4-31 バランシングマインド
積み上げられたゴミに囲まれた、小百合のテントを後にする。
空の青は暗い雲に覆い隠され、すっかり灰色に染まっていた。
空と同じような澱んだ空気が漂う道を進む。
軽く咳をする。喉に絡みつくものが不快だった。
「ここは元々ベッドタウンになる予定だったの。だけど、かの災厄で沿岸部は壊滅。飲まれた人達はそれまでの全てを失い、命だけを抱えて辛くも逃げてきた」
「……工場のラインも壊滅的被害を受けた、だったな」
「ええ。壊れたモノを前に新しいモノなんか作れるはずもない」
錆びついた錠前がかかったままのゲートの前を通る。建設現場の施工主や責任者を示す案内板は長らく雨風に晒されプラスチックケース内が腐食し原型を留めておらず、文字も読めない。
ゲートを背にし工事車両の出入りを取り仕切り、無関係の人間を遠ざける役割を担う守衛は最初からいないのだ。この場に立つ意味がない。
案内するべき者も物もないし、住居を建設する意義を失っている。
「そう。無意味な空間」
「…………そんな、こと」
「取り繕う必要もないもの。ここにいるのは、世界から弾かれた者達だけ」
気を使う相手もいない、ということだろう。
残酷で無慈悲だが事実は事実として動かない。
どれほどの被害がもたらされたのか、俺には想像することくらいしかできない。
舗装された道路を進む。両側には鉄骨や崩れた煉瓦の壁が見える。建造物として生み出されるはずのもので、途中で投げ捨てられて永遠に未完成のモノ達。
忘れられたもの。
相変わらず人の姿はない。気にかける以前に小百合が言うように人がいる意味を失い、居住区も誰にも必要とされないまま置き去りにされている。かといって片付けるにもタダで、とはいかない。専門の業者に委託するにも資金が要る。
自力でやろうにも重機と人手を回すならば、まず立ち直ることを優先する。
幼くも集めて積み上げた知識で理解することはできる。できるのだが、見えない重石を乗せられているかのように頭が、肩が重くなるのも幼い故か。
「割り切ることができないのは経験が足りないからだよ」
「経験……?」
かけられた言葉に鸚鵡返しで答える。
隣を歩く小百合は寂しそうに笑っていた。
その顔は少しだけ、かつて父親が見せたものに似ている。聞き分けのない子供に対して諦めず頭ごなしに怒鳴りつけるでもなく優しく諭してくれた姿だった。
「亮がこれから生きて、様々なものを見て聞いていくうちに
何を選んで何を捨てるべきか、少しずつ分かるようになるよ」
「俺は、なりたくない。そんな聞き分けのよさなんて要らない」
「要る要らない、じゃないの。そうならざるを得ない状況に追い込まれる」
「追い込まれてしまう……?」
再び問い返す。会話を交わしながらも足は自宅へと向かっている。
テントを出てからそれなり進んだはずなのだが、同じような風景が続いていて移動している気にならない。
まるで出口のない無限回廊を彷徨っているようだった。
「大丈夫。ちゃんと前に進めているから」
「本当に、何でも御見通しなんだね」
「……ここまでなら、話しても大丈夫かな」
小百合が立ち止まる。周囲を警戒しているのかと思いきや、左右や来た道向かうべき道ではなく空を仰ぐ。いや、曇天ではなくもっと遠くを見ているようだった。
吸い込まれそうな黒瞳に何が映っているのかは分からない。
ふと思い出す。今まで和やかとはいえないが普通に会話していたが、今の俺は学校でも町でも命を脅かされている状況に追い込まれていた。
不安に駆られて辺りへ視線を飛ばす。感覚器官に意識を集中させて周囲を探る。
人がいないはずの空間、それでもどこから狙われているか分からない。常人よりも高い知覚能力と身体能力を保有していても過信するほど自信家でもなかった。
「だから、大丈夫だって。周りの状態は全部把握できているから」
空から俺へと視線を戻し、柔らかく小百合が笑う。
笑顔の意味を問う暇もなく手を引かれた。寸前までいた場所を何かが走り抜ける。足元には弾痕。こんな場所で、いやこんな隔離された空間でこその狙撃か。
「二秒後に左へ跳んで。その後は三秒後に右へ跳んで転がって」
「で、でも小百合が……」
「いいからっ!」
勢いに気圧されるまま、小百合の言う通りに跳ぶ。時間通りに風を切り裂いて銃弾が襲来し虚しくアスファルトへ突き刺さっていく。
「走るよ」
「わ、わかった」
駆け出す。変わり映えのしない無人の都市を逃げていく。
