16 諦め
クラストとシラバスが店を訪れている頃、詩織は大通りにある果物屋の屋台にいた。走ってきたせいで激しくなった呼吸を整えながら、店番をしている素朴な顔立ちの青年に「ププット5つ」と注文する。
「あ、シオリじゃないか! いつもありがとう。ププットだね」
青年はこの果物屋の店主の息子で、たまに店にやってくる詩織とは顔なじみだった。が、代金を払った詩織は「ありがと」と礼を言うと、世間話もそこそこに帰ろうとする。
「あっ、ちょっと待って!」
青年はそんな詩織を引き止めて、店に並んでいる果物の一つを手に取った。スモモに似た形の、桜色の果実だ。
「これ知ってる? アトラっていうんだけど、シオリの故郷にもあったかな?」
「や、ない」
急いでるんだけどな……と思いつつ、首を振って端的に答えた。すると青年は嬉しそうに顔をほころばせ、
「じゃあこれ食べてみてよ。すごく甘くて美味しいんだ。きっとシオリも気に入る。代金はいらないからさ」
そのアトラを3つ、詩織のかごへと入れた。
「ありがと。嬉しい。食べてみる。じゃ……」
「待って!」
早口で礼を言い、片手を上げてそそくさと立ち去ろうとする詩織を、またもや青年が引き止めた。なにやら顔を赤らめて、もじもじと地面を見ながら言う。
「あ、あのさ、もし、もしよかったら今度……あ、いつでも……シ、シオリが暇な時でいいんだ。……でさ、こ、今度シオリがひ、暇な時にさ……暇な時に、い、い、い一緒に……」
「急いでるから、話、また今度お願い! バイバイ!」
どもりまくる青年を見て「話の要点がつかめないし、なんか長くなりそう」と思った詩織は、悪いとは思いながらも、話をぶった切って走り去った。
「あっ、うん、バイバイ……」
全速力で駆けていく詩織の後ろ姿を見送りながら、残された青年は寂しそうに手を振ったのだった。
「ただいまっ!」
買い物を終えた詩織は、野球の試合でホームインするランナーのごとく猛ダッシュで店に滑り込んだ。入り口についている小さな鐘がカランカランと騒がしく鳴り響き、カウンターにいたロッシェが「うるせぇな」と顔をしかめる。
はぁはぁと息を切らせながら、詩織はカウンターにププットとアトラの実が入ったかごを置いた。行って戻ってくるまで、二十分もかかっていない。まだクラストは来ていないだろうと思いながら、一応ロッシェに確認する。
「シラバスさんたち、まだ?」
もちろんまだでしょ? という余裕をこめて言ったのだが、
「いや、もう帰った」
ロッシェの答えは残酷だった。
「……うん?」
「だから、もう来て帰ったっつーの」
「ウソでしょ!? 引き止めておいてって言ったのにー!」
詩織は日本語でそう叫ぶと、帰ったというクラストたちの後を追うため、店を飛び出そうとした。
が、ロッシェに強い口調で「待て」と制される。
「なにっ?」
少し苛々しながら振り向く。クラストが今どこにいるのか、詩織は気が気でなかった。まだ街にいる? それとももう城へ帰ってしまった?
ロッシェは椅子からゆっくりと立ち上がって言う。
「お前、もう奴らとは関わるな」
「なぜ?」
「騎士団の関係者に店に出入りされると困るんだよ。”裏の客”が嫌がる」
「……わかった。じゃあ、店に迷惑、かけないようにする。ここへは連れてこない」
そう言って再度クラストを追おうとした詩織の肩を、ロッシェが掴んだ。
「お前が個人的に騎士と繋がりを持つのも駄目だっつってんだよ。一目惚れだか知らねぇが、あの銀髪の騎士の事は諦めろ」
「一目惚れ……?」
「違うのか? 先週薬を注文しにきた時にもあの騎士がいて、一目惚れしたんだろ?」
「ち、違う!」
シラバスに惚れているという誤解は解けたようだが、今度はまた変な勘違いをされていると詩織は頭を抱えたくなった。
「一目惚れ違う! 私っ……」
「照れんな。一目惚れくらいよくあるだろうよ。俺はねぇけど」
クラストを追おうとジタバタ暴れる詩織と、それをなだめつつも腕を掴んで決して行かせようとはしないロッシェ。
「とにかく騎士は駄目だ。諦めろ」
ずるずると店の奥へ引きずり戻されながら、詩織は思った。これは本当の事を言った方がいいのかもしれない、と。
私が異世界からトリップしてきた事、クラストが私の世界へトリップしてきていた事。
二人は知り合いで、今私が彼を追おうとしているのも色々と事情があっての事なのだと分かれば、ロッシェは考えを変えてくれるかも。
「ロッシェ、ちょっと聞く!」
詩織は決意を固めて、自分の上司に向き直った。
詩織の話を全て聞いた後でのロッシェの第一声は、こうだった。
「てことは、今日来たあの銀髪の騎士が、噂の英雄だったのか」
「そっち?」
異世界なんて本当にあるのかとか、馬鹿な事言ってんじゃねぇとか、そういう事を言われると覚悟していたのに。
詩織は息を吐いて肩の力を抜いた。
話をしている時のロッシェのリアクションは薄く、信じてもらえていないんじゃないかと思っていたのだが、逆にあっさり受け入れられたのだろうか?
