02 彼とのこと
詩織は路地からこっそりと大通りを覗き、そこにいる人々の会話に聞き耳を立てた。
すべて理解できるわけではないが、やはり何となく、どんな話をしているのかは分かる。例えば、あそこのおばさんたちの会話の内容は体の不調に関するもの。『腰』『痛い』『肩』『凝る』なんていう単語が飛び交っているからだ。
「どうしてこんなことに……」
いったん路地の奥に引っ込んで、詩織は頭を抱えてしゃがみ込んだ。
どうしたらいいの、この状況!
(とりあえず”彼”を探してみようか)
ここは彼の住む世界だろうし、ここで私が頼れるのはその人しかいないのだ。
詩織の脳裏に懐かしい彼の姿が浮かび上がる。
艶やかな白銀の髪に、高い身長としなやかな筋肉。品がありながらどこか野性的なたくましさを持っていて、優しげなのに、時に鋭く男らしい。白を基調としたかっちりとした制服に身を包み、腰に剣を差した、騎士みたいな風貌の男。
いや、実際この国では騎士をやってたらしいのだが。
詩織はため息をついて、三年前の出来事を思い返した。彼と出会ったのは、真冬の寒い日の事である。
大学一年の冬休み、マンションでひとり、夕飯の鍋の用意をしていた時だ。ワンルームの狭い部屋が光に包まれたかと思うと、次の瞬間にはそこに騎士みたいな格好をした男が立っていて、唖然とした顔でキッチンにいる詩織を見つめてきたのだ。
しかし驚きたいのは詩織の方である。いきなり自分の部屋に凶器——西洋風の剣を持ったコスプレ男が現れたのだから。
最初のうちは本当に苦労した。言葉が通じなかったのが一番大きい。
それでも何とか意思の疎通を図ろうとするうちに、彼が異世界からトリップしてきたのではないかと思うようになった。それは非現実的な仮説で、普段の詩織なら笑ってしまうようなものだが、しかし実際何も無い空間から男が現れたのを、詩織はその目でしっかりと見てしまっているのだ。
結局詩織は警察に通報することをせずに、銀髪の男を部屋で匿うことにした。男が警察に連れて行かれるのが可哀想というより、男を連行しようとした警察官の方が、彼に剣で斬られてしまうのでは? という不安があったからだ。
知らない世界に来たせいか、最初のうち彼は少しピリピリしていたし。
そんな男と詩織が打ち解けられるようになったのは、彼が早々に日本語をマスターしてくれたおかげだった。
どこの外国人モデルかと見まごうほどの容姿をしていて、運動神経なんかも良さそうだった銀髪の男だが、しかし彼の高スペックっぷりはそれだけではなかったのである。つまり、頭もよく、学習能力、記憶力も高かったのだ。
ひと月も経つと、カタコトながらも日本語で会話を交わせるようになり、三ヶ月後には「生まれは東京」と言ってもおかしくないような、なまりの無い流暢な日本語を話した。
男が日本語を話せるようになった事で、詩織たちは相手の気持ちを知って、より深くお互いを理解できるようになった。
そして、男は自分が異世界に来てしまったというこの状況に、思い当たる節があるという事も話してくれた。
「知り合いに魔術師がいる。ここへ来る直前もそいつに呼び出されて、実験に付き合えと魔法陣の上に乗せられた。原因はあれしか考えられない。あいつ、今度会ったら……」
なんて苦々しい顔で言いながら。
彼の世界には魔法があり、魔術師なんていう職業の人間がいるのかと詩織は驚いたものだ。なんというファンタジー! と。
しかし男にとっては、この現代日本の方がよっぽどファンタジーだったようである。特にテレビや携帯なんかの電化製品には一番の驚きを見せていた。
大の男が、バイブで震える携帯と不安げに接触をはかる、という図は、今思い返しても楽しい光景だ。
二人分の生活費をまかなうため、詩織は学業の傍らバイトにも精を出した。が、男はそれをとても気にしていて、自分にも何か出来る事は無いかとしょっちゅう詩織に尋ねてきていた。
しかし男には日本で仕事につけるほどの知識や常識が無い。日本人からすると派手にも見える完璧な外見と明るい銀髪も、普通の仕事につくには邪魔になるだろう。
だから詩織は男が日本に馴染むまで、お金の事は自分ひとりで何とかするつもりだった。
男は早く仕事に就けるよう日本の常識や習慣を身につける努力をし、そしてそんな彼の姿に詩織は好感を持った。
狭いワンルームに二人暮らし。小さなケンカをする事もあったけど、詩織たちは楽しく毎日を過ごしていたのだ。
が、しかし——
別れは突然やって来た。
男がトリップしてきて三ヶ月が過ぎた頃だった。詩織がバイトから帰ってきて、男が部屋でそれを出迎えた瞬間、彼の足下から光がのぼってきて、そのスラリとした筋肉質な体を包んだ。
そして……
「何っ!?」
目もくらむ眩しさに詩織が思わずまぶたをぎゅっと閉じ、再び開いた時にはもう、男の姿は消えていた。
別れの抱擁も、言葉すら交わす暇もなかった。あっという間の出来事。
「…………」
詩織は玄関で立ちすくみ、目を見開いたまま呆然とするしかなかった。先ほどまで目の前にあったはずの温もりは、もう二度と戻ってくる事はないのだと、自分に言い聞かせるために。
彼がここへ来た原因が知り合いの魔術師にあるのだとしたら、今彼が消えた原因もその魔術師にあるのだろう。男はきっと、魔術師の魔法によって、自分が元いた世界へと呼び戻されたのだ。
(だったらそれでいいじゃない)
そう思いながらも、詩織の胸にあるどうしようもない喪失感は、それからしばらく消える事はなかった。
そしてそれから三年。
(今度は私がトリップしたってこと?)
見知らぬ世界の路地裏で、詩織は何とか現実を受け入れようとしていた。通りにいる人たちが交わしていた言葉は、確かに”彼”が最初の頃話していた言葉と同じものだ。
詩織が日本語を教える代わりに彼からこの国の言葉を教えてもらったこともあるし、それは絶対間違いない。
そして、彼がこの国のどこかにいることも間違いないだろう。
今度は私が彼を頼っても、罰は当たらない気がする。そう詩織は思った。
しかし詩織と彼が生活を共にしていた時から、もう三年も経っている。
詩織にとって彼は忘れる事の出来ない存在だけれど、相手も同じように思っているとは限らない。もう詩織の事など忘れているかもしれない。
「でも他に頼れる人いないしなぁ……」
いつまでもこの路地裏に留まってはいられない。もうすぐ日が暮れる。ここは平和そうな街だが、安全な日本と比べれれば治安は悪いんじゃないだろうか。
「忘れられてるかもしれないけど、とりあえず彼を——クラストを頼ってみよう」
そうして詩織は立ち上がり、路地を後にした。