先を走る小百合が左右に激しく動く軌跡を追いかける。俺達の背後に連続してアスファルトを砕く音が響く。大きく横へ跳んだ小百合の後に続いて、硝子も格子もない窓であった空間からビルの中へ飛び込む。埃っぽい床を転がって行く。
幸いにも中の物は何もかも持ち去られた後で伽藍となっていた。
当然、照明器具もなく薄暗い。舞った塵を吸い込みかけてえづく。
咳き込みながらも起き上がると、既に小百合は立って飛び込んできた窓の方を見ていた。
「魔女……そうね。そうかもしれないね」
こぼれた言葉は悲しげな雰囲気をまといながら床に落ちて砕け散った。
狙撃手は完全に虚を突いたと思っていたはず。必殺必中であるべき銃撃は避けられ続け、ついに建物の中に逃げられてしまった。何故そんなことができるのか。
「戦う力はないし、戦うこともできないけれど私には全部を見通す眼がある」
「……それは、物理的に可視領域にあるものだけじゃなく、心も読める?」
「そ。〈全なる一の眼〉って言うらしいのだけれど」
「〝らしい〟って、どういう意味なんだ?」
「あっ……と、いや。うん。まだ許容範囲内のはず」
小百合の言葉は答えになっていない独白だった。
言葉を交わし心を通わせる中でも、触れざる領域を感じていた。何故話せないのか。話してくれないのか。明かしてくれないのか。今は肯定的に捉えるしかない。
「亮、狙われること自体に心当たり、って今更改めて聞くまでもないよね」
「和久が……常倉の一派が俺を殺そうとしている」
「今狙ってきた彼らがどんな気持ちで、人を殺す武器を手にとっていたと思う?」
「それは、常倉に命じられて撃ったに決まってる」
「どうして?」
「どうして、って」
いや、そもそも何故俺は命を狙われているのだろう。
数々の嫌がらせを受けても俺は屈することなく学校へ通い続けた。陰湿ないじめに敗北することは普通に当たり前に生きて正義を貫こうとする意志に対する反逆で、敵対行為だ。
絶対的に正しいはずの意志が折れることは悪に屈服したことになる。
そんなことはあってはならない。許されない。自分自身のためにも、掲げた精神のためにも、父親のためにも正しくあり続けるために敗北は許されない。
肉体的苦痛に続き、精神的苦痛にも屈しなかった俺を前に、和久が最終手段に出た。思い通りにならず、許しも乞わないのであれば――
「理由は単純明快、邪魔だから殺す。それだけよ」
「そんな、物語の悪役みたいな……」
「望んでたんでしょ? そんなシチュエーションを。誰が見ても悪い者を駆逐して自身の正しさを示す。それが正義の味方としてあるべき姿なんだって」
「違う。力任せに解決するのではなく、まず話を……」
「殺しに来ている相手が話を聞くと思う? 丸腰でさあ和解しようと
持ちかけても蜂の巣にされて絶命するのがオチだと思うけれど」
小百合の言葉が俺を貫いていく。
物語における悪役は正義を引き立たせるものだ。侵略してこなければ撃退する理由はなく、誰かや何かを脅かし破壊するのだから止めねばならない。
向けられる武力が個人であろうが、複数であろうが基本概念は変わらないはず。
それでも躊躇してしまうのは根底に刷り込まれた思想が原因なのかもしれない。
「警察は捜査と捕縛が専門、裁く権利はない。
裁く人間は公平かつ揺るがない絶対の天秤であるべき。
どちらも規律と法則を重んじる……ね。けれど、無法者が
私達の一般常識や社会に通ずる理念を律儀に守ってくれると思う?」
「守るのが、人のあるべき形であって……」
「繰り返すけれど、守らないから彼らは〝ああなっている〟んだよ」
「でも、そうなってしまったのには理由があって、それで」
「ねぇ亮。仮に君を納得させうる悲劇が背後にあったとして、
開示されればその和久が望むように殺されてあげるの?」
「それは……」
間断なく突き刺さる問いを前にして息を呑む。
好んで見ていたヒーロー達の物語もそうだった。
どんなに言葉を尽くしても染みついて凝固した悪意は取り除けない。
最後には力と力のぶつかり合いになるしかない。
それも、物語の話だ。悪を正義が駆逐する造られた世界の話だ。
世界は舞台ではない。生きている者達は意志なき操り人形ではない。誰しもが与えられた情報や環境から自らに一番適したものを選び、或いはそれしかないと決めきって選択して突き進む。間違っていても選ばなければならないのは、そうしなければ死を待つだけだから。
「死にたく、ない」
「ね。亮の描く通りだよ。殺しに来る相手は倒すしかない」
