19 失恋
朝の支度を終えて一階へと降りていくと、すでにそこにいたロッシェが顔をしかめて詩織を見た。
「なんかツヤツヤしてんな」
ロッシェが言っているのは、普段より丁寧に香油を塗り込んだ髪の事だろうか? それとも昨日の晩にオイルパックをした唇の事? あるいは、自家製の化粧水をこれでもかと叩き込んだ顔の事かも。詩織は恥ずかしさから軽く頬を赤らめた。
「言っておくが、今日は英雄サマの姿を遠くから拝むだけだぞ。そんなに色んなとこツヤツヤさせたって無駄だ」
「わ、わかってるっ……!」
「気合い入れ過ぎ」と言われているようで、詩織は穴があったら入りたい心境になった。パックのおかげでぷっくりとハリが出た唇を思わず手で隠す。
ロッシェは片方の口角を上げて意地悪く笑った後で、
「じゃあ行くか」
と立ち上がった。
「ロッシェ来なくていいのに」
「見張っておかないと何をするか分からないからな、お前は」
二人で言い合いながら店を出る。
大通りの方へ近づいていくにつれ、賑やかな人々の声が耳に入ってきた。それは朝の明るい空気に溶け込んで、詩織の気分を高潮させた。わくわくするような、祭りの雰囲気を感じるのだ。
パレードの時刻が迫っている事もあって、通りはすでに人でいっぱいだった。とはいえ、騎士たちが行進できるように中央はぽっかりと空いており、人々は道の両脇に立ち並んでいる。
店も色々と出ているが、今は物を売っている場合ではないらしく、店主たちも自分の店を放って人垣に混じっていた。商売はパレードが終わってから始めるらしい。
ここにいるのは街の住民たちだけではないようで、パレードを見に他の町からやって来たのか、旅装に身を包んだ人々も多い。
詩織も人垣の中に入り込もうとしたが、無理矢理に割り込んでいくと周りから舌打ちされそうだったので、大人しく一番後ろにそっと並んだ。騎士たちは馬に乗って来るようなので、最前列でなくともクラストの顔は見られるだろう。
「人が多くてうんざりするな」
隣に立ったロッシェが言う。気だるそうに髪をかきあげる彼の横顔を見て、びっくりするほど朝が似合わない人だなぁ、などと失礼な事を思う詩織。
二十分ほど待っただろうか。通りの奥、城のある西の方角から、きびきびとしたラッパと太鼓の演奏が聞こえてきた。同時に人々の歓声がわき上がる。
それらはどちらも勢いを増しつつ、段々と詩織たちのいる方へと近づいてきた。周囲の人々がそわそわと通りの奥を見るので、詩織もつられて同じ方へ顔を向ける。
クラストは確か先頭にいるはずだ。パン屋の女性から聞いた情報を思い返し、ドキドキと胸を高鳴らせた。ただでさえ緊張しているのに、鼓笛隊の音楽がさらに気持ちを高ぶらせる。
興奮する人々の声が波のように迫って来る。弾けるような太鼓の音が耳を突くと同時に、背伸びをした詩織の視界に鼓笛隊の姿が映った。赤と緑の少し派手な格好をしていて、馬には乗っていない。
列の一番先頭は、クラストではなく彼らのようだ。
少しがっかりしつつも、胸の高まりは収まらぬまま、詩織は後に続く行列を見る。前にいるおじさんがきょろきょろと頭を動かすので、それとは逆の方に首を伸ばしながら。
次に来たのは馬に乗った三人の騎士だ。それぞれ違う紋章が描かれた大きな旗を持っていたが、詩織にはその意味はわからなかった。騎士団と国と王族の紋章だろうか、と予想をつけてみる。
彼らは詩織の知っている騎士服ではなく、重そうな甲冑を身につけていた。
が、頭部と顔をすっぽりと覆う仮面を見て、あれじゃ誰が誰だか分からないじゃん! と不安に駆られる。
と、その瞬間——。
いきなり周囲の歓声が天まで届きそうなほど大きくなった。場の空気が一段と盛り上がる。
向かい側の人垣の最前列にいた少女が、持っていた籠からピンクの花びらをひと掴みし、通りに向かって投げた。周りにいる人々から興奮の声が上がる。
