4-27 砕傾たる理想
肩を貸すとの申し出を断り、俺は古い典型的ホラー映画のゾンビみたく亀並みの速度で歩き続ける。いくらなんでも死人のような温度と華奢な体に寄りかかるわけにはいかない。情報源として頼るにしても物理的にお世話になるのは気が引ける。
至極つまらない無駄な自尊心だとは理解しているが、小百合についてもほぼ何も分かっていない状態だ。頭の中はとめどなく溢れ出る疑問に埋め尽くされている。
最初に出会った時の言葉が何を意味しているのか。数々の、多く世界を見て回り知ったような物言いとは裏腹に活動的とは思えない肉体と異常な肌の白さ。死者が亡念を糧に動き、生者の真似事をしているようにも思える。
同時に巻き込みたくない思いもあった。
爆走するトラックによる圧死から逃れ、追い打ちとして放たれた炎と爆風からも逃れた今、次の襲撃があるかもしれないという悪い方向の可能性を完全に捨てることはできない。
それほど楽観視しているわけでも自らの能力に過信しているわけでもない。
原理の分からない力だ。火事場の馬鹿力に期待しているようなもので、いつでも確実に出せる武器ではないのだろう。
自分自身ですらまだまだ把握しきれていない。
そんな俺の心情を汲み取ってか、小百合は距離を取って先導していた。
相変わらず世界は静かすぎて、外界から隔絶された感覚を思わせる。これまで味合わされてきた偽りの世界と重ねれば、俺だけを除外し放り込んだ箱庭だ。
耳で音を探り、触覚で波長を探るも人の気配はない。
守衛のいない工事現場の門前を通る。左側には骨組だけで雨ざらしになり、錆び朽ち果てた建造物があった。隣の資材置き場には無数のドラム缶が転がっている。ドラム缶は立ち入り禁止を意味する警告の英文がプリントされたテープを幾重も巻き付けられており、隙間に核燃料を示す危険物標識が見えた。
大量の産業廃棄物が放置された区画を背景に同化させつつ、さらに歩く。道は細くなり、前回と同じように人気がなく逃げ場のない空間へと誘導されている。
「はい。到着、っと」
明るく軽い調子で言い放ち、小百合が壇上で舞うように体を回転させる。鼻につく異臭に悪臭、変わらず周囲には堆くゴミが積もっており、ぽつんとテントが設置されていた。
壁のようにそびえるビル群によって太陽光は完全に遮断されている。匂いや空気の澱み、よくない気配と悪いものの全てが集まり沈殿しているかのように思えた。身震いする。
何も感じないといったふうに小百合が閉ざされた敷地へ足を踏み入れる。
気を引き締める。俺もなるべく深く呼吸しないよう気を払いつつ、小百合の後を歩いていく。何が楽しくて嬉しいのか、くるくると回りながら蒼の少女が自らの家であるテントを目指す。
「ささ、あがって。どうぞ」
「お邪魔します」
「硬い表現だね」
「とはいっても君とは会ったばかりだし」
「そうね。堀川くんも会ったばかりだけど、よくしてくれたものね」
不意に近付いた小百合が耳元で囁いた。ずぶりと心臓を見えない刃が貫く。
表面上どう取り繕っても傷跡は隠れただけで、精神の深層で疼いている。
平気だと、大丈夫だと言い聞かせても低く底から響く慟哭をあげる。
「どうしたの? 顔色が悪いようだけれど」
「何でも、ない……から。大丈夫だから」
「そお?」
試しているのか、和久のように表面上親切なふりをして嘲笑っているのか。読めない。いや、読みたくない。考えたくない。
彼女まで敵ならば、本当に誰を頼ればいいのか。
動かない俺を前に、小百合が怪訝そうに小首を傾げる。
「大丈夫。心配しなくても私は君の敵ではないから」
「敵ではない、ということは味方でもないのかな」
「さてね。天秤がどちらに傾くかは君次第かなぁ」
冗談なのか本気なのか。ともあれ、立ちすくんでいても何も進まない。
かつて和久に対してもそうしたように罠だと分かっていても飛び込まないといけない状況もある。前回促された通りに、靴を脱いでからテントの中へ入る。
「虎穴に入らずんば虎子を得ず、ってやつだね」
そんな声が聞こえた気がしたが、聞かなかったことにしておこう。
