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灰色の境界  作者: 宵時
第四章「……ええ。時を経て、俺は殺人者になった」 「〝英雄(ヒーロー)〟とは言わないのだな」
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4-29 フォーリンアビス

 動けない。腕どころか指一本すら意志が通らない。

 神経をバッサリと切断されたかのように、(ある)いは生物的に感知し得る本能的な恐怖に(すく)まされている。

 喉が渇く。急速に水分が失われる。

 水の中に頭を突っ込まれていたがごとく酸素を求めていく。

 開いたままの口から吸って、取り込もうとして、欲しがって求め続ける。

 小百合は上半身の肌と短剣が刺さる胸部、黒血を流しては引き戻す闇を(あら)わにしたまま微笑んだ。

 自嘲混じりの悲しい色が浮かぶ。

「昔話をしましょうか。有り触れた、どこにも有り得る悲劇を、ね」

 俺の声帯は動かない。動かせない。故に返事などできない。

 最初から俺に聞かないという選択肢はなく、一拍置いて小百合の唇がまた開く。

「むかしむかし、あるところに若い男と女がおりました。若い、というよりも

幼くどちらもまだ義務教育を終えて数か月経っただけの、少年と少女でした」

 黒瞳が俺を見つめている。獲物を逃さないと語っている。全てを吸い込みそうな闇が渦巻く。視線を逸らせず、そもそも筋肉は意志を奪われたままで当然のように眼球も一切動けない。威圧せずともどこにも行けはしない。

「少年と少女は幼い頃から時間を共にする仲でした。

好奇心旺盛で、どこにでも二人で行って時には踏み入っては

ならぬ領域まで犯して大人に怒られていました。それでも

めげることなく、年を経て行動範囲を広げると共に貪欲に

知識を求めました。増えた知識はさらなる知の泉を求めて、

大人が触れる領域にまで届きかけていました」

 淡々と小百合は言葉を連ねていく。同世代の少女と見つめ合うのはこんな気持ちなのだろうか。多分、違う。別種の苦痛だ。

 息苦しくて辛い。比喩ではなく内臓を掴まれ握り潰さんとする圧迫感。

 聞いていようがいまいが関係なく昔話は続けられていく。

「性の目覚め、欲望のままに少年と少女は絡み合い、後先関係なく繋がり続けた結果。少女は新たな命を宿しました。その意味を知らず、社会的な批判も大人の反応も共に連れ添ってきたはずの少年の意志も理解せず、ただただ少女は戸惑いました」

 単語が並ぶ。受け入れ態勢の整っていない状態での言葉の乱打は幻影という形で視覚に変化をもたらした。

 意思とは裏腹に瞬時に意味を解した脳が映像を生み出す。

 〝それ〟に全く触れたことがないわけでもない。まだまだ早すぎるとは思うが知識としては何をどうすればいいか分かっている。決して鳥が卵を運んできて授かるわけではないし、突如体内に発生するわけでもない。

