置かれている。カウンター裏や右側の戸棚は、乱暴に漁られた後のように荒れていた。
騎士といえば、正義を背負っている立場の人だと詩織は認識していた。しかしそれは、優しく勇敢なクラストの印象からの勝手な思い込みだったのだろうか?
だって、正義の味方がこんな泥棒まがいの事をするはずがない。
「誰だ、お前は?」
高慢な声の主が不機嫌に片眉をあげ、詩織を睨みつけながら言った。