俺の後に続いて小百合もボーイッシュなスニーカーを脱いで、綺麗に並べる。俺が適当に脱ぎ捨てた靴も真っ直ぐ外向きに揃えて置く。
振り返って、浮かべた笑顔は年相応のものだった。
からかったり、真新しい傷を抉ったり、追い討ちをかけてきたり、明確に無力さを線刻したり、気付きを与えたり、何を目的とし何故接触しているのかまるで理解できない。
小百合の顔つきが変わる。全てを理解したような、悲哀の笑み。
「適当に座っても?」
「どうぞどうぞ」
表情の変化に気付かないふりをして、テントの中を進む。相変わらずテントとは思えない内装だった。紺色の絨毯が敷かれ、木製の机がどっしりと構える。
入口に近い側にある赤色の椅子へ腰を下ろす。クッションが投げ寄越されたので、遠慮なく尻に敷かせてもらうことにする。小百合は座らずに忙しなく飲み物と菓子の準備をしていた。
咎められるのを承知で、改めて部屋を見渡す。
ぶら下がる蛍光灯から放たれる淡い橙色の光は、見ているだけで激情に波打つ精神を落ち着けるような、柔らかい温もりを感じさせる。心なしか体の各部に受けた傷を治癒されたような感覚。手を動かし、肩を回そうとするも脳髄に昇った激痛に止められる。
「錯覚だから。いくら君でも無理に動ない方がいいよ」
顔も向けずに声だけが落ちて正確に俺の精神を射抜いていく。
小さく息を吐く。
テント内部、住宅でいえば壁に当たる場所には様々な生活用品が並ぶ。
奥の右側から冷蔵庫に加温器などが一体化したシステムキッチン、調味料や乾物の入った収納ボックス。視線を右から左へと動かしていく。
向かって左側には本棚。並ぶ背表紙から察するに、続きものの小説がほとんど。雑誌や漫画の類は見当たらない。脇にあるブックラックに新聞が刺さっていた。
疑問は減ることなく増え続けている。前回訪れた時も感じたものではあるが。
「電気や熱関係は蓄電式システムで、水回りは別のところからもらったり、コインランドリーや銭湯を使ったりするの。まさかお風呂に入らないわけにはいかないでしょ?」
頭に浮かんだ矢先に、前置きなく小百合の唇が回答をこぼす。
まず、そこが疑問だった。心の声を聴く力でもあるというのか。
「中らずといえども遠からず、ってトコロかなぁ」
曖昧な答えだが、二度目。おおよそ正しい認識だと思っていいだろう。
「何故そんな力があるのか、とは聞かないのね」
悪戯っぽい笑みを浮かべつつ、小百合が持っていたお盆を机において俺の向かい側に置かれた青色の椅子へ座る。向かい合う形となった。
前回と同じ、ペットボトルの麦茶にコップが二つ。近い方に手を伸ばす。
「余りにも聞きたいことが多すぎて、まとまらない」
「そーでしょーねぇ。あ、動かないでね」
小百合の華奢な手に遮られた。
腕を伸ばしただけでも痛みが神経を走り抜ける。
コップに麦茶が並々と注がれる。コップを持って小百合が立ち上がり、俺の傍まで持ってきてくれた。その足で収納ボックスの方へ向かう。プラスチック製と思しきボックスの引き出しをあけて中を漁る。程なくして湿布を手に戻ってきた。
「痛む場所を教えてくれるかな。貼ってあげるから」
「いい……大丈夫。自分でできる、から」
「無理しなくていいよ。君は、できても体がついてきていないだろうから」
「どういう意味……」
反論する暇もなく、小百合が湿布の保護シートを剥がして俺の体にそっと貼り付けていく。指示する前に負傷した箇所へ貼られていき、薬効が肌を通して染み込み効果を発揮し始めた。じんわりと患部が熱を帯びていく。
「ひとまず、これでいいかな」
「……有難う、御座います」
「どういたしまして。別にかしこまらなくてもいいのに」
「その、礼節というか、決まり文句というか」
「まぁ、いいけれど」
声はそう言っていたが、音は不満を漏らしているように取れた。
改めて小百合が俺の向かい側に腰を下ろす。変わらず顔には笑みが貼りついている。全てを見透かしたような、次の言葉が分かっているかのような確信の微笑。
「それで、私に何を聞きたいの?」
「全部を、教えて欲しい」
「欲しがるのね。と、言っても他に頼れるところがないかな」
「……君は、どこまで知っている?」
