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灰色の境界  作者: 宵時
第四章「……ええ。時を経て、俺は殺人者になった」 「〝英雄(ヒーロー)〟とは言わないのだな」
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4-30 スウィートカース

 ぱたぱたと(せわ)しなく駆ける足音で目覚めた。小さく欠伸をしつつ起き上がり、ベッドから足を下ろそうとして落ちない感覚ではっきりと意識が覚醒する。

「あら、もう起きたのかしら」

 少女の声。普段ならば聞こえるはずのない同居人の声。

 体を起こして辺りを見回す。

 薄暗い空間は同色の壁、もといテントの裏布で区切られている。

 古臭い鐘時計は午前七時を示しているが外から差し込む光はない。

「本当に、泊まってしまった……」

「何をいまさら。意気揚々とお父さんとお母さんのことを話してくれたじゃない」

「そう、だったっけ?」

「何よ。昨日はあんなに激しかったのに……」

「な、何の話だよっ!」

「またまたぁ、知識では分かっているんでしょ?」

 顔が熱くなる。薄闇の中でどんなことを話していたのか、何をやっていたのか。

 幻想だと思っていた少女に触れて、恵まれぬ環境にあると知って。それでも憐れむことも蔑むこともなく立ち上がって歩いて行けるきっかけをくれたのだ。

 テントの中では並べていた机や椅子が畳まれ、端へと寄せられている。

 室内を照らす光は常夜用に絞られており、システムキッチンの並ぶ一角だけ手元が見えやすいように明々と白色灯が点いている。

 胃を刺激する香りが鼻腔をくすぐった。

 小百合は純白のワンピースの上にフリルのついたエプロンをつけ、手際よくフライパンの上で卵焼きを舞わせる。

「もうちょっと待っててね。後少しだから」

「えっ……そんな、ご馳走になるなんて」

「遠慮するような仲でもないでしょ。もう二人分作っちゃったし」

「じゃ、じゃあ有難く……」

「ほら、ぼぅっとしてないでさっさと机と椅子を並べる並べるっ!」

「は、はいっ!」

 言われるがまま、自分が寝ていた布団とブランケットを片付ける。思い返せば、こんな野ざらしのテントであったにも関わらず冬の寒さに(さいな)まれることなく安眠できていた。深く考えるまでもなく小百合が住んでいる以上は相応の防寒設備が機能しているのだと思うしかない。

 どこに仕舞うべきか判断できず、机と椅子を引っ張り出した後、安置されていた場所に交換する形で畳んだ布団とブランケットを積む。赤に青、白と黒の椅子は昨日あったように青と赤、白と黒をそれぞれ向かい合わせに配置する。

 そもそも住人は小百合しかいないのに、誰のための椅子なのだろうか。

 来客用にしても四つも必要ない気がする。

「なんで四つも椅子があるんだ、意味ないだろって?」

「いや…………うん」

 心の声を聴かれているのに取り繕っても意味はない。素直に肯定するとキッチン側から丸めた布が飛んできた。ボールをキャッチするように手で受けたのは布巾。意図を理解して手にした布巾で机の上を拭いていく。

 拭き終わるタイミングを見計らって小百合が盆を手にやってきた。

 机の上に皿が並べられる。オムレツの隣にタコみたく先を切り開いたウインナーが添えられ、茹でたブロッコリーと湯むきしたトマトが彩を加えている。

 続いて空の皿が置かれた。甲高い音が鳴り、香ばしい匂いが漂う。小百合が空の皿を手にし、細く白い指先で焼きあがったトーストを移し替える。俺はもう一枚の皿を持って立ち、トースターのある方へ歩く。

