18 幸せな夢
これは夢?
詩織は空中にふわふわ浮いて、下にいるもう一人の自分を眺めていた。そこにいる詩織はまだ大学生だ。バイト先の飲食店の制服を着て、ホールを忙しく動き回っている。
「遅くまで悪いね。もう上がっていいよ」
「あ、はい。じゃあお先です」
店長に声をかけられ、詩織は厨房の奥へと引っ込んだ。退勤をして更衣室に入り、すぐに私服に着替えて出てくる。少し急いでいるようだ。
「梅本さん、これ持って帰っていいよ」
帰ろうとしたところでまた店長に呼び止められ、白いビニール袋を手渡される。そこにはうっすらと『鶏唐揚げ』という文字が浮かんでいた。店でも出している業務用の冷凍ものだ。
「え、いいんですか?」
「本当はあんまりこういう事しちゃ駄目なんだけどさ、梅本さん頑張ってくれてるし。けどこれ賞味期限近いから、なるべく早く食べてね」
「はい、ありがとうございます」
ああ、思い出した。と、宙に浮いている詩織は思った。
これは過去の記憶だ。リプレイされた過去の出来事を夢で見ているのだ。
確かこの日は土曜日でお客さんの数も多く、忙しかった。おまけに同じ時間帯に入る予定だったバイトの子が急に休んでしまって、詩織はいつもより一時間半ほど多く働かなければならなかった。
冷凍唐揚げが入った袋と鞄を持ち、早く帰らなければクラストが心配する、と急いで店を出る。
しかし裏口の扉を開けたところで、詩織は思わず悲鳴を上げそうになった。夜の闇に溶け込んでいた人影が、ドアから漏れた店内の明かりに照らされて怪しく浮かび上がったのだ。
黒いパーカーのフードを深めにかぶった、長身の男。
詩織は怯えながらも警戒を込めた瞳でその男を観察し、
「……あれ? もしかしてクラスト?」
気の抜けた声でそう言った。背の高さや、服を着ていても分かる引き締まった体つきから判断したのだ。
詩織の声に反応して、男はそっとフードを上げた。冷たい月のような銀髪がさらりとなびく。やっぱりクラストだ。詩織は安心して彼に駆け寄った。
「迎えにきてくれたの? 遅くなってごめんね。お客さん多くて」
この時すでに、クラストと暮らし始めて二ヶ月以上が経っていただろうか。彼も驚異的な学習能力と適応力を発揮し、日本の生活に随分慣れてきた頃である。
クラストは掃除機や洗濯機の使い方などを覚え、詩織が外へ出る代わりに、家事などはほとんど全部引き受けてくれていた。料理などもほぼ完璧にこなす彼に、「完璧な嫁……!」などと詩織は思ったものである。
騎士のプライドを傷つけそうだったので、言葉にはしなかったが。
クラストは家事の他にも、自分のできる事をしたがった。例えば、夜遅くなりがちな詩織のバイトの迎えとか。
けれどもやはりクラストの外見は目立つので、詩織はそれを許可しなかった。が、普段通りの帰宅時間に少しでも詩織が遅れれば、クラストがこうやって迎えにくる事もよくあった。
変な騒動にクラストが巻き込まれないためにも彼にはなるべく外出してもらいたくはなかったのだが、あまり家に縛り付けるのも可哀想だし、なにより自分を心配してくれている事が嬉しいので、いつも詩織はバイト先に迎えにくるクラストを叱れなかった。
「それは?」
詩織が持っているビニール袋に気づき、日本語でクラストが尋ねた。
「鶏の唐揚げ。クラストも好きだったよね?」
「ああ、”あちら”にも似たような料理があるしな」
あちらとは、クラストのいた世界の事だ。最近彼が故郷の話をすると、何故か詩織の胸はちくりと痛んだ。クラストが元の世界に帰りたがっているのでは? と、焦りを感じて落ち着かなくなる。
そうして、クラストがどうかずっとこちらにいてくれますようにと願っては、そんな事を考える自分に嫌気がさすのだ。
クラストはもちろん、故郷に帰りたいに決まっている。それが彼の望みならば、私もそれを願わなければと。
「重いだろう」
クラストは詩織の手から袋を奪って歩き始めた。店の駐車場を通って街路へと出ると、マンションのある方角に向かって歩道を進む。