——「クラスト様!」と。
詩織はハッと目を見開いて、通りを覗き込んだ。ずっと背伸びをしているせいでつま先が限界を訴えているが関係ない。
詩織が目をやったその先に、彼はいた。
「クラスト……クラストだ」
思わず、震えた声がこぼれた。
全身の毛穴がぶわっと開いて、鳥肌が立つ。これは感動なのだろうか? ドクドクと脈打つ心臓の音が自分の体の中で反響し、やけに大きく聞こえる。訳も分からず冷や汗が流れた。
クラストは装飾具をつけられた白い馬に乗り、銀色に光る甲冑を身に着けていた。仮面は外して左手に抱えたまま、堂々と前を向いている。
鼓笛隊と旗手を除き、彼は列の一番先頭をゆっくりと行進してきた。他の騎士たちも仮面を外して二列や三列に整列し、クラストの後ろに続いているが、詩織の視線は先頭の男を注視したまま動かない。
前より大人っぽくなった……。そう思った。大人の男らしい落ち着きが彼を取り巻き、精悍な顔つきになった気がした。
自分の前で笑顔を見せてくれていた男とは違う人物のように思えて、少し寂しくなる。
氷の彫刻のような整った外見は相変わらずで、見る者を自然と惹き付ける。視線が彼に吸い込まれていくのだ。
周囲からのうるさいほどの歓声にも注意をそらす事なく、クラストはひたすら真っ直ぐ、正面だけを見つめている。威風堂々としたその姿は、まさに英雄だ。
その姿に見入っているうちに、クラストは詩織のいる正面までやってきた。
二人の距離はほんの数メートル。そう思った瞬間、唐突に詩織の中で何かが沸き上がった。
クラストの姿を見るだけでいい。こちらに気づいてもらえなくてもいい。そう考えていたのに、しかし今はそんな風に自分を抑える事ができない。
(クラストに気づいてほしい……!)
私がここにいる事、同じ世界にいる事に気づいてほしい。詩織は強くそう思った。
クラストがこちらの存在に気づかないまま自分の前を通り過ぎていく事に、強烈な焦りと寂しさを覚える。
人垣をかき分けて、騎士たちが行進する通りの中央に躍り出ようなんて大胆な事を考えたわけではなかった。
しかし詩織は無意識に、足を一歩前へと進めていた。そのまま走り出して、大きな声でクラストの名を叫ぼうとしたのだが——
行動を起こそうとすると同時に、隣にいたロッシェに鋭く腕を掴まれる。
思い通りに動けなくなった事が不愉快で、詩織は勢いよく振り返って自分の上司を睨みつけた。騎士団と繋がりを持ってはいけない、という彼からの忠告はすっかり頭の中から抜けていて、ロッシェが邪魔してくる事がただ腹立たしかった。
「離してっ……」
「再会してどうするんだ?」
腕を振りほどこうと抵抗する詩織を意に介さず、ロッシェはいつものように落ち着いた調子で、段々と遠ざかっていくクラストの後ろ姿を見つめている。
そしてふと詩織の方へ視線を移したかと思うと、冷えた声音でこう言った。
「『もしかして』なんて望みを持ってるなら、それをちゃんと打ち砕いといてやる。あの英雄にはな——婚約者がいるんだぞ。相手はこの国の王女だ」
抵抗していた詩織の動きがピタリと止まり、一瞬、呼吸さえも停止した。
「嘘じゃねぇぞ。裏の顧客から聞いたんだ。まだ公表されていないが、貴族たちの間では知られた話らしい」
ロッシェが言った言葉の意味をしっかりと理解するのに、恐ろしく時間がかかった。その事実を受け止めたくないと、脳が拒否反応を示しているせいだ。
(婚約……クラストが……この国の王女様と……)
粘つく不味い液体を飲み込むようにして、詩織はその言葉をなんとか受け止めた。すでに背中しか見えないクラストの方へ視線を戻し、まばたきも忘れてじっと見つめる。
胸が軋んだ。
(もしかしてまだ、私はクラストの事好きだったんだろうか?)