 トーストの乗った皿を受け取り、代わりに空の皿を差し出して乗せてもらう。

 二枚の皿を持って席に戻り、青と赤の椅子の前に置いて位置を調整し、テーブルセッティングをする。

「こうしてると家族みたいだね」

 青の椅子に座った小百合が屈託なく笑う。胸が熱くなった。

「ああ……そう、だね」

「手馴れてるね」

「父さんも母さんも、家にいないことが多くて一人でやってたから」

「……ごめんね。思い出させちゃったね」

「大丈夫」

 そう。親の不在など慣れたものだった。小百合は下を見て比べてもキリがないと言っていたが、会話がなくすれ違っていても不必要だと捨てられるよりはマシだ。

 比較的平穏なこの国においては家があり、満足に食事が摂れている環境が一般ライン。多少の不自由はあっても最低限の生存権は保証されている恵まれた世界。

 他国家に比べ生命は守られているが精神の安息は守られているのだろうか。

「今は朝ごはんを楽しみましょ。冷めちゃうよ?」

「……ごめん」

「いいからいいから、切り替えも大事だよ? ささっ、座って座って」

 促されて対面に座る。両手のひらを胸の前あたりで合わせる。

「いただきます」

「うん、召し上がれ」

 小百合の言葉通りに、頭に絡みつくモノを振り払って朝食に集中する。デコレーションを気にせずウインナーをフォークで刺して口へ運び、咀嚼(そしゃく)して飲み込む。続いてブロッコリーを口に運ぶ。ほろっと口の中で解けて広がる程よい湯で加減。

 ふと顔をあげると小百合は机に両肘を立て、手のひらに顎を乗せて嬉しそうに微笑んでいた。食べている様子を見られていたかと思うと恥ずかしくなる。

「その、食べないの?」

「今は亮の食べてる姿を見たいかな、って」

「いや、でも冷めるって言ったのは小百合じゃ……」

「うん、わかってる」

 柔らかい笑みは言葉以上に全てを知っていることを意味していた。

 まさに言葉が意味するまま、見透かされている。が、それでいいと思えた。

 小百合に対して隠すべきことはない。隠そうとも思わない。

 かつての俺はテレビを眺めて幸せな家庭というものを想像するだけだった。記憶は薄くても、幼い時は確かに両親の愛情に満ち溢れた環境にあったはずだ。

 一瞬ですら与えられなかった小百合は、それでも笑っている。仮面のように張り付けた笑顔の裏側には悲痛な素顔が隠れているに違いない。

 願わくば、そんな素のままの状態を晒して欲しいと思う。

「なぁに? 私の裸が見たいのかな」

 不意打ちに吹き出すも超反応で口元を抑えて机にぶちまけることだけは免れた。

 焦らず平静を装って吐き出したものを口内に収めて腕で口を拭う。

 楽しそうに笑う小百合の顔があった。

「げほっ……えほっ、あれは見たというかなんというか」

「そーなんだ。こんなつるぺったんの体は数に入らないって?」

「そ、ういう意味じゃなくて、そのじっくり見る余裕なんてなかったし」

「じゃあ、今ならじっくり見られる?」

「いっ、いやいやいやいや」

 慌てて顔の前に手をあげ、ぶんぶんと振り回す。そう、例え興味があってもそんな状況ではないことくらい分かる。いかに好奇心を湯らぶられ、好意を持っていたとしても、もう少し色々と手順を踏んでから向かうべきポイントだ。

「ふふっ、純なんだね」

「あ、あまりからかわないでくれ」

 おぼろげに浮かび上がるヴィジョンを()き消して食事に集中する。小百合もそれ以上茶々を入れることなく食べ進めてほぼ同時に皿にフォークを置いた。

「ご馳走様でした」

「お粗末様でした。片付けるね」

「あっ、流石に洗うのくらいは俺が……」

「いいからゆっくりしてて」

 立ち上がるのを制止され、勢いを失った手を下ろす。小百合は手早く食器を盆に乗せてシステムキッチンの方へと運んでいく。収納棚の一角からボトルを取り出し、シンクに置く。一般家庭では当たり前にある蛇口は見当たらない。

「胸の傷、気になる?」

 問いかけながら小百合はキッチンペーパーで汚れを取り、シンクにおいてボトルを傾けて水をかける。この環境では水は貴重だ。昨晩は外にあった仮設シャワーを使って体の汚れを落としたがその水も主に蓄積した雨水を利用していると聞いた。