「狙撃手、たちも?」
「それはもう大丈夫」
震える唇から紡いだ言葉を予め予想していたように、淡々と告げて小百合が埃を舞い上がらせながら歩き、出口へと向かっていく。
「ちょ、っと待って。まだ狙撃手が!」
「平気だって。もう彼らは私を認識できないから」
言葉を振り切るように小百合は俺を振り払って狙撃されていた大通りへと出ていく。死なないと言った身ならば銃弾で貫かれても平気だという意味か。
俺だけ室内に立ち竦んだまま、時間だけがゆっくりと過ぎていく。
十秒、三十秒、一分……五分。小百合はただ立ち尽くしていた。その間、銃弾が飛んでくることも新たに襲来する人も物もなかった。
気持ち悪いくらいの静寂に包まれている。
「ね、大丈夫でしょ」
「どうして……」
「〈幽世絡繰り糸〉。
私に押し付けられた二つ目の人ならざる力」
「押し付けられた、呪い?」
「誰からも認識されなくなった世界で、私だけが亮を見つけられた。そして堀川君とは違って私は殺されないし消されもしない。テントも無事。何故か分かる?」
俺の問いには答えずに小百合は問いかけてきた。
反射的に考えてしまう。これまでの情報から思考する。いくら心を読めるとしてもある程度の有効範囲があるはず。告げた通り、俺だけが認識されない偽りの世界でも、小百合の姿は誰にでも見えていたはず。にも関わらず認知されていない。
放逐されている要因として考えられるのは二つ。小百合自身が元から常倉一派の一員であるか、もしくは何らかの手段によって存在そのものを隠匿しているか。
闇に囚われた部屋から俺は導き出した答えを口にする。
「対象の、認識を操る力……か」
「そう。〈幽世絡繰り糸〉は対象の認識を誤認させる。本当は対象の
心理や位置関係が正確に把握できていないと効果はないのだけれど――」
「小百合には〈全なる一の眼〉がある」
「正解」
小百合が生徒の優秀さを褒めるように笑顔を浮かべる。
が、それだけでは説明しきれていない気がする。対象の心理状態を正確に把握できたとしても位置までは特定できないはず。
ならば、補完する力もあると推察できる。
「うん。亮の考えている通りだよ。けれど、それ以上は言えないかな」
「言えない、って……」
小百合が首を振る。これ以上踏み入るな、と暗黙の了解を望む仕草。
協力してくれることは嬉しい。補助するパートナーとしてこれ以上ないくらいに有利な能力を持っている。それでも〝すべて〟をくれないのが悲しかった。
また小百合が悲しげに笑う。
「ごめんね。私から言えるのは、言わないんじゃなく〝言えない〟ってことだけ」
「……わかった」
いつまでも聞き分けのない子供ではいられない。
受け入れるふりをして流し、自分自身を誤魔化すしかない。
ビルの外へ向かって一歩踏み出す。続けてもう一歩。三歩目からは走り出す。
死は怖い。それでも立ち止まり蹲ることの方が恐ろしかった。
膝を抱えて座り込んで耐えてるだけでは世界は変わらない。変えるためには動かなければならない。走り出さなければならない。
小百合の言葉通り、外に出ても飛来する物体はない。
神経を研ぎ澄まし、あらゆる感覚を総動員して周囲の様子を探る。僅かに感じていた俺への殺気も今は微塵も得られない。本当に認識されなくなっている。
「本来は私自身だけに使うもので、余り長くは維持できないの。だから、」
「うん。分かってる」
「……行きましょうか」
小百合に代わって先を歩く。
この世にあらざる、不可思議な力を疑うことはなかった。
なりふり構わないやり口かもしれない。小百合の主張は分かる。相手がこちらを敵だと認識し、殺して封じようとしているのであればどんな言葉も届かない。届かせるためには相応の武力を用意して均衡状態へと持ち込まなければならない。
が、俺の解釈が正しければ道筋は変わってくる。
小百合の力が、こちらに向ける意識そのものに介在するのであれば意志や意思にさえ介入することを可能とする。即ち、自在に知りたい情報を引き出すことも可能だということ。
「……必ず引き出してみせる」
忘れ去られたビルの林の間を歩き、抜けていく。
終ぞ和久は俺との対話を避けて武力と殺意を向けてきた。
推測はできている。それでも直接聞かなければならない。根源の分からない暗く濁った感情が渦巻き、蠢いて胸の内側を引っかく。
直接会って言葉をぶつけ、回答を引き出さなければ収まりそうにない。
見据える先、遠く俺が父親と一緒に住むマンションの姿が見え始めていた。