「私の話……し、信じてくれた?」
恐る恐る聞くと、ロッシェは煙草の煙を吐きながら、横目で詩織を見た。
「まぁ、城にいる優秀な魔術師なら、そういう術を使えてもおかしくないんじゃねぇの? 俺は魔術の知識はさっぱりだが」
どうやら本当に信じてくれたらしい。魔法の存在するこの世界の人に異世界トリップを信じさせる方が、日本人に信じさせるより簡単なのかも。
詩織はおずおずとロッシェから離れ、店の入り口へと近づいていった。
「じゃ。私、クラスト追う」
片手を上げて軽く言う。事情を説明したんだから行かせてくれるはず。そう期待した詩織だったが、
「駄目だっつーの」
またもやロッシェに阻まれた。今度は猫みたいに首根っこを掴まれる。
「なぜ!」と反発する詩織に、ロッシェは辛辣に言った。
「お前と英雄にどんな事情があろうと、こっちの事情も変わらねぇんだよ。お前と騎士との繋がりは店としては喜べない。しかも英雄との繋がりなんぞ……。それがバレたら裏の客がどれだけ減ると思ってんだ、バカ」
ロッシェには血も涙もないらしい。異世界からやってきた詩織とクラストの三年ぶりの再会より、店の売り上げが大事なのだ。人間には誰にでも『情』というものがあるのだと思っていたが、この男に限っては違うのだと認識を改めた詩織だった。
日本語でぼそりと「冷血漢」と呟くと、「今、悪口言っただろ」と睨まれた。
「お前が英雄と再会しても、俺にとっては不利益しかない。騎士との繋がりができる事もそうだが、英雄の知り合いだっていう魔術師に会って、お前に元の世界へ戻られるのもマイナスだ」
首根っこを掴まれたまま、ぐいと顔を近づけられる。息がかかりそうなほどの至近距離に驚き、後ずさろうとした詩織だったが、ロッシェがそれを許さない。獲物を狙う肉食獣のような鋭い目つきで凄まれた。
「お前には俺の薬のレシピも教えてる。せっかく使えるようになるまで育てた雛を、俺が簡単に手放すと思うな」
低い声で脅され、詩織はうなじの毛を逆立てて体をこわばらせた。
今のところそのつもりはないが、この店を辞める時には、もしかして「指一本置いていけ」くらいの事を要求されるのでは? と割と真剣に恐怖する。
「わかったな?」
「……」
「わかったな、シオリ」
「……ハイ」
Yes以外の返事は許してもらえそうになかったので仕方なくそう答えたら、「よし」と褒められて犬みたいに頭を撫でられた。
詩織がクラストとの再会を望む理由は二つある。
一つは単純に、昔恋していた人に「会いたい」から。
けれど、せっかく手に入れたやりがいのある仕事や、衣食住の保証された生活を全て放り出してクラストを追えるほど、詩織は能天気でもなかったし、”女の子”でもなかった。
クラストが自分と同じように再会を望んでいるのか、仕事も家もない詩織を手放しで受け入れてくれるのかは分からない。
詩織は成人した大人で、理性もあれば打算だってある。会いたいから、という理由だけで簡単に動くことはできないのだ。その先の生活も考えてしまう。
そして再会を望むもう一つの理由は、日本へ戻れる方法があるのかを知るためだ。
しかし日本に帰りたいという欲求は、元々詩織の中で少なかった。
慌ただしい現代日本での生活にあまり未練はなく、両親に自分が無事でいる事を伝えられれば十分だと思っていたし、自然で穏やかなこちらの世界が肌に合っていると感じるから。
なにより仕事のある充実した生活を捨てるのは惜しい。向こうでは無職なのだ。
「絶対日本へ帰るんだ!」という強靭な意思があれば、詩織はなりふり構わずクラストを追い、魔術師を紹介してもらったのだが……。
仕事があるというのは幸せな事だ。仕事があれば、その世界での居場所を見つけられる。自分にも役割があるのだと安心できる。
日本で就職難に喘ぎ、不採用通知を山ほど受け取った詩織だからこそ、強くそう思うのかもしれない。
仕事だけでものを考えれば、あちらの世界に詩織の居場所はないが、こちらの世界には居場所がある。
クラストには会いたい。けれど、何を犠牲にしてでも必ずクラストと再会しなければならないのか、と言われると詩織は迷ってしまう。
ロッシェの事だってそう。今はまだまだ彼に教わる事が多く、彼に受けた恩——娼婦に落ちそうだったところを助けてくれて、異世界人の詩織にまともな仕事をくれた。寝る場所と食事を提供してくれて、言葉の不自由な詩織に、根気づよく仕事の知識とこの世界の常識を教えてくれた——を十分に返したとはいえない状況だ。
だからクラストを追って、ロッシェからの恩を仇で返すような真似はしたくなかった。
それに彼からはまだたくさん教わりたい事がある。他の薬師とは会った事のない詩織だったが、ロッシェほどの優れた人物——人間的にではなくて、あくまで薬師としてだが——に師事できる事は、とても幸運だと思うのだ。
詩織はクラストを追わなかった。
足は今にも本能にしたがって動き出しそうだったけれど、色々な事を考えた上で、自分の意思で店に留まったのだ。