 勝手が違うのであれば不用意に手を出すと余計に手間を取るか。

「傷よりも生活環境が気になるみたいね」

「い、いや気になるっていえばなるのだけれど」

「〝女の子に傷のことを聞くのは気が引ける〟か。そういうところ、好きよ」

「す、好きって……」

「言葉通りの意味。幼くてもそういう気遣いって可愛くて嬉しいもの」

「幼いって、小百合も俺とそう違わないんじゃ……」

「見かけ上は、ね。死ぬはずだった私を無理矢理に生かしたモノがもたらした副産物。普通の人にはない様々な力も、課せられた使命も常世には及ぶことのない闇」

「…………呪い、なのか?」

 問いに返答はない。食器を洗って片付けていく音が響く。

 俺は表情や声色から推察しても真意を知りえることはできない。散らばった欠片を拾い集めて一つのパズルを完成させて相手に突きつけることしかできない。

 小百合の言葉と、体に刻まれた痕から見れば祝福の類でないことは明白だった。

 片付けも終わりテント内から音が消失する。ゆっくりとこちらへ戻ってくる足音、返ってくる言葉を待つ間もずっと脈動し続ける自分自身の鼓動がやかましい。

「そう、ね。見方によっては呪いだと言えるのかもしれない」

「呪いを解く方法は、あるのか?」

「誰かにかけられる何か、何かによって

生まれるものは必ずどこかへと(かえ)る」

 呪文のような言葉をこぼす小百合の手には一冊の文庫本。収納棚にあった、幼い少年と少女が苦楽を共にしながら世界に選ばれた戦士として異形の怪物と戦う冒険譚(ぼうけんたん)だった。

 ぱらぱらとページをめくって挿絵の描かれた部分を開き、机に置く。

 物語の少年と少女は世界によって特異な力を与えられる。人類の敵である怪物は少年少女達の能力でしか倒せないが、能力を行使するごとに彼ら彼女たちは失っていく。

 それは感情であったり、睡眠時間であったり、空腹感だったりと様々だが失われたものを取り戻す方法はない。誰かを守れる唯一の力は、同時に主人公達にとってはかけがえのないもので、それでも守るために失っていくしかなかった。

 描かれているのは茫然と立ち尽くす少年。戦うごとに感情を失っていった少年はいつしか自らが何のために生まれ、存在して戦ってきたかすら認識できなくなっていた。それでも死に逝くヒロインの声を受け、自我をも失う覚悟で怪物の首魁を討ち果たす。

 飛び散った怪物の欠片が世界そのものを揺り動かし、根源を書き換えて怪物の存在しない世界へと再創造するという〝奇跡〟によって物語は締めくくられていた。

「一応、ハッピーエンド。多分誰もが好む英雄的な終わりだと思うの」

「……そうだ。正義は必ず勝つ。

何を犠牲にしても、奪われても最後に全て取り戻す」

「もし、そんな奇跡的な結末を迎えられなかったら、彼らは喪ったままだよね」

「でも、取り戻した。最後に全部を手に入れた!」

「うん。そうあるために形作られた物語だから」

 知っている。小百合が告げなくても、その先に続く言葉は理解している。

 この世界は都合よく奇跡が引き起こされるようにはできていない。誰しも心に正義の篝火(かがりび)を燃やして悪と正面から立ち向かうほど強くもない。

 意志が強くとも、より強大に圧搾してくる権力や物量には叶わない。一人きりでできることが余りに少なすぎる。そして、雨ざらしにされ切り裂かれた精神は傷ついたまま、出来たばかりの瘡蓋を無理矢理に剥がされるかもしれない。それでも。

「父さんは、警察官だ。お母さんは検事。罪を犯した者を捕らえて、裁く」

「……あくまで法律というくくりに拘るのね」

「法治国家の常だって、父さんが言っていた」

「…………そう」

 言葉と共に息を吐く小百合の黒瞳には呆れの色が見えた。頑固者だと思われているだろうか。それとも分からず屋だと思われているのだろうか。

 それでも譲らない。譲るわけにはいかない。

 正義のヒーローは正義を掲げても、説得に応じなかった者に対しては武力行使に出るしかなかった。悪は栄えない。必滅の定めにある。そういう風にできているのだ。そうあるべく造られているのだ。

