01 彼の世界へ
就職氷河期。
世間の不況の荒波に、大学四年生の梅本詩織も、もれなく呑み込まれていた。
内定ゼロ。この恐ろしい言葉も、今の詩織にとってはまぎれもない現実なのである。就職先が見つからないまま、大学を卒業してしまったのだ。
親にその旨を連絡すると、「大丈夫大丈夫、女なんだから正社員じゃなくてもやっていけるわよ。これからは仕事と一緒に結婚相手も探しなさい」と、軽い調子でそれだけを告げられ電話を切られた。
「えぇー……」
傷心の娘にかける言葉がそれ? 詩織は通話の切れた携帯電話を遠い目で見つめた。うちの親らしいっちゃ、らしいけど。
愛されてない、というわけではないと思う。ただ、詩織の両親は見ているこっちが恥ずかしくなるほどのラブラブ夫婦で、お互いの事を第一に想っている。だから娘の事は二の次になってしまうだけ。
子供としては寂しい気持ちもあるけれど、両親の仲が良いのは嬉しい事でもある。将来自分も誰かと結婚する事になったら、両親のように愛に満ちた関係を築きたいと思ったものだ。
(ま、今は恋人すらいないんだけど)
詩織は携帯をベッドに放って、床に置いてあった鞄をあさった。両親からは「実家に帰ってこい」とも言われなかったので、このまま一人暮らしを続けつつ職を探す事になるだろう。
しかしその前に、まずは腹ごしらえである。さっきからぐるぐると鳴り続けている腹の虫をどうにかしないと。
詩織は鞄から財布と部屋の鍵だけを取り出すと、近くのコンビニへと向かうことにした。
「うぅ、寒い」
春が近いとはいえ、夜は冷える。人気のないマンションのエントランスを出ると、詩織はポケットに手を突っ込んで首をすくめた。
その瞬間——
「……何っ!?」
足下から強い光に照らされ、あっという間に体が呑み込まれていく。あまりの眩しさに、詩織は悲鳴を上げるより先に強く目をつぶった。
まぶたを閉じていた時間はどのくらいだったのだろう。ほんの一秒のようにも感じたし、十時間くらい経っているようにも感じた。
詩織はそっと目を開けて、辺りの様子を伺った。そこに広がっているのはもちろん、見慣れたマンション前の道路のはずである。日は落ちて空は暗いものの、外灯や家の明かりが地面を照らす、そんな光景のはず。
(私、頭がおかしくなったんだろうか)
詩織はパチパチとまばたきをした。しかし目の前の景色は変わらない。
時刻は昼ごろだろうか。空を見上げると、明るい太陽の光が白い雲を照らしている。詩織が立っている場所はどこかの狭い路地裏といった雰囲気で、周りに人の姿は無いものの、少し離れた場所からは人々の話し声や生活音が聞こえてきた。
(なにこれ。どういう事? というかここって……外国?)
目の前の家の壁を触ってみる。クリーム色の土壁で、窓枠なんかは木製だ。向こうの家は可愛らしいレンガ造り。地面はコンクリートではなく土で、向こうに見える大通りの方は石畳が敷かれているようだった。
ヨーロッパ辺りの歴史ある古い街のような、あるいはファンタジー映画に出てくる空想の街のような、そんな雰囲気。
「大丈夫。ちょっと落ち着こうか」
詩織は自分を励ますように独り言を呟いた。
とりあえず今の自分の格好を見直してみる。黒いニットポンチョに、ぴったりとしたスキニージーンズ、それに冬のセールで買った茶色いブーツ。
うん、コンビニへ行こうとマンションを出た時の格好そのままだ。手には財布も握られているし、ポケットには鍵の重みを感じる。
なのに周りの景色だけが変わっている。これは一体……。
恐る恐る、といった感じで、詩織は大通りに向かって歩き始めた。強烈な不安が胸を襲い、思わず財布をぎゅっと握りしめる。
路地の陰からこそっと顔を出し、街の様子を伺う。そしてちょっと絶望した。
(街ぐるみでコスプレしてるわけじゃないよね?)
詩織の額に冷や汗が流れる。通りを行き来する人々の服装は、Tシャツやジーンズなどではなかったのだ。この街の雰囲気に合った、少し古めかしい格好。
詩織は目を細め、現実から逃避しようとした。
もしかして、ここではファンタジー映画の撮影をしている最中なのでは? そして何らかの理由で私がそこに迷い込んで……。
しかし通りに並ぶ店らしき看板の文字を目に映して、ぎょっと息をのむ。
(私、あの文字知ってる……)
そしてやっと、現状を理解した。
ここは地球じゃない。
私は”彼”と同じく、自分の住んでる世界からまったく別の世界へとトリップしてきたんだ、と。