詩織はぼんやりとそう思った。
いや、本当は分かっていた気がする。けれど自分の中でさえも本心をさらけ出すのが怖かったから、必死に気づかない振りをしていただけで。
三年前と変わらず、クラストが好き。
昔、恋心を抱いて”いた”人ではなく、今も抱いて”いる”人なのだ。
それが詩織の本音で、どうしようもない事実だった。
だが今さら自覚したところで何が変わる訳でもない。失恋は決定している。
周囲は相変わらず騒がしいのに、妙な静けさが詩織の頭の中に広がっていた。小さくなっていくクラストは、やがて後続の騎士たちに隠れて見えなくなった。
詩織は考える。自分が今もクラストを忘れていないのと同じように、クラストも自分を忘れていない事を心のどこかで期待していたのかもしれない、と。
この三年間、異性との出会いは山ほどあった。大学生だから合コンに誘われる事もしょっちゅう。そこで知り合った異性から、それとなく好意を伝えられた事もある。
けれど付き合うまでいかなかったのは、やはりクラストの事を忘れられていなかったせいだ。
詩織の心の時間は、三年前、クラストが突然自分の世界へ戻ってしまった時から止まっている。
しかしクラストは違った。英雄となり、婚約者を得て、彼は前へと進んでいる。
いつまでも止まっているのは自分だけ……。
「おいッ……」
ぎょっとしたようなロッシェの声と、頬を流れ落ちる冷たい感触で、詩織ははじめて自分が泣いていることに気づいた。
ロッシェの無骨な指で強めに目元を拭われる。泣かれた事にびっくりしたのか珍しく動揺している彼の表情を見て、詩織もこんな所で涙を流している自分が恥ずかしくなった。
慌てて服の袖で涙を拭いていると、
「もうすぐ王族方が通られるぞ」
近くにいた男性が話しているのが聞こえた。英雄を見送った人々は、今度は国王や王妃の登場を待っていたのだ。
「今日はカトレア王女のお姿を拝見できるかしら?」
続いて聞こえてきた言葉に詩織は思わず固まって、耳を澄ましてしまう。
カトレア王女とは、クラストの婚約者の……?
「どうだろうねぇ、去年はいらっしゃらなかったじゃないか。陛下が連れて来られるのを渋られたとか」
「陛下は王女を溺愛しておられるからね。死人が出ることもある騎馬試合を見せるのは嫌なんだろう、当然さ」
「いやいや、単に試合に出ている騎士に王女の心が奪われる事を心配しておいでなのでは? 同じく娘を持つ父親として、心中お察しするよ」
街の住民たちが、ほがらかに笑って話を続ける。
「ほら、陛下たちの馬車だ」
一人が指をさし、詩織もつられてその先を見た。豪華できらびやかな屋根の無いタイプの馬車を通りの奥に発見したが、そこに乗っている王族たちに視線が定まる前に、詩織はとっさに顔を伏せていた。
もしカトレア王女が乗っていたら、と思うと怖くなったのだ。クラストの婚約者の顔を見る勇気などない。詩織が打ちのめされるような美人である事は、きっと間違いないのだから。
国を救った誉れ高き英雄と、美しい王女。似合いの二人ではないか。
そこに自分の入る隙など、どこにもない。
「店に戻ろう」
普通に話したつもりなのに、ロッシェに向かって出した声は小さく震えてしまっていた。
ロッシェは観察するように詩織の様子を伺い、無言で頷いた。そうして詩織の背を押すと、二人は黙って喧噪の続く大通りを後にしたのだった。