ふと前方から甘ったるい話し声が聞こえてきて、詩織は顔を上げた。若いカップルだ。お互いの事しか視界に入っていないようで、こちらに向かって歩いてきながら、イチャイチャと視線を絡ませている。
腹立たしいほどに仲睦まじい恋人同士の様子など別に詳しく見たくもなかったのだが、コンビニの明かりに照らされた彼らの手に、詩織の視線は、いっとき強く縫い付けられた。
いわゆる『恋人つなぎ』というやつである。
自分もクラストとあんな風に手を繋げたらなと、カップルの事を素直に羨ましく思いながら擦れ違う。彼らが少し離れたところで、それまで黙っていたクラストが口を開いた。
「この国には本当に黒髪が多いんだな。俺の国でも黒髪は珍しくはないが、ここまで多くはない」
詩織は彼らの手元に注目していたのだが、クラストは頭髪に注目していたらしい。「クラストと手を繋げたら」などと一人で妄想していた事が何だか恥ずかしくなると共に、少し虚しくなった。
少しうつむきながら、詩織は苦く笑って話を合わせる。
「それが日本人の特徴の一つみたいなものだからね。外国人からすると顔立ちも似通ってて見分けがつきにくいみたいだし、クラストもそうなんじゃない? 日本人の顔の見分けつかないでしょ?」
彼からすると、私含め、みんな平面顔で代わり映えしないんだろうな。詩織はそう思った。
「そうだな。皆同じに見える」
少し悲しくなりながらも、「やっぱり」と笑って返そうとした詩織だったが、続けられたクラストの言葉に思わず目を見開いた。
「——詩織以外は」
見惚れるような魅惑的な笑顔で告げられ、一瞬にして詩織の頬に熱が集まる。
過剰反応したくなかったのに、どうしようもなく動揺してしまう。恋を知りたての少女じゃないんだから、と自分を諌めてみた。
しかし、クラストは林檎のように赤くなった詩織に追い討ちをかける。
「危ない」
歩道を後ろから走ってきた自転車に気づいたクラストが、詩織の手首を持って自分の側に引き寄せたのだ。自転車は何事も無く通り過ぎていったので、すぐに手首は解放されると思ったのだが、
「……」
クラストは繋がった二人の手を無言で見つめた後、スッとその手を移動させた。彼の長い指と、詩織の細い指が絡まり合う。
先ほどのカップルがしていたような、恋人つなぎ。
「え、あ、あの……」
「早く帰ろう」
戸惑う詩織を無視して、クラストはすたすたと歩き出した。もちろん、しっかりと手をつないだまま。
もしかしてクラスト、さっきのカップルの事、髪だけじゃなく手元も見てたのかな。私と同じように? 詩織はそう考えて嬉しくなった。顔がさらに赤くなり、胸の奥がじわっと温かくなる。
繋いだ手の体温が、心地いい。
屋根裏部屋の固いベッドの上で目を覚まし、落胆する。
「あー、起きちゃった……」
もう少し夢を見ていたかったな、と詩織は枕に顔をうずめた。過去、実際にあった事が夢でリプレイされていただけなのだが、起きている時に頭の中で思い返すより、夢で見た方がずっと臨場感があった。まだ右手にクラストの手のぬくもりが残っているような気さえする。
あの時、クラストはマンションに着くまでずっと詩織の手を離さなかった。部屋の中に入ってからも、詩織がおずおずと「あのう、着替えたいんだけども……」と言い出すまで、手は繋がったままだったのだ。
そういう行動からして——
(少なくともその時は、クラストは私の事を憎からず思ってくれていたのかな?)
詩織はそう考えて、「いや、やっぱり自意識過剰?」と首をひねる。嫌われてはいなかったはずだが、異性として好意を持たれていた自信はない。
いくら考えたって分からないので、詩織はクラストの気持ちを推測する事を止め、ベッドから起き上がった。小さな丸窓から空を見ると、朝の澄んだ青空が広がっていた。
騎士たちが参加する騎馬試合の大会が開催されるのは今日だ。もちろん、パレードが行われるのも。
静かな緊張感が胸を満たす。今日、三年ぶりにクラストの姿を見る事ができる。
喜びと不安を感じながら、詩織は身支度を始めた。