 予測される結末を聞きたくない。抗おうとしても体は動かない。

 深淵の闇をたたえた瞳は流れ出る現実を拒絶することを許してはいない。

「私、知らない。こんなもの、欲しくなかったし困る。要らないよ」

 一つ一つの単語が鋭利な刃物となって飛ぶ。黒の瞳には温度がない。

 かつて小百合自身を切り裂いた言葉なのだろう。あの言葉が蘇る。


――そう……君も、()てられたんだね


 言葉のままだった。

 小百合もまた、責務を果たさぬ幼い両親に見捨てられたのだ。

 喉が渇く。酸素を求めて喘ぐ。体の硬直が解け、けだるさに全身が襲われる。倒れそうになるのを耐えて、俺は自らの意思で前を向く。小百合を見る。

 彫像のように冷え固まった黒瞳には感情が表れ、唇が微笑を浮かべる。

「そう。私は最初から存在を望まれていなかった」

「…………その、傷は?」

「未熟児で、何もかもがまともに形成されてなかった。それでも世界に這い出て、触れて産声をあげて、助けられるはずの血の繋がった手に拒絶された」

 広い世界を小さく区切り、囲われた狭く暗い箱庭で唯一神は告げた。

 聞きたくない。それでも俺は耳を塞ぐことはしなかった。

「要らないから捨てといて」

 幼い母親からの死刑宣告だった。小百合の笑みに自嘲の色はない。

 どちらかといえば同じ存在だと気付きながらも、侮蔑や憐憫ではなく素直な哀悼をぶつけられたことに対する感謝が浮かび上がっている、ように思えた。

「下を見ればキリがないの。この国においては、私も君も酷い扱いを

受けてはいるけれどまだマシな方かもしれない。苛烈な異教徒への弾圧が

止まらないエルストラニア……ああ、今はエリス連合だったかな。

軍需作業で成り上がった中東のウランジェシカは周辺との縄張り争いが

続いているし、イズガルトも異種族との融和政策でずっと揉めてるもの」

「それでも、君は痛みを負って……生まれてきて」

「おっと、話が逸れたね。見ての通り、私の体は〝普通〟なら死んでいる。何故死なないのか、今は教えられないけれど大体は君の予測している通りだと思うよ」

「君には、情報を拾う能力がある。もっといえば、人の精神を覗ける」

 俺の言葉に小百合はあっけらかんとして笑った。先程まで語り紡いだ陰鬱なものなど最初から存在しなかったように、明るく綺麗な笑顔だった。

「死ぬはずで、生きる意味も失われた私は、それでも死ぬことを

許されずに生き続けた。普通の人間とは違う体に戸惑い、環境の

変化に吐き気を覚えても息絶えられず耐え忍ぶしかなかった」

 語られる言葉は闇に濁りながらも、俺の体に染み込んでいく。

 何故こんな喧騒から離れた場所に住んでいるのか、今なら理解できる。

「無作為にあらゆる方向からぶつけられる音波を調節し、必要なものだけを拾って他を締め切って、コントロールできるようになったものの、分からなかった」

 俺は頷くだけで続きを促す。かつて俺が思いのたけを吐き出し続けたように、小百合の抱えているものも全身で受け止めなければならない。

 俺自身がこれから進むべき道を選ぶために。

「〝普通〟に人間であろうともした。誰かの心の奥底にあるものを拾って、道筋を開く手伝いのようなことをした。出会う人出逢う者の精神を探りながら、ずっと私は意味を探し続けてきたのよ。どうして、こうなってしまったかを、ね」

 ふと思う。死ぬはずだった命が救い出されたことは喜ばしいことなのか。

 誰だって死にたくはない。なるべく痛みも受けたくはない。望まれなくても生まれて存在しているのであればどこかの誰かに、何かに認められているはずだ。

 同じことを自らにもぶつける。理不尽が雨のように降り注いでも、数多の悪が蔓延(はびこ)っている世界でも、まだ死なずにここにいる。

 この世界に存在している。その意味は自らが選ばなければならない。

 小百合が俺を見る。視線を交わし、その奥にある何かを探ろうとしている。

 俺も真っ直ぐ小百合を見つめる。

「今まで色んな人を見てきたの。戦おうとして脱落した人、自分自身を

見失った人、意義を失って朽ち果てた人。楽な方へ流れてしまった人」

 流動する環境は荒波のように人々を飲み込んでいく。

 多くの人が流れを知ることもなく、ただ流されていく。

 誰かに支配された世界で、上にいるものが何なのか疑問を抱くことなく与えられるままの状況を受け入れる。生贄となった一体へ悪果を押し付けて。

 それが悪い、とは言い切れない。立ち向かうには相応の精神がいる。

 俺自身も砕けてしまいそうになった。

 膝をついて全てを諦め、投げ捨てて終わりを望んだ。

 そんな俺の前に現れた小百合は、間違いなく救いの神だった。

「違うよ。私は、君が思うような優しい存在じゃない」

 内在する意思と言葉で会話を交わす。言葉にせずとも届いている。

 小百合がどうして俺に声をかけたのか。

 ただ助けるためか。情報を与えるためか。

 多分、違う。世界に広がり侵蝕するものを受け止めてもなお、小百合自身を受け止められるだけの器を探していた。

 見つめ合ったままだった小百合の瞳が揺れる。

「君と一緒に戦うことはできないよ。私は亡霊だもの。ずぅっと昔に失われるはずだったのに、何かの間違いで残ってしまった。バグやエラーの(たぐい)なの」

「違う! 君は生きている。生きて、ここに存在している。

失われない限り必ず意味はあるはずなんだ。だから――」

 説得ではなく懇願に近かった。今の俺には、他に頼れる人がいない。

 母親は遠く離れ、父親とはすれ違ったままでまともに話すらできていない。

 俺のせいで、もう誰かを犠牲にはしたくない。その点、小百合ならば。

 既に死を越えた存在であればあらゆる障害を排除することができる。

 最強最高の戦力として扱える。

 違う。そうではない。一人ではなく、二人なら乗り越えられる。

 そう思ったからこそ、俺は小百合のところに辿り着こうと足掻(あが)いた。

 言葉と意思をぶつける。どちらとも受け取ったであろう小百合は、ゆっくりと首を振った。顔に浮かんだ悲しげな笑みはやんわりとした拒絶を示している。

「無理だって。私には、何の力もないもの」

 静かに立ち上がった小百合が歩く。衣類を収納した箱の前で膝をつき、破り裂いたワンピースを脱ぎ捨てて新たに薄青のワンピースを身にまとう。下着をつけていないだとか、生着替えを目撃しただとか邪念が入り込む余地はない。

 小百合の体は生まれた時点で既に尽きかけていて、何らかの意思が入り込み働きかけることで生き長らえている。

 それが〝何か〟は分からない。実際のところ、何でもよかった。

 生きて存在し続けたからこそ俺は小百合と出逢うことができた。手を引かれ、また立ち上がることができた。仮にその胸に刺さった短剣が戒めだとして、流れ出ては逆巻く黒血が何らかの呪いなのだとしても全てを受け止めよう。