「曖昧な質問ね。どうとでも答えられるけれど」
区切って、考え込むように小百合が口元を手で隠す。
それも一瞬だけ。最初から出すべき言葉を抱えていたのだと思う。
「まずは懸念材料を排除しておきましょうか。
繰り返しになるけれど私は君の敵じゃない。
味方でもないけれどね。どちら側にも立てないから」
「釈明になっていないが」
「する意味もないもの。君は私から情報を得るしかない。それ以外に取れる選択肢がないからこそ、ここまできた。その判断は正しいよ。最も過酷ではあるけれど」
「過酷、とは?」
「言葉通りの意味よ。君には逃げる選択肢もあったはず。何も見ず、
知らず、聞かなかったことにしてこの町を去ることもできた。
非力な自分には何もできない。お父さんの助けになることなんてできない。
荷が重すぎたんだ。だから逃げたっていいんだ……なんてね」
言葉の一つ一つが重い。考えたことがない、とは言わない。
選択式のロールプレイングゲームでも用意されているだろう。だが、大抵の場合そんな選択は許されない。正義の戦士が、悪を前に逃げる選択肢など有り得ない。
微笑んだまま小百合が続ける。
「そう。できるはずがない。もう君は犠牲を出してしまったのだから」
「違う。あれは、俺のせいじゃ……」
「違わないよ。君が何の策もなく踏み込んだから、堀川某は家族を失うことになった。例え、直接手を下したのが連中の下につくならず者でも、そうさせてしまった因果を引き起こしたのは君という異分子に他ならない」
「違う! 俺はただ、間違ったものを正そうとして――」
「言葉で殴りつけた。その反撃は、なんだった?」
なんだったか。思い出せない。いや、思い出したくない。
小百合の唇が動く。聞きたくない事実が突きつけられる。
「そう。君は学校ぐるみのイジメにあった。暴虐の嵐とでも言うような、考えうる限りの全てをぶつけられた。肉体的にも精神的にもズタボロにされてしまった」
「……まれ」
「だが君は倒れなかった。何度でも立ち上がり、耐えて証拠を見つけて突き出すために奔走した。警察組織は正義だと信じ込んでいたから〝他人に頼った〟結果」
「黙れっ!」
叫ぶ。自分が吐き出した声が痛い。音が肌に牙を剥いて食い込み、精神を焼いて心を守る殻にまとわりつき亀裂を生み出していく。
勢いのまま、俺は聞く側ではなく喚き散らす側に走る。
「悪は、奴らだ。他人を脅し、傷つけ尊厳を踏み躙り、権利を嬲る。絶対に法の下へ晒さなければならない。そうしなければ、堀川くんの家族が、堀川くんが……」
「犠牲を悼む気持ちは分かるよ。でも、理解したはずでしょ? この町に条理にある普遍的な常識は通用しないし、世間でまかり通っている当たり前も効かない」
「だから、父さんが動いているっ!」
「駄目だよ。それだけじゃ足りないし、多分どうにもならない」
「……どんなピンチに陥っても、最後は絶対に正義が勝つ」
「残念ながら」
小百合が首を振る。小馬鹿にしたような雰囲気はなく、軽い調子の声でもなく、抗えぬ厳然さをもって言い放った。深い黒瞳から闇が溢れ出す。
「この町は常倉 久音の率いる一派によって完全に支配されている。君が信じないと叫んでも、嘘だと耳を塞いでも何ら変わらずにただ転がるだけの現実」
そう。その通りだ。身を持って調べた結果が、触れた事実が告げている。
理由は分からない。だが、現実に起こっている事象として警察機関は常倉の関わる事案には一切関与していない。だからこそ父親も苦戦しているのだろう。
真っ直ぐ小百合が俺を見ている。まるで瞳で問いを投げているようだった。
明かされる情報を信じれるか。受け止められるか。
抱えて、壊れてしまわないのか。
聞きたくなかった。信じたくなかった。警察は法の下に罪あるものを捉えるための組織だと信じ切っていた。
父親が捉え、母親が裁く。その構図があるべき断罪の姿だと思っていた。
現実は違う。この町は違う。認めて受け入れるしかない。
「君が立ち向かうなら、望む通り全て教えるよ。常倉 久音という闇を」
告げた小百合の表情は哀憎渦巻く、悪を吐き散らす意思が宿っていた。