 ならば造られた世界を壊すのが俺の役割だとしても、犯罪者を捕らえるのは父親の役目だし罪を法と照らし合わせて裁くのは母親の仕事だ。

 ヒーローになりたい。が、ただその方策をなぞるだけでは駄目だ。正当な理由なく暴力を振るえば罪に問われる。今の俺には武力を振りかざす権限がない。

 例え、この体に常人を凌駕し得る力があるのだとしても、無暗に振るうわけにはいかない。力に飲み込まれてしまえば一緒だ。

「それが、亮の正義なんだね」

「俺にはヒーローのような力も、権限もないから」

「もし、あったらどうするの?」

「どう、って……」

「心のままに答えて。この物語に出てくる少年少女のように、亮に一騎当千の

力があるならば、それでしか立ち向かえない敵が出てきたら……どうする?」

「その時は、」

 息を呑む。物語の少年少女は失い続けた。

 それぞれの大切なものを喪い、大事な仲間を失い切り捨てるしかなかった。

 何かを得るために何かを失っていく。戦うための力を得るためには、奪われていくしかなかった。同じ状況下におかれた時、俺の選択は……。

 いや、何を迷うことがあるのだろうか。

 ずっと胸に抱き続けてきたことだ。悪は倒されなければならない。

 罪を犯した者によって涙する者を少しでも減らしたい。守りたい。

 無理矢理に奪い、力を押し付けるならばそれは呪いだと思う。

 だが自らの力で得るのならば、祝福だと受け取れる。

 もし俺の精神が切り刻まれてきたのが代償で、得たのが小百合という存在なのであれば、俺は幸福だと思う。一人では絶対に辿り着けない領域へと押し上げてくれたのだから、そうあることを願ったのだから感謝以外の感情があるはずもない。

「俺は、小百合との出会いを祝福だと思う。決して、呪いなんかじゃない」

「そっか。そう……じゃあ、この子達も亮にとっては幸福に包まれていたんだね」

「ああ。彼らの中には力を手に入れたことを呪った子もいたけれど、俺は後悔なんかしない。過程を否定してしまえば、結果をも殺してしまうから」

「ん」

 柔らかい感触。

 すぐに唇から離れて、小さく華奢(きゃしゃ)な体は青の席へ戻る。

 まるで妖精が飛び交い、幻影を見せたようだった。

 そんな刹那の出来事でも、俺の脳髄には明確に刻み込まれている。

 ほんのりと頬を朱に染めながらも、小百合は温かい笑顔を見せた。

「ありがとね、亮。私を人間だと認めてくれて。幸せだって言ってくれて」

「……誰が、何と言おうと変わらない。絶対に」

「うん。だから一度しか言わないの」

 言って小百合が(まぶた)を閉じる。その手にはかの冒険譚はなかった。

 今の俺には小百合を守れると確信できる明確な自信はない。それでも硝子(ガラス)のように儚く脆い存在を守りたいと思う。守り続けたいと願う。

 戦える。小百合と一緒なら、どこまでも羽ばたいて行ける。

 俺の瞳と、小百合の黒瞳が出会う。互いが互いを見つめ合う。

「小百合、俺と一緒に……行ってくれないか?」

「何度も繰り返すけど私は戦力にならないよ?」

「分かってる、っていうのも失礼かもだけど、父さんに会わせたい」

「もうご挨拶に行っちゃうの?」

「そ、ういう」

 意図は考えていなかった。意地悪く小百合が笑っている。

 それは、いずれ。いつか俺が自分だけの力で守れるようになってから。

 常倉に関する情報を俺がただ伝えるよりも、小百合が一緒にいて話してくれる方がやりやすいと思う。何より、もう小百合と離れたくなかった。

 ひとしきり笑うと、小百合が分かったとでも言うように頷く。

 言葉にせずとも伝わっている。できれば、俺も小百合の真意が知りたい。

 全てを知りたい。全部を共有して異体同心でありたい。

「冗談はこれくらいにして、行きましょうか」

「じょ、冗談だったの……?」

「ふふっ、(かすみ)のように消えるか本当になるかは亮次第かな」

 言葉にした小百合自身が霞のような存在だった。ふとすれば消えてしまう幻。最初にそう感じたように残酷すぎる現実から逃げるためだけに作り出した幻ではないかと思っていた。

 違う。久我(くが) 小百合という少女はこの世界に確かに存在している。

 触れた俺が、暖かさを感じた唇が証明し魂から叫んでいる。

「うん。私はいつでも亮と一緒にいるから、行きましょ」

「……有難う」

「何に対して?」

「全部、かな」

 今までの全てを受け入れて器を形作っていく。壊れかけたのも、精神の(ゆが)みも正義を掲げる信念も同じ場所へと落とし込んでいく。

 呪いも祝福も等しく俺という存在を形作る欠片に違いはない。

 どちらともなく立ち上がる。ゆっくりとした足取りで外へと向かう。

 テントを出て一歩踏み出すと、鬱蒼と生い茂るビルの林の隙間から陽射しが差し込んでいた。

 身震いする。気温が低く、肌寒い。手に暖かく柔らかい感触。

 後から出てきた小百合が手を取ってきた。握り返す。感じる体温は幻ではない。

 歩き始め、家路に着く。遠く出かかった太陽が黒雲の陰に隠れていった。

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