 共に生きられるのならば、一緒に戦っていけるのであれば何も怖くはない。

 史実にある、三礼をもって軍師を迎え入れた将のように俺はただ待ち続けた。

 着替え終わった小百合が歩いてくる。元々座っていた青の座椅子を過ぎて、空席である白の席も越えて俺の背後へと回った。

 空気が変わる。眠りこけた子供に優しく毛布を被せるように、小百合が俺を抱きしめる。いや、抱きしめると表現するには余りに緩い抱擁。

 ただ寄りかかっただけにも思える。

「これで全力なの。今の私に出せる精一杯」

 耳元で囁く声に嘘は混じっていない、と思う。視線を少し右へと動かす。

 背後から俺を抱く少女の、病的を通り越して死した肢体は小刻みに震えていた。

 ふざけているわけではなく、本気で本当に寄りかかるだけが最大値なのだ。

 待て。ならば俺を叩いたのは、引きあげたのは何の力だ。

「最初にひっぱたいたのは精神的な痛みよ。

あの時もそれほど力は入れてない。私が君の手を引いて

助け起こしたのも本質的には精神をサルベージしてあげただけ。

物理的には、まったくもって一切役に立たない。

元よりその気もないけれどね」

「……でも、教えてくれる、って」

「言ったでしょ。知りたいことは全部話してあげる。

常倉の家族構成も、一派の編成も根城も、拠点としている

工場も持っているルートもね。それだけ。

情報を君のお父さんに伝えるも自分で乗り込むも君の自由だよ」

 選ぶのは自由だという。

 当初、小百合が言ったように俺には逃げる選択肢もあった。

 関係ない、悲劇だと見切りをつけて去ることもできた。

 だが今は無理だ。精神を抉られ、打ち付けられたように巻き込んだ責務が発生している。生まれた犠牲を捨てて、そして俺が去った後にも生み出されるであろう生贄を認めてはならない。

 小百合が俺に寄りかかったまま耳元で囁く。

「そう。もう逃れることはできない。

逃げれば自分を見失ってしまうから。

君は見なくてはいけない。どんなに辛くても

苦しくても目の前の現実から目を逸らしてはならない」

「分かってる。連中が何をやっていようが、企んでいようが必ず説得する」

「説得……?」

 俺がはっきりと意志を口にしたことに対し、小百合は疑問の声をあげた。

「まだ、説得できると思っているの?」

「心の声が聞こえるなら、問う意味もないんじゃないのかな」

「そう、ね。その通り。君は……亮はどこまでも真っ直ぐ行くんだね」

「俺は聞かなくちゃいけなかったんだ。もっと早く、

こうなる前に真っ直ぐ向き合って問い質すべきだった」

 時が巻き戻ることはない。過去を振り返ったところで意味はない。踏み固めた道を二度通らぬように気を付けて新たな一歩を踏み出すしかない。

 理屈ではわかっている。

 それでも『もしかしたら』『あの時こうしていれば』という願いは残ってしまう。どんなに振り切ろうとしても影のように俺に付き従い、まとわりつく。

 どうせ絡みつかれるのならば、生死を共にできる仲間がいい。

「小百合。俺の力になって、俺と共にいてくれ」

「そう、ね。私は、いつでも〝ここ〟にいるから」

「……うん。二人だけ、世界から置き去りにされてもずっと一緒だ」

 小百合の命はとうに尽きている。そう当人から告げられても俺の鼓動を早める感情は変わらなかった。

 小百合と共に生きて、走り続ける。気持ちに嘘はない。

「…………ねぇ、亮。まだ時間はあるのでしょう?」

「えっと、別にもう学校に行く理由もないし。でも、乗り込むなら早い方が」

「今日はもう遅いよ。明日でも、いいでしょ」

 古めかしい鐘時計は変わらず一定のリズムで今を刻み続けている。

 小百合の言う通り、いつの間にか時刻は夜の八時を回っていた。

「そう、だね。小百合が、俺と一緒にいたいなら、それでもいい」

「もう……自分は心を読めないからって、言わせるつもりなの?」

「俺は散らばっている情報の欠片を拾い集めて、

完成図を想像するしかできないからね」

 重みが離れていく。再び小百合が青の椅子に腰を下ろす。

「泊まりなさい。そして私にも教えるの。

亮が、何を想い感じて今まで過ごしてきたかを」

 そう柔らかい笑顔で告げた小百合は、決して異質なものでも怪物でもない。

 ヒトの形をしたナニカでもない。彼女は、久我 小百合は間違いなく人間で、俺と共にあり戦う大切な人だ。

 ひとりぼっちではない。ふたりぼっちでも、一人よりは断然いい。

 ただ一人であっても仲間と共に強大な敵へと立ち向かう。揺るがぬ意志と正しく(けが)れなき想いがあれば邪を滅し、正しき道へと戻せる。

 ここまできても、俺の頭には力だけでねじ伏せるという選択肢はなかった。

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